皇帝陛下と恋のしがらみ 坂本探偵事務所所長である龍馬とお竜は便宜的に夫婦と呼ばれているが、紙の上での婚姻をしているわけではない。
というよりお竜には戸籍がないから婚姻はできない。お竜は大蛇の眷属で、人間ではないのだ。
お竜の詳しい種族名を以蔵は知らない。聞いていたとしても忘れた。
そんなお竜と仲睦まじい龍馬の許には時折、怪異との親和性を求めての依頼がある。
そういった客はたいがい『太い』し、客同士で評判を共有するから、とてもありがたい。普段以蔵が浮気調査や家出人探しなどのケチな仕事をしても糊口をしのげているのは、彼らのおかげである。
以蔵もどうやらそちら側の素質があるらしく、その手の案件の際に龍馬の手足となって動いている。癪ではあるが、雇われの身なのでしかたない。以蔵にできるのは目の前の害悪を斬ることだけだ。
もっともこの仕事の一環で立香と出逢えたのだから、そこには感謝すべきかもしれない。
今回の案件を、龍馬は『ビザンツ皇帝の醜聞』事件と名づけた。
東欧の小国の王が秘密裏に来日して、龍馬に探しものの依頼をした。以蔵にとって不本意なことに立香も巻き込まれ、大立ち回りの末に案件は解決された。
立香の勇ましさには涙が出る。今回もすんでのところで救い出し、護りきれたからいいものの――。
びっちり説教したが、立香は目の前の者に危機が迫ればまた同じことをするだろう。
困ったものだが、以蔵はそんな立香を好ましくも思う。
――ともあれ。
以蔵は今、ベストとジャケットを身に纏って三ツ星ホテルのロビーに立っている。スラックスにはプレスも入っている念の入れようだ。普段せいぜいがよれたワイシャツにベストを着る程度の以蔵にとっては、最大限のおめかしである。
「以蔵さん、ちゃんとしてるね。カッコいい」
隣の立香は、タイト気味の寒色のワンピースを着ている。どこで調達したのか、二連のパールネックレスも、普段の元気さとは一線を画していて可憐た。
「おまんがまともな恰好せぇ言うたやいか」
「だって……」
立香は言葉を濁すが、以蔵のだらしなさを知っていれば念押ししたくなるだろう。気持ちはわかる。
二人並んでいれば、デートの待ち合わせにも見えるだろう。実際当たらずとも遠からずではあるが、似て非なるものでもある。
「おまん、どこ行くか聞いちゅうがか」
「それが、何も教えてくれなくて」
こそこそ話していると、お目当ての人物がエレベーターのドアから現れた。男に遣うのは変な表現だが、華がある。
「やぁ、お待たせしてしまったかな」
赤い手袋に包まれた手が挙げられた。仕立てのいい黒スーツから赤いベストを覗かせた男の見た目は若い。以蔵より少し上か、下手をすれば同い年にすら見える。これで四十路だというのだから、王族という生き物は霞でも食っているのではないかと邪推してしまう。
「いえいえ! たいして待ってませんから」
首を振る立香から、気のせいか星がきらきらと舞っているようにも見える。やはり女は、セレブの雰囲気に弱いのだろうか。主語を大きくしすぎか。
「気を遣わせたならすまないね。ところで……」
男はちらりと以蔵を見た。
「私はてっきり、君が同性の友人を連れてくるかと思っていたのだが」
「なんじゃ、おまんわしになんぞ文句があるがか」
思わず、売られているかも定かではない喧嘩を買ってしまう。
しかし男は数秒口を開けた後、立香に視線を向けた。
「えぇと……すまない。彼は、なんと?」
その口調には、まったく悪気がない。
「『あなたは私に何か文句があるんですか』って」
「ふむ! 文句なんてあるわけがない、リツカの選んだ友人なんだ。それに君は、よく仕事をしてくれただろう」
男は善性を前面に見せて笑った。こういう表情ができる者などろくでもない、と思ってしまう以蔵の心の方が歪んでいるのだろう。
男の名はコンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス。
まず名前が長いのが気に食わない。
この男こそが、今回の『ビザンツ皇帝の醜聞』事件の依頼人である。
怪奇に包まれた、彼の治める小国の醜聞になり得るアイテムを探してほしいという依頼だった。
