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    巨大な石の顔

    2022.6.1 Pixivから移転しました。魔道祖師の同人作品をあげていきます。

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    巨大な石の顔

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    サンサーラシリーズ第三章。モブ門弟たち視点の兄上と江澄の話です。

    #魔道祖師
    GrandmasterOfDemonicCultivation
    #藍曦臣
    lanXichen
    #江澄
    lakeshore
    #曦澄
    #オリキャラ
    original characters

    明知不可而為之(三.五) 旗未動、風也未動、是人的心自己在動
    (旗未だ動かず風また未だ吹かず。揺らぐは人の心なり)
     ――映画『楽園の瑕』より


     五年ほど前に金魔と呼ばれる肺の病が蓮花塢周辺で猛威を振るって以来、雲夢江氏では家宴の習わしは途絶えた。
    以前より他の世家との交流が増え、他家で開かれる家宴のにぎやかな様子を小耳にはさむようになったこともあり多くの門弟たちは再開を望むものの、うちの宗主様は大変厳しい人で再び未知の疫病が発生したときのために備えを徹底していて、なかなか言い出しづらい。
    金魔の拡大で蓮花塢を閉鎖中は家宴どころか、『食うに語らず』と姑蘇藍氏のように黙食を誰もが求められた。あのときに比べればまだましだ、と幼い頃匂いにつられ修練場の塀をよじ登って眺めた美味しそうな料理にあふれた家宴に憧れ雲夢江氏の門前に立った門弟たちは悔し涙を飲み込む。
    蓮花塢から家宴のならわしがなくなってから、彼らはその鬱屈を晴らすために蓮花塢そばの町中へ酒を飲みに繰り出す機会が増えた。
    特に『八葉蓮』という小料理屋を彼らは利用していた。女主人の死んだ亭主が雲夢江氏の門弟だったこともあり、雲夢江氏に縁のある者はいくらか割引してくれる。ここの店の二番目の娘も今は雲夢江氏の門弟で、彼女から買った手製の呪符を店のものにみせると酒が一杯無料になるのである。
     箱に張れば『くーらーぼっくす』という食糧を一時的に冷たく保存できる呪符や内衣に張れば動くと体が温かくなる『ひーとてっく』呪符など、娘の発明する呪符もなかなか便利なのでお得感があった。修行の身のため懐が寂しいことの多い若い門弟にとってたいへんありがたい店なのだ。
     一年でもっとも夜が長いこの日も、三人の雲夢江氏の門弟が店の片隅に座って酒を飲みかわしていた。
    「なあ、うちの宗主と沢蕪君てさ、ひょっとしてデキてんのかな?」
    つまむ料理と話題がふと途切れてしまったとき門弟その二が声を潜めて言った。
     門弟その一は眉をひそめ酒杯から口を離し、門弟その三は飲んでいた酒を吹き出した。
    「うわ、きったねえな」
    その二は顔をしかめて厨房へ布巾を取りに行った。その一は咳き込んでいるその三の背中をさすってやった。彼らは同世代で同時期に入門してからよくつるんでいるのもあり息が合っていた。
    「なんだよ藪から棒に」
     門弟その一は門弟その三の小柄な背をさすりながら胡乱気な眼差しを同期へ向けた。まだそんなに酒瓶は空けていないのにもう酔っぱらっているようだ。門弟その二は布巾で卓をふきながら答えた。
    「遠征中、姑蘇のやつらと野営したときがあるだろ。宿を追い出されたときだよ」
     彼ら三人のうち二人は昨日まで雲夢の飛び地へ江宗主とともに夜狩りの遠征をしていた。その間宿泊していた宿の経営者家族に不幸があり、雪が降るか降らないかとしているさなか野営を強いられたのである。それは一日だけだったが宿へ戻ったら戻ったで亡くなった家族が凶屍になって暴れまわっていてひと騒動あった。
