DAY2Day.2
窓の外では、夜明けが静かに訪れていた。空はまだ闇に包まれていたが、東の空際から、美しい橙色が徐々に広がり始めるが、太陽も顔を覗かせるにはまだ眠いようだ。
部屋の中も静寂に包まれ、みんなまだ夢の中を漂っている。深い眠りに沈んだ寝息が、夜の静けさをさらに強調していた。
千歳は、眠りからゆっくりと目覚めかけていた。瞼は重たく、夢の中の風景と現実の世界が交錯しているように溶け合う。気まぐれに重い瞼をこじ開けて窓に目を向ければ、まるで絵が飾られているようにそこだけが夜明け前の薄闇が込める美しい空を映し出していた。流れるように隣へと向けられる視線。まだ夜の空気に包まれた金青の部屋の中でもわかる蒲公英が、意外にも寝相よく布団に収まり、静かな寝息を立てている。
(まつ毛、ながかぁ)
閉じる瞼を縁取るまつ毛は、そこらの女子より長かった。千歳は好奇心に駆られ布団から這い出ると隣に転がり、橘のまつ毛に触れた。一切起きる気配がないのをいいことに、目や鼻、頬、唇を指で辿る。滑らかな肌や柔らかな唇の感触を楽しんでいるうちに、うとうととまた瞼が重みを増した。逆らうことなく瞼を閉じて、そのまま二度寝を決め込むことにした。
朝陽が窓から差し込み、明るい光が部屋を満たしていた。微細な埃粒子が舞い踊りながら、光を受けてキラキラと輝いている。
そんな爽やかな朝の静寂を引き裂くけたたましいアラーム音が部屋中に鳴り響いた。並べられていた白い布団の塊達がもぞもぞと僅かに身動ぐ。緩慢な動きで停止ボタンを押し、時間を確認する。時刻は早朝5時。櫛山は深い眠りから目覚めたばかりの重い体をなんとか起き上がらせ、まだ眠気をこすりながら座り込んだ。
「ねむ……」
くあっと大きな欠伸を漏らす。隣の2人も起きた気配はあるが中々起き上がろうとはしない。宇野木に至っては布団の中に潜り込もうとすらしている。さらに向かい側で寝ている二翼へ目を向けた。2人の姿を捉えると、櫛山の重かった瞼は一気に軽くなり、眠気もどこかへ吹き飛ばされた。すぐさま隣で寝ている宇野木を激しく揺すり起こす。
「宇野木!」
「んだょ〜、髪セットすっとやろ…終わったら起こしなっせ……」
「いいから、起きるばい!」
あまりにも激しく揺さぶられ、渋々宇野木は眠い体を持ち上げた。
「なんねもぉ〜…幽霊が出るような時間でもなかやろ」
「幽霊より怖かもんがおる……」
「は?」
櫛山が指差す方へ視線を移した先。宇野木は隣で二度寝を決め込んでいた大丸を無言で殴り起こした。
「ぐえっ!?なんすっとや!」
「お前だけ被害に合わんとか許せんごたる」
「道連ればい」
大丸の顔を鷲掴んだ宇野木により、強制的に顔を向かい側へと向けられた。変な音がしたとか、もげそうで痛いとか色々言いたい言葉を飲み込んで、飛び込んできた光景に絶句した。
それぞれ寝ていたはずの金髪とモジャモジャが一つの布団で眠っていたからだ。しかもモジャモジャに至っては金髪を抱きしめるように眠っている。
「〜っ起きれ二馬鹿!」
怒鳴りつけながら布団を剥ぎ取ると、眉間に皺を寄せた千歳の長い手足がもそもそとさらに橘に巻きついた。橘に至っては、死んでるのかと思うほど静かに眠っている。
「朝からせからしか〜」
「朝からなんしよっとか!」
「寝とるだけば〜い」
まだ寝ぼけている千歳を相手に朝っぱらから怒鳴りつけるが、右から左へ流れていくだけで聞く耳をもたれさえしない。むしろ、橘の髪に鼻をすり寄せ始める始末の千歳に、大丸のこめかみに血管が浮いた。
「千歳じゃ話にならんごたる。大丸、橘に渾身のビンタしなっせ」
