もういっぺん、わろうとうせ プロポーズ「立香を……嫁に?」
十秒ほどの沈黙の後、父はようよう喘ぐように言った。
「はい、ぜひともわしに立香お嬢さんを娶らいてつかあさい」
緊張した声で以蔵は応える。
しかし父に額づくその背中には、迷いも悩みもない。
何度か浅く呼吸した父は、以蔵を見据えて声を荒らげた。
「正気か?」
「正気、とはどがぁな意味でしょう」
顔を上げた以蔵の眉根は、いぶかしげに寄っている。
「お前なら……お前ほどの逸材なら、細君など選び放題じゃないか。帝大を優秀な成績で卒業した官僚なんて、どこの家でも喜んで娘を差し出すに違いない。わざわざこんなろくに笑えもしない恥晒しの嫁き遅れなんて選ばなくとも……恩か? 藤丸の家に恩を感じているからそんなことを言うのか?」
「――旦那様」
以蔵の声の温度が下がった。
「確かにこの以蔵、藤丸のお家の皆様には海よりも深いご恩がございます。けんど――おっしゃってえいことといかんことがあるがも承知しちょります。お嬢さんをほがぁに言うがは、親御様としていかがなものかと」
「う、うぐ……」
静かな以蔵の恫喝に、父は一瞬たじろぐ。
「そんなこと、わざわざお前に――」
「出すぎたことを申しました、申し訳ございません。けんど……お嬢さんをほがに冷や飯食らいじゃち思うがやったら、わしみたいな変わり者にもらわいた方がえいかと存じますが? こんまま何もさせんがが続くがもえずいですろう?」
確かに今の立香は時に小説を書き、花を活け、無為な生活を送っている。世間に顔向けできる存在ではないから、ろくな仕事も与えられていない。
「……お、恩でないならどうしてそんなことを言うんだ」
「わしが立香お嬢さんを娶りたい。ほいだけです」
「お前が恥をかくんだぞ」
「わしは恥らぁ思いませんき」
きっぱりした口調で以蔵は返す。
父は困り果てた面持ちで立香を振り返った。
「お、お前はどう思っているんだ、立香」
立香はすぐに返事もできず、こわばる頬をどうにもできずにうめいた。
「わ、わたしは……」
あの夜以来、初めて以蔵を直視する。飴色の瞳はどこか遠慮がちな光を帯びている。父を見る時ほどの力強さはない。
「いぞぅ、さん……」
喉がつかえて、うまく喋れない。あまりに現実味がない。驚きすぎると、身体が心の言うことを聞かなくなるらしい。
「旦那様」
助け舟を出すように、以蔵は言った。
「ちっくと、お嬢さんと二人で話さいていただいてもえいですろうか? いきなりんことで、うもう気持ちを言葉にできちゃぁせんかもしれませんき」
「お、おう」
うなずく父を見て、以蔵は立香に手を差し出した。
「裏庭にでも行きますかえ」
立香は茫然としながらその手に己の手を重ねた。
裏庭は無人だった。今日炊事と風呂で使う分の薪が雑に積み上がっていて、書生たちは別の仕事をしているか、あるいはさぼっているのだろう。
「懐かしいですのう」
以蔵は隅の納屋に視線を遣り、愛おしむようにぐるりと屋敷の裏側の壁を見渡した。
父のお古を仕立て直した袴姿の書生時代が嘘のような、よそ行きの洋装だ。
「わしが薪割りしちゅうと若――あん頃は坊と呼んじょりましたが――が寄って来て、わしに話ぃせがんじょりましたの。お嬢さんも顔見いて、女学校ん話ぃしちょくれました」
「うん」
立香がうなずくと、以蔵は微笑う。
「もちろん、一高の寮生活でも帝大の学び舎でもえいことはこじゃんとありましたけんど……わしにとって一番まぶしかったがは藤丸のお家での暮らしじゃった、と今ここに来て改めてようわかりました」
「ね……ねぇ、以蔵さん」
ようやく、声帯が言うことを聞き始めた。立香は震える声で呼びかける。
「なんですろう」