     ここのところ冬にもかかわらず妖魔鬼怪が江湖で増えていた。
     冬至に向かって陰気は強くなるが、邪祟はともかく妖魔鬼怪は冬場には出づらくなる。彼らの餌となる動物が減るためだ。だがそれらが例年より増え、おまけに何か示し合わせたように、北の大世家清河聶氏の領地内とその周辺で特に発生していた。今その理由を姑蘇藍氏や蘭陵金氏など各世家で合同調査をしている。
    「例の棺のせいじゃないか」ともひそかに囁かれているがまだはっきりとはわからない。
    雲夢江氏の夜狩は宗主自身が若いこともあって相手が厄介な大物の場合は自ら赴く。修士は逢乱必出を旨とするが、江宗主は宗主である以上、含光君のようにそうちょくちょくは蓮花塢を離れられない。もちろん金凌様の夜狩は別だ。
     ここ二年間は執務の一部を年長の門弟たちに任せるようになったので、以前より江宗主が雲夢江氏の若手を率いた夜狩の頻度は増えた。
     今回、清河の領地と接した雲夢の飛び地へ江宗主は若い門弟を率いて遠征した。当初は数日で帰る予定だったが、思いのほか現地での陳情が多かったので長期滞在となった。
     雲夢の飛び地へ赴くきっかけになった陳情が人面鳥の群れだったので江宗主は遠征部隊の編成を弓が秀でた門弟に特化していたが、長期の逗留にあたり門弟その三はじめ何人かを帰還させ、剣術に最も優れた門弟その一と怪力自慢の門弟その二や陣を張るのが得意な門弟など別々の特技を持った若手を飛び地へ呼び寄せた。
     飛び地は姑蘇藍氏の領地とも近いこともあって沢蕪君が率いる藍家の門弟たちとも合流した。両者が力を合わせたおかげでその地方に出現していた妖魔鬼怪の類は遠征当初よりかなり減った。
     雪の到来を告げる雪虫が現れたのもあって、冬至の前日に遠征部隊は蓮花塢へ戻った。そして同輩三人は久しぶりに酒を酌み交わした。
     三人の中でもっとも町の女子に差し入れされている門弟その一は、江宗主を熱烈に尊敬していて宗主が近くにいればいつも彼の様子をうかがっている。「そんなに見つめたらもうそれは恋じゃないか」と周囲はからかってくるが、断じて断袖ではない。これは純粋な憧憬だった。単なる恋であったら宗主の髪型をまねたりしないだろう。
     今回の遠征でも普段のように門弟その一は江宗主の動きを自然と追いかけていた。合図があればいつでも飛び出して行けるように飼い主の指示を待つ猟犬のようなものだと自分では思っている。江宗主も門弟その一からの視線にはもはや慣れたもので、見るなと咎めることはない。
     江宗主と沢蕪君は今回の遠征中たしかによく一緒に並んで立って楽しそうに話していた。食事も途中宿が別れるまで同じ卓についていた。
    夜狩の最中はというと、お二人は離れていてもまるでお互いがお互い背中を預け合っているようかのように協力して動いていた。宗主二人の絶妙に息が合っている様を目の当たりにして、それぞれの門弟たちもお互い功を競い合うことなく積極的に力と息を合わせて、いい成果をあげられた。
     けれど門弟その一が観察していた限りは、お二人の間に恋人同士特有の甘い空気などかけらも漂っていなかった。彼が見ている前でお互いに触れることがあってもあきらかに友人同士のそれだった――彼は『むやみに人に触れるべからず』という姑蘇藍氏の家規を知らず、藍家の門弟が二人のやり取りに息を飲んでいたことに気付いていなかった。
     野営をした夜、宗主が森の奥深くへ入っていくと沢蕪君はすぐに追いかけていった。もし迷われたらと思われたからだろうが、江宗主がお一人になりたいときがあることを彼はどうやら知らないらしい。「放っておいてくれ」などと不機嫌もあらわに怒られていなければいいが。
     時折沢蕪君は門弟その一の視線に気付いて優雅に微笑んできた。そこに多少の戸惑いはあれど敵意や警戒心もまた感じられなかった。
     だから男二人が親しくしているからと言って断袖とみなすのは浅慮にすぎる。それに断袖なんぞ雲夢を捨てた薄情な元大師兄と含光君で十分だ。
