可哀想な司の話 3まだまだこれから、と笑っていた彼の言葉の意味が、今なら分かる。
結局彼は向こう側の人間で、団員たちは互いに連絡を取り合いながら司を弄んでいたのだ。例えば、この日に司の財布から金を盗むと予め決めておけば、彼が目の前で財布を取り返すことによって、司の中で“悪い役者たちから財布を取り返してくれた良い人”に昇格することができる。優しさに飢えていた司の信頼を得て自分に依存させるのなんて、朝飯前だった筈だ。現に司は彼を信頼しきって寄り掛かりすぎたせいで、突然支えを失って思い切り転んだのだから。簡単に立ち上がれる訳がなかった。
ビリビリと痛む舌に気付かないフリをして、稽古に参加する。今までよりも団員たちが怖く見えて、動揺からか台詞を飛ばしてしまうことが増えた。その度に周りから罵声を浴びせられ、飛ばした台詞の個数と同じ数だけ殴られる。痛みや屈辱感に涙を零すと、動画を撮られながら囃し立てられる。失敗したくない、失敗できないと思えば思うほど、出てくる筈の台詞が喉に詰まって代わりに痣が増えていく。正直限界だった。
昼食は一人でとりたかったが、なぜか毎回以前と同じように彼が着いてきていた。警戒してほとんど喋らない司を気にすることなく、一人で楽しそうにペラペラと話し、食後は必ずタバコを吸う。早めに食べ終えてさっさと逃げようとする司を捕まえて彼はにっこりと笑い、
「はい。口開けて」
と、ほの赤く燃えているタバコを差し出すのだ。何度か抵抗の意を見せるために口を開かずにいた事もあるが、毎回容赦なく唇にタバコを押し付けられるため、今はほとんど無抵抗で受け入れてしまう。舌は既に火傷でぐずぐずになっていた。
家にいても、考えるのは翌日の稽古のことばかりで、家事も全く手につかない。洗濯物も溜まっているし、食器もシンクに積み重なって山を作っている。そもそも最近は料理すら出来なくなっていた。食欲も湧かないしお腹も空かないので、自ずと食べ物はコンビニ弁当やスーパーの惣菜売り場で適当に選んできた物ばかりになり、それすらも完食する前に吐いてしまう。自己嫌悪と明日への不安がぐちゃぐちゃに混ざり合って、食べた物と一緒に吐き出されていく。便座を掴む腕に残る痣が目に入って昼間の出来事がフラッシュバックし、腹の中には何も残っていないにも関わらず必死に胃液を口から垂れ流す。酸で喉が焼かれ、唾を飲み込むのも一苦労だ。何度かトイレで気を失い、そのまま朝を迎えたこともある。
稽古に無断で遅刻したこともあった。どうしても朝起きられず、かといって誰かに連絡しようにもスマホを持つことすらできず、結局練習開始時刻から一時間ほど遅れてスタジオに到着した。恐る恐るスタジオに入ると、場面練習をしていたのか誰も司を見ることはなかった。どんな酷い仕打ちを受けるのか不安だった司はほっと息をつき、邪魔にならないよう舞台監督に小声で謝罪してスタジオの隅っこに荷物を置きに行った。舞台監督は「次から気を付けて」と言った後に何か言いたげに視線を泳がせていたが、特に気にする必要はないだろう。彼だって、きっと劇団員とグルで自分を陥れようとしているに違いない。司は最早、誰も信じられなくなっていた。
稽古が順調に進み、普段より早く昼休憩をとることになった。司も鞄から昼食を取り出して、いつもの場所へ向かおうとスタジオの扉に手を掛けた時だった。
「天馬さん、少しいいですか?」
振り返らなくても分かる。この声は、いつも真っ先に自分に暴言を吐いてくる役者の声だ。一瞬で体が強張っていく。
「今日、遅刻しましたよね?何かあったんですか?」
ねっとりと張り付いてくる声から何とか逃げたくて、司は身じろぎをした。当たり前だが、そんなことで逃してくれるような甘い考えなんて、生憎相手は持ち合わせていない。