話にならない千歳を早々に切り捨てた宇野木は、これだけ騒いでも一人静かに眠り続ける橘へとターゲットをかえる作戦に変更した。大丸は宇野木の話に乗り、橘の頭に渾身の平手を喰らわすと小君いい音が部屋に鳴り響いた。続く沈黙に、2人が恐る恐る橘を覗き込む。
すると、橘の閉じていた目がカッと勢いよく開いた。驚いた宇野木と大丸が後ずさる。
「……今、殴ったん誰ね」
猛獣のオーラを放ち、据わった目で睨みつける橘に、眠れる獅子の怒りを買ったと即座に2人は理解した。
「「そいつが寝ぼけて殴ってました」」
橘にくっついたまま未だに気持ち良さそうに眠っている千歳を仲良く指差す。
「ぐえッ!なんね!?」
突如として千歳の首に橘の腕が絡みついた。強い圧力で締め上げられる首に、眠りから引き摺り起こされた千歳は、痛みと苦しさで一瞬で目覚めた。さらに橘がヘッドロックを固定し、そのまま力を込めていく。
「だだだだだだッ!!ギブッギブッッ!!」
締め上げられる千歳に大丸と宇野木は手を合わせるのだった。
その後、ヘアセットを優先させていた櫛山を加えて騒々しい朝を終えた5人はジャージに袖を通しコートへと向かっていた。
「朝から酷か目にあったたい…」
「酷か目にあったのは俺たちの方たい…」
「先に殴ったの千歳やろ」
「桔平のこと殴っとらんよ〜」
「ネボケテナグットッタヨ」
全員が集合したのが確認されると、軽くストレッチをして、並んでランニングが始まった。最初はスローペースで足並み揃えて走っていく。そして、徐々にスピードは上がり、終わる頃には呼吸は乱れ汗が滴り落ちていた。
「7時までに食堂に集合」
簡潔に次の指示が飛び、一度解散となった。汗をタオルで拭きながらだらだらと部屋に戻る途中、橘が思い出したように千歳へと声をかけた。
「そういえば、なして千歳は一緒に寝とったと?」
「ん〜?1回目ば覚めてな。桔平の顔眺めとったらまた眠くなって、そんまま寝たとよ」
朝起きて、寝顔を眺めて、また眠る。どこのカップルだ?朝チュンか?そうツッコミたいのを我慢して同室の3人は唇を引き結んだ。ここでツッコんだら、巻き込まれるのは目に見えている。
「人ん寝顔眺めとるとか、気色悪かな〜」
大したダメージを受けてる感じではないが、とりあえず気色悪いという普通の感想を抱いた橘に3人は親指を立てた。そうだ、もっと言ってやれ、と。
「桔平のまつ毛が女の子より長くて気になったとばい」
「まつ毛〜?」
眉を顰めた橘のまつ毛に全員の視線が向けられる。急に注がれる視線にたじろぐ橘を気にする者はもちろんいない。むしろ、確かに長い気がしてわらわらと橘の正面に集合した。
「目閉じてみなっせ」
「変なこつすなよ」
眉を顰めながらも、大人しく言われるがまま目を閉じる。伏せた瞼から伸びるまつ毛は長く、頬に影を落とした。思っていたよりも長いまつ毛に感嘆の声が上がった。
「ほなこつ長かな」
「こりゃ、女子が文句言うレベルばい」
「ばっさばさしとる」
ここで、宇野木はイタズラを閃いた。橘の正面に千歳を立たせて、カメラモードにしたスマホを持たせ構えさせた。
「橘ちっと上見てほしか」
「こうけ?」
その動きで全てを察した千歳は宇野木とアイコンタクトを取ると真剣な顔で頷き合い、スマホを構えた。シャッター音の鳴り響く音と共に、目を開ける橘。そのちょっと気の抜けた顔をさらにスマホが納めた。一連のやり取りから1秒と経たずして、各々が散らばって走り出す。千歳と宇野木は事前に打ち合わせでもしていたかのように携帯を投げ返し、別方向へと走って行く。怒りが飛び火して巻き込まれるのが目に見えていた大丸と櫛山も橘の視界から消えるように走った。誰を追いかけるかの一瞬の判断の差により、スタートダッシュが遅れた橘は一際でかい背中を追いかけることに決めたようだ。
