恋の予感は 八百屋の息子の朝は早い。
野菜のつまった段ボール箱を、毎度ありがとうございまーすと柄にもないアイドルスマイルとともに近所の保育園におさめたのが午前七時過ぎのこと。
あたりにひとけはまばらだった。
まだうっすらと朝靄のけぶるなか、翠は園庭をゆっくりと歩く。緑のビニールが剥がれかけた小山や滑り台など、どれもびっくりするくらい小さい。砂場にはだれかの置き忘れらしいスコップが転がっている。
俺もあんなので遊んでたころがあったんだよなあ、とつい感慨に耽る。高校一年生にしてはすくすくと伸びたこの手足、いまなら小山などひとまたぎで登れてしまいそうだった。
早朝保育に子どもを連れてきたらしい、スーツ姿の男性とすれちがう。一礼すれば、あちらからはおはようございますと爽やかな挨拶が返ってくる。
八百屋にしてもアイドルにしても愛想のひとつもつかえなければなりたたない商売であるものの、寝起きからそう経っていないせいかいまいち顔の筋肉も動かない。
もうちょっとちゃんとしたほうがよかったかなと、頬をたたきつつ保育園の門を出た。
先輩からのゴリ押しとどさくさのうちにアイドルの道を歩むことになってしばらくが経つ。
はじめのうちは渋々ながら、いまもどこまでが自分の意志なのかははよくわかっていないものの、とりあえずやると決めたからには中途半端でもいられない。
きちんとしていないとそれはそれで落ち着かないからと、家業の手伝いがてら筋トレや走りこみを増やしている。その成果あってか、最近はライブ後にへばることも少なくなったし声量も増えた。
まあ頑張ってるんじゃないかな、と、だれに威張れるわけでもないのでこっそり自画自賛してみる。野菜の配達を登校前にするようになってから、日中の体のキレはわりと良くなった。
自転車は幼稚園の入り口近くに停めておいた。地面に散らばった野菜屑を拾いあつめ、さあ帰るかとサドルにまたがったところでこどもたちが駆けこんでくる。
ピンクや青のスモッグを着たこどもたちがおはようございまーすと言いながら次々に門柱をくぐっていく。
元気だなあと感心しつつながめていると、ふいになじみのある単語が耳に飛びこんできた。
「りゅうせいーれっど!」
え、と見やるそのさき、園庭の小山のうえで、こどもたちが見慣れたポーズをとっていた。
「『あかいほのおはせいぎのあかし! まっかにもえるいのちのたいよう! りゅうせいれっど!』」
「ずるい、おれがれっど!」
「わたしも!」
「じゃあおれぶるーね!」
大騒ぎするこどもたちを、保護者たちがにこにこと見守っている。
翠ですらいまいち覚えきれていない決めポーズをしっかりとトレースしつつ、こどもたちはひたすらにレッドとブルーの名を呼ぶ。グリーンの名はいちどとして出てくることなく、そもそもこちらになど一切目もくれはしない。
「……ええと」
流星隊は放課後ともなれば近所の公園をかたはしから巡業している。
ライブとはいうものの結局はヒーローショウで、だからだろうか、こどもからの人気は高い。
にしても。
かわいい声がいくつも、意気揚々とレッドやブルーの決め台詞を叫ぶ。
これが世間の評価というものなのかと、さきほどまでの自画自賛がみるみるうちにしぼんでゆく。
流星隊にかぎらず、ヒーロー戦隊のレッドといえば古来よりリーダーであり隊長であり花形と決まっている。
だからレッドのポジションが注目されるのも取り合いになるのもあたりまえで、グリーンの存在そのものが負けているわけではないとちょっとひがみまじりに落としどころをつけてみようとしても、千秋の日々の努力を知らないわけではないからやっぱりどうにも気持ちはうまくおさまらない。
そもそも自分でもやる気があるのかないのかわかっていないくらいなのに、勝った負けたという思考回路に陥るのもなんだか違うような気もして、どうしたらいいのかわからず翠はその場に立ちつくす。
どれくらいのあいだ、そうしてぼんやりとしていただろうか。
