全く、想定、外継国縁壱、26歳。大手外資系IT企業のグループ会社勤務。
彼は鬼舞辻無惨の、このところの一番のお気に入りだ。
大企業に勤め、社の稼ぎ頭として働く鬼舞辻はもう限界だった。
休みがないわけでも、仕事が辛いわけでもない。睡眠は十分取れているし、趣味である芸術鑑賞を愉しむ時間と心の余裕もあった。
しかし日々、とにかく苛立ちを募らせていた。業務上、思う通りにいかないことは大なり小なり誰にでもあるだろう。鬼舞辻は人の倍、それにイラつく。いつも何かしら、誰かしらにキレている。
そんな鬼舞辻が現在任されているいくつかのプロジェクトのうち、最も大きな業務の一部タスクをグループ会社に委託していた。その担当者が継国だ。
体躯の良さだけやたら目に付くが存在感は然程でもなく、控えめであり実直で、人当たりの良い好青年。だがそれだけならば鬼舞辻のお眼鏡にかなうことはない。
鬼舞辻が継国に目を掛ける理由。
それは簡潔に、継国自身が猜疑心も下心もなく鬼舞辻を慕い、ただひたすらに仕事に取り組み、懸命に要望に応えようとする姿に好感が持てるからだった。
それからシンプルに、表情や仕草、声色と言葉の選び方にも大変な癒し要素がある、というのも大きかった。年が十も下の取引先のイチ担当者だが、正直、プライベートでも傍に置いておきたいと思えるくらい、鬼舞辻は彼を気に入っている。
だから飲みに誘った。あの、鬼舞辻がだ。
部下の誰ひとりとして鬼舞辻と酒を酌み交わしたことはない。苛立ちのほとんどの原因である部下たちに、プライベートな時間をくれてやる理由などひとつも無いから。
今日も一日よく働き、明日は休日。
仕事終わり、酒も料理も美味い馴染みの店で、目を掛けているお気に入りとしこたま呑んだ鬼舞辻は上機嫌だった。
店からの帰路、自分より高い位置にある頭をわしゃわしゃと撫で回し肩を抱き、千鳥足を支えろと言わんばかりに身体を寄せて夜道をゆく。
普段は隙のない鬼舞辻が見せる緩みきった様子に戸惑う継国だが、律儀なこの男はその身体を抱えるようにして気遣いながら千鳥足に歩幅を合わせている。
「お前は本当に良い子だな継国。私の下においで、可愛がって育ててやるから」
「でも私はまだ、鬼舞辻さんが求めるレベルの仕事はできませんよ」
「そうだなぁお前、まだまだ詰めが甘くしょーもないミスが目立つものなぁ……フフ」
継国は思い当たる節、過去に厳しく指摘を受けたことの数々を思い出したのだろう。居た堪れない顔をして口を引き結んだ。
その表情に淡く微笑み、鬼舞辻は酔いに染まった蕩けた瞳で覗き込む。顔を寄せ、飲みの席でも律儀に外されることがなかったネクタイを掴み、それを引く。
また一段と近付く距離に気持ちはたじたじ、という継国だったが、じっと鬼舞辻を見つめ返し僅かに眉を顰めた。
「……あの、大丈夫ですか?」
「ああ、お前が構わないなら私が引き抜くよ。だが体力、精神面共に今の数倍キツくなるのは覚悟しておけ」
「いや、そうではなく……」
そう言いながら更に眉間に皺を寄せ、何かを危惧するような顔をして首を傾げている。
それを受けて鬼舞辻は、面持ちをサッとマイナスへと傾けた。苦虫を噛み潰したような顔をして舌打ちをひとつ。
「なんだ、今私の下にいる奴らの心配か? あんなもの皆揃ってお払い箱だ。全く使い物にならん。だのに陰で文句ばかり吐いて……」
「そういう意味でもなく、鬼舞辻さん、顔色が」
「吐い……て……は、」
「は?」
「吐く、うぅ」
「えっ」
俄かに口元を押さえたかと思えば下を向き、鬼舞辻はすぐ傍の厚い胸板に額を押し付けた。
それはあっという間のことで、継国には対処のしようもなかった。
「ゔッ」
明白なる大惨事。
美味かった酒も料理も、胃に残っていた分を全て、ついでに先輩社会人としての威厳も一緒に失った。
ベッドの縁に腰掛け項垂れる鬼舞辻。その足元に座り込み、大変恐縮した様子でそれを見上げる継国。という構図。
「本当に悪かった……」
「私は大丈夫ですから、謝らないでください」
「しかしスーツを駄目にした」
「安物ですし、家で洗えます。それより鬼舞辻さんのスーツが……」
継国が懸念しているのは、見るからに上等な仕立ての鬼舞辻のスーツのこと。若い継国でも知っているハイブランドのタグを見れば、オーダースーツだということは容易に推測できる。
吐瀉物をかぶったのはほぼ継国だったが、まあまあ鬼舞辻のスーツも汚れた。汚れを拭き取りはしたが、あのスーツは普通には洗えない。そこらのクリーニング店に頼めるものでもないだろう。
しかし鬼舞辻はそんなことよりも、自分の状況が情けなくて仕方がなかった。