「なしてこっち来っとや!?」
「うるしゃー!お前が写真なんち撮らんければよかっただけばい!だけん、まずはお前んこつうちころす!!!」
「暴力反対!」
「問答無用!!」
走るスピードは同じくらいだが、いかんせん橘の方がスタミナがあり、橘の飛び蹴りを背中に受けてバランスを崩した千歳は派手にすっ転ぶことになった。
「あぎゃんむぞらしかキス顔見せてくれたとに、ひどか〜」
「キス顔なんぞ、見せちょらん!!」
すり傷と背中の痛みに泣きべそをかきながら起き上がる千歳を、橘は腕組みをして見下ろした。自業自得だと鼻であしらう。
「次は宇野木ばい」
「あいつが桔平の飛び蹴り受けたら、骨折れそうやね」
背中をさすりながら次の標的に向かう。外にはほとんど人がおらず、全員一度室内へと戻ったようだので、とりあえず部屋を目指した。しかし、部屋に宇野木はいなかった。宇野木だけではなく、櫛山と大丸も部屋にはおらず、も抜けの殻だ。
「チッ!どこさ逃げよった」
「お〜、こわかぁ」
「まあ、あとででもよか。先にシャワーでも浴びいくばい」
朝練だけで汗だくになったため、軽く汗を洗い流すことにした。移動中も、3人がいないか意識してはいたが、結局会うことはなかった。
脱衣所で2人並び、籠に脱いだ服を入れていく。シャツを脱ぐと、橘はポケットからヘアゴムを取り出し口に咥えた。するすると一つにまとめあげられた髪を片手で抑え、もう片方の手が咥えていたヘアゴムをとり、手慣れた手つきで一つに括る。
千歳は橘の一つ一つの動きを視線で追い、魅入って目が離せなかった。普段髪に隠れて見えない首筋が顕になり、千歳の指が無意識に触れる。その瞬間、橘の背筋が粟立ち身を震わせた。
「なんすっとね!!!」
バッチーン!!!と鋭い平手が千歳の背中に打ち込まれた。全国区テニス選手の平手。しかも、パワー5。しかも、汗で濡れた素肌。尋常じゃない痛みに千歳は声にならない声をあげてその場にしゃがみ込んだ。
「っ〜〜〜〜〜!?いッ、いたすぎるばい……!!」
「キショク悪かこつすな!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ2人と、強烈な音に最初こそ驚いた部員達だったが、また二翼か。と慣れた様子でまた会話へと戻っていった。
軽くシャワーで汗を流して上がると、血行がよくなった千歳の背中に赤い紅葉が咲いていた。
「めちゃくちゃ痕になっとる」
「めちゃくちゃ痛かったけんね」
「あ、飛び蹴りしたところはちっと青い」
「もう少し手加減覚えてもらわんと身がもたんばい」
背中をさすりながら情けない声を出す千歳の姿に、橘は面白そうにけらけらと笑うだけだった。
大浴場のあと、一度部屋へ戻ったが3人はいなかった。部屋に戻ったついでに橘が自分の布団をしまいながら千歳にも畳むように怒鳴りつけてくるので、渋々と布団を畳むと端へ放った。それを確認して、集合場所の食堂へ行けばほとんど全員が既に揃い、朝から賑やかな様子を見せていた。橘は入り口から探し求めていた3人をいち早く見つけると、すぐさま駆け寄り睨み付けた。
「ようやっと会えたばい」
「俺は関係なか」
「俺も関係なか」
「宇野木は早よ携帯ば出しなっせ」
櫛山と大丸に便乗しようとした宇野木がしゃべるよりも先に手を差し出され、有無を言わさぬ橘の威圧感に、素直に携帯を差し出した。携帯のロックも解除させられ、写真のフォルダが開けられる。そこには、橘のキス顔に見える写真と上目遣いの顔がバッチリと残っていた。自分の顔に鳥肌が立ち、即座に削除すると携帯をぶつける勢いで投げ返した。