「無視しないでくださいよ。……あ、そういえば、ちょっと良いコーヒーをいただいたのでお昼に飲もうと思ったんですけど、着いてきてくれません?」
「…………はい」
ビリ、と喉が痛んだ。重たい扉を押し開けて、給湯室に向かう。果たしてコーヒーを淹れるだけで済むのだろうか。絶対に何かされる筈だ。無断遅刻なんて美味しい餌を、向こうがみすみす見逃す訳がない。
司の予想通り、給湯室に入った瞬間相手は扉を閉め、ガチャンと音を立てて鍵を掛けた。恐怖心がどんどん増していき、呼吸が浅くなる。何とか落ち着こうにも、考えは悪い方へとしか働いてくれない。
「何の連絡も無しに遅刻するって、役者以前に一社会人としてどうなんですかね?」
小さな片手鍋に水を張り、コンロに置いて火に掛けながら楽しそうに話す。大丈夫、少し話をするだけだ。大丈夫、怖がりすぎる必要はない。大丈夫、相手はコーヒーを飲むだけだ。
その場に立ち尽くす司を見るのに飽きたのか、相手は薄ら笑いを浮かべてこちらを見た。瞳の奥が、何もできない自分を嘲笑っている。
「返事もできないんですか?え、こっちの声は聞こえてますよね?それとも遂に何も言えない無能になったんですか?」
「……すみ、ません」
「いや私に謝られても。天馬さんが遅刻したせいで迷惑したの、私だけだと思ったんですか?ほんとに頭空っぽなんですね」
一つ一つの言葉が、容赦なく司の心に傷を付けていく。本来人を笑顔にするための話術が、演技力が、声が、表情が、全てが司を否定する。ぐつぐつと鍋の中の湯が沸騰する音が聞こえた。
「天馬さん、反省してます?」
「は、はい、」
「いや、役者ならせめてもっとマシな嘘ついてくださいよ」
「ごめん、なさい」
「だからただ謝るだけなら誰だってできるんですって」
冷たい半笑いを浮かべた目の前の人間は、鍋を手に取り下卑た笑みを浮かべた。背筋がぞっと粟立つ。
「天馬さん、誠意、見せてくださいよ」
「ぇ、と、」
「そんな怖がらなくて大丈夫ですって!言葉で言っても伝わらない人には、体に教え込むしかないんですから。腕、出してください」
「……ぁ、うで、?」
「早く。私の貴重な休憩時間無駄に使ってるんですから、手間取らせないでください」
早口で責めるように捲し立てられ、思考回路が次々と遮断されていく。逃げる、駄目だ。人を呼ぶ、ダメだ。許しを請う、だめだ。それから、それから。
それから?そんなことをして何の意味がある。従って、相手を満足させるのが、一番手っ取り早い。それしかない。
司は震える手で袖を捲り、数ヶ月前と比べて一回り細くなった腕を相手の前に差し出す。ブルブルと震える司を見て相手はニヤリと笑い、手に持っていた鍋を司の腕の上でひっくり返した。ばしゃん、と湯が床にぶつかる音が微かに聞こえた気がした。
「、〜〜〜!、!かひゅ、」
声にならない叫び声が、給湯室に響き渡った。沸騰した湯を被った腕は、みるみる内に真っ赤に変色していく。下手したら気を失いそうな程の痛みに頭を支配され、司は声にならない声を口から漏らす。まともに息が吸えない。何も、考えられない。
ガクガクと腕を震わせる司を置いて、相手は給湯室を出ていってしまった。コーヒーは、と聞こうとしたが、部屋を出ていってから一向に戻ってこないことから考えるに、きっとそれも司を連れ出すための建前だったのだろう。
司は蛇口を捻り水を出すと、剥き出しの腕を流れていく水にさらした。強い痛みに目をぎゅっと瞑って耐える。病院に行くべきだろうか。仮にそうだとして、果たして自分にそんな時間はあるのだろうか。今週はずっと稽古があるし、次の舞台のオーディションや顔合わせだってある。病院に行っている時間が惜しい。
司はちらりと頭上の時計を見やった。いつの間にか、冷やし始めて20分程経っていた。そろそろ午後の練習が始まる頃だ。蛇口を閉めて水を止め、捲っていたシャツを直そうとしたが、腕がかなり腫れてきていたらしく諦めた。着られないわけじゃないが、服と擦れるといかんせん酷く痛むのだ。
