ぽぽ誕2023【朝】 深く沈んだ水中から水面に上がるような、意識と意識の息継ぎのような、ふわふわと漂う感覚がふと現実へと顔を覗かせる。
乱歩が覚醒と共に目を開ければ、目の前には福沢の顔が在った。前髪を掻き上げられ、其の延長線の様に頭を緩く撫でられている。
「……済まん、起こしたか」
「……ふ……くざ……さ……っ?」
眠りから覚めた直後の回らない頭で反射的に名前を呼ぶ。視界に入ってきた時計は午前零時弐分。
どうやら福沢の様子から推測するに、現へと引き戻された切っ掛けであった額に軽く落とされた違和感は気の所為では無かった様だ。
「……どう、したの?」
「起こすつもりは無かったが、お前の無病息災と永寿嘉福を祈っていた」
「……そう云うのは……直接、云ってよね」
後、正月の参拝じゃないんだから寝てる人の傍でそんな事やらないでよ。
福沢に小言を漏らすと、当の本人は目を逸らして「……云うつもりだったぞ」と、返した。
「……其れ寄りも、先ずは此の言葉から伝えなければならんな」
————誕生日おめでとう、乱歩。
其の言葉と共に柔らかい笑みが向けられる。
福沢の様子に、隠すつもりは無いのに押さえようとしても口角が上がっていくのが止まらない。
きっとこの瞬間、世界中を探しても此れ程幸福な人間は居ない。乱歩はそう思う。
「ありがとう。福沢さんが見つけてくれてから今迄、変わらず幸せだよ」
「……嗚呼、俺もだ」
「まあ起きている時にさっきのをやってくれた方がもっと幸福になるかも?」
「…………」
照れてる? いや、恥じているのかな。やってる事は健全だけど、寝込みを襲うのと同じだと思ったのかも。もぉーーー! 真面目なんだよなあ! 別にいいのに! 貴方にされて嫌な事なんて無いよ!
脳は既に覚醒している為、くるくると思考が巡っていくのがわかる。
「もしかして、毎年やってたり?」
「…………」
…………やってたんだ。
だんまりを決め込む福沢は、乱歩の気の所為でなければ若干の気まずさを表情に含ませている。其の態度にそう確信した乱歩は、緩んだ頬を其の儘に福沢の首に腕を回して抱き付く。
「もおー福沢さんってば真面目! 可愛い! 大好き!」
福沢は抱き付いてきた乱歩に動じる事無くされるが儘になっていたが、表情は決して善いとはいえない。眉間にこれでもかと皺が寄っている。
「……揶揄するのは止めろ…………」
「からかってなんてないよ、本心だよ!」
「…………物好きめ」
福沢に何も云われないのを善い事に首の後ろに手を回したまま数糎の距離で話し続ける。
発した言葉に少しだけ福沢の気分が善くなった事に気付いた乱歩は畳み掛けるようにして問い掛ける。却説、どんな返答が返ってくるのやら。
「ふふん、でも僕が物好きで福沢さんは良かったでしょ?」
「……………………」
成程、睨まれるとは思わなかった。いや、此れは睨まれると云う寄りは獲物の前の肉食動物——そう悟った途端、乱歩が先程欲しがっていたものが別の場所にひとつ降ってきた。
此れで手打ちと云う事にしたいらしい。
キスする為に其処まで覚悟を決めた顔をするなんて……。
其の行動に愛しさを覚え、福沢を真似て自身の口を相手の口へとくっ付けた。
「んふふっ」
「………………何だ?」
出会ってから誕生日を迎える度に乱歩に内緒で隠れて毎回自身の事を考えて祈ってくれていた。其の事実だけで胸が温かくなる。
誰よりも優しく不器用な人。乱歩の大好きな人。
「……幸せだなあ、と思って?」
「疑問形か?」
「ううん。でも偶に怖くなる時もあるよ。歳を重ねると同時に貴方と過ごした年月も増えていくからね」
勿論、乱歩は其れがとても嬉しい。然し、乱歩は常に心に不安を飼っている。誰よりも周りが見え、知ってしまうからこそ其の不安は其の頭の中から消えることが無い。
「其れの何処が怖い……?」
乱歩の言葉で怪訝な顔をする福沢は「俺は其れが堪らなく嬉しいと感じているが」と反論する。嬉しい言葉だ、大切な人が己と同じ気持ちで居てくれている。乱歩はまた幸せな気分になってしまった。
でも……。
「何もかもが。幸せが重なって増える度、其の幸せが失われる事に怯えてしまう。別れが惜しくなってどうしようも無くなって一歩も進めなくなる未来が怖いよ」
「…………乱歩……」
昔に戻ったみたいだ。僕はもう独りじゃ無いのに、孤独で無い事が怖いだなんてどうかしている。
乱歩と福沢さんが想いを通じ合わせた時に漠然とゆっくり湧き出てくる水のようにじんわり乱歩の心に滲み出した恐怖だ。
僕達はどう足掻いても別々の人間だから、完全に一緒に全てを分かち合える訳では無い。
「なんてね。……いつだって僕は僕がしたい時にしたい話をするけど、流石におめでたい日にする話じゃあ無いよね」
「…………乱歩」
こんな話、するつもりじゃなかった。折角福沢さんが祝ってくれたのに。矢張り夜は駄目だな。
そう思いながら、誤魔化せていない事は判っているが話を中断させる。夜は気持ちを暗くさせるし、考え無くて善い事迄考えてしまうから昔から嫌いだ。だから乱歩は暗くなれば早く寝るのだ。
「ねっ、今はもう寝よう! 勿論、福沢さんは僕が寝るまで傍に居て見守っててくれるんでしょ?」
「…………何時も居るだろう?」
乱歩が発した不安の言葉に何か返したかったのだろう福沢は、結局其の乱歩自身から追求を遠ざけられてしまい其れに乗る事しか出来ない。
其の事実にほっとしつつ、其れでも乱歩は懲りずに福沢の返す言葉に心を揺さぶられた。当たり前に思ってくれている事が、福沢の生活の一部になっている事が途轍も無く嬉しい。
「其れもそうだ。……出勤すれば皆祝ってくれるんだろうな〜きっと甘い物いっぱいだ!」
「お前が此の世に生を受けた日だ。……皆総出で祝うだろう。判ったのなら早く寝なさい、明日身が保たんぞ」
話を逸らすかのように、次々と乱歩の口から言葉が出て止まらない。其の事を察した福沢が待ったを掛けた。
そうして、昔の様に乱歩を寝かしつける言葉を投げかける。其の行動は実に手馴れたものだ。一朝一夕で出来るものでは無いことが誰から見ても明らかで、そんな福沢の云う事を素直に聞くのも乱歩なのだ。
改めて布団を被り直し、挨拶を告げる。
「はあい。……おやすみなさい、福沢さん」
「嗚呼、ゆっくり休め」
頭を撫でられる感覚にうとうとと意識が遠くなる。
福沢さん、変に思ってないかな? 気にしていないといいな。
頭の片隅で其の様な言葉が浮かんだが、眠りの水底へと再び足を入れた途端に消えていった。
其れはまるで、沈んていく最中に口から溢れた泡の様だった。
(続)