DAY1Day.1
獅子楽時代捏造
獅子楽中テニス部の面々は呆然と立ち尽くしていた。目の前にある宿が、お化け屋敷か?と思えるような雰囲気を醸し出していたからだ。このお化け屋敷が、今日から始まる強化合宿で泊まる宿という事実を受け入れるのにたっぷり時間を要していた。
「絶対出るばい……」
「郷本は俺らが嫌いやっとよ……」
「怖い話したら盛り上がりそうたい」
「蜘蛛ば出たらどぎゃんしよ〜」
「空気ば読めん二馬鹿は黙っときなっせ」
遠足気分で楽しみにしていた合宿。寝食をするために提供された目の前の宿は何度見ても、全員の顔を引き攣らせた。宿は鬱蒼とした草木に囲まれ、晴れているのになんだか仄暗い。白かっただろう壁は茶色に変色し、所々苔が生えて年季を感じる。筆文字で書かれた木の看板が雰囲気を助長していた。
「と、とにかく荷物を置きに行くばい」
鷲尾先輩に続いて恐る恐る玄関の扉を開くと、薄暗くて湿った空気が漂っていた。ギシ…ギシ…と一歩踏みだす度に軋む床がいつか抜けやしないかと不安を煽る。だが、いざ提供された部屋を覗けば、中は意外と清潔でただ古い和室という普通の部屋だった。全員が入る大部屋はなかったようで、部屋割りが行われた。
「桔平と千歳は同室確定」
「最初からそのつもりばってん、なんで?」
「問題児はまとめて保護ばい」
「きさん等に言われとぉなか」
各学年に分かれ話し合った結果、大丸、宇野木、櫛山、橘、千歳の5人が同室となった。部屋に荷物を適当に置いたらすぐテニスコートへ集合し、さっそく練習が始まった。強化合宿の名目通り、いつもよりも厳しい練習が待っていた。午前中は走って走ってとにかく走りこまされた。息をきらして、軒並み揃って地面に這いつくばる。
大丸なんて、あまりの厳しさに吐いた。
「大丸が吐いたばい!」
それを見ていた橘は、大丸を指差しながら腹を抱えて笑った。けらけらと笑っている橘に怒る気力もない大丸だったが、橘の背後に立つ人物に気付くと、青白い顔をしながらにやりと口角を上げて勝ち誇った笑みを浮かべた。
「お前の、負けばい」
「あ?」
指差されながらお前の負けだと言われ、橘は眉を顰めた。すると、背後から腕が伸び、肩にずっしりと腕が回された。それから、肩口に乗せられる顎。振り返ると目と鼻の先の鷲尾先輩とばっちり目が合い、へらりと笑い合う。
「お、おつかれさまですばい」
とりあえずあいさつをして誤魔化そうと試みる。橘の笑顔に、鷲尾も目を細めた。
「橘は元気があってよかね」
「そぎゃんことなかですけん」
「そぎゃんに元気があり余っとるなら……もう1周走ってくるったい!!」
もちろん誤魔化される訳もなく、怒号とともに背中を押され、その勢いのまま橘は駆けだすしかなかった。内心では文句を言ってやりたい気持ちだったが、1周なんて最速で終わらせてやると、走る速度を上げて駆け出す。ぐんぐん離れていく橘の背中を見ていた大丸が、げんなりと舌を出した。
「あいつ、なんであぎゃん走れるとや…」
「大丸も桔平を見倣って体力つけないかんたい」
「地面に転がって動けなくなっとる奴に言われっとムカつくばい」
「吐くまでいってないからセーフばい」
あまりにもくだらないやり取りをするどんぐりな2人に、宇野木と櫛山はやれやれと肩をすくめるだけに留めた。いつもと変わらない見慣れた光景は合宿中でも同じらしい。
橘以外の全員が走り終えたのが確認できると、昼休憩の号令がかかった。ようやくゆっくり休めることに、大きく息をつく。
「橘が走ってる間に、俺たちはひと足先に飯にありつけるばい」
「飯ば食える自信なか〜」
「午後からは打ちたかね」
へろへろの体を支えて各々が立ち上がり、軽くストレッチをしてから食堂へとぞろぞろと歩いていく。そんな中、千歳は相変わらず寝転んだままで立ち上がる気配すら見せない。
「千歳は行かんと?」
千歳は寝転んだままひらひらと手を振った。
「桔平と行くばい」
「ほんと、お前は橘が大好きやな〜」
「ホモたい」
「大丸のことば好きになることなかけん、安心してよかよ」