事件解決に寄与した立香(前述の通り、以蔵がかなりのサポートをしたのだが)に礼を言いたいと、コンスタンティノスは立香をデートに誘った。
しかし想い人のいる立香には、感謝と友誼しかない申し入れでも受けることはできなかった。友人も同席するならいい、と返事をした。
そこで呼ばれたのが以蔵である。
コンスタンティノスは立香と以蔵に「こちらへ」と言い、颯爽と背中を向けた。ホテルの車寄せにはハイヤーが停まっていて、運転手が開いたドアの前で待っていた。レディファーストで立香を先に後部座席に導いたコンスタンティノスは、以蔵にアイコンタクトを送る。
「わし……私が前に座ります。私は護るのが仕事ですき」
アクセントが土佐弁のままだという自覚があるが、今度は理解してもらえたらしい。コンスタンティノスは「君は仕事のできる人だからね」と笑顔を見せた。
コンスタンティノスは日常会話程度の日本語を問題なく喋れる。
王たるもの、様々な語学に堪能であらねば、ということだそうだ。
それでも日本語では意思の疎通が難しい時、コンスタンティノスと立香は英語でやり取りしている。
学校の勉強など社会では役に立たないと思っていた以蔵だったが、この時ばかりは過去のひねくれた自分の襟首を掴みたくなった。
今も後部座席では、立香とコンスタンティノスが笑いさざめいている。
己に何も言う資格がないとわかっているから、余計にもどかしく、腹立たしい。
以蔵は立香にストーキングされている。
とある案件で、以蔵は立香を護り、命を救った。
吊り橋効果というべきか、立香は以蔵に恋心を覚えてつきまとい、何くれとなく世話を焼くようになった。
嫌なら断ってしまえばいい。
だが実際のところ、以蔵も立香に惚れている。
互いの同意があるなら交際してもいいのではないか、という向きもあるのも承知しつつ、以蔵は立香へ何の言質も与えてはいない。
まず、歳の差がある。以蔵は社会に出て十年近くになる、アラサーの男だ。この間まで高校生だった立香に手を出すなど、乏しい倫理観しかなくても許せることではない。
それに、勢いで盛り上がった恋を信じきれない。ちょっとしたことで火の点いた立香の恋が、ちょっとしたことで消えてしまうのを恐れている。
一度受け容れられたのに拒まれることになったら――と考えただけで、以蔵は丸一日落ち込める。
だからまともな返事もできないまま、立香がストーキングするに任せている。
自分のものにするとも相手のものになるとも言っていない女が他の男と談笑するなどどうでもいい、と言わなければならない立場だ。
しかし立香に対しての欲があるから、以蔵はとても達観などできない。
苛立ちを隠そうと必死の以蔵をよそに、ハイヤーは都心の閑静な住宅地を縫うように走る。
やがて森の前で、ハイヤーは止まった。
運転手がうやうやしく開けたドアから出たコンスタンティノスは、車内の立香へ手を伸べて後部座席から降りるのをエスコートした。
(こがな! こがなとこが! わしはまっこと気に食わん)
内心で歯噛みする以蔵だが、『護る』と言った手前、周囲を警戒する。
目の前にあるのは、かつては大富豪の邸宅だったという公園だ。
以蔵は仕事柄、都内の地理を熟知している。
どうやら目的地は、公園に面した小さなレストランのようだ。先導するコンスタンティノスとついて行く立香の背を護って立ち、以蔵も店内に入る。
広くはないが天井は高く、天窓から入る光がフロアを照らしている。調度品は磨かれて輝き、ものを見る目のない以蔵にも高級感を伝えている。
ウェイターが三人を窓際の席に案内した。予約を入れていたのかもしれない。
立香を上座に座らせ、その正面に座ったコンスタンティノスはにこにこしている。
「今回の件とは別にこの店のことを聞いてね、楽しみにしていたんだ」
「何が出てくるんですか?」
「それは来てのお楽しみだ」
コンスタンティノスの言葉に微笑む立香を、斜め前から見る。
目の前のことに新鮮な感情を向け、喜んでいる顔が魅力的すぎる。いつもくるくる変わる表情を楽しんでいるが、やはりこういう顔が一番いい。
それを正面から受け取れないことがとても――とてつもなく悔しいのだが!
