私が私たちであるように 1 テイワットの七国へアビス教団より和平同盟が申し入れられた。しかしその内容は各国を困惑させるものであり、いずれの国も沈黙してしまうものだった。
長年七国と争いを続けてきたアビス教団。カーンルイアに存在しながら、すでにその勢力は別の国家といっても違いない。その最高指導者は金髪の双子であり、彼等からは王子と姫と呼ばれる存在である。見目麗しい双子は自国からも他国からも目を惹く存在であった。
教団からの申し入れはこうだ。曰く、和平の証としてアビス教団最高指導者である姫との婚姻を希望すると。
各国の神々はこの申し入れをどうするべきか測りかねていた。
モンドはそもそも風神バルバトスが国を収めていないため、西風騎士団や一部の貴族達が検討しているだろう。
璃月も岩神モラクスが逝去したため璃月七星が検討を。
神が実権を握っているスメールでは草神ブエルが教令院の六大賢者達と検討し、フォンテーヌでは水神フォカロルスが最高審判官と、そしてナタ、スネージナヤもそれぞれどう返答するべきかを考えているだろう。
それは、稲妻を納める雷電将軍も同じことだった。稲妻は雷電将軍の統治の下、細かい政策を三奉行が担っている。もし、稲妻でアビスの姫を受け入れるとしたら三奉行のうちの名門となるだろう。
しかし、勘定奉行の柊家と天領奉行の九条家の跡取り達の婚姻が先日決まったばかりである。そもそも柊家は一人娘であるため除外される。勘定奉行の他の名家か、天領奉行の九条家、または他の名家。そして、あるいは――。
「将軍様」
雷電将軍の側に支えていた九条裟羅が声をかけると将軍は閉じていた瞳を開いて前を見据えた。
「来ましたか、通しなさい」
「はい――入れ」
将軍の言葉に裟羅は扉へ声掛ける。
「失礼致します」
聞こえてきたのは年若い男性の声。しかし、はっきりと聞き取れる芯の通った声であり、その声から扉越しでも信念を感じられる。入ってきた男性は声の通り若く、青年と捉えてもおかしくなかった。白い衣服は彼の高身長と細身の身体を際立たせ、とても清潔感を感じる。しかし、彼が一流の剣術の使い手であることを将軍は知っている。そして、いつもは内心が読めないような柔和な笑みを浮かべているのに対し、今日は笑顔を消し去った真剣な表情を浮かべている。
その様子に将軍はおや、と思った。彼は、雷電将軍も認めるほどの忠誠心を持っている。そんな彼が将軍に対していつも笑っているわけではないが、将軍と対面している時でさえも内心がわからないよう微笑を浮かべていることが多い。だから、素直に珍しい、と思ってしまったのだ。彼は雷電将軍に頭を下げ、礼を尽くした。
「突然の御拝謁、誠に申し訳ありません」
「いいえ、貴方のことですから余程重大、かつ急を要することだと判断しました。――神里綾人」
「はい」
名を呼べば彼はようやく頭を上げた。
神里綾人。現社奉行を担う神里家の若き当主。人々は彼のことを奉行様と呼んでいる。三奉行の中で形式的に鳴神大社と関わりがあり、雷電将軍の眷属である八重神子と関わりがあるもの。
今の稲妻で八重神子以外に雷電将軍へ近づくことができるのは、九条裟羅か綾人ぐらいだろう。
「それで、どのような要件ですか?」
「今、七国へ申し入れられている和平に関してのことです」
僅かに感じていたものがあり、将軍はじっと綾人を見返す。綾人も変わらず真っ直ぐに将軍の瞳を見ていた。
「この栄誉を、私にいただきたいのです」
その言葉に将軍は一瞬瞳を見開き、ゆっくりと閉じた。再び瞳を開いた時には先ほどとは違う慈愛の色がその瞳に宿っているがこの場にそのことに気づくものはいない。
「……それは、貴方がアビスの姫を娶る、ということですか?」
「はい、将軍様に、かの姫君に許されるのであれば私はその栄誉を受けたいのです」
