夢のむかしの 月の光に闇がゆっくりと溶けこんで、あたりは海の色になる。
のばしてみれば指のさきまで青に染まる。寝台に眠るひとの姿も水のなかにあるようで、そのさまにすこしみとれた。
深海くんがすきそうじゃの、つぶやけば窓辺のあたりから笑う声がした。
「千秋はこの時期がんばりすぎるから目を離さないようにしないとってよく言ってるのにね。働かせすぎって怒られるかな」
言葉のうちには昔馴染みの気安さがにじむ。子どもの頃はおたがい体が弱くてよく病院で顔を合わせていたと、そういえばいつか守沢から聞いたことがあった。
と、頭の隅をふいとよぎるものがある。
ふむと口元に手をやれば、こちらの様子に気づいたらしい、英智がふふと笑ってみせた。
眠るものがふたり、目覚めたままのものがふたり、夜も更けておなじ部屋にいる。
自分の寝台には守沢が、英智の寝台には敬人が、それぞれジャケットさえ羽織ったままにすやすやと寝息を立てている。
雑誌の取材で遅くなり十時をすぎて帰宅したところ、玄関口でいまにも眠りこみそうなふたりを抱えて立ち往生している英智に出くわした。見捨てるのもしのびなく、さりとてそれぞれの部屋に送りとどけるのも面倒で、部屋に連れこみそのまま寝台に転がしている。折よく藍良は外泊らしい、迷惑をかけずにすんでよかったねと英智がまるで心にもないことをいう。
窓を背にして英智は椅子にかけている。月明かりの下にあって、その姿はまるで一枚の絵のようだった。
こちらは寝台のへりに腰かけているから、光と闇と、あつらえたようですこしおかしい。
てのひらを置いたシーツの上、守沢がううんとみじろぎした。いったいどんな夢を見ているものか、盛大に眉間に皺が寄っている。その向こう、敬人は安らかに寝入っていた。めざめているときとは逆の、その光景がほほえましく零は口元をゆるめる。
と、英智がふと口を開いた。
「敬人がね、スイッチ入ったっていうか、急に熱に浮かされたみたいにまくしたててきたんだよね、僕を囮にしてきみを巻き込んだら不良も一掃できるし生徒会の株もあがる、それがうまくいかなくても次善の策もさらに次も用意できているって」
昔の話だと気づくのにしばらくかかった。
見やるそのさき、英智は子どものように足をぶらぶらとさせる。
「僕こう見えてけっこう押しに弱くてね、敬人の剣幕に呑まれちゃって、体調がわるいって言いだせなくて」
端正なおもてにあるのはただ笑みの色ばかり、いったい何の話がはじまるものか、判じかねて零は眉を寄せる。
窓を閉めているのに夜風が喉首をかすめたようだった。
窓ガラスの向こう、空は濃い藍に染まっている。月は猫の爪にも似てすうなりと細い。それでいて光はあたりにしらじらと染みてゆく。
「いくら君を盤上に引っ張りだせるのが嬉しいからって、体の弱い友達が不良に脅されて縛りあげられているのを顧みもしないで飛び出していくなんてひどいと思わない? ちょっとは外聞を考えるべきだよね。おかげで不良たちにまで薄情なやつだなってかわいそうがられたよ」
事情もわかってないのに助けようとしてくれた千秋とは大違いだよね、と英智は肩をすくめてみせる。
なかば強いられるように敬人の策に乗せられ、不良の溜まり場に縛られ転がされた、英智の言い分はおそらくただしい。その場に偶然守沢が居合わせ、救出された英智が護衛らによって病院に担ぎ込まれたという経緯は敬人からも聞いている。
まったくもってただしいはずの、どこかにひっかかるものを感じて零は小首をかしげる。
救出劇の立役者はいま自分の寝台を占拠している。掛け布団のうえにごろりと転がった、その寝顔はいつしか穏やかなものとなっていた。手足も健やかにのびのびとして、かつての虚弱な子どもの面影はほとんどといってない。
子どものころはよく病院で顔を合わせていた、いつか聞き流したその言葉がふいと重みを増した。
もしそうであるなら英智のかかりつけの病院がどこなのか守沢に見当がつかないはずはない。
たとえ分からなかったとしても守沢のこと、英智のプライバシーに関することならいっそう、他者を介さずに直接本人もしくは英智と関係の深い相手、たとえば敬人に尋ねるはずだった。
英智があえて守沢への情報を制限しないかぎりは、と、零は親指で唇をなぞる。
守沢を仲立ちに敬人と鬼龍はつながった。
けれど敬人の性格上短期間で他者に信頼を置くことはない、というよりも他人を信用しやすい自覚があるがゆえにかえって慎重を期すところがある。
信頼の置きどころを決めかねて敬人本人の足元はぐずついたまま、とはいえたがいに好感を抱きはじめている鬼龍と敬人の蜜月ぶりを見せつけるには充分に足る。
見せつける、と口のなかでくりかえしてみて零は眉をひそめる。
──だれに?