遠くに聞こえる学院の予鈴にはっと我にかえり、翠はあわてて自転車のペダルを踏んだのだった。
二時間めの終わりを告げるチャイムがあたりに響きわたる。
理科の教科書とノートを胸にかかえ、翠は教室を出た。
となりでは鉄虎が、きょうの実験アイスつくるの楽しみっスー、とスキップまじりに歩いている。黒髪に混じる赤毛がそのたびひょこひょことはねるのが、本人には言えないけれどもちょっとかわいらしい。
あのあと翠は一心不乱に自転車を漕ぎ、いったん家に帰り制服に着替え、一時間めがはじまる直前に教室に飛びこんだ。ふだん遅刻などしないのにどうしたことかとまわりからは心配され、教師からはまあ家業もたいへんだろうが勉学も大事にしろよと気遣いまじりの小言をいただいてしまった。
めだちたくないのに、とうなだれつつ翠はとぼとぼと廊下を歩く。
「あれっ、翠くん気分悪いっスか」
「ううん、大丈夫……」
心配げにのぞきこんでくる鉄虎にどう説明したものやら、とりあえずのことかぶりをふる。
今朝のいわゆる「世間の声」から結局遅刻寸前になってしまったことまで、落ちこむ要素が多すぎて自分でもうまく処理しきれない。
大丈夫ならいいっスけど、と鉄虎はなおも心配そうにする。
と、ふいにその歩みがとまった。
「あ、隊長っス」
言うなり鉄虎は廊下の窓からひょいと身を乗りだした。
体育の授業が長びいているらしい、グラウンドには三年生たちの姿がある。ひとかたまりになった集団の足元でサッカーボールがいったりきたりしていた。あっちだとかこっちに走れだとかいう声が青空の下に響き渡っている。
鉄虎が動きそうにないので、しょうことなしに翠もそのとなりに立つ。
休み時間とあって、グラウンドの隅や教室の窓からはいくつも応援の声が降りそそいでいる。
鉄虎の言うとおり、集団の先頭にいるのは千秋だった。クラス対抗戦らしい、見知った姿がいくつもそのまわりをとりかこんでいる。
千秋はしゃにむにボールを追っていた。ディフェンスの制止もお構いなしに、ぐいぐいと敵陣に切りこんでいく。戦隊もののレッドはやっぱりサッカーだとフォワードのポジションなんだなと感心して、それから朝のことをおもいだし翠はちょっと胃を押さえた。
「あっ」
鉄虎が大声をあげて飛びはねる。窓枠にかけた手がずりおちそうになるのを、翠はあわててうしろからひきとめる。
いつのまにか千秋はゴール前まで迫っていた。両手を広げ立ちふさがるのは鬼龍で、のばされたその腕をかいくぐるように千秋が高くはねあがった。
千秋のヘディングから、鬼龍のかたわらを過ぎて白黒の球がゴールに吸いこまれる。遠く離れたこちらにまで、ざっとネットの揺れる音が聞こえるようだった。
校内のあちこちから歓声が湧きあがる。
「隊長やったっス!」
あー大将惜しかったっスでもふたりともかっこよかったっス! と興奮しきりの鉄虎をなんとかなだめつつ、窓辺からひきおろす。そうしながらも翠もまた、千秋から目を離すことはできなかった。
グラウンド上で、やったぜとかこのやろうとかいう言葉とともに、千秋はチームメイトたちから手荒い祝福を受けている。アイドル科というだけあっていずれも見目麗しい、そのなかにあってさえその姿はひときわ輝いていた。
ん、と、翠はちいさく首をかしげた。
「……もしかして俺、目になんかついてる?」
鉄虎の腕をつかまえたまま、あいた片手で睫毛のあたりを払ってみる。何度それを繰り返してみても、どうしてか千秋の姿ばかりソフトフォーカスがかかったようにきらめいている。
「……なんで?」
いったいこれはどうしたことかと、目をあちこちに泳がせてみる。グラウンド、向かい側の校舎、そうしてふりかえり廊下を行きすぎるひとびとをながめた。
理科室に向かうのだろう、はやく行かないと遅れるぞーとひとこと残して友也と創が去ってゆく。少女にも見まがうその姿はまさにアイドルという名にふさわしい。