栄誉。他の国々はおそらくアビスとの和平、停戦を求められるなら願ってもないだろう。今までテイワットを飲み込もうとしていたアビスの力を、突如異界から現れた金髪の双子が最高指導者になったことで教団を変えていったのだと聞いている。金髪の双子は何故かテイワット存続に好意的であった。だからこそ、教団が停戦の条件として提示したこの婚姻をどうにかして受け入れたい気持ちはある。
ただ、それは自国の民を人柱にすることと同意でもあった。男性神が存続していれば彼等に、という手段もあったがあいにく風神も岩神も今は国を統治はしていても政からは手を引いている。
民を人柱にする。それは本当に栄誉だろうか、と雷電将軍――否、雷電影は疑問に感じている。
「それは、貴方が社奉行当主としての義務だからですか?」
テイワットのため、ましてや稲妻のため。彼が忠誠心が固いことを知っている。しかし、それが彼が神里家を、家族を守るための手段であったことも影は気づいている。彼が神里家を守るために死に物狂いで努力していたことも、手を汚したことも、辱めを受けたことも。その全てを、影は知っている。
「それもありますが……実は、恥ずかしながらかの姫君に一目惚れしてしまいまして。ほとんど諦めていたのでこんな機会二度とないと思いまして」
少し照れたように笑う彼の意図はやはり影には読み取れない。ただ、今影が承諾しなくとも綾人の決意は固く曲げられないことは悟った。
「神里家の他のものは、承知してくれていますか?」
主に、彼の血縁である白鷺の姫君が了承しているのか、彼が家族の反対を押し切ってまで自身を人柱にしようとしているならそれこそ影は、思考を駆使して止めなければならない。
「初めは心配されましたが、説明して妹は納得してくれました。家臣たちも同じです」
神里家、並びに社奉行の総意である。そこまで言い切られてしまえば、影はこれ以上反対する意はなかった。
「わかりました。では、七国並びにアビス教団へ文を送ります。此度の大役、貴方にお任せします」
「有り難き栄誉、御拝命致します」
深々と頭を下げる綾人を影は少し複雑な気持ちで見つめ続けた。
彼の本心は、どこにあるのだろうか、と。
その数日後、稲妻から各国とアビス教団へ文が送られる。
アビス教団との和平同盟の証として、稲妻の社奉行当主、神里綾人とアビス教団の姫君との婚姻を受け入れたいと。
それに対し、各国、そしてアビス教団からは同意の文が雷電将軍の下に届き、この婚姻はテイワット中に知れ渡ることとなった。
1.雨雲は晴れない
婚姻が決まってから、初めての顔合わせは神里屋敷で行われた。初めはアビス教団があるとされているカーンルイアへ赴くことを提案していたが教団はこれを拒否し、かの姫を稲妻へ向かわせること、これは姫に意志であると返答した。これに対し、稲妻城・天守の一室を用意することを雷電将軍は提案したが、姫はこれも拒否した。曰く、嫁いでしまえば姫でなくなるため将軍の手を煩わせることはないと。そのため、綾人は神里屋敷で顔合わせを行うことにしたのだ。
屋敷の門の前で綾人は鈍色の雲に覆われた空を仰ぐ。もしかすると、この後は雨が降るのかもしれない。その前に、到着するといいのだが。
コツコツ、と軽い足音がして綾人は視線を音の方に向けた。鎮守の森から歩いてきているのは真白い花。気高く、可憐で、美しい姿はおよそ人でないようにも見える。透き通った白い肌、淡い金色の髪は動く度に揺れる。
まさか、一人で訪れるとは綾人は思っていなかった。
綾人の目の前まで歩き、その足は止まる。
「……ようこそ稲妻へ。遠いところからお越し頂き申し訳ありません。まさかお一人で見えるなんて」
「私には護衛なんて不要です。私の実力なら、貴方方の方が詳しいと思いますが?」