「ドンマイ、大丸」
「残念やったな、大丸」
「うるせー!こっちから願い下げばい!!」
部員達と共に3人がいなくなると、さっきまでの騒がしさはどこへやら。セミの声だけを残して急に辺りは静かになり、真夏日を抜ける風がさわさわと心地よく肌を撫でる。このまま眠ってしまおうかとも思った千歳だったが、柔らかな芝に手を着きむくりと上体を起こした。1人走らされている金色の姿はまだ見えない。千歳は空へ向かって腕を伸ばしてから、緩慢に立ち上がり水道へ移動した。
走ってこいと背中を押されてから、ほぼ全力疾走で走りきった橘は、5分も経たずに完走した。
「はあっ、ぐっ…ぅ、はあっ、はあっ、はっ…!」
膝に手を付き、喘ぐような荒い呼吸を繰り返す。ぼたぼたと落ちる汗が、地面を色濃く染め広げる。汗で水溜りができる前に、徐々に呼吸は落ち着きを取り戻し、ぐっと深く空気を飲み込んだ。ゆっくりと空気を吐き出したところで、膝についた手を押して勢いよく上体を起こす。まだ少し乱れる呼吸を整えながら、ぼんやりと空を眺めた。雲ひとつない夏の青い空が視界いっぱいに広がる。容赦なく照りつける陽射しが、眩しい。
「桔平、おつかれ」
頭上から千歳の顔が橘を覗き込んだ。千歳の大きな影に、橘の体はすっぽりと覆われ、橘は眩しさから解放された。
「もう誰もおらんち思っとった」
「桔平のためにスポドリ用意しとったばい」
千歳から差し出されたボトルを受け取り、すぐに勢いよく喉へと流し込む。甘いものが苦手な橘の好みに合わせて、甘みを控えめにしたすっきりと飲みやすい味に、ごくごくと中身は減っていった。
「はーっ!生き返るばい!!」
生ビールを飲む親父のような飲みっぷりだ。タオルを橘の汗だくの頭へと被せ、その上から掌を乗せる。
「先にみんな行ってしもうたよ」
「薄情もんばっかたい」
ふんと鼻を鳴らす橘に、千歳が笑う。そういえば、と千歳は橘の頭に手を乗せたまま顔を覗き込んだ。
「桔平に貸し1ばい。うまかったやろ?俺特製、桔平好みのスポドリは」
笑顔の千歳に、橘はそれはそれは不服そうに顔を歪めた。まるで、唸り声をあげるライオンのような形相になったかと思えば、開き直ったのか今度は大きな声で咆えた。
「借りは必ず返すったい!」
橘の言葉を聞いた千歳は満足し、2人で食堂に向かって歩き始めた。
食堂に足を踏み入れると、ひんやりと冷たい空気に一瞬で包まれた。シャツも体も汗で湿っていたせいだろう、エアコンの冷気がいつもよりきつく感じられた。快適な食堂は部員達の談笑が飛び交い、お腹を刺激する美味しそうな匂いに包まれていた。ようやく姿を現した二翼に、飯を口に入れたままの宇野木が手を挙げて2人を呼び寄せた。机上にはすでに昼食が準備されており、席に並んで座る。
「走り始めてから5分くらいしか経っとらんとちごか?すごかね!」
「もちっとかかるもんやと思っとった」
「大丸とは違うとばい」
「逆恨みすんなや」
食堂の賑わいの中に収まると、早々に手を合わせて目の前のご飯を口に運ぶ。白米、味噌汁、千切りキャベツに生姜焼き。ありきたりだが、男子学生には嬉しいメニューだ。橘と千歳はガツガツと食べ進めた。生姜焼きにかぶりつくと急に橘の動きが止まった。キラキラと目を輝かせて、齧った生姜焼きを見つめる。
「うまかっ……!こん生姜焼きどぎゃん味付けしとっとやろ?絶妙ばい」
「そうけ?桔平の生姜焼きのが好きやけど」
橘の反応に、もしゃもしゃと気怠そうに千歳も生姜焼きに手をつけると首を傾げた。始まったと言わんばかりに生温い眼差しが3人から向けられている事には気付きもせず。
「俺のは米食う前提みたいな味付けになっとって味付けが濃い。ばってん、ここのはちゃんと生姜焼きとして美味しく食べれる味付けしとるばい」
「味付け薄くすればいいんやないと?」
「ただ薄くするってのが難しいとばい」
「ふーん。まあ、桔平の料理が美味しいのに変わりはなかね」
「……なあ、お前らって普通に飯食えんと?」
「あ?ケンカなら買うたい」
「会話が新婚さんなんよ」