グループ会社とはいえ他社の、十も歳の離れた若造のダボダボのTシャツを借りて、その男のベッドで昼過ぎまでぐっすり眠っていたのだから。しかも部屋の主は床で寝ていたという。
昨晩、鬼舞辻が派手に嘔吐した後、どういう状況を経て今に至るのかというと、なんてことはない、よくある展開だった。
継国は吐き散らかし潰れた鬼舞辻をタクシーで自宅へ運び、汚れたままでは気持ち悪かろうと抱えながら風呂に入れ、仕上げに髪まで乾かした。その間、呂律の回らない口で何かに付け「可愛いなぁお前は」と零しながら頭を撫でてくる泥酔状態の鬼舞辻を宥める手間もあった。
それから、ぐでんぐでんになりながらもしがみつき「一緒に寝よう」と放そうとしないのをなんとかベッドに寝かせコンビニへひとっ走り。購入してきた新しい下着を、早く戻れと言ったくせに帰宅を待たずに爆睡していた鬼舞辻に履かせてやり、ゆっくり眠れるようにと気を遣った継国は床で就寝した、というもの。
勿論、鬼舞辻はその何ひとつとして記憶には無い。継国も敢えては言わなかったが、現状を見れば概略程度なら容易く想像はついた。
「服に、ベッドまで借りてしまって……本当にすまない……」
「良いんですよそんなの。鬼舞辻さんから飲みに誘われたの、嬉しかったし」
下から覗き込んで言う継国は、はにかんだ笑みを浮かべ小首を傾げた。
こういう言動を、おべっかなどではなく天然でやってのけるのがこの男。鬼舞辻にもそれは分かる。だから可愛くて可愛くて仕様がないのだ。
そのいじらしい様子に思わず伸びてしまう手がふわふわの癖っ毛を撫で付ける。
すると照れ臭そうにまたもうひとつ笑って、美しい朝焼け色の瞳が鬼舞辻を真っ直ぐに捉えた。
「そうだ、具合はどうですか?」
「多少頭痛はあるが、問題ない」
「よかった。吐き気がないなら何か食事作りますよ」
「いや、そこまでの面倒は」
と、ここまで散々世話をしてもらって今更なことを言う鬼舞辻に、腹の虫が追い打ちをかけるようにキュウと鳴いた。
それが耳に届いた継国は目をぱちくりとさせ、その純粋な視線でもって鬼舞辻をじっと見つめた。
耐えかねた鬼舞辻は情けなさもあり更に項垂れ、片手で顔面を覆ってしまう。同時に深い嘆息も漏れた。
「……」
「あの」
「……なんだ」
「水分摂った方が良いし、米炊いたんで。おじやでも作りましょうか?」
「ん」
「嫌いなものとか、アレルギーとかあります?」
「ない」
「じゃあすぐ用意するんで、もう暫く横になって休んでいてください」
ホワホワっと笑顔を零して立ち上がり、継国はキッチンへ。鬼舞辻はその背中を見送るやベッドに倒れ込んだ。
部屋から玄関までを繋ぐ短い廊下に建て付けられたキッチン。そこに立つ継国を眺めながら枕に頬を擦り寄せると、呼吸をするだけで他者の香りがする。
本来ならそんなもの、気色悪くて御免だろう。しかし鬼舞辻は深呼吸をして、その香りで鼻腔を満たした。そのままぐるっと視線を巡らせる。
一人暮らしの1DK。
お世辞にも広いとは言えない部屋に、簡素なデスクと本棚がひとつ。それからテレビ。あの体躯では手狭であろうシングルベッド。部屋の中にはそれしかない。
素朴な男の、素朴な部屋。つまらないと言ってしまえばそうだが、鬼舞辻には心地よく感じた。
今まで眠っていたというのに瞼が重くなり始める。瞑ってしまいそうになるのを、食事の支度をする優しい音を響かせる継国へ意識を集中させることで抗った。
勤め先は違っても可愛い後輩だ。こんなに良い子には出会ったことがない。継国のことをもっと知りたい。
どうやら自炊はするようで、眺める先の継国からは手際の良さが見て取れた。出汁の良い香りが届くとまた腹の虫が鳴く。
現在フリーの鬼舞辻、途端に恋人が欲しくなる。まさに今目の前にいるような子が傍にいてくれたなら、日々のストレスは緩和され、夢心地の中で生きていけるのでは、と。
穴が開くほど見つめていた。すると不意に継国がベッドの方へと顔を覗かせる。
目が合うとその表情をふわりと崩し、またすぐに料理をする手元に視線を戻した。
きゅんっ
「……きゅん?」
「? なんですか?」
「っ、いや。なんでもない。問題ない」
「?」
「??」
もう一度こちらに顔を覗かせた継国の方を見ることができないまま胸元に手を押し付けた。
きゅきゅきゅきゅっ。触れているところが苦しい。
鬼舞辻には経験がなかった。可愛すぎて、愛おしすぎて、こんな風に胸が苦しくなることがあるなんて、知らない。
眠気もぶっ飛ぶ切ない胸の痛み。だが、そこに思い至ることができない鬼舞辻は、まだ本調子ではないのだろうと目を瞑った。