     俺の江宗主をそんな汚らわしい嗜好に巻き込むなと彼は苛立たしく同輩を睨んだ。まるで水をかけられた犬のような目つきだ。
     常人が彼にひと睨みされたら震えあがるが、門弟その二は「まあまあ、そう怒らずにまずは俺の話を聞けよ」と両手を胸の前にあげながら同輩をなだめた。
     そしてそれぞれの陶器の杯に酒をそそぎながら彼が野営の朝に目撃したものを話し始める。
    「俺は枕が変わると寝られないたちで、あの日はうっかり宿においてきちまって全然寝られなくて、朝日が昇るなり近くを流れていた小川へ顔を洗いに行ったんだ。そしたら沢蕪君がいたんだよ」
     外套を着ていても寒気を感じるような冬の朝。朝もやさえ漂う中、沢蕪君は小川のそばで上半身裸になって手ぬぐいで身体をふいていたという。
     玉のように白い首筋からよく鍛えられた腕回りや胸、腹は同じ男からみても見惚れてしまった。まるで神仙の水浴びのような厳かで近寄りがたい雰囲気を漂わせていたが、門弟その二はあることに気付いてぎょっとした。
     その立派な肩口から厚い胸板、割れた腹にかけて赤く小さな痣があちこちに点在していたのだ。磁器のように滑らかな肌にくっきり浮き上がったそれはおびただしい数で、まるで誰かがかけた呪いのようだった。
     その斑点の醸し出す生々しさは沢蕪君の放つ神々しさによって一層際立っていた。おかげで彼を色恋から無縁そうな神仙から門弟その二と同じように肉欲を持った一人の生身の男にしていた。それに気付いて門弟その二は思わずかっと頬が熱くなった。
     沢蕪君も雲夢江氏の門弟と目が合うとどこか気恥ずかしそうに微笑んで、近くに畳んであった衣に袖を通した。
    「あの赤い痣は間違いなく口づけの痕だ」
     その前日、沢蕪君は江宗主と同じ天幕に寝ていた。だから相手は間違いなく江宗主だと門弟その二は言う。
    「あんだけ痣つけるなんてうちの宗主は沢蕪君にぞっこんだよ。金麟台で看病してもらっているうちにきっと付き合い始めたんだろうな」
    あれだけ完璧な美形だったらそりゃ男でも血迷って手を出すかもな、と崇敬の念さえ抱かされた藍宗主の姿を思い出しながら言った。
     同輩の話を聞いて、そんなわけあるかと門弟その一は疑わしく思った。
     いくら沢蕪君が天女のように秀麗であっても六尺を超える大男だ。うちの宗主がかの人を押し倒している図なんてとてもじゃないが考えられない。あの人は清楚で可憐で三歩後ろに付き従ってくれそうな大人しい雰囲気の女人が好きだったはずだ。なぜならこれまでのお見合い相手はいつもそんな外見の仙子ばかりだったからだ。沢蕪君など江湖の誰もが知る射日の英雄で、あの負けず嫌いの人が、同じ男でしかもご自分よりはるかに目立つ御仁に懸想するはずがないと門弟その一は思った。江宗主を誰よりもよく理解している自負がある彼なりの意見だ。
    「その痣は虫刺されじゃないのか?」
    「冬に虫刺されなんてあるか?」
    「ノミが掛布についていたかもしれないじゃないか」
    「あの清潔感あふれる沢蕪君の掛布にノミがついていたってお前は言うのか?」
    「人間、だれしも完璧じゃないだろうさ」
     それにしては体をぬぐう沢蕪君はとても満たされた表情を浮かべていた。ノミにたくさん噛まれた人があんな幸せそうな表情を浮かべるはずがない。
     体に呪いのように散らばる赤い斑点、満足そうな表情、人目につかない時間帯の水浴び。これはまちがいなく昨夜うちの宗主様にたっぷり愛されたんだなと門弟その二はそのとき思ったし今も信じている。
     だが、江宗主の熱烈な信徒はやはり二人の関係を認めようとしない。同輩はみるからに疑わし気な表情を浮かべていた。
     そこで話題を別のものに変えればよかったが、門弟その二はまだ若く自分がこの目で見たものを冷ややかにあしらわれて思わずむきになってしまう。