「意味が分からん」
「深入りするだけこっちが痛い目見るだけば〜い。とっとと食べにゃー時間なくなるぞ」
櫛山のひと声に時計を見てから、慌てて食べ進める。時間はまだあるが、ギリギリまで食べていたら胃の中をリバースした大丸の二の舞になりかねないからだ。
食べ終えてゆっくり談笑していれば、すぐに午後の練習開始の号令がかけられた。ちゃっかり橘は食堂のおばちゃんに生姜焼きのレシピを聞き出し、上機嫌に移動を始めた。
午後の練習は走り込みと打ち込みの同時進行のようなメニューが行われた。コートの数が限られているためだ。いわゆる勝ち抜き戦で、勝ち続ければコートに居座ることができる。負ければサーキットトレーニングが待っている。サッーキットトレーニングを終えるとまた挑戦権を得ることができるという流れだ。最初は3年がシード枠としてコートを独占し、1、2年はサーキットからのスタートだった。橘は速攻でサーキットを周り終えると、3年から容赦なくコートを奪取した。のんびりとサーキットをこなしていた千歳も、コートの陣取りに成功した。
「どんどんかかってきなっせ!!」
勝ち抜き戦なので、コートでテニスをする側は永遠に打ち続けることになる。それを何人も繰り返すため体力がかなり消耗され、シード枠で入っていたレギュラー陣も、徐々にミスが目立つようになり始めた。コートに立つ人間は、意外にも頻繁に入れ替わった。体力に自信のあった橘やテクニックのある千歳、獅子楽のエースだった鷲尾先輩や惷先輩でさえ、例外ではなかった。
「橘、勝負じゃあっ!」
大丸が橘のコートへと入る。ゲームが終わっているにも関わらず、頬を伝ってぼたぼたと落ちていく汗。呼吸を整える暇もなく、口からは荒い呼吸が繰り返されていた。それでも橘はラケットを大丸へと向けて咆える。
「また吐かんこつ気張りーよ!!」
滴り落ちる汗に、握るグリップも滑り飛ばしそうになりながらゲームを行った。粘りに粘ったが体力の限界を迎え膝からくずれた橘は、よりにもよって大丸にコートを奪われ苦汁を嘗めるはめになった。
「ぜぇ、はぁっ、…二翼の片割れがっ、聞いて、っ飽きれるばい!はぁ、」
「ぐぅ……ギリギリだった、はぁ、くせにっ!威張るな!はあ、はあっ」
「さっさと、そこ、譲るばい!!」
「すぐ、奪いとっちゃるけんな!!!」
大丸を睨み付けながらサーキットを早々にこなした橘は、一発で大丸からコートを奪い返すとガッツポーズをして見せた。大丸は膝をつき項垂れるしかなかった。
ある程度コート側がローテーションされると一度休憩が間に挟まれた。
「千歳、きさんコートから何回外れた?」
聞かれてから千歳は思い出しながら、親指、人差し指、中指、薬指まで曲げるとそこで動きを止めた。
「4……?回だった気がすったい」
「俺の勝ちばい!俺、3回!」
指を3本立てて笑顔で見せつける橘。その傍から大丸がやってきて、立てられた3本の指の内の一つを握る。
「その内の1回を俺に取られたっけなぁ」
ニヤニヤと馬鹿にした笑いに、橘が食ってかかった。千歳が橘をやんわりと抱き留めることで口喧嘩だけに留める。
「うるしゃあ!!そんあとすぐ取り返したやろが!」
「そんでも、お前が俺に負けた事実は変わらにゃー!」
「1年なのに、さすが二翼様たい」
「俺なんて4回しか入っとらん」
10分休憩を終えてからは、コートごとにレベルが分けられ、同じような練習が行われた。対戦相手のレベルが統一化され、さらに練習は厳しくなった。橘と千歳はレギュラーメンバーのいるコートへ。他3人は、準レギュラーのコートへ分けられた。これまた、入れ替わり立ち替わりにテニスコートに立ってはゲームを行う。ちょうど橘が勝ち抜いた後、千歳が対戦相手としてコートに入った。二人の口角は上がり、ぴりっと今までにない緊張感が走る。
「絶対勝つばい」
「大人しく負けてもらうけんね」
橘と千歳のゲームは、この日一番白熱したものとなった。どちらも引かずに一進一退の攻防が続く。決着がつかず、一生打ち合っているのではないかと思わされるような、1年生とは思えないハイレベルなゲーム内容に、魅入る者も少なくない。