ふっと笑う表情は美しい、がその瞳はとても冷たい。これについては、予測していた。姫の実力は綾人も知っている。何せ、和平同盟の呼びかけを初めに始めた頃から、彼女は一人で各国へ行っていたのだから。
そして、その目からこの婚姻が彼女の本意でないことも綾人は理解した。
「正式にお会いするのは初めてですね、私は何度か貴女の姿を見かけていましたが」
「そうですね。私を気にかけてくださったのですか。社交辞令でもありがとうございます」
綾人の言葉を本意とは受け取っていないようで綾人は内心で苦笑する。この姫と関わっていくのは長期戦になる、むしろこの婚姻を決めた時から覚悟していた。
「改めて、神里綾人と申します。以後、よろしくお願いします」
「蛍です。お会いできて光栄です。――貴方はいつまで私に耐えられるのかしら」
妖艶に笑う蛍に綾人が手を差し出すと彼女は躊躇いなくその手を取る。触れた手は冷たく、まるで彼女の心を表しているよう。
手を引いて神里屋敷の中へ入り大広間にたどり着くと用意した席へ座らせる。座布団が敷かれているとはいえ、床に座ることは抵抗あるのだろうかとも思っていたが蛍は何も言わずに促された席へ座った。そのことに綾人は少しだけほっとし、机を挟んだ彼女の向かいに座る。真正面に座るのは圧があるだろうかとも思ったがかと言って隣や斜めに座るのも変だろう。
「私が座るか心配でしたか?ここは稲妻です。国の伝統に則るべきでしょう」
「おや、そんなに私はわかりやすかったですか?」
「ええ、貴方でもそんなこと気にするんですね。お飾りの婚姻なのに」
「できれば、貴女にはこの国を好きになって欲しいですから。気を配るのは当然でしょう?わざわざ国を出て来ていただくのに、窮屈な想いをさせたくもありませんし」
言葉の端々から棘を感じる。この婚姻に関して綾人はある仮説を立てていた。蛍は、この婚姻に不満があるのではないかと。彼女の反応からして、結果は半々といったところだろう。
蛍は婚姻そのものに反対こそしていないが、納得もしていないようにみえる。
「素晴らしい愛国心ですね。さすが社奉行様。国のために自分を売るなんて大した忠誠心をお持ちですね」
この皮肉には少し裏があるように感じるが今それを指摘してしまっても、彼女の機嫌を損ねるだけだろう。綾人は笑顔を浮かべて口を開いた。
「愛国心も将軍様への忠誠心も否定はしませんが……私は貴女に惹かれているから、この婚姻を申し込んだんですよ」
「……私を好きになるなんて、有り得ません」
そう言って蛍が視線を逸らし手しまい、それ以上会話が続くことはなくお開きとなった。
会話をしても二人の想いが交差することなく、というより蛍は綾人を全く受け入れる気がないようで綾人の言葉に対して皮肉で返すことが多かった。しかし、綾人はその言葉には裏があるような気がしてならなかった。彼女の棘のような言葉は突き刺さりはしても中身が空洞のように感じられた。
そして、迎えた婚姻当日。これも、稲妻式の和風の式典で行われた。
白無垢を身に纏った蛍は普段以上に透き通った光のように輝いていた。線の細さ、色白さが際立っている。純白の絹に神里家を象徴する椿の刺繍が施されている。しかし、身に纏っている蛍の表情には、いつものような余裕な表情もなく、ただ無表情で綾人の隣に立っている。
蛍側の出席者は肉親である双子の兄、空のみであった。空と向かい合っても彼女は声を掛けず僅かに微笑むのみで、兄の方が不安気な表情を浮かべていた。ただ、彼女の笑みが普段と違うことだけは綾人にもわかった。あれは、おそらく本当に心を許したものにしか見せられない笑顔なのだろう。きっと彼女にとって心を許せる存在は、兄しかいない。
少しでも、心を許してほしいと思う反面、それは望みすぎなのだとも綾人は思う。
だから、せめて。彼女が苦しむことがないように接していきたいと心に誓った。
「今日は別々で休みませんか?」