静かに給湯室を出て、すれ違う人にギョッとされながらもスタジオへ向かう。結局昼食は食べ損ねてしまった。あいつは、オレがいなくて平気なのだろうか。誰があいつのタバコの火を消してやるのだろうか。ずきんずきんと痛む腕を必死に無視しながら、司はスタジオの重たい扉を開けた。誰も司の腕には興味を持ってはくれなかった。
***
今だに痛む腕を肩からジャケットをかけることで何とか隠して、帰りの電車を待つ。結局シャツの袖を下ろすことはできなかった。微風すらも痛みの原因になるので、あの団員はなかなかに厄介なことをしてくれた。といっても、元はと言えばオレが遅刻をしたのが悪いのだが。
回送列車が間も無く通過するというアナウンスが駅に流れた。ふと、このまま線路に飛び込めば死ねるんじゃないかと、思った。気付いた瞬間心臓はドクンと大きく脈打ち、自然と呼吸も早くなる。
だって、死ねば、ここから解放される。死ねば、もう痛い思いをすることはない。死ねば、稽古に参加しなくていい。死ねば、もう誰にも会わなくていい。あの電車にぶつかるだけで、欲しいものが全て手に入る。まるで夢のようだ。
あぁでも、待てよ。そういえば、類からの連絡が来ていない気がする。普段の司なら「きっと忙しいのだろう」と残念に思いながらも気にしなかったが、今回ばかりは違った。
「……そうか。類は、死んでしまったんだ……」
隣のホームに電車が到着したらしく、司の小さな呟きは降車してくる人たちの足音によってあっという間にかき消された。辻褄が、合いすぎる。何週間も類からの連絡が途絶えたことなんて、今まで一度もない。司はそう良いように解釈したが、残念ながら、この時点で既に司は自分でスマホの電源を切ったことを忘れていた。勘違いと言うにはあまりに事が大きすぎた。
それでも司の行き過ぎた妄想は止まることはなかった。何週間も連絡がなく、生きているのかすら分からない。案外向こうでコロッと死んでしまって、その訃報が届いていないのかもしれない。自然と口から笑みが溢れた。待っていてくれ、類。もうすぐそっちに行くからな。一人で寂しかっただろう。大丈夫、もう一人じゃないぞ。
近付いてくる電車の音が聞こえた。耳触りなアナウンスを無視して、一歩、また一歩と黄色い点字ブロックの向こうへ歩を進める。痛いのは、一瞬だけ。大丈夫。類はきっともっと怖い気持ちをしたのだから。突如として、類の声が耳に入った。司はパッと顔を上げる。
おいでよ、司くん
「る、い……?」
天国は楽しいよ
「るいだ……!」
君をいじめてくる人もいないし、君の大好きなもので溢れてるんだ
「まっててくれ、いま、そっちに、」
「司センパイッ!」
突然、ぐいと腕を後ろに思い切り引かれた。そのまま後ろにいた相手にがっちりと抱きしめられる。身動きが取れない。電車は、轟音を立てて丁度目の前を走り去って行った。類の声は、聞こえなくなってしまった。
「はぁー……マジで焦った…………」
ぎゅう、とさらに腕に力が入る。火傷したところが、痛い。一体誰なんだ。不審者か。名前も知られているようだし、人違いの勘違いではなさそうだ。
「っとに、心臓に悪いんすから……そういうのは冗談でも笑えませんよ」
思い出した。この声は、聞き覚えがある。視界の端に映るオレンジ色の髪の毛も、彼が東雲彰人であると判断するには十分すぎる要素だった。
司はなんとか腕から抜け出そうともがくが、身動きが取れない。せっかく類に会えるチャンスを、奪わないでほしかった。
「なんで飛び込もうとしたんすか」
なんで。なんで。なんで。
「…………ぁ、らって、るいが、」
「神代センパイは海外行ってますよね。ここにはいませんよ」
「ちが、るいが、よんれて、」