「わたしみたいな嫁き遅れをお嫁にだなんて……やっぱりうちへの恩? それとも憐れみ?」
「お嬢さん、ほがぁにご自分を蔑むがはよしてつかあさい。誰が何ぃ言おうが、お嬢さんだけは自分を否定したらダメですき」
以蔵は少しだけ声を鋭くして戒める。
しかし立香は、もう六年も家庭からも世間からも疎まれ続けた。それに、以蔵を傷つけたことをずっと自責し続けている。今更、適切な自分の愛し方などわからない。
立香のこわばった表情から何かを感じ取ったのか、以蔵は眉をひそめた。二、三回深呼吸をしてから、二歩離れた間隔で立香に向き直る。
「ご恩や憐れみで嫁取りらぁできませんき――どういても二人になりたかったがです。わしはお嬢さんに謝らんといかんことがございます」
「謝る?」
まばたきして首を傾げる立香へ、
「はい。何度謝ったち償いきれん、どうしようもない罪です」
以蔵は苦しみの表情を浮かべている。
何のことだろう。以蔵から与えられた温かさはあっても、こうむった迷惑などはない。
そう思う立香を見て以蔵は数秒躊躇し、その後口を開いた。
「お嬢さんはもう思い出いとうもないでしょうけんど……六年前の、お式」
そんなこともあったな、と立香はぼんやり思い出す。
確かにはたから見たらあの結婚式が立香の人生のつまずきだったかもしれないが、立香にとってはそれほど悪印象なできごとではなかった。
あの日、己の意志のままに駆け去った七志之助と椎子の輝きは、前夜に我欲を通して以蔵を傷つけた立香の卑しい行いを灼いた。
(わたしもあんな風にすればよかったんだ――)
いくら悔いても時間は戻らない。
風の噂によれば、模部家と名仁賀家の間はかつてほど険悪ではなくなり、二人は所帯を持ったという。
自分の愚かしさ、残酷さを直視させられたが、あの二人の幸福を心から願えた。
「うん」
立香がうなずくと、以蔵は数瞬下を向き、やがて立香を正面から見た。
「あんお式をわやにしたがは、わしです」
(……え?)
忸怩たる面持ちで唇を噛む以蔵の顔を、思わず見つめ返してしまう。
立香にとってはあまりに意外な言葉だった。
立香の目を見ながら、以蔵は続ける。
「お嬢さんのお話から、お相手の家はざんじわかりました。あん娘さんはなかば幽閉されちょりましたけんど、なんとか忍び込んでお式の話ぃしました。新郎にぶちまけたいことがあるなら助太刀しちゃる言うたら乗ってくれましたき、お式の当日に連れ出して、裏口から中庭に呼び入れました」
飴色の左目には、うっすら涙が浮いている。
「宴会の最中に痴話喧嘩でも起こさいて、ちっくと新郎に恥ぃかかいちゃろう思うちょりました。わしが先にお嬢さん抱いたっちゅう思い上がりもありました。こん先お嬢さんをものにするがやったら、こればぁの対価は支払わいちゃる、とも」
以蔵は言葉を区切って、ひとつため息をついた。
「罰が当たったがです」
「……」
「神様っちゅうがはまっことよう見ちゅう。誰にえずい目遭わいたら一番わしがこたえるか、ようけわかっちゅうがです。
綺麗なおべべ着て金屏風の前で独り残されてぼんやりしちょったお嬢さんが痛々しゅうて……わしはまっすぐ見られざった」
立香はしばし息を止めて以蔵を見た。
罪の意識に囚われ、以蔵の言葉は硬い。
「寮に華族の息子がおって、こがに間抜けな花嫁がおった――言うて笑いもんにしちょって。殴りつけるがをこらえるがに苦労しました」
涙が一筋、精悍な頬を伝った。
「う……わしかたけが泣くがは違いますの……お嬢さんにほがなえずい思いをさいてしもうた。ほんことを忘れとうて、学問に身ぃ入れました。勉強さえやっちょれば、ほん時はわしんアホさを忘れられる。けんど……現実に目ぇが戻ったら、恥ぃかかされて傷ついちゅうお嬢さんがおる。お嬢さんがどがぁな思いして暮らいちゅうか思うと……銀時計の候補らぁおまけですき。