継国の温もりすら感じるような、良いにおいの枕を抱いて深呼吸。
言うまでもなく、暫くきゅんきゅんは止まらなかった。
レースのカーテンから差し込む柔らかな日の光に照らされるこの部屋に、継国が鬼舞辻のために用意した優しい食事の香りが満ちている。
「お待たせしました」
ひとり用の狭いローテーブル。床に座り込み、それを挟んで向かい合うふたり。
テーブルの上、継国の前にはどんぶりにたっぷり装われたおじや。それからプロテイン。
鬼舞辻のおじやは茶碗に一杯、控えめな量。それからあったかいほうじ茶。即席ですが、と出してくれたのはキャベツときゅうりの浅漬けだ。
「継国……お前、私のところに嫁に来い」
「ぷっ、ハハ! 鬼舞辻さんもそんな冗談を言うんですね」
継国はおかしそうに笑っていたが、このおじやをひと口頂けば本気で嫁に欲しいと思わざるを得ない。
細かく刻まれた大根、にんじん、それから小口切りの長ネギも、柔らかく茹でられているのは消化に配慮してだろう。半熟でとじた卵を絡めて口へ運ぶと、出汁と醤油もほのかに香って「……うん」思わず唸った。
手製の浅漬けがまた、持ってもいない故郷の味を思い起こさせるような出来。箸休めと呼ぶには勿体無い。
シンプルな料理だからこそ、継国の仕込みが如何に丁寧であるかが分かる。真心のこもった優しすぎる味わい。胃袋が掴まれまくる。癒されまくる。
あっという間に平らげおかわりまで。
空っぽになっていた胃が継国の優しさで満たされた。鬼舞辻は生まれて初めて満腹を知った気がしていた。
腹を満たすだけの食事ではない。継国が作ったものは確かに心も満たし、共有した時間は鬼舞辻にとって、これまでの人生に欠けていたものだった。
だが向こうにとってはどうだろうか——てんこ盛りのおじやにプロテインという、少々理解不能な食い合わせをぺろりと平らげた可愛い後輩を見て思う。
「美味かった。ありがとう、継国」
「お粗末様でした。お口に合って良かったです」
「毎日でも食いたいな」
「おじや、そんなに気に入ってくれたんですか?」
「お前の作ったものを、お前と一緒に食えるなら何だって良いよ」
ぬるくなった茶の残りをあおる。傾けた湯呑み越しに見える継国が目を瞬かせていた。
それに小首を傾げて見せると、ふっと視線を逸らされてしまう。それきり黙ってしまった継国の様子に、己の感覚とは違うのだろうと納得。
鬼舞辻は目を伏せ、溜息のように小さく息を吐き湯呑みをコトンと置いた。
「しかしお前、これで腹は膨れたのか?」
「……」
「継国?」
「っ、はい」
逸れていた視線が戻ってきた。
目が合う。たったそれだけで自然と鬼舞辻の表情は綻んだ。
「腹は膨れたか?」
「あ、いえ、足りません。私も鬼舞辻さんと一緒に爆睡してたんで、これが一食目だし」
「何か他に……そうだ、出前でも」
「大丈夫です。夜、死ぬほど食うんで」
「……ふ、ハハ! そうか、死ぬほどか」
あっけらかんと言うその言葉に思わず吹き出し、声を上げて笑った。
笑われてしまった継国は照れ臭そうにして、誤魔化すように曖昧に微笑んでいる。
その表情に、やはり謙虚で可愛い子だと胸が温かくなるのを感じていた。また、手を伸ばして撫でたくなる衝動。隣にいればそうしていた。
鬼舞辻は自分のテリトリーの外側でここまでリラックスできたことはない。
継国と共にする時間、空間は気安く息がし易かった。相手もそうであれば良かったのに。
「人生はままならんな」
「そうですね。いつでも腹一杯食いたいです」
「ックク。そういうことを言ってるわけじゃない」
「? 鬼舞辻さんも足りなかったのかと」
「いいや十分だ。世話になった礼に、今度また美味いものを食わせてやる」
「! またご一緒させてもらえるんですか?」
「次は迷惑をかけないから安心しろ」
「そんな……鬼舞辻さんとこうやって仕事以外で一緒にいられるの、嬉しいです」
視線は合わせず俯き加減で言う、その顔を覗き込んだらソッポを向かれた。
小さなテーブルを挟んで、あちらとこちら。鬼舞辻は益々この距離をもどかしいと感じるようになっていた。
「継国」
呼ばれた視線がチラと上向く。
鬼舞辻はそれを眼差しでもって捕まえて、再び逃げられる前に言葉を重ねる。
「ちょっとこっちこい」
「なんで」
「いいから」
「……はい」
突然の申し出に僅か不審がる声を出したが、いつだって従順な継国はのそっと立ち上がり、言われるままに鬼舞辻の横に移動して座り直す。
畏まって、正座をした。
その様子にまたひとつ気持ちを解され、胡座を崩した鬼舞辻はお目当てへと身体を寄せた。