「……ええと?」
唸っているこちらの背後を桃李が歩いていく。学内の美少年のなかでも上位の誉れ高き、そのあとを椚がゆったりと過ぎてゆく。
さまざまな美形がこの場には揃っているというのに、ふたたびグラウンドに目をやれば、もう一点とるぞーと声を張りあげる千秋がやはり一番に輝いている。
なんでだ、と翠は眉を寄せる。何度瞬きをしてみてもその光景は変わらない。
かたわらでは鉄虎もまた、悔しいけど隊長かっこいいっスねえ、とどこか不服そうに、それでいて誇らしそうに腕組みをしている。
鉄虎くんもそうおもう? と聞こうとして、いやなんかそういうの認めるのはちょっといやだ、という自制が働いて翠は結局口をつぐむ。
認めるのは癪なはずなのに、どうしても千秋から目を離すことができない。
やはりこれがヒーローのカリスマというものなのか。
朝方の幼稚園での光景をおもいだし、翠はふたたびがっくりと肩を落とした。
筋トレも走りこみも、そのほかいろいろと自分なりにやってきたつもりだったけれど、そもそもの差とはこれほどまでに残酷なものなのか。
どんなに頑張ったところで千秋にはかなわないのだとしたら、
「俺いなくてもよくない……?」
つぶやいた言葉は鳴り響く予鈴にかき消されてしまった。
「あっ、こんなことしてる場合じゃない、翠くん急ぐっスよ!」
あっさりと我にかえった鉄虎に手をひかれつつ、翠はととぼとぼと理科室に向かったのだった。
テーブルにつっぷし、翠ははあとおおきなため息をついた。
薄べったい白いプラスチックの天板が、ライブ後の身にはひんやりとして心地よい。
舞台での高揚は、けれどいま翠のなかには微塵も残っていない。
「鬱だ……」
声は聞く者もないままあたりに消えた。
鉄虎のおかげでどうにか遅刻はまぬがれたものの、不運はそれだけではすまなかった。むしろいっそうというべきか、きょう一日、我ながらまったくもって惨憺たるありさまだったと言っていい。
まずは午前中の授業を終え、鉄虎にひきずられるようにして食堂にいったところ、突然背後から千秋に大音声で名を呼ばれびっくりしてトレイごときつねうどんを落としてしまった。
制服のシャツにはべったりとだしの染みがつき、茫然としているあいだに千秋と鉄虎がうどんやトレイをさっさと片づけてくれた。みずあびしたらきれいになりますよーという奏汰の申し出こそ丁重に辞退したものの、結局千秋からなかば強制的にではあるもののジャージの上着まで押しつけられる始末。食べものを粗末にしてしまった後悔にくわえて、そういえばこれさっき先輩が体育のとき使ってたやつでは、俺がこれを着てもカリスマまではまとえないんだななどと窓ガラスに映る自分の姿を見るたびいちいち奈落におとしこまれるというおまけまでついてきた。
放課後はデパートの屋上で開催されるライブのため、自由すぎる面々をひっつかまえて会場まで引率することで名誉挽回ができたかとおもいきや、ショウの途中で盛大に歌詞がすっぽぬけてしまいまたもや千秋にフォローさせてしまった。
「うわー……」
恥ずかしさに身悶えしかけて、テーブルにごつんと額をぶつけてしまう。
着替える気力もなかったから、衣装はヒーローショウのときのままだった。
体育会系には馴染みの汗くさささえも、いまは、結構がんばったのにやっぱり俺はだめなのかというむなしさを募らせる一因にしかならない。
「俺何やってるんだろう……」
テーブルにうつぶせたまま、ぽつりと呟いた。
控え室はデパートの屋上遊園の隅にある。
セット用にだろうか、壁にいくつか鏡が張られているほかは変哲もないプレハブ小屋だった。
テーブルと椅子が三脚、部屋のまんなかにあって、翠はいまそこにいる。
流星隊のチャームがついた五人分のスポーツバッグが壁際に積み重ねられていて、そのまわりにそれぞれの私物が散らばっていた。
さきほどショウが終わったばかりで、ほかのメンバーは挨拶まわりや用足しに出ている。