「いい加減、諦めたらどうね!」
「桔平こそ、球の威力が落ちとーよ!」
「まだまだ、──余裕ったい!」
ぼたぼたと顎を伝い落ちる汗を拭う暇すらない。二人は肩を弾ませ、荒い呼吸音とボールを打ち合う音しか聞こえていなかった。視界に映るのもお互いの存在しかなく、二人だけの世界に没頭していた。
決着の行く末を楽しみに見学をしていると、コート内にホイッスルの音が鳴り響いた。サーブを打とうとしていた手が止まり、音がした方へ視線を移す。そこには惷先輩が立ってホイッスルを咥えていた。
「タ〜イムア〜ップ!!お前等だけの練習じゃなかと。1回休憩してくるばい!」
肩が上下に激しく動く。荒い呼吸を繰り返し、橘も千歳も言葉は次いで出ない。息苦しい熱気の中で、ただ目をしばたたいた。滲み出る汗で額に髪が張り付き、髪の先から汗が滴となって地面へ落ちる。そこで、ようやく何を言われたのか理解した。世界に音が、景色が戻ってきた。
未だに整わない呼吸で、喉が張り付く。咽そうになるのを、唾液を飲み込んでやり過ごす。
「交代、交代〜」
有無を言わせず、鷲尾先輩と惷先輩にそれぞれ腕を引かれ背中を押され、コートの外へと追い出される。それから押し付けるように渡されたドリンクとタオルを手に、呆然と立ち尽くす。そんな二翼に声をかけるものもなく、それぞれが練習を再開した。
先に動き出したのは千歳だった。橘の手首を掴み、木の下へと入り込む。千歳が木を背に座り、橘の掴んだ手首を引き寄せて座らせようとしたが、立ったまま座ろうとしない。下から見上げて、眉を下げて笑う。
「なん拗ねとっと」
「拗ねてにゃー。だけん、たいぎゃよかとこばってん…」
唇を突き出し、あからさまに拗ねたような素ぶりに、千歳からついに笑いがもれる。
「そぎゃんしよっと、むぞらしかね〜」
「子ども扱いしなさんな!」
もう一度千歳が橘の手を引き寄せると、今度は大人しく引かれるがままに身を寄せた。足の間に座ると、千歳の腹に背中を預けて力が抜ける。そよそよとそよぐ風が柔らかく二人の肌を、髪を撫でていく。千歳は橘の金色の髪が風で遊ばれるのをぼんやりと眺めて楽しんでいた。
「桔平」
「なんね」
「楽しかったたいね」
千歳の体から橘の重みが離れたかと思えば、そのまま大きな目が振り向き射貫いた。真っ直ぐで熱い視線が千歳に刺さる。まるで本物の獅子のような。
「千歳とのテニスば、いつでん楽しか」
あまりにも楽しそうで嬉しそうな表情をするものだから、千歳がむず痒い心地になった。
「不意打ちは勘弁してほしか〜!告白ごたる!」
「なんばいいよっとか!」
ギャーギャーと騒いでいると、またホイッスルが鳴り響いた。コートから惷先輩が手を挙げて、空を突き抜けるような笛の音を鳴らす。
「いちゃついとらんで、元気なったならそろそろ戻って来なっせ!!」
「「は〜い」」
たったか大人しく戻ってくる二翼の姿に、その日から惷先輩は獅子楽の猛獣使いとして名を馳せることとなった。
青かった空はいつの間にか世界を茜色に染めた。コートもラケットもボールも人も、伸びる影さえ茜色に染まっている。やがて空は鮮烈な茜色から薄い紫色に変わりはじめ、夜が訪れようとしていた。美しくグラデーションされた空に、子ども達の揃った声が大きく響いたかと思うと、先程まで鳴り響いていたボールを打つ音がぴたりと止む。
合宿1日目が終わった。
くたくたの体を引きずって訪れた食堂では、美味しい夕飯と楽しい談笑の時間を過ごした。中には疲労で食欲を無くすものもいたが、食べるのもテニスが上手くなるために必要なことの一つだと、お残しは許されなかった。夕飯の後は順番に入浴タイムとなるため、順番が来るまでは各々自由に過ごすこととなる。
「「「「「じゃんけんポン!!!」」」」」
部屋に戻ってすぐ、寝床を決めるじゃんけん大会が開催された。どこで眠るかは合宿中の安眠確保のためにも非常に重要項目だった。なかなか決着がつかず、あいこでしょ!しょ!しょ!と高速じゃんけんが繰り広げられていた。