年始のご挨拶もえずかった。お嬢さんの年々こわばるお顔が、わしん罪を際立たす。未練がましゅうお顔を盗み見てもお嬢さんはわしらぁ一顧だにせん。聡いお嬢さんのことじゃ、わしが何ぃしたかご存知でしたろう? ほいじゃき、汚らわしいわしらぁて見とうなかったがでしょう?」
「いや全然……」
思わず首を横に振る。
「……へ?」
以蔵はこの上なく目を見開いた。
「お嬢さん、ほりゃどういう……」
「あれが以蔵さんの差し金だったなんて、少しも思ってなかった。あれはわたしへの罰だと思ってた」
「罰……?」
顔に疑問符を浮かべる以蔵へ、胸から湧く言葉を訥々と伝える。
「罰を受けるのはわたしの方。好きな人から抱かれたいって勝手を通して、以蔵さんの気持ちなんてちっとも考えなかった。以蔵さんがわたしのこと好きなんだって気づいて初めて、どうしてこんなにひどいことをしちゃったんだろうって自分のばかさ加減に気づいた」
「お、お嬢さん……今、なんと?」
以蔵は狼狽を隠さずに言う。
「お嬢さんが……わしを? わしの、気持ちを……?」
しかし立香はそれには応えず、独り言を続ける。
「好きな人に未練を背負わせて、どうしようもなく傷つけて。こんな愚か者にはどんな罰が下ったって当然だって思った。笑いものになるならまだ甘いって思ったくらい」
「お嬢さん……何をおっしゃっちゅうがか……」
以蔵は洟をすすり、立香へ向き直った。
「確かにあん夜、わしはお嬢さんを抱いた。あん感覚は今でもこん腕に残っちゅう。ほれが思い出されて未練にならざったとは言いません。けんど同時に――あん夜はこん六年わしの生きるよすがになっちょった!」
血を吐くように、以蔵は叫ぶ。
「惚れちゅう女を抱けて嬉しゅうならん男はおらん!」
「でも……わたしは以蔵さんを傷つけた」
金色の瞳から涙が落ちる。あのことを思い出すたびに、立香の胸の傷が血を流す。
しかし以蔵は首を横に振った。
「傷らぁついちゃぁしません。陽が昇ったらお嬢さんはお嫁に行く。ほれは確かにえずかった。けんど――誰でもえいきあんボンボンより先に初夜を済まいたかったお嬢さんに選ばれて、わしがどればぁ嬉しかったか――」
「誰でもいいわけないじゃない。以蔵さんがよかったの。以蔵さんの腕の中で――女になりたかったの。以蔵さんが泊まり込みでお手伝いに来るって聞いて、わたしがどれだけ嬉しかったか――だから、以蔵さんが罪なんて背負う必要はないの」
「お嬢さんはわしをご存知ない。聞いてつかあさい、お嬢さん」
以蔵は決然と言った。
「わしはへごい男です。年始にご挨拶に行って、ほんたびに罪の意識に苛まれちょったけんど……同時に『あぁ今年もお嬢さんは誰のもんにもならざった』っちゅうてくつろいじょった。『嫁き遅れ』らぁて蔑まれるお嬢さんを思うがなら嫁入りするがを喜ばないかんがに、お嬢さんをものにする男が現れざったことが嬉しかった。わしは人でなしです。畜生です。お嬢さんに気持ちを向けられる資格らぁない」
うなだれて懺悔する男に、しかし立香の胸は高鳴った。
「でもそれは……それだけわたしを大事に想ってくれてたってことだよね? わたしにお嫁に行ってほしくないくらい」
「……まぁ、ほうとも言えますけんど……」
口ごもる以蔵へ、立香はいたわるように声をかけた。うまく笑えてはいないだろう。
「以蔵さんはそんなに深くわたしを好きでいてくれてた。わたしもずっと以蔵さんが好きだった。つまりこれって、両想いだったってことだと思うんだけど……どう?」
以蔵はたじろぎ、一歩下がった。