「呼んでないです。とりあえずベンチ座っててください。飲み物買ってきます」
司をホームに設置してあるベンチに座らせた彰人は少し歩いたところで慌てて戻ってくると、ぼんやりと線路を見つめる司にそっと聞いた。
「……あの、飲めない物とか、あります?」
ふるふると首を横に振る司に小さく分かりましたと答えて、彰人は自販機へ向かった。
もしかして、気付かれたのだろうか。飛び込もうとした事が、バレたんじゃないか。どうしよう、どうしよう。早く類に会いたい。会って、怖かったと縋りたい。慰めて、優しく抱きしめてほしい。飲み物も、舌が痛くて飲めないけど、飲まないときっと怒られる。そもそも、彰人はどうしてオレに話しかけてきたんだ。
「待たせてすいません。とりあえずお茶でいいっすよね?」
差し出されたのは温かい緑茶のペットボトルだった。痛くない方の手でそっと受けとり、膝の上に置く。缶のココアを飲みながら、彰人はいきなり聞いてきた。
「センパイ、舌、なんか怪我とかしてます?噛みました?」
ビクンと肩が跳ねる。慌てて首を横に振るが、プロのアーティスト相手に誤魔化せる筈もなく、彰人は小さくため息をついた。怒らせてしまったのだろうか。怖い。早く解放してほしい。帰りたい。逃げたい。
「滑舌変なんで、舌、一回見せてもらっていいすか?」
じっと瞳を見つめられて、思わずペットボトルを握る手に力が篭った。見せられるわけがない。火傷まみれの舌なんて、見て気持ちの良い物じゃない。自分でさえ、最初はあまりの痛々しさに吐き気を催していたのに。
司はまた首を横に振った。彰人の眉間に皺が寄る。怖い。怖い。何か弁解しなければ。機嫌を損ねたら、怒られる。怒鳴られて、殴られて、蹴られて、それから、それから。司は震える唇を必死に開いた。
「ぇ、と、」
「どうしても隠してぇなら深くは聞きません。でももし話したくなったら、オレとか冬弥とか神代センパイとか誰でもいいんで、電話なり、メッセージなり、とりあえず連絡してください」
怒られなかった事実に拍子抜けする。少しだけ、肩の力が抜けた気がした。電話とメッセージの部分を随分強調していた。そういえば、自分でスマホの電源を切った記憶が朧げにだがある。司は鞄からスマホを取り出した。ポチポチと何度かボタンを押したが、やはり画面がつかない。電源ボタンを長押ししてスマホを起動している間、彰人はまた一口ココアを飲んで、ぽつりと口を開いた。
「…………飛び込もうとしてましたよね、電車に」
手からスマホが滑り落ち、床とぶつかってカツンと固い音を立てた。気付かれていた。どうしよう。どうしよう。どうやってここから逃げよう。どうやって彰人から逃げよう。
「つか、腕、ヤバくないすか?さっきからちょっと見えてますけど」
彰人が指を差した先。電車が通り過ぎた時の風で肩から掛けていたジャケットが捲れたのか、昼間の火傷痕と無数の痣が丸見えになっていた。サッと顔から血の気が引いていく。見られた。あきとに、みられた。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「センパイ、一回駅出ましょう」
「ぁ、ぇ、」
「調べたら駅前に病院あるみたいだし、この時間もまだギリ開いてるっぽいんで」
立てます?と差し出された手を掴む事なく立ち上がり、落としたスマホを拾って急いで彰人の後ろを着いていく。申し訳程度に腕を隠しながら歩くせいで、なんだか惨めな気持ちになってしまう。ズキンズキンと痛みが増して、頭がうまく働かない。みんなが、オレを見て笑っている気がする。今彰人が向かっているのは、もしかして、練習で使ったスタジオなのでは。彰人も、あの人たちと知り合いで、オレに何かしてくるのでは。
胃から何かが迫り上がってくる感覚がして、司はその場にしゃがみ込み、嘔吐した。
「……っ、、ぇ、」