「いっっった!!壊れたらどぎゃんすっとや!」
「うるしゃー!!たいぎゃ気色悪かこつしよって!うちころすぞ!!」
橘はそう咆えると、二度とすんなと釘を刺してトイレへ席を外した。橘がいなくなった瞬間、宇野木は素知らぬ顔で携帯を操作し始めた。何をしているのかと覗きこめば、写真フォルダを確認しているところだった。
「ばっちり消されとるな」
「いーや、あいつは機械オンチばい」
そう言ってゴミ箱のフォルダを開けると、宇野木の予想通り。先程、橘が消したはずの2枚の写真が残っていた。無言のハイタッチを宇野木と千歳が交わすのを、櫛山と大丸は呆れた顔で眺める。
「普通ならここまで消すばってん、あいつにそぎゃん知恵があるわけなかと思っとったばい」
「それ残しとって何すっと?」
「弱味ゲットばい」
傍観者を決め込んでいた筈の2人の椅子がガタリと揺れる。あからさまに動揺して見せる2人を横目に、宇野木と千歳は写真を共有した。
「宇、宇野木」
「そん写真俺らにも……」
「2人には関係なかこつとやろ」
「お、お許しください!どうかご慈悲を……!」
「宇野木様……!」
茶番を繰り広げながら、半分本気半分冗談の交渉が繰り広げられる。あの橘の弱味を握れるのであれば、本気で頭を下げる勢いだ。
「今度はなんしとっとか?」
だが、無念なことに橘がトイレから戻ってきたことで茶番は終わらざるを得なくなった。結局弱味を握るチャンスを逃した2人は悔し涙を流した。
しかし、翌日、宇野木が写真フォルダを見ると橘の写真はなくなっていた。その理由を知るものは誰もおらず、橘の呪いだと宇野木は顔面を蒼白させた。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
朝は茶番を繰り広げていた5人だったが、始まった過酷な練習に話す余裕はなくなり、それは賑わっていた他の部員達も同じだった。3年レギュラーだけが、根性で声を張り上げる。
「黙っとらんで、声出せ!!!!」
3年の檄が飛び、夏の暑さに負けない熱量を含んだ声が響く。練習は始まったばかりだ。
……というのに、忽然と千歳が姿をくらました。どこを見渡しても背の高いモジャモジャ頭は見当たらない。それに気付いた惷先輩が、橘に声を掛けた。
「千歳はどぎゃんした?」
「なして俺に聞くとですか。俺も知らんです」
「お前があいつの手綱握っとるからやろ。それに今からペアで走り込みばい。千歳見つけてくるまで橘も戻ってくんな」
「はあっ!?他の奴と組んでやればよかだけやなかですか!」
「つべこべ言わずに、行ってこんね!!」
コートから無理矢理追い出された橘は、振り返り文句を言おうとしたが、すでに惷先輩は郷本へと報告をしているところだった。報告を聞く郷本と目が合うと、あしらうように手を振られ、さっさと行けと目が言っている。結局、橘は込み上げる怒りを抑え、元凶である千歳を探しに向かうはめとなった。
橘は千歳を探しに向かう足を止めずに、千歳がいそうな場所を予測していた。これだけ暑い日に、千歳が日向にいる事はない。どこか木漏れ日の煌めく木陰、背を柔く受け止める地面。そんな場所を好んで、千歳は寝転がっている筈だ。千歳の為に走って探すのもムカつくので、のんびり探検気分で千歳の姿を探す。
部員達の声が、葉擦れの音に混ざって耳に届く。そして見つけた、気持ちよさそうに転がる千歳の姿。
「おい」
足下にある千歳の顔を見下ろす。呑気に閉じていた千歳の目が、ゆったりと瞳を覗かせる。
「きっぺぇ」
さわさわと揺れる葉擦れが気温を下げるようだ。寝起きの舌っ足らずな声が橘の耳を揺らす。まだ眠そうな目と目が合うと、橘はボソリとひと言呟いた。