己の不徳の致すところではある。
ほどなく、店員が三つのコーヒーカップとグラスを捧げ持って来た。
背はそれほど高くない。だがその中身はぎっしり詰まっていて、最上段には新鮮な和梨が花咲くように飾られている。
目の前に差し出されたグラスを見た立香が、小さく歓声を上げた。
「パフェ!」
「和梨のパフェだね。ヨーロッパではなかなか和梨を食べる機会がないから」
コンスタンティノスも嬉しそうだ。
以蔵も興味はなくもない。
普段味の濃い酒の肴を食べることが多い以蔵だが、味蕾は決して死んではいない。質のいい甘味を食べればうまいと思う。
しかし、立香を優雅にエスコートできる男のおすすめとあらば、それだけで心が曇る。
「食べる前に一枚撮ってもいいですか? みんなに見せたいんです」
「いいとも! 楽しいことはシェアすべきだ。私にもSNSを見せてくれないかな」
「それは……恥ずかしいのでダメです」
「もちろん、無理は言わないさ」
そう言ってコンスタンティノスは、スマホで写真を撮った立香がスプーンを構えたのを確認してから、グラスのてっぺんに盛られたホイップクリームをすくった。以蔵も二人にならってグラスを引き寄せる。
甘すぎず、和梨の繊細な味を引き立てる上品な味わいだ。グラスの縁を飾る果実はみずみずしく、歯ごたえもいい。普段別に梨を好んでいない以蔵をもうならせる。
下層には梨のソースのかけられたバニラアイスとヨーグルトにグラノーラ、底面にはコンポートとよく冷えたゼリーが敷かれている。
結局、以蔵もかなり夢中で完食した。
立香の顔は輝いていた。
「最っっっ……高でした! なにこれおいしい! 語彙力がなくなる!」
「喜んでもらえて嬉しいよ。イゾウ、君はどうかな」
「悪うない……です」
「よくわからないが、いい感想なのはわかる。君はそんな顔もできるのだね」
(どげな顔しゆう言うがじゃ)
善属性は本当に度しがたい。
「私も実に満足できた。このために来日したと言うのは……さすがに過言だけれどね。リツカはこれを想い人と一緒に食べたいと思ったかな」
コンスタンティノスは声に愉しさをにじませる。
中年男性のガールズトークが始まった。決して脂ぎってはいないのが更に厭だ。
(そん想い人、おまんの隣におるがぞ)
しかし立香は空のグラスに視線を落とす。
「それが……わたしの好きな人、わたしみたいな子供になんて全然興味ないんです」
声にも悲哀が表れている。
以蔵の立香への想いは、今のところまったく伝わっていないようだ。伝えないようにしているから当然ではあるが、それはそれで納得できない。勝手な男だと自分でも思う。
「おや、それは……君のようないい子の純真な想いを受け取らないとは」
コンスタンティノスは大仰に返した。
「私は独身だからわからないところもあるだろうが、それでも君の一途さに心を動かされない男がいるとは、にわかには信じがたい」
(動かされちゅう! 動かされすぎちゅうぐらいじゃ! 勝手なこと言いなや!)
「でも実際、その人がわたしに恋愛感情を向けていないのは確かなので」
(好きじゃ、しょうげに愛しちょる! いつもおまんの気持ちに応えたい思うちょる!)
以蔵の気も知らず、二人は会話を重ねる。
「陛下、結婚されてなかったんですか?」
「――二度、死別してね」
「……! すみませんっ」
「君が謝ることじゃない。――だから、若い人の幸せは祈りたくてね」
「ありがとうございます……陛下もおつらいのに」
「君は優しい子だ」
コンスタンティノスは柔らかく笑った。立香はうっすら目を潤ませながらうなずく。
二人の会話に入ったら、望ましくないことも口にしてしまいそうだ。
(おまんを好きじゃ言えたらどんだけ……)
「まぁ、私は君の泣き顔を見たいわけじゃない。ここはフレーバーティーも絶品のようでね」
コンスタンティノスが視線を投げたタイミングで、ウェイターがカップの茶を運んでくる。秋らしい、金木犀の香りが漂ってきた。
「いい匂い……」
「少しでも君の恋心が救われればいいのだが」
「救われたいです、わたし」
立香は悲しげに微笑む。こんな表情を見たくて我慢しているわけではないのに。
慎ましげにカップを持ち、そっと傾ける立香を見る。茶を口に含むと、その顔が少しだけほころんだ。
「おいしい」
「そう言ってもらえれば、私も救われる」
二人の会話に、以蔵は気取られないようため息を吐く。
以蔵は己の我慢のゴールを二年半後に設定している。立香が大学を卒業しても気持ちが変わらないようなら、抱きしめて応えたい。もちろん、こんな男に騙されていたと気づくようなら諦めようと思っている。実行できるかはさておき。
己がひどく無駄なことをしている気になる。
「陛下はいつ帰られるんですか?」
「いつまでも国を空けているわけにはいかないからね。今週末には帰る予定だ」
「淋しいです」
「もし君がよければ、私の連絡先を教えたい。多忙ではあるが、できるだけ返すようにするから」
(ほがなこと聞きなや立香! 男はみんな狼じゃ)
立香の細い肩を掴んで揺さぶりたい衝動に駆られるが、己の作ったしがらみに縛られている以蔵は何もできない。愚かだ。滑稽すぎる。
スマホを傾け合う二人を止めることができないまま、以蔵は茶を飲む。むせかえるような金木犀の香りが、今は苦しい。
カップの持ち手が繊細すぎて、力の入れようを間違えたら折ってしまいそうだ。