    「でもさ、最近うちの宗主なんだか妙に機嫌がいいと思わないか? 今まではさ、万年二日酔いみたいに人相悪くて発している気も棘棘しかったけど、近頃は肌艶がてかてかしていてまるでよく磨かれた玉みたいだろう。ピリピリ感は相変わらずあるけど気力がみなぎって健康そうだ。それに宗主が近くを通ると花のようないい匂いがする」
    今まで香なんてまったく使わなかった人が香をまとっているんだから沢蕪君とデキているにちがいない、と門弟その二は断言した。沢蕪君も白檀の香をまとっているからだという安直な理由に門弟その一は鼻で笑う。
    「宗主は誰かとお付き合いされているかもしれないが、お相手は沢蕪君じゃなくて別にいい女ができたんだろう」
    彼ももちろんここ最近宗主が纏っている濃厚な花の香りに気付いていた。江宗主に憧れている彼は何の香だろうと知りたいと思って町で宗主の香と同じものがないか探し回ってみたが見事にどこにもなかった。
     それは沢蕪君から贈られた香炉を毎夜使うにあたって江澄が白木蓮の香りに似せるよう特別調合させたものだから、門弟その一が見つけられないのは当然だった。
     きっと恋人にでも特別に作ってもらったものだろうと探すのはあきらめた。
    実を言えば、門弟その一は遠征前に江宗主のうなじに小さなうっ血があるのを何度か気付いたことがある。だからお見合いを連敗していたうちの宗主にも、とうとういい人ができたんだなと思っていた。
     もっとも雲深不知処から帰って以来蓮花塢からほとんど外出されていなかったのに、どうやってそのいい人と会っているのか不思議ではあったが。
    「――あのさ」
    それまで黙って二人のやりとりを聞いていた門弟その三が、頬を紅潮させながら口を挟んだ。彼はゆっくり飲む口だが決して酒に弱くはない。
    「遠征最初の夜、俺は宗主の隣の部屋に泊まったんだけど」
    その日の夜、門弟その三はくじを引いて江宗主が泊っているのと同じぐらい広い部屋に入れた。そのときは経費で特別な部屋にしかも一人で泊れて幸運だと思っていたが、いざ寝ようとしたら隣の宗主の部屋から悩ましげな声がかすかに聞こえてきたそうだ。その夜は偶然遭遇した沢蕪君も一緒に泊まっているはずだ。
     どういうことだ、と驚いて壁に茶杯をあてて耳をそばだててみたら、まさにことの最中だったという。
    「ほらあ、やっぱり俺の言った通りだろう! 二人はデキてたんだ!」
    門弟その二はとうとう動かぬ証拠がでてきて快哉を叫んだ。門弟その一はしかし到底信じられなかった。心臓が早鐘を打ってすぐに言葉が出ない。
    「……悩まし気な声と言っても、体の筋肉をほぐしていたとかじゃないのか? ほら、宗主が沢蕪君の足の裏を揉んで差し上げていたとか」
    頭の片隅では、我ながらかなり無理のあることを言っているとわかっていた。けれど門弟その一は信じたくなかった。
     彼が心から憧れ尊敬している江宗主が断袖だなんて。そんなことあるはずがない。
     だが彼の願いもむなしく、次の瞬間、雷に打たれたかのごとく頭が真っ白になるような衝撃を受けた。
     同輩は顔を真っ赤にしてうつむきながら、消え入りそうな声で言った。
    「……江宗主が「早く入れて」って沢蕪君にねだっていたんだよ」
    実際のところはもっと舌足らずで、語句と語句との合間に「あっあっあ……」「ひゃん」「んん」「あっいや、だめ」といったなまめかしい喘ぎ声が何度も入っていた。
     聞いているこちらまで顔を赤らめるような沢蕪君の甘い睦言や二人の荒々しい息遣い、さらには肉同士が激しくぶつかっているらしき音も門弟その三はしっかり聞いてしまった。
     茶杯越しに伝わってくる悦楽に没頭している大人二人の様子は、彼の若い性を昂らせるのには十分すぎて、夜通し片手で精を何度も処理する羽目になった。そんなことまでこの同輩二人に言えるわけがなかった。
    「あいやー! じゃあ宗主が女役なのか。俺はてっきり抱かれるのは沢蕪君かと思っていた!」