「わしにはまだ信じられません……お嬢さんが、わしを好きらぁ」
「好きなの。夜這いかけるくらい。信じて」
「……」
身をこわばらせたまま、以蔵は前髪をかき混ぜる。
「だから、わたしのことを罪になんて思わないで」
「……ほいたらお嬢さんも、わしんことを罪にらぁ思わいでつかあさい」
立香は飴色の左目を見る。以蔵もしっかりと立香を向く。
五秒後、二人は互いに視線を逸らしてため息をついた。
「……まぁ、ざんじほう思えるがならこがに苦しんじゃぁせんですわな」
「無理、だよね……」
しばし、裏庭を沈黙が支配する。
「でも」
「けんど」
立香が言葉を発しようとしたら、以蔵とかぶった。
以蔵は立香へ手を差し伸べて譲る手つきをした。
「――お嬢さんが先に」
「いや、以蔵さんが」
「いえいえ、お嬢さんが先におっしゃいかけましたき」
「以蔵さんの方が大事だよ」
「けんど」
「わたしが以蔵さんに先に言ってほしいの」
「ほんまにえいがですか? ほいたら……」
譲り合いの末、以蔵が先に口を開いた。
「どういてかはようわかりませんけんど、お嬢さんはわしに罪ん意識持っちょりますね?」
「うん」
「ほいで、わしは大勢の前でお嬢さんに恥ぃかかいた」
「それはたいしたことないんだけど」
「ほうです」
以蔵はひとつうなずいた。
「わしらん間で、認識に齟齬が起こっちゅう。わしらは互いにへごいことぉした思うて六年間とっと自分を責めちょった。互いに、相手はほんことらぁたいして気にしちょらざったがに」
あの嗚咽を思い出しただけで、立香の胸はいつでもつい先ほどのことのように痛む。
同様に、以蔵も高砂に独り取り残された立香を思えば苦しくなる、と言う。
飴色の左目の真摯さに、この年月の苦しみがにじみ出ている。
「六年はまっこと長かったですの。ほん年生まれた子ぉが尋常に入るばぁの年月です」
「そうだね」
「けんど、わしらはまだ二十歳ぃ過ぎたとこです。これからの人生はもっととっと長い。六年を取り返して、こじゃんと釣りが来るばぁねきにおれる」
新たな涙が、削げた頬を滑る。
「わしらは相手を恨みにらぁ思うちゃぁせん。相手をえずうさせたち思うちゅう自分を責めちゅう。
お嬢さん。お嬢さんとわしで、ありもせん罪を消し合うて生きませんか。自分の中にだけある罪をちっくとずつ削って、自分を許し合うて生きませんか」
その潤んだ視線に、立香はあの夜と同じ光を見た。
(――あぁ)
そこに込められた、まばゆいほどの純粋な愛情。
以蔵が今までこれを隠せていると思い込んでいたのは、少しだけおかしい。
しかしそんな微笑ましさも含めて、立香の胸は温まる。
「……そう、だね」
我知らず、再び涙があふれる。
以蔵は手を挙げかけ、下ろした。その代わりに距離を一歩詰めて背広のポケットから手ぬぐいを出し、
「使うてつかあさい」
と渡してくる。
「ありがとう」
顔を埋めると、清潔な石鹸の香りがする。
「誰が洗ってるの?」
「寮母のおばやんです。ほれ、ここ見てつかあさい」
広げてみると、白地にかつおの染め抜かれた手ぬぐいの端に『岡田』と刺繍がされている。
「こうせんとどれが誰んやかわからのうなりますき。お母やんが、わしが一高の寮入る時に縫うて送ってくれて――」
はて、と立香は疑問に思う。
「以蔵さんのご両親って、進学に反対してたんじゃ……」
「あぁ、ほれは単純に金んせいです。土佐におった時は金がのうて、もう中学に通わせられんっちゅうことになりました。わしが長男じゃったがもありましたきに。上京して藤丸の旦那様をご紹介していただけて、何やかやで啓吉が家ぇ継ぐことんなって。お父やんはわしに家ぇ継がせたかったきえい顔せざったけんど、お母やんは細々気ぃ遣うてくれて」