翠くん荷物見といてもらえるっスか、というひとこととともに出ていったのはおそらく鉄虎の気遣いで、いくら同級生だからといって甘えすぎだろうと自分がいっそう情けなくなる。
「ううう……鬱だ……」
何度めかもわからなくなった愚痴ともに、膝のうえでてのひらをぐーぱーとさせてみる。
家の仕事を手伝うようになって、指も、腕や足もまえよりずっとしっかりしてきた。
部活や流星隊の活動も、自分で言うのもなんだけれど近頃は結構がんばっている。
がつがつしているところを見せるのは気恥ずかしいというか、あまり得意ではないからおもてには出さない。とはいうものの、くだを巻くだけだった以前よりはずっと努力はしている。……たぶん。きっと、たぶん。
のになあ、とこれもまた今日何度めなのかわからないため息をつく。
努力すればするほど、がんばればがんばるほどに、まえをいく千秋の凄さが身に染みる。
幼稚園児たちのごっこ遊びでとりあいになるほどの人気だとか、校内並みいるアイドルのなかでも群を抜いた輝きだとか、後輩のフォローもいやな顔ひとつ見せずこなすところだとか、結局自分なんか全然かなわないのだと日々思い知らされる。
暑苦しさへの苦手意識がついつい先にたってしまって、本人のまえではそんなそぶりなどけして見せられはしないのだけれども、
「……やっぱり俺いらなくない……?」
そんな愚痴がおもてに出るか出ないかというところで、突然顔面にふわふわとしたものが押しつけられた。
息がつまり、ぶえっと妙な声が出る。
押しのけざまに身を起こせば、そこにはおそらく魚らしいピンク色のぬいぐるみを抱えた奏汰が立っていた。
「うぇっ、あ、深海先輩」
妙なぬいぐるみとキスさせられたのだということに気づき、翠はあわてて口元をぬぐった。
ぬいぐるみにはおおきな鼻と唇らしい突起がついている。目はつぶらで、お世辞にもかわいいとはいえないもののどことなく愛嬌がある。
「『にゅうどうかじか』ですよ~」
えい、と奏汰はこちらの懐にぬいぐるみをねじこんでくる。
「みどりは、このこと、おんなじ『かお』ですね~」
「えっ」
はからずしも受けとってしまい、翠はぬいぐるみの顔をしげしげとながめた。
黒いボタンでできた目がこちらをみつめかえしてくる。上から見ても下から見ても滑稽なその姿とそっくりなどと、アイドルとして怒るべきなのか、それともゆるキャラ好きとして喜ぶべきなのか、わからなくなって翠はぬいぐるみに顔を埋めた。
「……あれ、なんかこの子湿ってません?」
「『みずあび』をしてきましたからね~」
そういえばデパートの向かいには市民公園があったとおもいだす。通りすがりに見かけただけだけれども、たしか入り口のあたりに大きな噴水があった。
どうしてこのひとはスポーツ選手が試合後にシャワーを浴びるようなノリでもって公共の場で水浴びするのか、そもそもどうしてまわりのだれも止めないのか、よく見れば体じゅうからぼたぼた滴がしたたっているがその姿で公園とデバートを往復したのか、こんなににびしゃびしゃでエスカレーターだかエレベーターだかに乗れたのか、へたしたらどこかで感電したりしないのか、なんならデパート全体停電になったりする大惨事になったりしないのかなどとこちらがいろいろと考えているあいだにも、奏汰はかまうことなく話を続けてくる。
「みどりは、そのこと、おんなじ『かお』です。このこは、わるいこじゃないです。でも、みどりは、『ぶー』ってしてます」
ぶーって、と鸚鵡返しにすれば、奏汰は我が意を得たりとでもいうようにうんうんとうなずいてみせる。
「『ぶー』です。『ぐるぐる』の、『どろどろ』です。ぼくはむずかしいことはわかりません。でも、『あいどる』はきっと、『きらきら』が『だいじ』です」
きらきら、とさらに言葉をなぞってみる。
アイドルたるもの暗い顔などしていてはならない。奏汰の言葉はわかりにくいけれど、要するにきっとそういうことだった。