    驚きのあまり思わず大声をだしてしまって、門弟その二は慌てて辺りを振り返ったが、幸い今宵の客はいつのまにか彼らだけになっていた。
     門弟その三はこの日の朝、少しけだるげな表情を浮かべている江宗主の腰が思いのほか細いことにそのとき初めて気付いてしまったがそれも黙ることにした。
     彼は遠征部隊の再編成で、二人の同輩と入れ替わりに雲夢へ戻った。彼らから藍宗主はその後藍氏の門弟を率いてきて同じ宿に泊まり続けたと聞くと、雲夢へ帰らされてよかったと心底思った。
     彼が泊った部屋は、その後姑蘇藍氏の若い門弟たちが泊った。当然、あっという間に宗主二人の関係は姑蘇藍氏の門弟の間で知れ渡った。それでも彼らは雲夢江氏の門弟へそれを漏らさなかったのはやはり『むやみに噂すべからず』という家規の影響と、断袖関係を身内の恥だと思ったからなのかもしれない。当然遠征が終わった後、現宗主の恋愛事情は門弟から長老へ、長老から藍啓仁へ疾風のごとくすぐさま伝わり、彼らの頭を悩ませ始めた。
     江宗主と沢蕪君が滞在した部屋のもう片方隣の部屋には、二人の関係を知っている白蓮蓮が泊っていた。彼女は閨の声に気付くなり、同室の女性の先輩に宗主二人の声が聞かれないよう部屋にこっそり音よけの術をかけていた。彼女の師匠のためだ。師の意外と繊細な性格上、閨の声を他人に聞かれたいとは思っていないはずだ。沢蕪君はどうやら二人の仲を公表したくてしょうがないようだがやり方というものがあるはずだとそのとき師匠のように眉間に皺を寄せた。
     このずれがいつか二人の間で大きな亀裂にならないといいけれど、と師匠第一の少女は遠征から戻って、宿舎の寝台の上で蔵書閣の本を手に寝転がりながらひそかに心配していた。
    『藍家の男の執着はやばい』とは知識として頭に入っていたが、雲夢江氏の夜狩りに単独で現れたときといい、沢蕪君の強引さには十代の少女からみても少しひくものがあった。おかげで師匠に彼女は間諜の疑いをかけられるというとばっちりもくらった。
     たしかに姿絵の報酬をめぐって沢蕪君はやや強引な所があると白蓮蓮は思っていたが、あのときはちゃんと年長者として折衷案を出してくれたのに。恋は人を愚かにしてしまうのはまことのようだ。
     ひとまず沢蕪君の独りよがりとしか言いようがない周囲への訴求ぶりから師父を守れたと思っていた彼女は(それとともに姑蘇藍氏の門弟たちの口の堅さにも驚いた)、まさか実家で師兄たちが二人の関係について今まさにあれこれ話しているとは思いもしなかった。
     白蓮蓮の実家である『八葉蓮』では、雲夢江氏の門弟三人の間では鉛のように重苦しい空気が流れていた。とくに門弟その一の周辺には目にはみえない吹雪が舞っているかのように冷え冷えとしていた。
     みな酒の酔いはすっかり醒めていた。みな江宗主が閨で女性のように沢蕪君に組み敷かれていることに打ちのめされていた。
    「それにしても、金光瑶といいうちの宗主といい、人って本当にわからないものだな。いつもにこやかで天女みたいな沢蕪君が突っ込む方であんなツンケンして高圧的なうちの宗主が女役なんてさ。とくに宗主は野郎に尻を掘られるなんてそんなの死んでも嫌だって拒みそうなのにさあ」
    門弟その二は、持て余した衝撃を紛らわすように口に出したものの、やはり自分で自分の言葉に衝撃を重ねて受けてしまい頭を抱えて思わずうなった。
     彼らの知る江宗主は門弟のみならず、誰に対しても冷徹で厳格な人だ。
     夷陵老祖がよみがえる前、江宗主による鬼道を扱う修士への拷問はとくにひどいもので、そのせいで門弟その一は雲夢江氏から抜けようかどうしようかと一時期悩んでいたことさえある。実際江晩吟の残酷さを目の当たりにして江氏を離れて別の世家へ渡った先輩や同輩たちも何人か知っている。
    けれど五年前、彼を雲夢江氏に留まらせる出来事が起きた。