「抱き締めてもいいか」
「えっ」
「いいか?」
「ぃ、え、えっと……いい、ですけど」
念のため返事を待ってから、ガバっといった。
床に座り込んだまま脚の間に大きな図体を招き入れ、背中と後頭部を引き寄せる。それから遠慮なく頭を抱え込んだ。
鼻を潰された継国が襟元で小さく息を漏らしたのが可愛らしくて、こめかみに頬擦り。すると先ほど香った枕よりも濃く新鮮な継国の匂いがした。
大きな身体を縮こまらせて、大人しく抱き竦められている姿がいじらしい。また胸がきゅん。きゅんきゅんっ。
「ん〜〜〜お前、なんて可愛いんだ」
「……可愛いところなんて、ひとつもないです」
ぼそぼそ呟くその声すら耳心地がいい。継国が可愛くて可愛くて仕方がない鬼舞辻からすれば、遠慮がちに謙遜するその声もまた愛らしく感じてしまう。
逃げる素振りのない素直な身体を捕まえたまま、ふわっふわの癖っ毛を撫でていると胸が擽ったくなる。
「犬……猫か? ひよこ??」
「ひよこ?」
「ふっ、デカいひよこだな」
そう言って耳元で笑う鬼舞辻に、継国は僅かに顔を持ち上げて視線を送った。
それを感じて鬼舞辻も流し目を送る。様子を窺う間近の視線に口角を上げ、後頭部を襟足まで撫で下ろした。
すると途端に身体をヒクッと反応させ逃げ腰になる継国に、間髪入れず咎めるような声を出す。
「んん、まだだ」
「こんなの、何がいいんですか……」
「可愛い。癒し効果がすごい」
「デカいぬいぐるみと違いますよ、俺」
照れ隠しからか急にふてぶてしさを醸す声色。
しかしそれもまた良い。おまけに新たな発見もあった。
「いいな、それ」
「何がですか」
「〝俺〟」
「あ」
「普段はそうなのか?」
「すみません、つい」
「業務中じゃないんだ、普段通りでいい」
相手も打ち解けて来たのだろうかと、嬉しさから図らずも声色がうっとりと蕩け出す。
継国の癒し効果は絶大だった。
溜まりに溜まっていたストレスが根こそぎ消えていく。精神的なものだけではない、身体の疲れまで癒されていくよう。
鬼舞辻は思った。今日この時より、そう簡単には継国を手放せないだろう、と。
恋人に欲しいだの、嫁に欲しいだのと考えはしたが、冗談で済まなくなりそうだった。
唇が触れるのも厭わずこめかみに鼻先を擦り付け、深呼吸をひとつ。
それから太い首筋を指先ですりすり。そのまま頚椎をひとつひとつ、形を確かめるように触れながら広く逞しい背中を降りていく。
「で? 〝俺〟は、ぬいぐるみにしては随分と良い身体付きだが」
「ッ」
「どうした?」
「ん……ちょっと」
継国は上擦った声を出し、先程同様に身体を小さく震わせた。
その手がしがみつくようにして鬼舞辻のシャツを握ると、サイズの合わないシャツの肩が落ち、そこが露わになる。継国は鬼舞辻の肩口、その素肌に直接顔を押し付ける形になった。
相手がそれに身じろぐのも構わず、鬼舞辻は背中の筋を指先で撫で続けた。なんなら素肌同士が触れ合う感覚に心地好さすら感じている。
一方継国、逃げ場のない背筋からの甘い痺れに多少混乱の様相。
「鬼舞辻さん、もう、」
「まあ待て。自慢の身体なんだろう? 少し触らせろ」
「っでも」
継国が話せば鬼舞辻の肩に吐息がかかり、鬼舞辻が話せば継国の耳に吐息がかかる。
食後の温まった身体から発せられる湿った呼気が互いの間で篭っていくようだった。
鬼舞辻にとっては夢心地。蕩けた声を隠しもせず、撫でて、話す。
「私もランニング程度ならしているが、ジムにでも通っているのか?」
「いいえ、ぁ、あの、っ」
「なんだ、そんな風に愛らしい声を出して」
「……くすぐったい」
「お前くすぐりに弱いのか」
声に乗せて返事はせず、コクコクと首を頷かせている。
そうする仕草はまるで甘えているようで、擽ったいのはこちらの方だと、鬼舞辻は胸の内をムズムズさせていた。
「このくらい大したことないだろ。我慢しろ」
「は、ぃ……」
見た目にそぐわぬ消え入りそうな声。耐えている様が、ああもういちいち可愛い。
ここまで近付いた距離、でも、まだ足りない。鬼舞辻が継国を欲しがる気持ちは加速していく。
体勢を変え、その気持ちのまま身体を前傾させて乗り掛かった。
甘さを孕み始めた鬼舞辻の視線に囚われて、されるがままの継国はまんまと床に押し倒されてしまう。
「それで……ジム通いをしているのか、と聞いたのだが?」
「してない、けど……ねえ鬼舞辻さん、っ」
間近に眺め下ろす。顔が真っ赤だ。
そんな風になるまで懸命に我慢していたのかと思うとだらしなく頬が緩んでしまう。
笑みを浮かべたままその顔を目に焼き付けていると、困惑の視線が何か言いたげに見上げてきた。