以蔵は愛おしげなため息をつく。
「シャツに襦袢に褌まで……親っちゅうがはげにまっことありがたい思うちょります」
そこには、幼少時から無条件の愛情を受けた人の顔があった。真面目に勉学や藤丸家の仕事に取り組んでいたのも、愛された心の素養があるからだろう。
「……で、お嬢さんは何ぃおっしゃいかけちょったがですか」
「……あぁ。半分、言われちゃったな。お互いどんなにつらい思いをしたとしても、わたしはわたしのわがままで以蔵さんと一緒にいたい。本当に今でも自分のことしか考えられなくてごめんなさい――って」
「お嬢さんのわがままなら、わしは何でも聞いちゃれます。冬にすいか食いたい言われたら、東京中――いっそ台湾まで駆け巡ってでも買うてみせますき」
本気の籠もった口調は、だからこそ少し滑稽だ。
しかし実際六年前の立香と以蔵にとって、想いを通じ合わせて添い遂げるのは、冬にすいかを求めるくらいにありえないことだった。
「――ところで」
以蔵は頬を染めて立香を見下ろした。
「今でもいまいち信じられんがですが……お嬢さんはどういてわしを、その、好きに……?」
その問いに、あのじんわりとした温かい感覚を思い出す。
「ずいぶん前のことだから、忘れちゃってるかな……? 以蔵さんがうちに来たばっかりくらいの頃、女学校からの帰り道で『好きなものを好きでいるのはよさないでください』って言ってくれたこと」
「確かに……差し出がましいことぉ申し上げましたの。窮屈にされちょったお嬢さんがえずうて」
立香はぎこちなく頬を引きつらせて笑った。
「『好きなものを好きなままでいていい』――あの言葉でわたしがどれだけ楽になったか、以蔵さんにはわからないかもしれないね。女であること、それだけで我慢して生きなきゃいけないこと。その気持ちを解き放ってくれたのが、あの言葉だった」
「ほがぁに……わしはちっくと励ますばぁの気持ちで言うたがに……」
茫然と言う以蔵が愛おしくなる。
「露骨で軽薄な口説き文句なんかじゃ好きにならなかったよ。それにね、実は……第一印象から気になってた」
「ほんまですか? 初めてご挨拶に上がった時は雑巾みたいにだきな着物じゃった記憶がありますけんど」
「以蔵さん、顔がいいって言われない?」
以蔵は不思議そうに己の頬を触った。
「いや、ほがぁな……お父やんも似たような顔ですし……貧乏でだきにしちょりましたき、尋常の同級生の女子からも遠巻きにされちょりました。ほがぁに言われたことはございません」
(あ、それ女子がみんなで牽制し合ってたやつだ)
誰か一人が抜け駆けしたら、その場の均衡が崩れてしまって戦争が起こる。それを防ぐためには相互で監視し合うしかない。
尋常小学生でも、女として振る舞うようになる少女は珍しくない。
そして、やはり言わされてばかりはいられない。
「以蔵さんはわたしのどこがよかったの?」
「……申し上げんといかんでしょうか」
以蔵は少し逡巡を見せる。
「言って。わたしだけじゃ不公平だから」
口を濁していた以蔵だったが、観念したのか、
「……顔です」
「顔」
思わずおうむ返しする。
「アホ丸出しですけんど……ご挨拶されて頭を上げられた時の笑顔が……天女がこの世におるがやったらこがぁな顔しゆうがじゃろうかと……」
「……そんなに?」
「こがぁに美しいお方にお仕えできるがなら何でもしちゃる……何がなんでもこのお家に入れていただこう思うて、将来の展望話すがにも予定の三倍力入れました」
「……そこまで?」