     謎の肺病が蓮花塢ならびにその一帯で流行したとき、江宗主は蓮花塢とその近隣の町へ一時的に人との往来をやめさせ閉鎖する決断を下した。
    これではまともに商売ができないと雲夢の主だった商人たちがカンカンに怒って蓮花塢へ抗議に集まった。それを待ち構えていたかのように、江宗主は紫の稲光を発する鞭を大いに振るって彼らを震え上がらせると、難なく蓮花塢へ監禁したのである。
     雲夢だけでなく各地にそれなりに影響力のある豪商たちゆえ丁重にもてなしつつも、宗主は彼らに水か茶しか飲ませず、食事は米一粒も決して与えなかった。
     あのいつも厳しい表情を浮かべている江宗主がそれはにこやかな笑顔で、腹が減ってたまらない様子になった商人らに一皿の料理をみせつけ、思わず群がろうとする彼らを鞭で制して、その料理を競売にかけもっとも高額の値段をつけた者に与えたのである。ほとんど水のような薄い湯(スープ)でさえも庶民の年収ほどの値段がついた。
     そうして彼らが長年たんまり蔵に溜め込んでいた大金や穀物などの食糧を雲夢江氏に差し出させた。主管によれば、ついでにまだ残っていた江家の借金もこの機に返済したそうだ。
     匂いにつられて全財産を差し出そうとする飢えた富豪の中には門弟その一の見知った人物もいた。もちろん向こうはちっとも彼のことを覚えていないようだった。
     門弟その一が幼いとき、父親は商売に失敗しかけて困っている友人に金を貸した。だがその友人は証文がないからと一銭も父親に返さなかった。のちにその男は父親の貸した金を元手に成功して裕福になった。しばらくしてその一の母親が大病を患い高額の薬代に困って父親が借金を頼み込んだところ、彼はびた一文も貸さず父親と縁を一方的に切ってしまった。不幸中の幸いとして、父親と顔見知りだった白銭銭というこの料理屋の女将の亭主が、小銭や金子がつまった甕を一つ差し出してくれて母親は一命をとりとめた。そして返済はいいから、なかなか集まらない雲夢江氏の門弟に息子を入れてほしいと父親は頼まれたのだ。
     蓮花塢復興途中の当時から、江晩吟は庶民の陳情を受け付けず、鬼道の修士を拷問していることで有名で評判は芳しくなかったせいだ。貧しい娘が女郎屋に身売りされるような経緯で、門弟その一は雲夢江氏へ入門した。
     評判通り江晩吟は、夷陵老祖は死んでいないと信じていた。自分の手で殺したはずなのに。この男は頭がいかれているといやいや江氏に入門した少年は思った。
     けれど入門して数年後、そのいかれた男の膝に父親を切り捨てた元友人が縋りついていた。口からよだれを垂らしながらたった一杯の重湯を必死に乞うさまを門弟その一は目撃した。まるで飢えた犬のようで実に痛快で胸のすく思いがした。
     雲夢の裕福な商人たちは蓮花塢が温氏に襲撃される直前、一切の家財を持って雲夢の外へ逃げ、射日の征戦の折にはどう転んでもいいように温家にも対立する仙門百家のどちらにも資金を渡していたという話は江湖で知れ渡っている。
     蓮花塢再建のときにはあいつらは江家に一切支援せずむしろまだ若い宗主に多額の借金をさせたんだ、と主管は疫病が流行る前に開かれた家宴で同じ卓についた若者たちを見回して言った。このとき、常は冷静沈着な主管が、腸が煮えくり返っていそうな表情を浮かべていた。いったい誰のおかげで妖魔鬼怪や邪祟を恐れることなく安全に商いができて贅を尽くした生活をしてこられたのかあいつらはわかっているくせに知らんぷりしやがって、と先代から江家に仕えている彼は酒をぐいっとあおりながら深い憤りを吐露していた。
     若くして艱難辛苦を味あわされた江宗主は、疫病の流行を逆手にとってその恩知らずな豪商たちから骨の髄までとはいかなくてもそのよく膨らんだ贅肉程度の資金と食糧を搾り上げたのである。
     こうして蓮花塢の門弟たちとその周辺に暮らす人々は外部との交流を絶っても長期間籠城することができた。疫病もそれ以上雲夢江氏の領内に広がることもなく餓死者も見事に一人も出なかった。
