最近、この家は変だ。
とある街のマンションの一室で、この部屋に住み着くフォーゼたち、オガタとコイトは神妙な顔でお互いを見やった。
何が変かという話だが、端的に言って静かすぎる。家主であるオガタというニンゲンは日中いないことがほとんどだが、その連れ合いであるところのコイトは辺りが暗くなる頃に現れることが多い。
そして家主は口数が少なくこちらに話しかけてくることも少ないが、連れ合いの方は色々と賑やかだし盛んに話しかけてくる。つまり、何故この部屋が静かなのかというと、つがいであるはずの家主の連れ合いが最近ちっとも来ないからなのだ。
「……ゆゆしきじたいだ」
「そうだな」
「なぜコイトはここに来ないんだ」
「……あいつ、ふられたんじゃねえのか」
「ふられ……?」
ふられる、とは。言葉くらいは知っている。付き合っている二人が片方の心変わりなどで相手に別れを告げられることだ。
家主は別れを告げられたのだろうか。確かに甘い言葉を囁いている気配はないし、作った食事に文句をつけられて連れ合いがぶつくさ言っているのもよく見る光景だ。でも、夜はいつも一緒に寝ているし、食事はいつも残さず食べているようだ。
傍目にはそこそこうまくいっているように見えていたが、フォーゼにはわからないニンゲンの事情があるのかもしれない。
それよりも。
「……あいつらが別れたとしたら、わたしたちはどうなるんだ……?」
「………」
コイトの問いにオガタは言葉を返せない。分かっているのはつがいである自分たちがつがいであるニンゲンの元にやってきたということだけで、ニンゲンたちが別れた時のことなんて誰も教えてくれなかった。
「オガタと、わかれたくない」
「……おれもだ」
泣き出すまいと顔に力の入るコイトに、自分も同じ気持ちだと伝えるのが精いっぱいだ。
「まだ別れたと決まったわけじゃねえしケンカしただけかもだし」
「……そうだな」
もしふられそうだというなら、わたしたちが仲を取り持ってやってもいい。少し気を取り直して鼻を鳴らすつがいに、オガタは少しだけ胸をなでおろした。おれたちがやってきたからにはあいつらを不幸にさせてはいけないのだ。
その日やはり連れ合いの方は姿を現さず、いつも通り夜遅くなってから家主が帰宅した。
「……ただいま」
数少ない発声の一つである帰宅の挨拶を聞きつけて、二匹は玄関に急行する。
「おかえり!」
「……おかえり」
こちらの呼びかけには応じず、二匹まとめて拾い上げられ、リビングのソファに降ろされた。いつもの動作でいつもの顔色の悪さではあるものの、感情の読めない顔に不安が募る。
「おい!おまえのコイトはどうしたんだ?」
「なんで来ないんだ?ケンカしたのか?」
懸命に問いかけるものの、ニンゲンにはフォーゼの言葉はわからない。ならばとソファの隅に脱ぎ捨てられたままの、家主のものではないカーディガンをちょいちょいと引っ張った。
「あー……」
何か反応があるかと思いきや、一瞬辛そうに顔を歪めた家主は躊躇いののち二匹の頭を優しく撫で、そのまま浴室に消えて行った。頭を撫でられたことなど今まで数回あるかないかだし、何よりあの顔は。互いの顔から血の気が引いているのがありありとわかった。
悪いことばかりが頭をぐるぐると回る。二匹は寄り添って微動だにしないまま夜を明かすことになった。
翌日、家主は休みらしく、太陽がだいぶ高くなるまで寝室から出てこなかった。一睡もできなかった二匹はそのまま呆然とソファに埋もれていたが、ニンゲンの気配に少しだけ身じろぎをする。
「何だそこにいたのか……おはよう」
「……お、はよぅ……」
「………」
不安で顔を上げられない二匹に何だ腹減ってんのか?と見当違いの言葉をかけ、家主がキッチンに向かう。程なく香ばしい香りが二つ混ざって漂ってきた。家主や連れ合いが好んで飲む黒い液体はとんでもなく苦いので苦手だが、時々食べさせてもらえるこんがり焼いたふかふかしたものは好物だ。
しかしこの一大事に呑気に食べている場合だろうか。逡巡は一瞬だった。誘惑に勝てずもそもそと頬張る二匹を眺めながら家主はマグカップを傾ける。
と、テーブルの端で何かが震えている。ニンゲンたちが一日中手にしている薄い板が何かを知らせているようだ。カップを置いた家主がそれを手に取り耳に当てると。
「………しぶりだな尾形!やっと回復したぞ!」
「……元気じゃねえか」
漏れ聞こえてくるのは聞き覚えのあるあの声だった。手にしたものを慌てて口いっぱいに詰め込んで駆け寄って来る二匹に目を止めた家主が何かを操作すると、遠かった声がはっきりする。間違いない。
「昨日まではひどいガラガラ声だったんだ!熱も出たし、あんなに寝込んだのは子供のころ以来だな」
「鬼の霍乱だな」
どうやら連れ合いは具合が悪く寝込んでいたらしい。それならあちらの家で面倒を見てやればいいのにと思うが、家主はいつも忙しそうだし連れ合いのいない間料理をしている姿も見たことはないし、きっと役に立たないのだろうと二匹は納得した。
「飯は食ってたのか?」
「食欲は割とあったから、デリバリーやネットスーパーで買ったもので何とかしたが……そういえば、随分フルーツを食べていないな」
「……フルーツ……」
「何か買ってきてくれ!さすがにまだ外には出られないし、ビタミンを取らなくては」
「おい」
「うちに来たことはあったな?下でインターホンを鳴らしてくれたら鍵を開けるから」
「おい」
「じゃあな!」
ツーツー、と虚しく音の鳴る板を手にしばし放心する家主を尻目に二匹は行動を開始する。
「……しょうがねえな……」
フリーズから生還し、ちょっと出かけてくるから留守番してろ、と声をかけようとするも見当たらない。どこ行った?と探し回る暇もなく、玄関先でちょこんと待機している二匹を発見した。
「もちろんつれて行ってくれるんだよな?」
「な?」
はあ、と余り深くもないため息をついて、また二匹を拾い上げた。鞄の中、財布の上で大人しくしてろよ、顔を出すな、と言い聞かせ扉を開ける。梅雨の合間の青空と強すぎる日差しに目を眇めて、尾形は最寄りのスーパーで昨日目にしたつやつやと透ける赤くて小さな丸い珠の整列に思いを馳せた。
記憶にある値札から「100グラムあたり」の記載が抜け落ちていたことに気付いた尾形がレジで少し時を止めるまであと10分。