心当たりがありすぎて、返す言葉もなく翠はふたたびテーブルのうえうなだれる。
「……『ぶー』ですか」
「『ぶー』ですねえ」
おっとりとした見かけに反し、奏汰の言葉は情け容赦なく胸をえぐってくる。
ううう、と唸りながらテーブルに顔をめりこませていると、そのとき勢いよくドアが開いた。
「おーいみんな、ファンからのプレゼントだ!」
「みんなって部屋のなかにいるの翠くんと深海先輩だけで、あと三人こっち側っスけどね、まあいいや、お手紙もいただいたっスよー」
「楽しみでござる!」
こちらの空気になど構うことなく、三人はどやどやと賑やかに室内にはいってくる。
元気溌剌って言葉を絵に描いたらこんな感じだろうか、テーブルのうえに頭をあずけたまま、翠はぼんやりとその光景をながめた。
千秋が両手いっぱいに抱えた段ボール箱を部屋の隅まで運んでゆく。そのうしろで鉄虎と忍が、隊長そんな置きかたしたらだめっスだとか、このお手紙手裏剣型でござる! 崩さないでほしいでござる! だとかあれこれと指示を出していた。
先輩後輩逆じゃないか? と頭の隅でちらっと考えたが、本人たちが楽しそうなので深くは掘り下げないことにする。
にこにことファンレターの束を仕分けている忍の手元、一枚の紙がふと目についた。
こどもの手によるものか、赤い折り紙にサインペンのたどたどしい文字で「れっどだいすき」と書かれている。見れば似たような手紙はいくつもあって、そのどれもを千秋は嬉しそうにながめている。
あのなかに朝のこどもたちからの手紙はあるのだろうか。
そんなことがふと脳裏をよぎる。胃のあたりがふたたびずしりと重くなった。
うううと唸っていると、ひと目をひいてしまったらしい、鉄虎がなんだなんだと近寄ってきた。
「翠くん具合悪いっすか」
朝から調子よくなかったスもんね、と鉄虎は心配げにのぞきこんでくる。
体調不良ではないもののほんとうのことは言いだしかねて、顔をあげられずにいるうち全員が集まってきてしまう。
「どうした」
千秋の声にどきりと心臓がはねた。重いのは胃のはずではなかったかと自分でも訝しんでいると、奏汰がかわりに答えてしまう。
「みどりは『ぐるぐる』です」
「ぐるぐる」
三人の声がきれいに重なった。ライブ中でもなかなか出ないハイレベルなハモりだなあと、現実逃避がてらに考える。
「『ぐるぐる』ってなんスか」
「あ、日射病でござるか」
「それはたいへんだ! 奏汰、水はあるか!」
「ありますよ~『きんきん』の『ひえひえ』が『くーらーぼっくす』に」
「よし! 高峯、これを飲め!」
「……違います」
ちょっとした誤解があっというまにふくらんでゆき、あげくのはてにはぐいぐいと頬に冷たいミネラルウォーターを押しつけられる始末、どうしてこのひとたちはいつもこうなんだとため息をつきつつ翠はペットボトルごと千秋の手を押しのけた。
「日射病じゃないです。大丈夫です、ご心配かけてすいません」
「しかし、じゃあ『ぐるぐる』とはなんだ」
「いや、すいませんほんと大丈夫ですなんでもないです」
「翠くんはかたくなっスねえ、深海先輩ならなにか知って、て、あ、だめだクーラーボックスに追加のミネラルウォーター補充するのに夢中になってる」
「『ぐるぐる』……ぐるぐるといえば車酔いでござろうか、そういえばきょうのバスの運転はちょっと荒かったでござるな」
「それだ!」
「違います」
このままだと誤解の果てに近所の病院にでもかつぎこまれない、とあわてて体を起こしたところで、心配げにのぞきこんできた千秋と鉢合わせする。
メイクもヘアセットもしていない素の姿だというのに、やはりどうしてかフォーカスがかかったようにまわりが滲み、きらきらとしてまぶしい。ヒーローのカリスマらしきそれを正面からまともに浴びる恰好となり、翠はうううと唸ってふたたびその場につっぷした。
「どうした高峯、やはり救急車か!」
「すわ! 拙者ひと走り病院までお医者さまを呼びにいってくるでござる!」