「ちょっ、センパイ!?えぇ……とりあえず連絡、」
「、らな、……へいき、」
「平気じゃねーだろ……あー、誰に電話すれば……」
スマホの画面を必死にスクロールする彰人が、空いている手で背中をさすってくれている。ぐるぐると胃が回るのが分かる。ろくに物も食べていないせいで、吐きたくても吐けない。
背後で電車が停まる音がした。人が降りてくる足音がまばらに聞こえる。今しかない、と司は思った。足下に転がっている鞄とスマホを引っ掴み、もつれる足で電車内に駆け込む。時間帯もあってか座席はそれなりに空いていたが、今は手すりに掴まってドアにもたれたまま蹲っている方が楽だ。
彰人に気付かれた。最悪だ。このまま誰にも今のことを話さず、黙っていてくれることを祈るしかない。治らない吐き気と闘いながら、司は最寄駅で何とか下車した。周囲の人々の視線も、今は気にならない。さっさと家に帰って、今日の練習で詰まった台詞を覚え直さなければ。その一心で足を動かし、ゾンビのように帰宅する。ちらりと見えた腕には既に痕になってしまった痣や小さな傷が無数にあって、いつの間にかこんなに汚れてしまったのかと思い、その日は風呂で必要以上にゴシゴシと体を洗った。シャワーの湯と一緒に流れていった涙には、司は目もくれなかった。
***
突然走りだした司に驚いたのか、彰人は少しの間動けなかった。なんで、今いなくなるんだよ。電車の扉が閉まるアナウンスが聞こえ始めた途端、呪縛から解き放たれるように体が動き、閉まっていくドアに手を伸ばす。届かないと頭では分かっていたが、なぜか抗いたかった。
結局司を乗せた電車は、彰人の目の前で扉を閉めて発車した。彰人は肩で息をしながら、ゆっくりとその場にへたり込んだ。今見たのは、会話をしたのは、間違いなく司の筈なのに、記憶の中の司とは随分とかけ離れた見た目だった。不健康に痩せ、髪にツヤもなく、目の下の真っ黒な隈と弱々しい声。隠しきれない真っ赤な火傷。今思い返せば、電車に飛び込もうとしていた時点でよく司だと気付けたものだ。勘と善意が奇跡的に司を救ったのだ。
「…………いやあれ、助けたのか?」
恐らく怪我か何かをしているのであろう酷い滑舌と、一切目を合わせようとしない頑なさ。突然の嘔吐。そして極め付けは、終始ビクビクと何かに怯え全く会話が進まないこと。“るい”の二文字が出てきたこと。もう彰人のやることは決まっていた。
ひとまず駅員に声を掛けて、連れが体調不良で吐いてしまった、申し訳ない、と丁重に謝罪し、片付けをしてもらった。人の良い駅員だったようで、体調を崩された方はどうされたんですか?と心配そうに聞いてくれたが、トイレに行きましたと嘘をついた。まさか電車に乗って逃げました、なんて口が裂けても言える訳がない。
お連れの方、お大事になさってくださいね、と言って去っていた駅員の背中を見ながら、彰人はスマホのメッセージアプリを開いた。連絡先の人物は、とっくに決まっていた。友だち欄をスクロールし、目当ての名前を見つけてタップする。プロフィールのページにある受話器のマークをタップして、スマホを耳に当てて待つ。向こうも仕事中だろうから出る確率は低いが、今回のケースは文字でやり取りするよりも直接話した方がいいだろう。
しかし彰人の予想とは裏腹に、相手はすんなりと電話に出た。職員室を訪ねるときのようなほんのりとした緊張感に襲われる。
『もしもし、東雲くんかい?何かあったのかな?』
普段と変わらず穏やかな話し方に、一種の安堵感さえ覚える。やはり今起こった出来事を真っ先に報告すべき人物は、誰よりも司の安否を気にしている神代類しかいなかった。
「すいません。司センパイのことで色々あったんすけど、今時間とか大丈夫っすか?」
『うん、大丈夫だよ。丁度休憩時間だったしね。それで、司くんの話を教えてくれるかい?』