「あっもちろん! お話しさいていただいた時の頭の回転の速さや優しさにも惹かれちょりましたよ! こがぁに聡明なお方が女じゃっちゅうだけで学ぶがも働くがもできいで家に縛りつけられる思うたら、こじゃんとえずうなりました。奥方を子ぉを産む道具としか見ん男や、平気でがいな真似できる男に嫁がされるがやないかとわしはづつのうてづつのうて……」
飴色の左目が、つらそうに歪む。
「嫁入りすれば『女としての幸せ』ぇ手に入れられるち思うちゅう風に振る舞うちょりましたけんど……ほがぁな気持ちがありました。わしならお嬢さんののうがえいように暮らさいちゃると……当時は叶わんに決まっちゅう夢でしたけんど」
「叶う、よね。六年前の以蔵さんのおかげで」
「あぁ……」
吐息にほんのり嗚咽が混じる。
「……とっと、わしはなんちゅうことぉしでかしてしもうたがかと後悔しちょりましたけんど……他ならんお嬢さんにほう言うていただければ……救われます」
以蔵はぐずりぐずりと洟をすする。手ぬぐいを返せば、顔を覆ってしばししゃくり上げる。
「こうやって、罪を削ればいいんだね……」
「はい、はい……ほうですね……」
ひとしきり泣いた後、以蔵は手ぬぐいをポケットにしまった。涙はまだ乾かず、目尻は赤い。
「お嬢さんは……いつからわしん気持ちに気づいちょったがですか?」
「確信を持ったのはあの夜。ずっと優しく丁寧にしてもらってるな……とは思ってたけど、うちには姉も妹もいないから比較対象がなくて。以蔵さんは気づかなかった?」
口角が自嘲めいた角度に上がる。
「今ん今まで、ほがなこと思いもせざったです。お嬢さんがわしに気安う接してくださっちゅうがは感じちょりましたけんど……夢らぁ見たち破れるだけじゃ、と。思えばわしはわしん中におったお嬢さんだけ見ちょって、目の前んお嬢さんを見ちゃぁせざった。『好きなもんを好きでおるがはよすな』らぁて言うちょった男が……男として情けない限りです」
「だから、『わし「で」いいんでしょう』なんて言えたんだ?」
「申し訳ございません……もうほがぁなことは思いませんき」
以蔵は前ぶれなく裏庭の地面に片膝をつき、立香の右手を取った。
「どうしたの、ズボン汚れちゃう」
「お嬢さん」
飴色の左目が、まっすぐに立香を見上げる。そこには、深い愛情がたっぷりとたたえられている。
「互いの気持ちぃ確認できましたき、改めて聞かいてつかあさい。――失うた六年を取り戻して、ほん後の人生もとっとわしのねきにおってくれますろうか?」
「……」
口を真一文字に結んでいる以蔵の誠意には、同じものをもって応えなければいけない。
立香は深呼吸し、見つめ返した。
「……はい。二人で支え合って生きたい。わたしの人生を、あなたと添わせてください」
「ほんまですか……!」
以蔵は立香の手の甲にくちづけた。柔らかい感触に驚いて手を引きかけたが、以蔵は強い力でしっかりと細い手をとらえている。
「ありがとうございます……わしん一世一代の告白を受け容れてくださって、こがぁに嬉しいことはございません。お嬢さんを、間違いのう幸せにしますき……!」
以蔵は白い歯を見せた。つい先ほどまでの張り詰めた表情と比べたら、少年のようだ。
可愛いと言ってもいい顔つきの落差に胸を撃ち抜かれつつ、立香は訊いた。
「この姿勢は何?」
「あぁ、これはですね、西洋の紳士が淑女の手の甲にベーゼを捧げて忠誠や愛情を示すもんです。特に嫁取りを申し込む時は『プロポーズ』言われます」
「『ぷろぽおず』……帝大はそんなことも教えるの?」
「冗談はよしてつかあさい……本番は三三九度ですけんど、わしはもうこん手ぇを離すつもりはございません。お嬢さん、えいですね?」
「厭」
以蔵は一瞬身をこわばらせたが、すぐにその意図に気づいたようだ。解き放たれたように笑う。