「ちょっーと待ったー!!」
ここで櫛山がストップをかけた。振りかぶっていた手を大人しく納めることができず、頭上で拳が握られる。
「なんね、急に」
「いつまでもラチあかんけん、寝たか場所指差しで決めるばい」
「被ったやつだけじゃんけんすればよかっちわけか」
布団は2組と3組に分けられて並べている。確率は5分の1だが、真ん中を避けるとなれば4分の1となる。つまり、どれか一つは必ず被る布団があるということだ。それ以外を選べればこの勝負は勝ち。安眠が確約される。全員で布団の前に一列に整列し真剣に場所を考える。
「決まったか?」
「いつでもよか」
全員が各々、場所を選んだことを確かめた。
「「「「「せーの!!!!」」」」」
橘、2組の布団が並んだ窓際。
千歳、橘が選んだ布団の隣。
櫛山、3組の布団が並んだ廊下側。
宇野木、櫛山と同じ布団。
大丸、3組の布団が並んだ窓際。
「チクショー!!!」
「宇野木テメェー!!!」
望み通りの布団を手に入れた3人は勝利のハイタッチを無言で交わし、選んだ布団が被った二人は悔しさに畳に突っ伏した。
「2組並んだ布団はどうしてもこのニ馬鹿が過ってしもうたばい!」
「窓からなんか覗いたらと思ったら怖かろうもん!」
泣き言をもらす2人を面白がって、高見の見物を決め込む。これから、一つの布団をかけて白熱したじゃんけんが行われる──かと思った矢先、宇野木が突っ伏していた顔を無感情にあげた。
「俺、真ん中でよか」
「え?よかと?」
「なんか出ても、大丸か櫛山が先に犠牲になると思えば安眠できったい」
「身代わりかよ」
なんやかんやで寝床も決まり、入浴までゆっくりとした時間が流れた。入浴は3年から始まり、最後に1年に順番が回る。そう思うとまだまだ時間がかかりそうだった。
「千歳、ちっと打ちにいかんね」
「お〜、よかよ」
だらだらと過ごす時間を持て余した橘が千歳に声をかけると、千歳は二つ返事で了承した。立ち上がる2人を見て、3人は呆れた声をかける。
「いってらっしゃ〜い」
「テニスデート楽しんできなっせ〜」
「不純同性交遊したらいかんよ〜」
冷やかしに対して、橘は中指を立てて舌を突き出し、千歳はけらけらとただ笑って出て行った。物好きな奴等だと、3人はだらだらと過ごす時間を再開した。
夏だというのに、夜の風はほんのり冷たくて中にいるよりも涼しかった。昼間はあんなにうるさかったセミの声は消え、代わりに蛙の声がちらほら聞こえる。夏の夜は思ったよりも静かで、昼間と比べてどこか物足りないとさえ感じた。
「勝手に照明付けれんから、街灯の下で軽く打つばい」
橘の声に千歳の生返事とカランコロンと下駄の音が続く。
夜の暗闇の中、街灯に照らされてそこだけがぽっかりと切り取られていた。オレンジ色の灯りはまるでスポットライトのようで、光の下で蛾が忙しなく羽を振って踊っている。橘は照らされるオレンジ色に躊躇なく足を踏み入れると、くるりと身を翻して千歳を振り返った。橘の金色の髪が街灯に照らされて、オレンジ色に縁取られるのを千歳は目を離せずに眺めていた。
「そら」
「おん」
スポットライトの下で、ボールは緩く弧を描きラケットを行き来する。時たまいたずらに速くなったり、高い弧を描いたり、自由なボレーが続いていた。あまり会話もない、ただのボールの打ち合い。だけど、2人にとってはこれだけで充分だった。
どれくらい打っていただろうか。短い気も長い気もした。この場所だけ時間の流れが違っているような。
「今何時やろ」
「そろそろ戻るか」
「そやね」
千歳は歩きながら、ぼんやりと空を仰いだ。今回の合宿地は街中から外れた田舎の方で、星がよく見える。空一面に星々がきらめき、天の川が薄く流れているのが分かる。理科で習ったばかりのアルタイル、デネブ、ベガを視線で繋げば夏の大三角の完成だ。
夏の大三角の少し上を流れ星が落ちていった。一瞬で駆け抜けていく星に、何をどう願えというのか。
「千歳?」