「じっとしときなっせ」
「え?」
橘は呟くと同時に足を持ち上げたかと思えば、千歳の顔面へと躊躇なく踏み落とした。寸前で交わした千歳は眠気も一瞬で吹っ飛び、冷や汗が頬を伝った。
「おい、じっとしとけって言うたばい」
「き、桔平、落ち着くばい!」
橘の無表情かつ淡々した声に、千歳の恐怖心が煽られる。本気の怒りにようやく気付いたのだ。
「サボりたいとやろ…?ケガしてしまえば、いくらでも休めるばい」
「め、滅相もない!今すぐ練習したかです!!」
「遠慮することにゃー、よ!!」
言うと同時に、今度は蹴りが顔面へと飛ぶ。身の危険に、千歳はすぐ様土下座の姿勢を取った。
「す、すみませんでしたっっっ!!!!」
動きを止めた橘を、土下座のポーズをしたままちらりと目線だけで見上げる。絶対零度の目と目が合った。
「次はなか」
「……はぃ」
大人しく立ち上がった千歳が懲りずにいなくならないように、橘は自分よりも色黒の手首をしっかり掴んで連行していく。沈黙の中歩いていると、何か思い出したように橘が声をあげた。急に立ち止まり、振り返る目が下から覗き込んでくる。まだ何かあるのかと、千歳は条件反射のように肩を揺らして体を強張らせると直立姿勢となった。
「いいこと教えちゃる。他ん奴と喧嘩しても土下座はせんごたる。下げた頭ほどコンクリートにめり込ませやすい体勢はなかけんな」
「……肝に、銘じておきます」
先程土下座した時に、顔が地面にめり込むようなことにならなくてよかったと、心の底から思った千歳だった。
「千歳確保しましたばい」
「もうしません、すみませんでした……」
すでに躾済みの千歳は大人しく橘と練習へ戻ると、開口一番に謝罪を口にする。顧問の郷本は腕組みをして待ち構えていた。
「千歳ぇ!次、サボりおったら試合に出さんからな!!」
「いゃ、もうほんと、サボらんばい…… 」
いつもはサボった程度では太々しい態度を改めない千歳が、あまりにもしおらしいので逆に心配になった。体調不良を疑ったが、なんともないと図体に見合わない元気のない声で答えるので、それ以上は何も言えず、「そうか」と言って口を噤んだ。
コートでは二人組のペア練習が行われていた。片方を背中におぶり、おんぶ走のメニューをセットでこなす。2人とも終了次第昼休憩となり、時間内に間に合わなければ、昼食を満足に摂ることができずに午後練に参加しなければならない。
「お前たちは20分程出遅れている状態だ。間に合うように気張れよ」
「俺と千歳じゃ体格差がありすぎばい。俺の負担デカないですか?」
「橘のプレースタイルはパワーとスタミナに特化しとる。だけん、こいつおぶってトレーニングした方がパワーもスタミナも鍛えられるばい」
郷本の言葉に納得はしつつも、素直に頷くには気が引けた。それが表情に出ていたのか、郷本が嫌味ったらしく言葉を続ける。
「まあ、橘がどうしても無理って言うならしゃーなかけどな」
安い挑発だとわかっていながらも、今の状況が自分のせいではないことや、わざわざ指名されて千歳を探しに行かされたことなど、怒りが積み重なっていた橘は簡単に挑発に乗った。
「そぎゃん言うならやったるばい!」
握ったままだった千歳の手首を引っ張って、2人は練習へと飛び込んで行った。
「さっさと終わらせるばい」
「え〜…」
「え〜やなか!!元はと言えば、お前のせいやろ」
下から睨み付けられれば、もう千歳に言い返すことはできなかった。千歳はわざと大きく溜め息を吐き、渋々背中を丸めて、橘が乗りやすいように膝を曲げた。
「そぎゃん曲げんでも乗れるばい!!」
「いたー!!」