「あ、長距離は俺のが早いっス!」
「いやほんとそういうんじゃないんで……ぜんぜん大丈夫なんで……あともしほんとにピンチな状況の場合は直接病院に乗り込むとかじゃなくてスマホあるしそっちで連絡お願いします……」
いまにも飛び出していこうとする同学年のふたりをどうにかこうにかひきとめる。でも、となおも心配げな顔に、ほんと大丈夫だからとなけなしの笑みを返した。
「ほんとごめん、心配かけて」
「でもでも」
「大丈夫っスか」
善良を絵に描いたようなふたりの姿にちくりと胸が痛む。みんなに迷惑かけて俺はなにをやってるんだと反省しかけたところで、視界の端を奏汰がゆきすぎてゆく。
いつのまにかその手にはさきほどのぬいぐるみがあった。奏汰はぬいぐるみを両手で掲げたり、天井まで放り投げたり、かとおもえば胸にぎゅっと抱きしめ、翠はぶーですよねーなどと話しかけている。こどもの遊びに興じているようでいて、そのさまはやはり容赦がない。
「ううう」
胃をおさえつつ翠はふたたびその場にうずくまる。翠くん、と驚いたような声がふたつきれいにユニゾンになるが、さすがに構ってはいられなかった。
奏汰の叱責はただしい。勝手にひけめを感じて勝手に自滅して、メンバーの足をひっぱったばかりかこうして心配までさせてしまっている。
せめてほんとうのことを言って謝ろう、と決意する、そのときふいと髪にあたたかいものが触れた。
千秋になでられているのだと気がつくまでにしばらくかかった。
「……え」
うつむいたまま目をやれば、そこには穏やかな笑みがある。
「高峯はいつもこつこつ頑張ってるからな、無理が出たか」
なにかと派手な普段のふるまいとはちがう、ちいさいこどもをあやすような手つきだった。
突然のことに翠はかたまってしまう。そんなこちらの様子など気にかけることもないように、よしよしおまえはよくやってるぞと千秋はなおも髪をなでてくる。
歳のわりには高い背丈もあってか、ほかのメンバーにくらべて千秋に頭をなでられたことはあまりない。
気弱になっているせいか脊髄反射めいたいつもの反発はどこかにいってしまって、千秋の手の優しさばかりがじんわりと染みてくる。
日々の努力が刻まれた、しっかりとしたおとなの指だった。自分もあとふたつ歳とったくらいでこんな風になれるんだろうか、そんなことを頭の隅で考えた。
あたたかなその熱に浮かされるように、言葉がひとつ口からこぼれる。
「先輩が、」
ん、と千秋がのぞきこんでくる。
気遣わしげなその顔はやっぱりキラキラとしてまぶしい。真っ赤に燃える生命の太陽という言葉がちらりと頭をよぎった。
その光に包まれることが心地いいような、けれどやっぱりすこしは悔しいような、いろんな気持ちがごちゃまぜになって自分でもよくわからなくなる。
もうどうにでもなれとばかりに翠は先を続けた。
「守沢先輩はヒーローですよね」
「お、おお」
こちらの言葉がおもいもよらなかったのか、千秋はすこしたじろいだようにする。そうしながらもその指が離れていくことはない。それにほっとする自分が何なのか、わからないまま翠はなおも言葉を重ねる。
「守沢先輩はいっつもがんばってて、すごい努力してて、ヒーローでもアイドルでもセンターで一番きらきらしてて、サッカーの試合でもフォワードに選ばれてみんなの期待に応えて得点してて、だから、……そしたらアイドルは守沢先輩だけだって全然いいってことじゃないですか。だから、俺なんか流星隊としてもアイドルとしてもべつに全然いらないんじゃないかなって、おもっちゃってそれで」
「えっ、いや、おまえがいらないとかそんなことはけしてないが、……フォワード?」
突然の賛辞のラッシュに頭が追いつかないのか、千秋はしどろもどろになりつつあたりを見まわす。混乱しているくせに後輩のネガティブ発言に対するフォローは忘れないところが律儀というかなんというか、だからそういうところが、という言葉は胸のうちにとどめておく。