あまりにもぼおっとして、いつの間にか千歳の足は止まっていた。上から下へと視線を落とせば、すぐ下から橘が見上げている。少し離れた街灯がうっすらと照らす目の前の金色。その金色が星みたいで、千歳は手を伸ばした。
「なんすっとね!」
急に抱きしめられた橘は千歳の胸板を押すが、離れようとしない。それどころか少し足が浮いた。
「お星様捕まえたばい」
「何言いよっとか!」
じたばたと暴れる橘と、気にせず抱っこをする千歳。よく分からない状況になっていると、カシャッとシャッター音と共に強い光が発光した。音と光のした暗闇から携帯を構えた惷先輩と後に続く鷲尾先輩が姿を現した。
「題名は"九州二翼の逢瀬"ってとこかね」
「週刊誌っぽく、"熱愛発覚 九州二翼が交わす熱い抱擁"とかでもよかやなか?」
「それやったら、"お星様捕まえた☆"にしてほしいですばい」
抱えていた橘を下ろすと同時に、間髪入れずに鳩尾に入った拳にその場に蹲る千歳。
「ぐぅっ!ひどかっ…、!」
「うるしゃー!お前の頭の中がお星様ったい!!」
いつも通りの二翼に、今更動じるような先輩たちではない。そんなやり取りさえも惷先輩は写真に収め、普通にふざけた会話が続行される。
「そぎゃん照れんでもよかろうもん」
「デートの邪魔してスマンね」
「照れてもなかし、デートでもなか!!」
橘が先輩達に噛み付くと同時に、鷲尾先輩の片腕が首にまわり、もう片方の手が髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。外そうと両手で腕を引っ張ると、引っ張った分首が締まっていくので、物理的な抵抗を早々に諦めた。
「先輩への態度が悪か後輩にはお仕置きばい」
「もーっ!すみませんでした!だから、離してほしかです!!」
「ちっとやりたい事があるから協力してくれるならよかよ」
「分かりました!やってやりますばい!」
ようやく離れた腕から、もう一度捕まらないように千歳を背にして逃れる。威嚇する姿が猫みたいとぼんやり眺めていた千歳にも、流れ弾が飛んできた。
「千歳にも協力してもらうばい!」
「なにすっとですか?」
「お前らにしかできんことやけんね」
先輩達の言葉に、橘と千歳は目を合わせて首を傾げるしかなかった。
◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎
橘と千歳がいなくなってから30分程経った頃、惷先輩と鷲尾先輩が1年の入浴時間だと伝えにきた。めんどくさいが二翼を呼びに行くかと重い腰を上げているときだった。先輩達が散歩がてら声をかけてきてくれるというので、言葉に甘えて先に風呂へと向かった。だが、入浴をしていても一向に2人が来る気配はなく、今も部屋に戻る途中だが、すれ違わないどころか姿も見えない。
「あいつら2人はどこでなんしよっとや」
「テニスじゃないナニかしよったりして」
「あいつらだとシャレにならんけんやめて!」
下世話な話で盛り上がりながら部屋の前までたどり着き扉を開けようとした時、中からガタガタと何か物音がした。3人で顔を見合わせる。
「あいつらか?」
「それ意外に誰がおっと」
「オバケとか?」
「アホ」
「今から風呂でも行くんやろ。出てきたところを驚かしてやるばい」
こそこそと悪巧みを企て、中の様子を窺うために聞き耳を立てる。中でもこそこそと小さく話し声が聞こえる気がした。
「あの二馬鹿も、なんばしようとしとっとか」
「だから来んかったんか」
お互いに何か仕掛けようとしていたことを先に気付いたと思った3人は、にやにやと口角を上げた。テニスでは勝てなくても、今回は俺たちの勝ちだと、二翼の驚いた顔を思い浮かべた。どんなイタズラをしようとしていたのか、耳を戸につけてじっと中の会話に集中する。
ぼそぼそとしか聞こえないが、確かに2人の声だった。思ったよりも近い距離から声が聞こえることから、どうやら扉の近くにいるらしい。神経を尖らせ、意識を集中させる。
"んぅっ…!ち、とせ、苦しかっ……!"