一刻も早く知りたいといった雰囲気が、電話越しに伝わってくる。正直、類の休憩時間をほとんど奪ってしまいそうな内容だが、話すしかないだろう。彰人だって、一人で抱え込むにはあまりにも酷すぎる惨状を目の当たりにしてしまったのだから。
「まず、神代センパイに言われた通り、朝昼夜と司センパイに電話を掛けました。一週間くらい続けたんすけど、電話には一度も出ませんでした」
スマホの向こうから小さなため息が聞こえた。ぎゅっと心が痛む。これよりもつらい話を今からすることを考えると、彰人は胸が詰まったように苦しくなった。勇気を振り絞って、震える唇から言葉を紡ぐ。
「……ここからが本題なんすけど、今日、駅で偶然司センパイに会いました」
『ほ、本当かい!?』
ガタン!と大きな音が耳元で鳴った。椅子か何かが倒れたのだろうか。期待の色を帯びた類の声を聞いて、彰人は目を伏せた。伝えるしかないと分かっていても、躊躇してしまう。自分の報告一つで、この人がどれだけ悲しむか容易に想像できてしまう。彰人は大きく深呼吸し、一息に続けた。
「司センパイは、っ、……電車に、飛び込もうと、してました」
『………………へ?』
「回送列車が通過するタイミングでホームから線路に向かって歩いてたんで、慌てて止めたんです。何で飛び込もうとしたんだって聞いたら、神代センパイが呼んでるからって言ってて」
『待って、待って……ごめん…………それは、その、……自殺……しようとしてた、ってことかい、?』
「……恐らく」
しばらく無言が続いた。静かに鼻を啜る音が聞こえる。彰人は何も言えなかった。恋人が自殺をしようとしていた、なんて聞いたらとても正気じゃいられない。果たして類は受け入れられるのか、なんて他人事のように考えてしまう自分が嫌だった。
『…………ごめんね。少し驚いてしまって……』
「いや、別に……」
『それで、司くんは無事なのかい?』
「……そこなんすけど、…………あー……多分、このままだと、ヤバいっすね」
静寂。相手の呼吸音だけが、静かに聞こえる。これは恐らく、こちらが話し終わるまで待っているパターンだろう。彰人は深呼吸をして、スマホを持ち直した。覚悟なんて、きまっていなかった。
「上手く説明できる自信ないんすけど……隈が酷くて、あと、舌?も多分なんか怪我してます。喋り方が、明らかにおかしかったんで……それから、……その、なんつーか……ずっと、目合わせてくれなくて、オレの話聞こえてんのかも分かんねーし……」
『…………なるほど。教えてくれてありがとう』
類の声は震えていた。怒りなのか悲しみなのか、それとも自己嫌悪なのか恐怖なのか、原因は分からなかった。
『……僕と電話していた時は、普通に話してくれていたんだよ。だから何かあったとしたら、連絡が取れなくなった頃からだと思うんだ……』
静かに話す類の声を聞きながら、彰人は司の顔を思い出す。数週間で、隈はあんなに悪化するものだろうか。もっと時間が経ったもののような気がする。
『悩んでいたなら、相談してくれれば良かったのに……』
「……相談、できなかったんじゃないですか?」
『え?』
「えっと、あくまで予想ですけど、例えば誰かから口止めされてたり、神代センパイに心配させたくなかったり……あの人、空気読めるようで読めねぇから」
『…………他には、何かあったかい?些細なことでも構わないんだけど』
他には。彰人はさっきあった出来事を必死に思い出す。ほとんどパニックになりかけていたからぼんやりとしか覚えていないが、一つ、思い出した。話していいのか悩んだが、隠しておいても意味はないし相手は情報を求めているのだ。彰人はそっと口を開いた。
「……右腕に、火傷と痣がありました。火傷は、手のひらくらいの大きさのが、確か一つ。痣は、……すいません、数えられてないです」
『火傷……?』