「ん?」
「まだ何かするんですか」
「お前が嫌ならやめるが?」
そう訊ねればハッとして目を逸らし、口を噤んでしまった。
この反応、どうやら嫌というわけではないらしい。それなら遠慮はいらないだろうと腹に馬乗りになる。
相手は薄いTシャツ一枚だ。背中以外に触れたらどんな反応を寄越すだろうか。
「嫌じゃないんだな?」
「ん……っ」
両手とも脇の下に差し込むと、継国は鼻にかかった声を漏らした。
この声は危険だ。押してはいけないスイッチが押されそうになる。ゾクゾクする。
だが、危険と分かっていても欲しくなる声だった。触れていればきっとまた啼いて聞かせてくれるだろう。
「力を抜け。折角の触り心地が台無しだ」
「あ、ふ……ふぅっ、ふーっ……」
言われた通り脱力しようと、眉間を寄せ深く息を吐いている。どこまでも従順で些か心配にもなるが、今は都合が良い。
その呼吸に合わせて脇腹まで、筋肉の盛り上がり、それから胴の太さも確かめるようにスルッと撫でてやる。するとまた呼吸を途切らせ、結局は肩を竦めるように身体に力を入れていた。
脇腹を上へ下へ、ゆっくり、たっぷり時間をかけて撫でる。その間ひくんひくんと身体が跳ねるのも、また息を吐いて脱力しようと努力しているのも愛い。
あぁ可愛い可愛い。そう思えば思うほど、もっと欲しくなる。ずっと触れていたくなる。
「張りのある良い筋肉だな。どうやって身体作りをしている?」
「走ったり……はぁッ、ン、ちょっと!」
堪らず制止の声を上げた理由はきっと、脇腹から這い上がった両手が胸の上に乗ったからだろう。
しかし、だから何だと言うのか。拒絶の言葉がない以上、やめる理由はない。
鬼舞辻がにっこり笑って首を傾げると、継国はそれ以上何も言えなくなる。
だって決して「嫌」ではないのだから。
「走ったり、あとは?」
「あと、は……」
「他に何をしたら、ここがこんな風になるんだ、継国」
Tシャツ越しの、掌いっぱいのむちむちとした胸筋を、すり、すり、撫でた。
継国はそれを、首を起こして目視で確認。息を呑むと再び後頭部を床に落ち着け、鬼舞辻を見上げた。
その瞳は拠り所を探すように揺れている。
「い、家で少し筋トレ、だけ、ふ、っぁ」
「ランニングと多少の筋トレでこの身体? 出鱈目なやつだな」
「ぅん、ハァ……もう、いいでしょ、ねえ」
クイクイとシャツを引っ張る手を一瞥。
言葉とは裏腹に強請っているように感じられるのは鬼舞辻の錯覚だろうか。
微笑んで、その腕を舐めるように見た。継国の着ているTシャツの、はち切れそうな袖に隠れた上腕から肩の筋肉の付き具合もまた素晴らしい。
だがこの胸筋には負ける。
「いや、まだだ。もう少し」
「えぇっ、ちょ、待って鬼舞つ、ひぁ」
指先に力を込め、軽く揉み上げるのを繰り返す。するとすぐに素直な反応が返ってくる。
この反応を促しているのが自分なのだと思うと、どうしてか矢鱈と嗜虐心が煽られた。
ピク、ヒク、くすぐったがるのが可愛い。何よりそれを見ているのが楽しい。
やはり少し、意地悪をしてやりたくなる。
「鍛えてるのだろ? だらしない声を出すな」
「そんな、関係な、いっ…ゃあ、ハッ、苦し、ハァッ」
程よい弾力を掌いっぱいで感じながら、十本の指先で継国の肉体を堪能。
息を弾ませ、時折ビクンビクンと大きく身体を跳ねさせて、どれほど擽ったいのだろうか。
目元を赤く染め、涙の膜を張り始めた瞳を近くで見ようと顔を寄せた。
だがそれは叶わず、継国は首を横に背けて目を瞑ってしまう。
残念。しかし、また良いものを見つけた。
形が良く、ふくよかな耳朶。迷わず唇を寄せそのまま声を顰めて話す。
「なあ、継国」
「ん、ぅ……鬼舞辻、さん」
「おもしろいくらい弱いんだな、お前」
「みみ……ヤです、くすぐったい」
「そうだろうと思ってここで話してるんだよ」
「んん〜〜!!」
身悶える継国に吐息で笑い、耳朶から耳介に添って唇を滑らせる。
歯を立てたらどんな声を出すだろうかと想像するが、あまり虐めて拒絶されるのは美味くない。
それに、社のコンプラに抵触するのも不味い。
「どこまでしていい」
「これ以上何するつもりですか!」
「お前が擽ったがるのをもっと見たいんだよ。だが同意が必要だ」
「なんで、っそんな」
「言っただろう。可愛い、癒される、と」
「こんなの何が良いのか、ぁン……分から、ない」
「分からなくていいよ。続けて構わないかどうか、それだけ答えてくれ」
「……っ、ん、んぅ」
「継国、返事は」
「ふ、ぁ」
「構わないんだな?」
耳穴に唇を押しつけ息を吹き込むように話せば、その返事は鼻から抜ける甘ったるい声。