一発蹴りをふくらはぎにくらうと同時に、背中に橘が飛び乗る。千歳は背中にかかる重みが思ったよりも軽くて面食らった。
「桔平、こぎゃん軽かったと?」
「あ?別に普通やろ」
背中へ声をかけると、耳のすぐ傍から返る声が少しくすぐったかった。千歳は、橘から耳を遠ざけるように少しだけ首を傾け、脇腹から覗く橘の足首を掴んだ。簡単に指が一周したことに、胸がざわつく。
「足も細かね」
「もう、分かったけん。早よ走りなっせ!!」
しつこい千歳を適当にあしらい、早くしろと背中で暴れて促した。ようやく千歳は足を動かし、走り始める。練習をサボっていたのもあり、部員達を次々と追い越していく。
「千歳、もっと早く走るばい!」
「無理なこつ言うごたる〜」
橘の笑った振動が背中越しに伝わる。返事ができない変わりに一瞬抱え直すと、何が面白かったのか、またけたけたと笑う気配が背中から伝わった。
走り終えた後は、背負ったままのフットワークや、肩車に変えてのスクワット。スタート位置へ戻ってきてようやく1セット終了だ。これを交互に繰り返し、各々5セットこなさなければならない。
「桔平、俺が乗って潰れたりせん?大丈夫と?」
次は千歳が橘の背中に乗る番だが、いざ背中を見下ろすと思ったよりも橘が小さくて、千歳は心配になった。乗った瞬間潰れる気がする。
「いいから、乗りなっせ!」
千歳が乗らなければ終わらせられない。橘は気合を入れてその場で足を踏ん張る。戸惑いつつも、橘の肩に手をかけて、思い切って背中へと乗ると、橘は一瞬呻いたがなんとか持ち堪えた。
「お、おもっ……!」
「気張るばい!」
橘は千歳が安定するように抱え直すと、なんとか走り出した。昔から背が高い千歳は人に背負われることがほとんどない。背負われている時の振動がこんなにも気持ちいいものなのかと、練習中なのを忘れて身を委ねそうになる。走るたびに靡く金髪が視界を埋める。なんとも、居心地がいい。
「おいコラッ、寝るなよ!」
「なんでバレたと」
「お見通しばい」
千歳はなんだかくすぐったくて、笑った。
なんとか時間内にセットを終わらせた千歳と橘は、無事に昼食にありつくことができた。
午後も厳しい練習が続く。昨日、今日と続く厳しさに体調を崩す部員もいる程だ。千歳もそれに便乗しようとしたが、橘の監視により叶わず、日が暮れるまでしっかり練習に参加するモジャモジャが見られた。
ようやく日が沈み、空にちらほらと星が見え始めた頃、2日目の練習は終了を迎えた。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
ミーティングや、夕食、風呂を済ませた後の消灯までの自由時間。自由時間と言ってもテレビがあるわけでもなく、5人は部屋でだらだらと暇を持て余していた。すると、突如として櫛山が立ち上がった。枕を高々と持ち上げる姿に全員の注目が集まる。
「今から、枕投げ大会を開催致します!!」
櫛山の宣言を機に、枕を掴み無言で立ち上がる面々。全員が向かい合う形になると、わざとらしくコホン、と一つ咳払いをしてルール説明を始めた。
「2対3のバトル・ロワイアル。枕が3回当たったら失格たい。だがしかーし、失格してもその場に留まることを許可する」
「はい!質問があります!」
「はい、橘!」
「失格後に枕は投げてよかとですか」
「いーい質問だ。答えは、NOだ!失格になったものは腕は使えない。つまり、枕を当てられまくるかもしれん。それでも仲間を思い自ら壁となるのなら、留まるのだな!」
「はい!」
「宇野木!」
「勝者に褒美は、あるとですか?」