「はい。ジャケットで隠してたっぽいんですけど、風に煽られた時に結構しっかり見えました」
『右腕に、あったんだよね……?』
「多分、右だったと思いますけど……」
『……司くんは右利きだから、何かを自分で持って操作していた時にできた火傷なら、左腕を火傷する可能性の方が高いと思うんだ。だから、あまり考えたくはないけれど、……今回の怪我は人為的なものだと考えられる』
類の言葉を理解した瞬間、彰人はひゅっと喉が詰まった。誰かが悪意を持って司につけた傷。その事実が、堪らなく許せなかった。
『司くんを助けてくれてありがとう、東雲くん』
「いや、その……何もできなくて、すみません」
『いいんだよ。下手したら今頃司くんは死んでいたかもしれないんだから。司くんにとっても僕にとっても、君は命の恩人だ。……今の話を聞く限り、恐らく司くん一人じゃどうしようもないところまで事態が深刻化してしまっているね。とりあえず僕は帰国する方向で、こっちの座長と話をしてみるよ。今日は報告ありがとう』
「……はい」
『あまり自分を責めすぎないようにね。君は最善の手を尽くしたんだから。大丈夫。また何かあったら、いつでも連絡しておくれ』
「…………分かりました」
『うん。それじゃあ』
「失礼します」
通話が切れる。ドッと肩の力が抜けた。何であの人は、あんなに冷静にいられるんだ。たった一つ年齢が違うだけで、こんなにも気持ちのコントロールが上手くなるものなのだろうか。
「……最善の手じゃねぇだろ」
真っ暗な夜空に向かって吐き捨てた言葉は、悔しさに満ちていた。今目の前に司がいないことが何よりも不安で、それを最も感じているであろう類が海外にいることがどうしようもなく理不尽に感じて。
「あー…………最悪だ」
いつも笑っていた司が、笑っていなかった。その事実が、頭にまとわりついて離れなかった。今夜はきっと、眠れそうにない。
***
ドクドクと心臓が脈打つ。額を冷たい汗が伝っていくのが分かった。目の前に座る座長は、背筋をピンと伸ばして座る類を一瞥すると、再び困ったように眉を下げた。
「その恋人は、無事なのかい?」
「……今のところは。友人からの連絡で知った話なので、直接顔を見た訳ではありませんが」
「それだって、3日前の話だろう?どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ」
「……すみません。ただでさえお忙しい座長に心配をかけたくなくて。ここでの勉強も、あと一ヶ月で終わりますし」
「じゃあ神代君は、うちの団員が君が何か悩んでいるようだからと言ってくるまで、ずっと黙っているつもりだったのかい?」
「……はい」
呆れた、と言いたげに彼は大きくため息をついた。別に司を心配していなかったわけじゃない。でも貴重な海外での勉強の機会と比べると、どうしても僅差でこっちに軍配が上がってしまうのだ。日本にいれば司には毎日会えるが、こっちで演出を勉強させてもらえる機会なんてほとんどない。
「神代君は、とても勉強熱心だ。私が連れていったショーでは毎回レポートをまとめて、新しい演出をどんどん吸収していった。そこに文句をつけようとは思わない。しかしだね、今の君は物事の価値を誤って見定めている」
座長にジッと瞳を見つめられ、類はいたたまれない気持ちになった。高校時代、教師に叱られた時だって、ここまで緊張したことはなかったのに。
「ここには、まだ日本にはない演出や脚本が山ほどあって、君にはそれが宝の山に見えるだろう」
類は静かに頷いた。日本にいては得られない経験を、こっちではたくさん積むことができた。類の反応をみた座長は、やはりと言いたげに寂しそうに笑った。
「神代君、君が一番大切にしていることはなんだい?」
「え……それはもちろん、ショーを見に来てくれたお客さんを笑顔にすることです」
