温かな匂いで目が覚める。嗅ぎなれない……不思議な匂いだ。嫌なにおいではない。
その正体を寝惚けた頭の片隅で考えながらベッドを探ると、昨晩は確かに隣にいたはずのぬくもりがなくなっていて、そこでようやくキースは覚醒した。
何度か瞬いてあたりを見渡すも、昨晩一緒にベッドに入ったはずのブラッドの姿は見当たらない。それどころかロフトの下から何やら物音がする。この不思議な匂いも階下からしているようだ。
寒さに身震いしながらスリッパに足を突っ込んで下を覗き込んだキースは、エプロンをつけたブラッドのつむじを見下ろしながら小さくため息をついた。
「ブラッド」
「キース。起きたのか。おはよう」
「おはようさん。朝から何してるんだよ」
「もう8時だぞ。朝食に七草がゆを作っていた」
休日の8時などまだ早朝だ。キースが大あくびをしながら階下に降りていくと、ブラッドは呆れたように目を細めた。すでに着替えて顔も洗っているようだ。全く気が付かなかった。
「ナナクサガユ? なにそれ。和食か?」
「あぁ。日本では1月7日にこれを食べる風習がある。まずは着替えて顔を洗って髭を剃って来い」
和食というのは面倒な過程が多いが、食べる日を指定する食事まであるのか。流石に理解できない。というより、今日はもう7日を過ぎている。
バスルームに追い立てられたキースは、冷たい水に悪態をつきながら顔を洗い、髭を剃り、ついでに歯を磨き、服を着てから大あくびをしつつブラッドのもとへ戻った。
コンロの上では蓋をされた鍋がふつふつと音を立てており、既にまな板も包丁も片付け終わっているところを見ると、もうナナクサガユとやらはほとんど完成しているらしい。
昨夜、明日も食べたいからライスを多めに用意してくれと言われて多めにライスを炊いたのだが、どうやらこのためだったらしい。
「で、なんなんだよナナクサガユって。もう7日過ぎてるけど大丈夫なのか?」
「昨日は俺もお前も仕事だったからな。仕方あるまい。……七草というのはいわば日本のハーブのようなものでな。七草がゆというのは、年末年始の御馳走につかれた胃腸をいたわる目的で食べる、コメと七つの野菜だけを使ったシンプルなおかゆだ」
「ハーブのカユ……っていうかオレら別にごちそうは食ってないだろ」
何ならホリデー以降、ブラッドもキースも働きづめだった。確か日本はホリデー休暇より年末年始の休暇を重視していて、年末から年明けにかけては年越しを祝う食べ物から年始の縁起物、餅と様々な食事を食べるとブラッドからうんちくを披露されたことがある。それらの締めくくりがこのカユなのだろう。日本の様々な行事に興味津々なブラッドがその行事に興味を持つというのも理解はできるが納得はしづらい。なにせ、キースの正月最初の食事はディノが買いだめたプロテインバーチーズ味だ。
「こういうのは食べることに意義があるんだ。それに常日頃から酒を飲み過ぎている貴様はいつ胃腸を休めても休め過ぎということはない」
「はいはい……じゃ、食おうぜ」
キースが想像通りの返事に笑いながら鍋の蓋を開けると、真っ白などろりとしたカユの中に緑色の葉っぱが混ぜ込まれているのが分かった。ニューイヤーに食べるものというより、病人食のようだ。野菜と言っても人参などの色とりどりのものを使うわけではないらしい。
ブラッドが用意したスープボウルに粥をよそい、テーブルへと運ぶ。どう見てもコーヒーは食べ合わせが悪そうだったので、以前ブラッドが持ち込んだ緑茶を淹れた。
「んじゃ、えーっと」
「いただきます」
「イタダキマス」
ブラッドに倣って両手を合わせて浅く頭を下げてから、スプーンに粥をすくってみる。ちょっと匂いを嗅いでみたが、ほぼ無臭だ。試しにひと口口の中に入れたキースは、口の中に広がる何とも言えない独特な味にほんの少し眉をひそめた。
「……おいブラッド」
「なんだ」
「あー、念のため聞くけど、調味料入れ忘れたか?」
よく言えば素材の味が生きている。米の甘みだとか、野菜の風味だとか。悪く言えば味がほぼしない。素材の味が生きすぎだ。
流石にこれが正しいとは思えない。思わず尋ねると、二口目を口に運んでいたブラッドは、何食わぬ顔で「そもそも入れるべき調味料は塩だけだ」と言った。
「塩だけ!? マジかよ!」
「あぁ。七草がゆは春の七草と呼ばれる植物7種類と米を煮て、塩で味付けをした食べ物だ。恐らく、これが正しい」
「恐らくって、お前まさかこれ初めて作ったのか?」
「そうだが」
そうだが、ではない。ブラッドが見せてきたレシピを覗き込んだキースは、そこに表示されているのがブラッドの言った通りの材料のみで、しかも表示されている野菜の半分近くが見慣れないものであることに顔をひきつらせた。日本人、マジかよ。
「流石にすべては手に入れるのが難しかったから、蕪と大根の葉で一部を代用した」
「お、おぉそうかよ」
「味が少々薄いが、これが胃腸を休める意味を持つというのも納得だな」
確かにブラッドが気に入っている茶室だのなんだの、日本はシンプルイズベストのような精神があるというのはキースも知っている。ワビサビとか、そんなやつだ。
だが、これは少々難しいものがあった。キースだって異国の食文化を否定したいわけではない。ないのだが、常日頃チームメイトに合わせてピザやハンバーグをよく食べるキースには少々味気ない。煮潰した米というのになじみがないこともあって少し食べにくいのも事実だ。
もう数口素材の味を存分に楽しみながら口に運んだキースは、少々考えたのちに冷蔵庫からソイソースのボトルを取り出した。
「悪ぃけど、これ足していいか?」
「醤油か?」
「ちょっと草っぽいというか、味が薄いっていうか。え~素朴すぎっていうか……」
「構わない。俺も食べるのは初めてだが、確かにかなり薄味だな」
シェフの許可も得たことだし、数滴スープボウルの中にソイソースを追加する。……幾分キースの親しんだ和食の味に近づいた。これなら美味しく食べられそうだ。
「二日酔いの朝とかにはよさそうだよな」
「確かに。七草がゆは1月7日に食べるものだが、日本では風邪をひいたときの定番はおかゆだと言うしな」
「のわりに、前のクッキング対決では粥は出してこなかったんだな?」
「試作の段階では検討していた」
おかわりも含めて2杯七草がゆを食べきったキースは、ブラッドの代わりに食器を片付けながら、ふと後ろを見やった。ソファに座るブラッドはなにやら難しそうな顔でタブレットを睨みつけていてどうやら仕事のメールか何かを確認しているらしい。
その何年経っても変わらない横顔を眺めて小さく笑ったキースは、キュッと蛇口を締めて、振り返った。
「なぁ、ちょっと食休みしたらグリーンイーストまで行かねぇか? まだ日本のニューイヤーイベントやってるよな?」
ブラッドがタブレットから顔をあげる。その表情も何年経っても変わらない。キースは思わず笑ってしまった。