宇野木の発言に、全員が息をひそめた。ドキドキと胸を鳴らし、櫛山の次の発言に期待する。櫛山は一度目を閉じると、ゆっくりと目を開け全員と視線を合わせた。
「勝者は、敗者に1度だけ好きな命令ができる」
「な、なん、だと……!」
「そ、それはチームとして…?」
「個人に使用可能だ」
「そ、そんなことが、許されるのか!」
「太っ腹すぎるばい!」
「では、チーム分けをする。組みたい奴と肩を組め」
まるで打ち合わせでもしていたかのように、瞬時に、櫛山、宇野木、大丸が肩を組む。がっしりと腕を回し力強く肩を組み合う姿に、二翼は僅かにたじろいだ。
「俺たちは、お前らに命令したい!!」
「なんつー、熱量や!」
テニスの試合中のような気迫のこもった発言に、橘と千歳の頬からたらりと冷や汗が伝い落ちる。だが、気迫に気圧されながら、橘は冷静に状況判断をして、不平を訴えた。
「ちっと待つたい。そっちは3人ってことは、ライフが9。俺達は、6。不公平やなかね」
「あら〜?二翼様ともあろうもんが、怖気付いたとね?」
「そぎゃん言いようされようが、ここは譲れん!せめて1人を4にして、ライフを9と8ばい!!」
それでも2人のチームはライフが1個分少ないことになる。ハンデを背負ったまま交渉を図ることで、相手が受け入れるように心理戦に持ち込んだのだ。相手チームである3人は少し視線を合わせ、頷きあうと交渉を飲み、ライフ1のハンデ付きで枕投げ大会が開催されることになった。
「ボコボコにしたる!!」
「何やってもらうか、楽しみばい」
「できるもんなら、やってみなっせ!」
早速、枕を投げたのは橘だった。力が強い橘の枕が、枕とは思えない威力で宇野木に向かって飛ぶ。それをギリギリで交わして左へと避けた。陣地から枕を一つ失った二翼チームの千歳は枕を投げずに保持し、僅かな睨み合いが続く。
「橘、お前朝のことで、俺狙いよったな」
「違うたい。お前が一番弱そうだったからに決まっとー」
宇野木が橘の投げた枕を取り、二つの枕をもって陣地の境界線に立った。
「そぎゃん近くに来てよかと?俺に当てられても知らんばい」
「相打ち覚悟ばい」
言うや否や、一つの枕を千歳に投げつけた。それを避けて千歳も投げるが、横から大丸の枕が飛んできた。当たりそうになったところで、橘が大丸の枕をキャッチしたが、橘がキャッチするのと同時に宇野木の枕が橘に向かって飛び、見事にヒットした。
「まずは、1点やね」
「すぐ、取り返すばい」
それからの枕投げは激しく、陣地を行ったり来たりを繰り返した。陣地に近づけば当てられ、枕を取ろうとした隙を狙われ、当たったかと思えばキャッチされて逆に当てらてられ、どんどんライフは削れられていった。最初にライフがなくなったのは大丸だった。それを味方も敵もゲラゲラと笑うので、大丸が怒鳴ったり、笑っている隙をつかれて千歳が枕を顔面に受けてライフがなくなったり、ずっと騒々しい。
戦況は、2対1と壁が1つずつだ。
「橘の壁は細長くて隠れきれなさそうたいね」
「そっちの壁は不細工ばい」
「おい!!」
現在、橘・千歳チームに枕が2つ、宇野木・櫛山・大丸のチームに枕が3つとなっている。枕も人数も有利なのは、3人のチームの方であり、橘が飛び出せば狙われるのがオチである。どうしたものか考えていると、櫛山と宇野木が同時に飛び出した。
「同時に投げれば当たるばい!お前が投げてる隙にどちらかが狙えばよか」
「卑怯な奴らたい!」
「見事な作戦と言ってもらおうか!!」
「そんなら、先に当てて、キャッチすればよかだけばい!!」
橘は宣言通りに、宇野木に枕を当てて見事に櫛山の枕をキャッチしてみせた。しかし、その後に、3つ目の枕を握っていた櫛山によって顔面に枕を当てられ撃沈した。