明確な拒絶無し=了承が取れた、ということだ。
噛むのは流石に気が引けるが舐めるのはどうだろうかと、舌舐めずりをするように唇を濡らす。わざと水音を聞かせてやった。
「ン、可愛いなぁ」
「だからっ、可愛くないって……言ってるのに」
「可愛いよ。きっと犬猫と戯れるのはこんな感じなんだろうな」
「俺は、っ……犬でも猫でも」
「ひよこでもぬいぐるみでもない。分かってるよ、継国」
「っは、ン……も、そこで、話さな、っ……ぁ、ンああぁっ♡」
突然上がる嬌声。
驚いて思わず身体を離した鬼舞辻は、何が起こったかと継国を凝視。
継国自身も驚いたのだろう。顔を背けたまま、見開いた目をパチパチとさせていた。
耳は……まだ舐めても噛んでもいない。ではこちらかと、耳を可愛がる間も胸に触れたままだった手元を見る。
ああ、なるほど。そうひとりごちる鬼舞辻。
親指にコリコリとしたものが触れている。
「ここか?」
「ッ♡」
「ここだな」
「ぃ、あぁ♡」
触れたものを擦り潰してやると、クンッ、クンッ、誘うように胸を押し上げ、継国は媚びるような声を漏らした。
随分と形の崩れた、らしくない声だった。またその表情も然り。これまでは困惑の様相であったそれが、途端に理性の剥がれ落ちた顔を覗かせていた。
その素顔を見てやろうと、鬼舞辻は楽しげに口元を歪ませる。
押してはいけないスイッチを押されてしまった。
それは鬼舞辻もだが、継国にとってもそうだった。
くにくに、親指を押し返すように主張する尖りを捏ねてみる。両方ともだ。
布越しでも分かるぷにっとした感触が愛らしい。可愛がってやりたくて、執拗にすりすりしてしまう。
「きぶ、つじさ、ぁっ♡」
「これもまたお前の〝普段〟の姿なのか?」
「何が、あっ……ごめんなさい声が、ふ、あぁ♡」
刺激から逃れたいのだろうか、継国は身体を捩らせ腰を浮かせた。鬼舞辻はそれを阻止するために、腹の上にどっかりと座り込んで問う。
「そのだらしない声がどうした」
「ふ……は、ぁ♡」
「我慢できない?」
力無く開いている瞼の奥で鬼舞辻を見つめる継国は、あふあふと吐息を漏らし首を横に振った。鬼舞辻のシャツの裾をぎゅっと掴み、瞬き毎に瞳を潤ませて。
「声、出ちゃぅ……ハァッ♡ がまんできないです、ん、んっ♡」
眉を寄せ、息も絶え絶えに猛烈に我慢をしている。が、どうしても声は出てしまうようだった。
更に欲しがるように硬く形を成すそれを、Tシャツの布地で擦るように転がしてやれば身体をふるっと震わせる。ぐっと押し込んでやれば、ビクンッと跳ねる。
もちろんその度、アとかンとか声を上げ、イヤイヤと首を振ってはシャツを引っ張ってくる。
もう、堪らなく可愛い。
可愛い、可愛い。堪らない!
鬼舞辻の胸は切なさから悲鳴を上げた。脳髄が痺れるような昂りも感じる。
「そんな声を出して、堪え性のない悪い子だ」
「だってそんな、トコ……くすぐった、ぁ、ふぅっ♡」
「いいよ、出せ。もう我慢しなくていい」
擽ったいと言いつつも、実際は布越しのもどかしさが良い塩梅なのだろうか。悶えて汗ばみ、前髪の生え際がうっすら濡れている。
その様はまるで情事の最中のようで、鬼舞辻は図らずも生唾を飲み下し、継国に触れる手に力が入った。
「ひ、っあぁあ♡♡」
親指の爪が突端に突き刺さった。継国は堪らず喉を仰け反らし、色っぽく掠れた叫び声を上げた。
鬼舞辻はそれにトリハダを立てながら、しかし素知らぬ顔でぐりぐりとそこを抉るように刺激し続ける。
よくよくと見れば、目尻からひと筋涙が伝っていた。それにもまた興奮を覚えながらも、しれっとした風に声を掛ける。
「おっと。悪い、これは痛いか?」
「鬼舞辻さん、きぶ、ふぁあ♡ それっダメです! ヤだ、嫌ぁッ♡♡」
継国は必死に訴えるがその声に説得力はなく、シャツを引っ張るだけで問題となっている手を払い除けようともしない。その立派な体躯なら余裕で逃げ出せるだろうに、そういった行動にも出ようとはしなかった。
「嫌そうには見えないが、お前がそう言うならやめないとなぁ」
心にもない、というのがよく分かる声色だ。
その実、心にあるのはきゅんきゅんと喘ぐ切なさ。更に強まる嗜虐心。
心のまま、欲しいままに、鬼舞辻は爪で抉ったばかりのそこをぎゅうっと抓り上げた。
「〜〜〜ッ♡♡」
ぐぐぅっ、と背を反らし胸を張って、息を詰まらせる継国は目を見開き、またひと筋、ふた筋と涙を零した。
その有様に鬼舞辻は震えるほどの興奮で背筋を戦慄かせ、ぎゅうぎゅうと捻り潰すようにして執拗に胸の突起を抓って潰した。
「ク、ぁっ♡」
「本当に嫌か?」