中から聞こえたのは橘の喘ぐような声で、一斉に目を合わせる。困惑を隠せないまま、再度神経を全集中させて声に耳を傾けた。
"ぉんっ、我慢して、ほしか"
"ぅゔッ、も、ムリ……!い、つまで、こぎゃんッ、はぁん、ぐッ、こつすっと!"
"桔平が、ふっ、ん、なんでもするって、言ったせいば、いっ"
"ぃっ、!なんでもなんて、言ってなか、ぁ!"
やっぱり聞こえてくるいかがわしい会話に思考が止まる。3人がいない部屋でナニが行われているというのか。
「おい!あいつらなんかおっ始めてるばい?!」
「やっぱりそういう関係やったと?!」
「とにかく、中に突撃するばい!!」
意を決して大丸が勢いよく扉を開けて中へと飛び込んだ。その後に続く櫛山と宇野木。そんな3人がまず視界に入れたのは乱れもなくきちんと並んだ5組の布団。
裸で抱き合う姿が見えずにひとまず安心したのも束の間。
「んぎッ!」
声のした方へこれまた勢いよく視線を移す。
そこには、惷先輩と鷲尾先輩に全力で背中を押されている千歳と、千歳と壁の間に挟まれてぎゅうぎゅうに押し潰されている橘の姿があった。あまりにもシュールな空間にまたしても思考が止まる。というか、考えるだけ無駄だと瞬時に悟り思考を放棄した。
「ちょっ、か、えって、きたから、押すんぐぅ、!や、めて、くだ、──か、んきゅう、つけて、押、すなやっ!」
「きっ、ぺい、バカッ…!!」
「そぎゃん口の悪い学習せん後輩にはこうばい」
「ぃぅぐッ…!く、るしっ、ち、とせっ、もちっと、はぁ、気張れ!!!」
「ムッリ、言う、とるって!」
尚も繰り広げられる意味の分からないやり取りに3人は脱力した。
いつの間にか千歳の背中を押すのをやめた惷先輩が、マヌケな後輩5人の様子を写真に収める。
「なんしよっとですか……」
携帯を向けられ、またもやシャッター音がなる。惷先輩の画面には脱力して疲れ切った3人の顔が写っていた。
「テッテレー、ドッキリ!」
先輩2人は3人に向けてピースサインをして、お決まりの効果音を口で言うというクオリティの低さを披露してみせた。ようやく解放された千歳と橘はぐったりと壁によりかかり死にかけている。
「せっかくの合宿やし、1年との親睦を深めようと思ってな。ドッキリが手取り早いやろ」
「心臓に悪すぎるんですが……」
「めっちゃドキドキしたやろ」
「もはや胃がキリキリしとります……」
「こいつらにしかできんドッキリばい」
「二度とせんでほしかです……」
こいつらにしかできないというか、何故よりにもよって、シャレにならないこの2人を選ぶのか。それとも、シャレにならないからこの2人なのか。偶然2人が外に出てたから巻き込まれただけなのか。
もう何も分からなかった。
というか、深く考えたくなかった。
「じゃあ、俺たちは自分の部屋戻るたい」
「夜更かしすんなよ〜」
2人の迷惑な先輩は嵐の如く帰っていった。本当に何がしたかったのか……。
ぐったりとしていた千歳と橘は、2人が帰ったのを見て、ようやく肩の力を抜いた。そのままずるずると壁を伝って重なるように畳の上に転がった。
「お前らが戻ってくるまで、20分くらい押し潰されとった……」
「早く帰ってきてほしかったばい……」
「まじで、ヤッとるかと思った……」
「本気で俺らもメンタルやられたばい……」
「最悪だ……想像しちまった…」
今日の練習の中でもダントツに、一気に疲れ果てた5人だった。
1日目は、慣れない練習と先輩達の遊びに付き合わされたせいで疲れ果て、合宿ならではの夜更かしも出来ず、早々に眠りにつくこととなった。