「それもとても大事だ。ショーをする私たちは、毎回誇りを持って公演を行うべきだ。だが、冷たいことを言うようだが、お客さんはどこまでいってもお客さんだ。彼らが私たちの生活の中にまで入り込んでくることはほとんどない。……では、神代君の生活を一緒に作り上げているのは誰だい?」
「…………司くんです」
「その通りだ。私も以前、一度だけ彼の舞台を観たことがあってね。彼は素晴らしい役者だった。きっと人よりも努力を重ねたのだろう。彼の笑顔からは、みんなに笑っていてほしいという願いがひしひしと伝わってきたよ」
愛おしそうに目を細める座長を前に、じわりと類の視界が滲む。必死に台詞を覚えてはチェックしてくれと頼みに来たり、一緒に買い物に行けばカゴから野菜を取り除こうとする類を笑いながら嗜めたり。
「……生きてさえいればいい。生きてさえいれば、世界のどこにだって行けるし、したい勉強だってできる。……だが、死んでからじゃ取り返しがつかない。自分に笑いかけてくれることも、手を繋いだ時に得られる温もりも、同じ空間にいられる愛しさも、全て失ってしまう」
座長はふぅ、と一呼吸置くと、今までとは違う真剣な眼差しで類を見た。もうどこにも、いつもの穏やかな雰囲気など残っていなかった。
「さっさと日本に帰りなさい。恋人が生きているうちに、帰って、思い切り抱きしめてあげなさい。連絡をくれれば、うちはいつでも君を受け入れられる。勉強の機会はいくらでも作ってやれる。だから、最愛の人の命を守るために、最善の手段を選びなさい」
類は何も言えなかった。部屋に静寂が訪れる。堪えていた涙が、ぽろりと溢れて、そこからはただ幼子のように泣きじゃくっていた。彰人からの連絡を受けてから、否、司と連絡が取れなくなってから、ずっと不安だった。不安が溢れて、抑えきれなくなってしまった。今この瞬間も、司は苦しんでいるかもしれない。想像するだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
声を上げて泣く類を、座長はそっと抱き締めていた。彼の左手の薬指にはまった指輪が、鈍く輝く。もう一対の指輪をつけている人間は、もうこの世にはいなかった。座長もまた、妻を病気で亡くしていた。愛する人を失う気持ちが分かるからこそ、類を引き止めず日本に帰そうと判断したのだった。
その日の晩、日本に帰る飛行機の一番早い便のチケットが取れたと団員から教えてもらった。どうやら劇団ぐるみで類を一刻も早く帰そうと画策していたらしい。恋人の安否が分かったら連絡をしてくれとほとんどの団員から言われ、いつの間にか大騒動になってしまったんだなと少し恥ずかしく思った。
飛行機が発つのは明後日。それまではゆっくり過ごしていてくれと言われたので、類は部屋にこもって団員から借りた脚本を読んでいた。照明の当て方。舞台の使い方。暗転のタイミング。全て吸収してもし足りない。何だかんだ来る時よりも増えてしまった荷物をまとめながら、類は必死に落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせていた。自分が取り乱していては、余計に司を刺激してしまう。
ふと、スマホのカレンダーアプリを開いた。互いの稽古日やイベントといった予定は司と共有しているが、類が日本に到着する日の司の予定欄は、空欄だった。つまり、オフ。恐らく家にいるはずだ。きっと神様がゆっくり話し合えと言っているんだと感謝し、スマホを閉じた。時差ボケの心配もあるが、それよりも一刻も早く司に会って、詳しい事情を聞きたかった。何もないのが一番だが、確実に何かある今回に限っては、本人の口から説明してもらうしかない。
今から既に緊張してくるが、仕方ない。どうか司が、無傷じゃなくても限りなく無事でありますようにと、祈るしかなかった。