「あ、ぐゥっ♡ 痛ぁッ……」
「嫌なのかと聞いてるんだ。答えろ」
「イ、ぁっ♡ ちが、ぁっ、こえ、ンぁっ♡ 声が出るのが嫌、あぁっ♡」
「ここを弄られるのは嫌じゃないんだな?」
「鬼舞辻さんっ、鬼舞辻さ……んゃ、ァアアッ♡♡♡」
お終いに一際強く抓り上げた後、パッと指を離した。
継国は一気に脱力し、呼吸を荒げ、激しく胸を上下させている。それを宥めるように、強く刺激し続けたそこを掌で撫でてやった。
脱力しきったふわふわの胸筋の中央の、しっかりと硬さを持ったカタチが掌に触れると歓びすら感じる。
鬼舞辻はこの時、過去に経験のない多幸感を得ていた。
それは間違いなく、今この時も己が触れ、身体の下で息を乱し悶えていたこの男がもたらしたものだ。
継国はもう、鬼舞辻にとって特別な存在になっていた。
そうなれば視線、声色に始まり表情すべて、それから触れ方も、愛しい人に対するものと相違なくなる。
繕えない。隠せない。止めようにも、抑え込めない。
甘くも激しい色恋の感情など持った試しがなかったが、これがそうなのだと認めてしまえば容易かった。
私はこの男が欲しい。この男しか要らない——
真っ赤な目元。湿った睫毛。涙の跡。
綺麗だった。鬼舞辻はそれらから目が離せなかった。
胸を宥めつつ、片手は頬を撫で涙の軌跡を拭う。
「少し力が強かったか」
「だいじょぶ、です、でも……は、ァン」
「まだ痛む?」
「っ、そのすりすり……ヤです」
「なあ継国。嫌でないなら紛らわしい言い方はやめろ」
「ん、でも」
「擽ったいだけなんだろ?」
「それ……きもち、よくって……♡♡」
ぐっしょりと汗をかきTシャツを湿らせる継国は、照明に逆光になる鬼舞辻をぼんやりと見上げてそう言った。
鬼舞辻は一旦、思考停止。胸を撫でていた手が止まる。
……気持ちがいい??
しっとりした声が「きもちよくって」と、間違いなく言った。
嫌がるどころか、触れられることに心地好さを感じているらしい。それが分かってしまった今、継国に触れない理由がなくなった。
触れていていいのだ。もしかしたら、好きなだけ。
そうすると一旦は満足しかけた欲が途端に頭を擡げる。
額に張り付く汗ばんだ髪を掻き上げてやると、気持ち良さそうに目を閉じたのがまた心を擽った。
ふう、恍惚としながらの溜息。再び胸の上で手を蠢かせる。
両手で揉んで、硬く起ったままの突起も掌で擦り潰した。
「嫌でないのに止める必要があるか?」
「は、ふ……そう、だけど」
「お前が望むなら続けるが、どうする」
「ン……鬼舞辻さんは、もっとしたい……?」
継国は全く誘っているような顔をして吐息混じりの声を出した。
ゆっくりとした瞬き。唇を舐め、薄く微笑む。おまけに、胸を愛おしむ鬼舞辻の手、そこに自らの手を重ねて小首を傾げて見せたのだ。
その様はあまりに扇情的だった。
己にとって特別だと思い始めた男にそんなものを見せられれば当然、仕事仲間相手に反応してはいけない箇所が疼き始める。
しかし、想いを寄せ始めた途端に誘われるなど、そんなに都合よく事が運ぶだろうか。
のめり込む気持ち、その思い込みから下手を打つようなことはできない。
「ねえ、鬼舞辻さん」
「……いや、やめておこうか」
継国を手に入れたい気持ちより、離れていってしまう恐怖の方が勝った。
鬼舞辻は継国の上から降りると重ねられた手を取り、それを引いて身体を起こすよう促す。
予期せぬ返答だったのだろうか、継国は呆気に取られた顔をしていた。
ゆらゆら視線を泳がせ促されるまま身を起こし、手持ち無沙汰の手は汗で濡れた髪を整えている。ただ、取られた方の手は離さず、握り締めたままだった。
「……もう、いいんですか」
「なにがだ」
「癒し効果がどうのって」
「ああ。おかげさまで満たされたよ」
「ふぅん」
継国は話す間、鬼舞辻の方を見ようとはしなかった。その視線はずっと、繋がれたふたりの手に落ちていた。
座り込んだまま、暫く互いに沈黙。
先に口を開いたのは鬼舞辻だった。
「大丈夫か、お前」
「……少し、疲れました」
「悪かったよ、しつこく擽ったりして」
「鬼舞辻さんは〝アレ〟を擽りだと思ってるんですね」
「擽りじゃないなら何だというんだ?」
継国からの指摘にもしれっと知らぬふりを貫く。
それが不満だったのだろう、継国は非難の色を滲ませた視線でチラリと鬼舞辻を一瞥、それからプイッとそっぽを向いてしまう。
けれどどういうわけかその視線とは裏腹に、継国の可愛くも大きな身体が鬼舞辻に向かって倒れ込んだ。
「っ、と……どうした」
「今度は俺の番です。鬼舞辻さんばかりズルい」