「『お嬢さん』はよして。名前で呼んで」
「ほうですね……立香さん」
「うん、ありがとう、以蔵さん」
あの夜をなぞるやり取り。
違うのは、二人の間に愛情と希望が満ちていること。
以蔵は地面に片膝をつけたまま、立香の右手を型取りするように撫でさする。
「えいですのう……まっことやりこい……こん六年記憶だけで乗り切っちょったけんど、本物はこがぁに違うがか……」
「……くすぐったいよ」
「あっ……申し訳ございません」
身体をもぞもぞさせ始める立香に、以蔵は手を離した。
そして立ち上がり、ズボンの膝の汚れをはたく。
「立香さん、わしはさっきちっくと旦那様に嘘ぉ――ちゅうほどでもないがですが――申し上げました」
「嘘って?」
「はい、しんきに上司になる方は確かに嫁選びは大事じゃ、嫁取りも早いうちがえいとはおっしゃっちょりましたが、ざんじざんじとまでは急かしちょりません」
「……そうなの?」
以蔵はいたずらを見咎められた子供のように笑った。
「はい、十七の娘さんの件も雑談のネタ程度で、どういてもわしに縁づかそうっちゅうほどやございませんでした」
「なら、どうしてあんなことを?」
「旦那様らへの言い訳です。わしはざんじ立香さんを娶らないかざったき」
学生の身分で結婚を望むなど、許されることではないだろう。妻子を養うには、それに見合う貯金や給金が必要だ。
今の以蔵は就職が決まったとはいえ、まだ勤務を始めていない時点での求婚は少々早い。
その状況で『ぷろぽおず』するとは――
「そんなにあわてる理由があったの?」
「半年ばぁ前、若から手紙ぃいただきましての。『姉やんが尼寺入る言いゆう』と」
「……あの子は!」
全身が熱くなる。
確かにその頃立香は、邪暗奴の庵で暮らしたいと弟に打ち明けていた。
今後藤丸家を継ぐ弟に迷惑をかけたくない心と、己の味方でいてくれる弟に理解してほしいという気持ちの両方からだった。
邪暗奴は特に仏教に帰依しているわけではないが、世を捨てて孤立した環境で生きていることには間違いない。
特に口止めはしなかったし、弟は「それが姉様の考えなら……」とうなずいてくれたが、まさか以蔵に伝えるとは。
「あがぁなことをしてしもうたき、もうわしには一生立香さんのねきには寄れん。どればぁ厭じゃ思うたち、立香さんが誰ぞ他ん男と縁結ぶがを止める資格らぁない――と、とっとこらえちょりました。けんど尼寺入るっちゅうたら、もう完全に俗世での幸せぇ諦めることになりますろう?」
その推測に間違いはない。
以蔵への恋心を葬れないまま、妻を侍らせる以蔵の姿を見るくらいなら姿を消したい――そう思っていた。
「他ん男ん許に嫁ぐがなら、わしん愚かさん代償じゃ思えた。けんど尼さんになるがなら――話は別です。俗世ぇふてるばぁ思い詰めちゅうがをみすみす見過ごすがはできざった。
こん半年、尼寺らぁて行きな行きな願いながら生きちょりました。間に合うて……ほんまに、よかった」
以蔵の視線は率直で、深い安堵が込められている。
弟は尋常小学校の時分から以蔵になついていた。以蔵が一高に入ってからも、年始や折々の挨拶に来た以蔵を捕まえ、遊びや話をねだっていた。
それだけ以蔵と過ごしていたら、以蔵と姉である立香が互いに向け合っていた視線も理解できていたかもしれない。
六歳も差があるからいつまでも子供だと思っていたが、弟も既に立香が一度目の結婚を控えていた歳になる。男女の機微に感づくようになっても不思議はない。
笑顔を失い陰鬱に引きこもり、『嫁き遅れ』と後ろ指を差されている姉と、身分違いの恋に苦しむ兄貴分を心配し、手助けする少年に育った。
我が弟ながら誇らしい。
「――蜜豆くらいおごらなきゃね」