    仙術や霊剣を使わずとも、江宗主は目に見えぬ魔物の手から雲夢の民の命を守りぬいた。その徹底した手腕を間近で目撃した門弟その一は、江晩吟のことを死んだ夷陵老祖はまだ生きているという妄執にとりつかれた頭のおかしな男ではなく、雲夢を治めるよき統治者として見直し、一人の大人の男として憧れるようになった。
    「親の借金の肩に雲夢江氏に売られた」と思っていた少年はそれまで全く六芸の修練に身を入れていなかったが、この日から江宗主に認めてもらえるように誰よりも鍛錬に励んだ。今では雲夢江氏内において少なくとも剣術では右に出る者はいないと自負している。彼に手ずから剣を教えた三毒聖手とも今や互角といって差し支えない。
     将来の大師兄候補という話も主管から出ている。願ってもない話だった。よみがえっても雲夢江氏を捨てた魏無羨に代わって江宗主を一生支えようと門弟その一は思っていた。
    それなのに江宗主は実は魏無羨のように断袖で、おまけに女のように男に体を開いて腰を振って喘いでいたなんて。それも複数とだなんて。
     香炉の存在を知らず江澄のうなじのうっ血をみた彼は、沢蕪君以外にも恋人がいると大きな勘違いをしてしまった。
     まだ初潮も来ていない幼い女の子を好むと言われたほうがましだった。相手が沢蕪君といえども同じ男に犯されて喜んでいるなんて人の道としてありえなかった。
     門弟その一が受けた衝撃は、さながら強固だったはずの大きな城郭がたった一度の落雷で頂上から雪崩のように崩れていくようだった。
     さらに彼は気付いてしまった。かつて江宗主があんなに夷陵老祖を追いかけまわしていたのは彼への復讐心からではなく、もしかして恋心からだったのではないかと。
     最近巷で流行っている『大世家物語』でも江宗主は女性になっていたが夷陵老祖に恋をしていた。あれは物語ではあるが作者が広く関係者に取材していて多くは事実に基づいていると聞く。
     裏切られた。門弟その一の手にあった卓の端が大きくひび割れた。
     宗主の命で鬼道の修士を追っている際に、門弟その一は九死に一生を得るような大怪我を負ったことだってある。死んだ門弟もいる。彼はじめ雲夢江氏の門弟たちは多大な犠牲を払ってきたがそれは主の復讐を叶えるためだと思って耐えてきた――それなのに。
     一度生まれた疑念は消えることはなく、雷雨によって生まれた炎のように門弟その一の臓腑へ広がり隅々まで焦がした。
     この五年間江晩吟に抱いていた崇拝にも近い尊敬の気持ちは、硬い不信の種に変わりまたたく間に憎しみや怒りが芽生えた。
    「――はっきり言って幻滅だな」
    その一言は自分でも驚くほど冷たく響いた。
    ふたたび通夜のような空気が卓を支配し始めたとき、頼んでいた追加の料理がやっと来た。
    この店の看板娘――彼らの師妹の実姉である――が今までになく愛想のいい笑顔で、この店の名物がのった大皿を両手に抱えて静かに卓の中心に置いた。
    精武鴨頸はもともと辛い料理だが、一口食べるなり火が噴きそうなくらい辛くて三人はその場でのたうちまわってしまった。

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    「驚かないのか」
    「保証はしないと言われていましたからね。当人同士で話し合え、ということでしょう」
     江澄は心中で魏無羨を呪った。初めからそう言えばいいではないか。
     とはいえ、魏無羨に言われたところで素直に従ったかどうかは別である。
    「それだけですか?」
    「いや……」
     江澄は西瓜に視線を移した。赤い。果汁が滴っている。
    「その、あなたに謝らなければならない」
    「その必要はないと思いますが」
    「聞いてほしい。俺はあなたを欺いた」
     はっきりと藍曦臣の顔が強張った。笑顔が消えた。
     江澄は膝の上で拳を握りしめた。
    「あなたに、気持ち 1617