顔をあげれば月明かりの下、英智はただ穏やかに笑んでいる。
きみもね、とやわらかな声が耳にした。
「みんなで敬人にてのひら返し、みんなで楽しく総意でやっていこうなんて雑な民主主義のお手本みたいなことするくせに、まず自分が絶対王者でみんなが自分に従うってことを大前提にしてるところが、まあそれはそれなりに経験から導き出された最適解なんだろうけど、まったくもって矛盾してるし、その矛盾をそれこそ名もなき群衆のなかのひとりににでもつつかれたら、それがたとえ蟻の穴レベルのささやかな点でも一気に瓦解しちゃうのに、そんなこともすっとんじゃうくらいわざと敬人にきらわれようとするなんて小学生かなって感じだよね」
やれやれとそれこそわざとらしく英智は両手を広げる。
あまりにもあけすけな指摘に、返す言葉をみつけられず零はその場に倒れふす。寝台がぐらりと揺れて、けれど守沢はめざめることもなくすこやかに寝息を立てている。
「『アタシ特別な存在だけどそういう特別じゃなくてでも特別になりたくてみんなに愛されるアイドルになりたいしでもみんなとおんなじ普通の子にもなりたいのッ、わかってくんなきゃヤダヤダ知らないッ、その男だれよ敬ちゃん嫌いッ』……なんてね、夢見がちなJKじゃあるまいし」
英智は決して矛先を緩めようとはしない。小学生でもJKでもなく男子高校生じゃもん、とどうにかこうにか返した文句もあっさりと黙殺されてしまう。
もともと良好な関係とはいえないものの今夜の英智の舌鋒の鋭さは何ごとかと、零はシーツに顔を伏せる。うううとわざとらしく老体ぶってみせても相手が英智ではまったく甲斐もない。
どこから風が吹くものか、守沢の髪がひよひよとはねている。かすかにひなたの匂いがした。深海くんと仲良し同士こういうところも似るものかのと現実逃避がてらにぼんやりと考えた。
眠るときばかりは静かな、その姿をしばし眺める。
特定のだれかに固執するものばかりが集ったあの場に、ただひたすらにみなの幸いを願うヒーローがいたことの意味とは、
「……あのとき守沢くんがその矛盾とやらをついておれば我らは全員共倒れじゃったな」
『千秋は優しいからわかってても指摘はしないだろうとはおもったけどね」
可能性の提示だけでも抑止になるかなあと思ったんだけどまさか誰も気づかないなんてね、と英智はひとごとのように言う。ついでとばかり手をのばし、敬人の眼鏡をはぎとった。
「だいたい敬人もばかだよね」
鬼龍くんを担ぎだしたりするからややこしくなるんだよ、と、呆れたような口ぶりでいて、幼馴染に向けられたまなざしは優しい。
眼鏡を机に置き、ばかだよと英智はくりかえす。
「それこそ最初に言ってたみたいに用心棒として陰に控えてもらってるだけだったらよかったのに。要領悪いくせにへんにまじめに鬼龍くんの望みまで叶えてあげようなんてするから。その結果わざわざ君のまえでなかよしアピールすることになったの、本末転倒だよね」
いったいどの口でそのようなことを言うものか、かつての自分のふるまいを忘れたわけでもないだろうに英智はにっこりとする。
面倒な男じゃのとわざわざ決めつけてやるほど親切でもないから、零もまた笑みを返すにとどめておく。
英智のしめした物語のさきをすでに自分は知っている。
敬人は全能の神のまねごとをしたつもりで、自分は敬人をあしらったつもりで、気づけばそこから世界はずいぶんとゆがんでしまった。五奇人だの生徒会だのと、どこから手筋を間違えたものか、ふりかえればそれはあのライブハウスからだったかもしれず、けれどもはや因果などどうでもいいことだった。
敬人はひっそりと眠っている。
嘆きも怒りもとっくにおたがい弾切れのくせ、まだ懐にしのばせているふりをしてどうにか日々を過ごしている。
「こじらせた挙句にひらきなおって好きな子の憧れてるヒーローになりきりごっこしてるきみには、みんなのヒーローをめざす千秋はさぞかし眩しいだろうね」
「……天祥院くんはいじわるじゃの」
「唯一の親友だの同志だのさんざん持ちあげといて、結局不良の溜まり場にほったらかしにされたんだよ。忘れてたのに役者が揃って思い出しちゃったからね。いやみくらい大目に見てほしいな。だいたい死に体のきみをお寺の子の敬人が救うなんて、普通なら施餓鬼供養で十分だろう? それがデッドマンズだなんてね。一緒に死んでくれるなんてきみには夢みたいなものじゃない? なのに有り難がるどころかわざわざアンデッドなんて名乗って、まったくほんとにひねくれてるよね」
つけつけと英智が言うのに、零はよよよとシーツに顔を伏せてみせる。
「守沢くんどうか起きておくれ、この男をなんとかしておくれ」
「ははは。やめてよ、せっかく静かな夜なのに」
英智は言い、そうしてふいと立ちあがった。
「ベッドはとられちゃったしね。お茶でも淹れようか」
キッチンに去っていく、その背を零はぼんやりと眺める。律儀なものじゃとつぶやいた、声はおそらく届かない。
どちらのものか、かすかな寝息がときおり耳をかすめる。
渦中にあったときなら思いもしなかったような穏やかな景色がそこにある。
横たわったまま、敬人の寝姿をしばしながめる。
子どもの頃と変わらないそのおもざし、ふと手をのばしたくなったけれどもやはりやめておくことにする。
ばかだよね、という英智の声が耳によみがえる。
「……ほんにのう?」
もはや身に染みついてしまった架空のヒーローの口真似とともに零はゆっくりと目を閉じた。