「わしにも一口乗らいてつかあさい。こがぁに綺麗に落着したがは若んおかげですき」
「わんこそばみたいにおかわりさせても惜しくないよね」
「……ほれは無理やないですかえ?」
立香の言葉に以蔵が突っ込む。視線を合わせれば、どちらからともなく笑いが漏れる。
「ふふ」
「はははっ……戻りますか。旦那様らをお待たせしちょります」
「そうだね。わたしたちの間でまとまっても、お父様がなんておっしゃるかわからないし」
眉根を寄せる立香に、以蔵は笑った。
「ほがぁにぞうもまいでえいでしょう。旦那様は立香さんを手放したがっちゅう」
「まぁ……それはそうなんだけど」
我が父ながら、その気持ちは感じる。もう利益のための切り札として使えなくなった邪魔な娘だが、意地を張ったせいで片づける手段もなくなってしまった。そのことにいらついているのは、手に取るようにわかっている。
先ほどは以蔵の将来を慮っていたが、その意志が固いと見ればせいぜい高く売りつけるに違いない。
閨閥で以蔵を囲う場合、適齢期の娘を見繕うにせよ仲人を務めるにせよ、他の誰かしらを挟むことになる。利益にあずかる者が多ければ、それだけ分け前が減る。嫁き遅れでいいと言うなら儲けものだ。
「立香さん」
以蔵は少しだけ目尻をつり上げた。
「またご自分を粗末にお考えですね」
「……わかっちゃった?」
「わかります。旦那様がああいうお方ながはわしもよう存じ上げちょります。けんどほいじゃき言うて立香さんがご自分の価値を下げる必要はございません。ほがぁなことするたびわしが毎度お諌めしちゃりますき、お覚悟してつかあさい」
「はぁい……」
「『はい』ははっきり」
「はい」
「ほいで頼みますよ」
以蔵は一歩の距離から立香の橙色の髪に手を伸ばす。撫でるつもりのその手に抱きしめられたくて身を寄せるが、たくましい洋装の身体は立香が近づいた分だけ遠ざかった。
「触ってくれないの?」
「ダメですよ、まだ婚約もしちゃぁせん男と女がほがぁに触れ合うもんやないですき。今はここにおって、おとなしゅうわしに髪ぃ撫でられちょってつかあさい」
以蔵はそう言って、片目を閉じて合図を送った。
「嫁御になったら、思う存分触らいていただきますき」
「……はい」
嬉しさと照れくささに、小さく相槌を返す。
待った分だけ、愛しさはこれ以上なく募っている。
立香は一度体験した結婚式を記憶から取り出した。
顔を白く塗り、唇と目許に紅を差す。
白無垢をまとって、以蔵の隣に着く。
美しい花嫁という記号ではない、藤丸立香という女を見て、以蔵は笑う。
立香は心から晴れやかな気分になり、三三九度の盃を空けられるだろう。
そんな日が、すぐそこに来ている。
好きな人を傷つけたと思い込み、嫁き遅れと蔑まれて苦しんでいた時期が、今のこの感情を醸成した。
「以蔵さん」
「なんですか」
「好きなものを好きでい続ければ、ちゃぁんと報われるんだね」
「ほがぁなえいこと言うたやつん顔ぉ見てみとうなりますの――立香さん」
「はい」
「立香さん」
「うん」
「立香さん」
「そんなに呼ばなくたって、わたしは逃げないよ」
「立香さん――」
以蔵は歌うように言った。
「笑うてつかあさい。こじゃんと――と言いたいけんど無理は申しません。けんど、いっぺんでも多うわしは立香さんの笑いゆう顔が見たいです」
立香は片手を頬に当てる。こわばっていた顔の筋がどうなっているか、自分ではわからないけれど――
「大丈夫です。立香さんとわしなら、六年らぁざんじ過ぎます。わしらにえずい目遭わいた神様に、釣りぃ払わいちゃりましょう」
「……うん」
あの頃を懐かしむのではなく、未来を見据える以蔵と同じ方を向き、立香はほんの少し頬を緩めた。