片腕で抱き止めるには少々規格外だが、あちらもそれは承知しているのだろう。体重を殆どかけずに身体を寄せてくるに留めていた。
口振りは素っ気ないが、背中に回され遠慮がちに添えられた手が、やはり継国の人となりを表していた。
一度は離れた温もりが帰ってくると、また放すのが難しくなる。だから抱き寄せたりはしなかった。
だのに継国が強請るような声で名を呼ぶから、素知らぬ顔をするのに苦労する。
「……鬼舞辻さん……」
「疲れ知らずかと思っていたが、そんなに擽りは堪えたか」
「そうですね。だから責任取って、俺のことも癒してください」
つっけんどんに言いながら鬼舞辻の肩に頬を寄せ、首の筋に鼻先を擦り付けている。唇も、触れているかもしれない。
鬼舞辻は愛しい男の湿った温かい呼気を感じながら「継国……」無意識に名を呼んでいた。
鬼舞辻が触れる前と後で、継国の雰囲気はガラリと変わった。当然、鬼舞辻はそれに困惑する。
触れている間に見せた反応の数々。先程の誘惑するような表情。そして今まさに、不貞腐れたようにしながらも甘える仕草で寄り添っていること。
鬼舞辻にとってはどれもこれも、やはり己の都合の良いように捉えたくなってしまう。もっと欲深くなってもいいと思いたくなる。
未だ繋がれたままの手と手。それを軽く握り込んで問い掛けた。
「また飲みに誘ったとして……お前、来るか?」
「行きますよ。俺が鬼舞辻さんの誘いを断るわけないでしょ」
「だったら、次は私の家に誘うぞ?」
鬼舞辻は賭けのような心持ちでいた。
触れている間、継国を何度となく可愛いと思った。心底欲し、酷く興奮もしていた。
それを継国は目の当たりにしている。鬼舞辻が触れたところから直に感じ取っている。
だから、この問いの答えはきっと継国の本音だろう。
鬼舞辻は僅か身体を離し、答えを聞くために鼻先の触れ合う距離の瞳を覗き込む。
すると目を瞬かせる継国は、預けていた頭をひょこっと上げて鬼舞辻を見つめた。
「鬼舞辻さんち? ふたりきりで?」
「ああ。外で食事もいいが、簡単なつまみを作って自宅でゆっくり呑むのもまたいいだろう?」
「俺も、その方がいいです」
「だが飲んだ後は今日と同じことをする。それでも来るか?」
「行きます。行きたい」
「……継国」
「はい」
「しっかり考えてから物を言え。今したことをもう一度するんだぞ。分かってるのか?」
「俺の身体で鬼舞辻さんが癒されるんだったら、俺は嬉しいです。好きに使ってください」
「好きに、ってお前」
「あれは擽りなんでしょ?」
「……ああ」
「だったら問題ないです。擽ったいのは我慢できる。でも声は無理。声出すの、我慢しなくても良いんですよね?」
コテン、首を傾げて聞く素振りからはあざとさを感じる。
だがこれが継国の答え。彼の本音だ。
鬼舞辻は大きく呼吸をひとつ、それから一旦は雛れた継国の頭を再度引き寄せた。
導かれるまま大人しく鬼舞辻の肩に頬を寄せた継国。しかし今度はそのままぐっと身体を押し付けた。
先程とは体勢が入れ替わり、今度は鬼舞辻が押し倒された形になる。けれど身体は押し潰してしまわないようにという、体重の配慮を感じさせた。
継国は収まりの良い場所を探すように身じろぎ、仕返しとばかりに耳朶に唇を押し付けた。そして満足げな息を吐く。
「はぁ……あったかい。俺と同じシャンプーなのに、違う匂いがする」
「っ、嗅ぐな」
「ふふ」
穏やかな時間が流れる。
継国の重みも温度も香りも、あまりに愛おしく、切なくて、鬼舞辻の胸はざわめいた。
それを溜息でやり過ごし、自分の気持ちも宥めるように、継国の背中をポン、ポン、あやすように叩く。
こんなにも深く心が癒されるのに、同じだけ胸が苦しい。
「ね、鬼舞辻さん」
「ん」
「この次も済んだ後、こうやってまた俺のことも癒してくれるなら……もう、何をされても構わないですよ、俺」
「……そうか、分かった」
「鬼舞辻さんち、楽しみだな」
耳元で囁かれる声は、弾んで転がり楽しげだった。
鬼舞辻は己が自制心に問う。
今日でこの有様だ。では次はどこまでするつもりか、と。
継国の言う「好きにしていい」「何をされても構わない」そういう誘惑めいた言葉に伸るか反るかの賭けは危険だろう。
全くどういうつもりで言っているのか。取り方を間違えれば、この心地よさは二度と味わえまい。腕の中にあるものは逃げていくだろう。
だのに「分かった」だなんて。
鬼舞辻は他者のことで思い悩む、こんなにも不器用な己を知らない。
——本当に好きになってしまったんだなぁ。
そう他人事のように思いながら、やはり放せなくなってしまった背中を両腕で抱き締めた。
終