フォワード、と鸚鵡返しにして、鉄虎がぽんと両手を打った。
「そういやきょう三年生の先輩方は合同体育でサッカーされてたっスよね。隊長点とってたのかっこよかったっス」
「あっ、拙者も見てたでござるよ! 隊長かっこよかったでござる!」
「ああ、その話か。しかし俺は」
「ちあきは『ごーるきーぱー』でしたよね」
「えっ、そうなんスか? でも最前線でシュート決めてたっスよね、師匠とガチンコ対決で。男と男の勝負って感じで興奮したっス」
「そうだ、授業の最初にポジションはじゃんけんで決めたんだ。それで俺はゴールキーパーに任命されてな。だがうしろで見てるあいだにうずうずしてきて、ついついゴールから離れてまえに出てしまった!」
「ちあきがいなくなって『ごーる』が『がらあき』だったので~、『ごろつき』があわててまもりにいったんですよね~。でもまにあわなくて~、ちあきの『ごーる』のあと、びーぐみの『ごーるきっく』からの『みどるしゅーと』で〜、びーぐみはあっさり『とくてん』されちゃいました」
「三毛縞先輩かわいそうでござる」
「だれがそんな鬼畜なことしたんスか」
「ぼくです」
「……三毛縞先輩かわいそうっス」
「……かわいそうでござるな……」
なかば自棄とはいえ、ひとが恥をしのんで胸のうちを語っているというのになぜこの連中はすぐに話をあさっての方向にもっていくのか。自分の勘違いがもたらしたこととはいうものの、というよりだからこそ、やるせなさに翠はその場につっぷす。
どっちに転んでも大恥だ、と世をはかなんでいると、ふたたびぽんと頭をなでられる。
確かめずともだれの手なのかはもうわかっていたから、意地のようにうつむいたままでいた。
高峯、そう呼ぶ声はやはり穏やかでやさしい。
「おまえが俺を尊敬してくれてるのはわかった」
違うと反射的に言いかえそうとして、いやあんなことを言っておいて違うもなにもないだろとおもいかえす。とはいうものの本人から指摘されるのはどうにも悔しく、せめてもの反抗にうつぶせたままうううと唸ってみる。
こちらの意を知ってか知らずか、千秋はよしよしとなおも頭をなでてくる。
「たとえばおまえの言うとおり、俺が世界で一番のヒーローでアイドルだとしよう」
一番だってはっきり言ってるんだからもっと天狗になればいいのにと、頭をなでられながら翠は身勝手におもう。謙虚でまじめでまっすぐで、だからそういうところが、と、そういう言葉はやはりどうしても口にはできなかった。
なあ高峯、そういう声がゆっくりと耳に染みこんでいく。
「じゃあ俺はだれに憧れたらいい?」
指の動きがとまり、しばらくしてとんとんと額のあたりをたたかれた。
「俺が一番だからほかのやつがみんないらないなんて、一番になったらひとりきりでまわりにだれもいないなんて、そんなのさびしいだろう」
声が近くなった。千秋の息づかいがそばにあると、気がつけば頬や首筋のあたりがちりちりとする。
「俺はおまえに憧れている。おまえは俺のヒーローだからな」
言葉が耳にとどいたとたん、自分でもびっくりするくらいに心臓がどくりとおおきな音をたてた。
息が詰まる。
胸が破れてなかみが飛びだすんじゃないかと思った。顔といい手といい、からだのあちこちがかっと熱くなる。
「……あの!」
うまい言葉はみつからないまま、けれどもいますぐにでもなにかを言わなければならないような、そんな気がして翠は口を開く。
その声にかぶせるように、千秋はほがらかに言いはなった。
「もちろん奏汰も南雲も仙石も、出会う者すべてが俺にとっては師であり同胞でありライバルだ!」
「えっ、拙者もでござるか、えーと、うーん、恐縮でござる」
「隊長からそう言ってもらえるのはありがたいっつーかなんつーか、いやそのうーんと、まあ一応先輩ですしね、押忍! ありがとうございます!」