式を終えて、神里屋敷に戻ってきた夜。家臣たちに湯浴みされ真白い和服の寝巻きを着た蛍が静かに綾人の私室に訪れた。綾人が手を引けばゆっくりと歩いて、敷布団に座るよう促せばそのまま座る。その向かいに、敷布団の外に座り込んだ綾人は、ゆっくりと冒頭の言葉を切り出した。
ずっと考えていたことではあった。何も必ず初夜を行わなければいけないというわけではない。
「それはどうしてですか?」
「貴女は、私に触れられるのは本意ではないでしょう?」
綾人の言葉に蛍は俯いてしまう。ここまで来た彼女の想いを無碍にしてしまっただろうか。しかし、綾人としては、これが白い婚姻でも構わないとさえ思っている。蛍に無理を強いるつもりはない。
「……ふふっ」
くすっと鈴のような声が室内に響いた。この部屋には、綾人と蛍しかおらず声の主は目の前の少女だけ。綾人の言葉に彼女は笑ったのだ。
「本当に貴方は、優しくて――可哀想な人」
刹那、身体が金縛りにあったように自由が効かなくなる。ただ、違うのは怪奇にあったような背筋の凍る感覚がないこと。呆然と目の前の少女を眺めているとゆっくりと蛍は顔を上げた。その表情は綾人の前でよく見せる妖艶な笑みで、ただ少しだけ哀愁が混ざり込んでいる。
「私なんかに囚われて、国のために差し出されて、それでも私の機嫌を窺わなくちゃいけない。例え、本当に私を思ってくれたとしても、私は貴方には靡かない。――私はただ一人、空のためにいるの」
首元の衣服を掴まれ、綾人は敷布団の上に押し倒される。特別彼女の力が強いわけではない。何かの力、おそらくアビスの力なのだろうが、その力によって拘束されいる。
「私は空のために、この婚姻を受け入れないといけない。それが、今の私にできることだから。――だから、貴方は大人しく、私に食べられて?」
人を魅了する妖華のように蛍は笑い、動けない綾人に口づけた。
*
温もりを感じながら、蛍は目を覚ました。今日は、怖い夢を見なかった気がする。いつも一人で眠ると誰もいない宇宙を彷徨う夢を見て、兄である空の温もりを感じて安心するのだ。
しかし、今感じている温もりは兄のものではない。
瞳を開けば、まず目の前に整った筋肉が見えた。そのまま視線で辿っていけば、薄い水色の髪の男性に乗っかったまま蛍は眠っていたことに気づく。そして、すぐに何があったのかを思い出して一瞬身を固くした。
初夜を終え、彼をアビスの力で眠らせたあと、蛍は静かに部屋を出ていくつもりだった。しかし、予想以上の疲労感に起き上がれず、少しだけと彼の真上で力尽きてだいぶ時間が経っているようだ。
綾人は静かに寝息を立てており、起きる気配はない。少なくとも、そのことに蛍はほっと胸を撫で下ろした。今のうちに、この部屋から退室しなければならない。
『綺麗です』
ふと彼の言葉を思い出す。情欲に濡れた恍惚とした表情でもなく、純粋に眩しいものを見るような瞳。そんな瞳で自分を見るものを、蛍は知らない。
彼の言葉には嘘がないのかもしれない。そう思ってしまいそうになるほど。
少なくとも、綺麗だと言ったあの時の彼の言葉は本心であったことだけはわかる。
「……どうして」
アビス教団の姫という立場の自分と、和平のためとはいえ婚姻を結ぶものがいるとは思っていなかった。もし娶られたとしても自分を情欲で見る穢れたものか、その国で白い婚姻、ただの飾りとなるのだろうと思っていた。
だから、相手が誰であれ蛍は婚姻したことを各国とアビス教団へ証明しなければならなかった。
綾人は、蛍に一目惚れしたのだと言った。しかし、その言葉を蛍は素直に信じることはできない。
「……ごめんなさい」
綾人は目覚めない。それでも何故か口にせずにはいられなかった。
聞こえるはずのない謝罪を口にして、蛍は眠る彼に口づけた。
その衝動的に行った行為が、どういった理由で、感情で湧き上がったものなのかを理解することができないまま。