勝利を掴んだ3人は手を高く掲げてハイタッチで喜びを噛み締めた。
「くそったれ!」
「負けは負けですぅ〜」
「何してもらおうかな」
「このお願いって今日限定?」
「当たり前たい」
最初に櫛山から命令が下った。3人分のジュースを買ってくること。もちろん、奢りで。というものだった。
それくらいなら許容範囲内だと、橘と千歳は財布をもって外の自販機に行く準備をした。
「帰ってくるまでに決めときなっせ」
ハンデがあろうが負けは負けだと潔く受け入れた2人は、特に文句を言うわけでもなくさっさとジュースを買いに出て行った。
少し離れた場所で明るく光る自販機。ガコン、と自販機からジュースを取り出す。千歳の腕の中には5人分のジュースが抱えられている。
「早く帰るのも癪やし、どっかで飲んでから戻らんね?」
「よかね。散歩したか」
腰を落ち着ける場所を探しながら少し歩く。カエルの鳴き声が今夜もどこからともなく聞こえてくる。
「あいつら、テニスで見返したるばい」
「明日はダブルスの練習もする言うとったから、一緒に打ちのめしたかね」
昨日と同じ街灯の下に腰を落ち着けた。千歳のジュースから、カシュっと炭酸が抜ける小気味良い音が響く。
「なあ、千歳」
「ん〜」
「早く、全国でやりたかね」
「もうすぐ、できるばい」
電灯の下で、獰猛な獣のような目が爛爛と燃えている。その目に飲み込まれるような心地になりながら、千歳自身も高揚していく。
「まだ、完成しとらんけど、新技もあるったい」
「お、どぎゃん技ね?」
「ラケットのフレームに球を当てて、ブレさせることで打球を分裂させる技ばい」
「そら、見極めが難しくて、打ちにくそうたいね」
「完成したら、千歳に一番に見せちゃるけんな」
真っ直ぐに撃ち抜いてくる瞳に、喉が鳴る。こんなにも真っ直ぐな気持ちをぶつけられて、何も感じない訳がない。
千歳は橘へと額を打ち付けた。互いの額からゴチンと音が鳴り、痛みが広がるが、睨み合うような視線が逸れることはない。
「打ち返すのが、楽しみたいね」
「怪我せんごつ」
「なかなか帰ってこんと思っとったら、ケンカか?」
呑気に寝転がったままの櫛山に、赤くなった額を指差される。それを否定しながらジュースを配っていると、大丸がいなかった。
「大丸はトイレか?」
「あ?いや、お前らが遅かったから大丸に迎えに行かせたんやけど、会うとらんと?」
「すれ違ってすらなか」
すると、宇野木と櫛山の携帯が震えた。大丸から何か送られてきたようだ。いない的なことだろうかと開くと、そこには遠目から撮影された、電灯の下に座っている二翼の写真だった。そして、思わず飲んでいたジュースを吹き出した。
その写真は、どこからどう見てもキスをしているようにしか見えない2人が写っていたからだ。
吹き出したジュースをタオルで拭いながら、じっとりとした視線を2人へ送る。
「やっぱり、きさんら……」
「やめとけ。藪蛇たい……」
「「?」」
2人は何のことか検討もつかないまま、誤解は解かれることもなかった。
その後帰ってきて大丸はげっそりとしていた。同情するように宇野木と櫛山の手が大丸の肩に乗る。
「俺のお願いは、夜に橘と千歳の2人でこん部屋を出るなにするばい」
「は?なしてや?」
「なしてもクソもなか!命令ばい!」
意味の分からない命令ではあったが、対してダメージもないのでそのまま受け入れることにした。
「じゃあ、俺は、今朝みたいに同じ布団で寝るなにするばい」
「それは、俺も賛成たい」
橘も賛同したところで、もう一度歯を磨くと電気を消して就寝した。
明日の朝は何事もありませんようにと、3人が願いながら。