「あ、『おす』って、『しのび』って『ことば』がはいってますよねえ。てとらよりしのぶの『きめぜりふ』にしたほうがいいんじゃないでしょうか~?」
「いやそれは俺のアイデンティティなんで」
「ええと、拙者としては先輩のご提案を無碍にもできんでござるによって、……押忍! うーん、せっかくのお申し出でござるがやっぱり向いていないでござるよー」
なにを言おうとしたのか自分でも結局わからないまま、言葉は喉の奥でひからびてしまう。
千秋のいつもの熱血宣言を真に受けた自分が猛烈に気恥ずかしくなってきて、翠はみずからの腕のなかに顔をうずめた。
「さあ高峯、おまえのそばには俺がいる、俺のそばにはおまえがいる、安心してどーんと俺の胸に飛び込んでこい……☆」
周囲の冷淡な対応になど慣れきっているらしい、千秋ひとりが呑気に大声を張りあげる。
その言葉を聞くとともに、ぶちりと頭の奥でなにかが切れた音がした。
「……わかりました」
喉の奥から出た声はわれながらずいぶんと低く重かった。
千秋の指を払いのけ、翠はゆっくりと立ちあがる。えっ翠くん? と戸惑ったような鉄虎の声が聞こえた気がしたが、かまうつもりなど一切なかった。
「おお?」
事態がのみこめないのか、千秋はなおも呑気に小首をかしげている。その鼻先に、翠はびしっとひとさし指をつきつけた。
「これから毎日8時間睡眠とって、三食きっちり食べて、日光を浴び家業を手伝い筋トレを欠かさず背も幅も守沢先輩より上になり、然るのちにがっつりばっちりその胸に飛びこんでやりますよ」
覚悟しておけ! という宣言とともに睨みつければ、千秋は目をぱちくりとさせた。
こちらの怒りが届いたかとおもったのも束の間、よし、と千秋は嬉しげにファイティングポーズをとる。
「おお、なんだかわからんがその意気やよしだぞ、高峯!」
通じない。まったくもって話が通じない。
さきほど頬や首筋に集まったはずの血が、ぐんぐんと頭にのぼっていくのが自分でもわかる。
ほぼやつあたりなのは頭の隅でちらっと弁えつつ、翠は腹立ちまぎれにぐいぐいと千秋の鼻先に指をつきつけた。
「ナスを食べられるぶん食物繊維とカリウムとポリフェノールをあんたよりとれるアドバンテージが俺にはある! アレルギーが出るわけでもないんなら、野菜をだいじにしないツケに泣け!」
「な、ナスか……! 食べものを粗末にしてはならないのはわかってはいる、わかってはいるが……!」
あれだけは……! とがくりと肩を落とす千秋のまえで、翠はふんと鼻息も荒く腕組みをする。なんだこの小芝居、というつっこみがやはり頭の隅をちらりとよぎるも、とりあえずいまばかりはないものとする。
こちらの剣幕に驚いたらしい、鉄虎と忍は手を取り合ってかたまっている。しばらくしてぼそぼそという声が聞こえてきた。
「……『然るのちに』って武術用語でござるか」
「いや、忍者用語じゃないスか」
「うう、やっぱり……。翠くんに拙者のポジションをとられたらどうするべきでござろうか、翠くんもともと女の子人気は抜群でござるによって、キャラかぶりされたら拙者には勝ち目ないかもしれないでござる」
「え、いや、そう言われると俺も自信なくなってきたっス、『然るのちに』が武術用語だったらポジション危ないのは俺っスよ」
「たいへんでござる」
「たいへんっス」
額をつきあわせてなにやら謎の相談をはじめるふたりと、いつのまにかくずおれてナスへの葛藤を床にぶつけている千秋、惨憺たる状況をまえにして翠はふいと我に返った。
……なんだこれは。
「えっ、いや、大丈夫、キャラは狙わないからふたりとも落ち着いて、しかも妙に俺への評価高いのもなんなの、あとあんたは唸りながら床を転げまわるのをやめろ! 埃が立つだろ!」
翠の雄叫びと千秋の苦渋に満ちた唸り声、鉄虎と忍の怯えがあいまってあたりは大混乱となる。そのなかにあって、ひとり部屋の隅でゆらゆらとしていた奏汰の言葉を気にとめる者はいなかった。
「……『こい』の『よかん』ですかね?」