念願かなって、ラーハルトがスイートハート・ヒュンケルと一つ屋根の下で暮らし始めてから早数年。毎日がバラ色であった。
人間などという惰弱な種族は大嫌いだったはずが、それが相手がヒュンケルとなると、痛がっていたら撫でてやろうと思うし、寒がっていたら温めてやろうと思うのだ。儚さが庇護欲をそそる。しかしながら、いざ戦いとなるとビシバシに闘気で焼き尽くしてくるという苛烈さ。脆いくせに強い、その危なっかしいギャップも堪らない。まさに魅力のデパート。唯一無二。
勇者ダイが雄々しい獅子のようでおもわず平伏したくなるタイプだとしたら、ヒュンケルは鋭い目付きなのに触ればモチフワの柔らかい猫のようでおもわず揉みたくなるタイプ。事実揉んでいる。まさに猫かわいがり。でも猫よりかわいい。
とまあ、脳内を常春の満開お花畑にしているラーハルトであったが、本日は勇者とその仲間達の集いに参じている。要は同窓会のようなものだが、ダイもヒュンケルも参加するとなればラーハルトには出席しない道理は無かった。
広間には、大魔王との決戦に参加した面々がわいわいと集っている。竜の騎士の従者たるラーハルトはその喧噪から距離を置き、キリッとした顔で壁際に控えていた。
向こうでヒュンケルとポップが、『アバンの使徒男子三人会』の次の催しについてを話し合っている。いつもは森の散策やダンジョンでの修行が多いようだが、今度はどこへゆくのだろうか。ダイとヒュンケルをあまりな危険に晒すわけにはいくまいと聞き耳を立てる。ちなみに『アバンの使徒女子二人会』も存在するらしいが、そちらはラーハルトはぜんぜん興味がなかった。
「沸騰してる源泉掛け流し ダイはともかく、おれらははいれねえに決まってんだろ! おれもヒュンケルも人間なんだぞ!」
行き先について提案をしたクロコダインは、ポップに怒鳴られて目を見開いた。
「む……。そういうものなのか? オススメの温泉だったのだがな。すまん、オレは人間の生態には疎いようだ」
後ろでラーハルトも目を見開いていた。
人間は沸騰した風呂にははいれない?
プンプン怒るポップの後ろで、ヒュンケルが申し訳なさそうにボソリと呟いた。
「はいれるが」
そうなのだ。ラーハルトは交合の余韻でくったりと蕩けたヒュンケルを抱えて一緒に風呂に入ったことなど何度もある、というか毎回そうしているのだが、しかし湯の温度の加減などはついぞしたことがなかった。入浴中に薪を足そうとすれば湯船で抱えたヒュンケルを一旦手放さなくてはならなくなるため、薪は最初にガンガン突っ込んでおいた。なのでポコポコ沸騰していた。
「人間の快く感じる温度とはどれくらいなのだ?」
「さあ……んなの測ったことねえし」
クロコダインの質問にポップが答えられずマゴついていると、ひょいとアバンが話題に割って入った。
「それはものによってマチマチですねー。個人差もありますが、気温なら20度から25度、お風呂なら38度から43度、ポタージュなら75度から85度を適温とおもう人間が多いのではないでしょうか」
ヒュンケルを熱湯に浸けていたラーハルトはドッと冷や汗を掻く。
人間の風呂の適温が38度から43度。ならば100度では程遠い。
ラーハルトの焦りに追い打ちを掛けるようにポップが声を荒げる。
「マジで覚えといてくれよな! 適温とかいうレベルじゃなくて、グツグツしてる湯にはいったら人間は死ぬからな! ヒュンケル基準で考えてくれるなよっ」
「いやポップ、オレとて別段、沸騰してる湯が心地よいというわけでは……。はいれる、というだけで……」
ヒュンケルの遠慮がちな言い訳に、ラーハルトはガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。
何年もずっと我慢をしていたのか、オレとの湯に。
人知れずそっと目頭を押さえた。
なんという愚かな事をしてしまっていたのだ。自分を受け入れてくれた恋人をやさしく包みこみ、蝶よ花よとベロベロに慈しんできたつもりが、まさか愛しい人をグツグツ煮込んでしまっていたとは。
すぐに改善せねばなるまい。目指せスパダリ。王子様。どうか姫よ待っていてくれ。
必ずや極上の湯を味わわせる。
ガチムチの戦士にとって風呂の用意はさほどハードルの高いものでもない。なにせ、体力に物を言わせて山のような木材を持ち帰れるし、薪割りなんぞは片手でスコンスコン行える軽作業なので苦もない。それに、べらぼうな腕力があれば鋳物の風呂釜を持ち上げてバケツよろしく川でザバッと直接に水を汲む事だって出来る。ざっと200kgはありそうだが現役を退いたヒュンケルですらそれくらいはやれるのだ。樹木と河川へのアクセスが良い土地にさえ家を建てておけば沸かし放題であった。
湯屋は、火を使うので火事への用心として本宅からは離して立ててある。簡単な囲いと屋根だけの掘っ立て小屋だ。覗き対策というよりは唯の風雨避けであるが、仮にヒュンケルの裸を見る者が居たならば命の保証はできない。
水汲み完了。薪の準備完了。湯沸かし開始。
仕上げに、台所から持ってきた水銀温度計を風呂のフチに直接付かぬよう先っぽだけ水に沈めて、棒と紐で固定した。
「よし」
「ここにいたのかラーハルト」
「ちょうど良いところに来た。風呂に入れ」
戸を開けた途端に入浴を要求されたヒュンケルは首を傾げた。
「日もまだ高いし……汗は掻いていないが?」
日が落ちてからやる汗を掻く行為を連想したらしいヒュンケルの照れ顔に内心ガッツポーズをするが、こたびの趣旨はそれではない。
「おまえに最適な湯の温度を調べたいのだ」
「……聞いていたのか」
「今まで済まなかった。熱かったろう」
悔やむラーハルトは目を伏せたが。
「案ずるな。オレは子供の頃、父にこっそりハドラーの湯殿を使わせられていてな。熱い風呂には慣れているよ」
ヒュンケルは気にするなというふうに苦笑を零した。この奥ゆかしさが推せる。非常にイエスだ。絶対に風呂で気持ちよくなってもらう。
ラーハルトは素早くヒュンケルに詰め寄り、左手を後頭部にかけて顔を近付け、右手で顎を捉えて上を向かせた。なお実際はそこまでの身長差はないのでチョット背伸びしている。
「入ってくれ、ヒュンケル。オレなどは熱湯に入ろうが、氷水に入ろうが大して影響のない体なのだ。ならば、おまえが好む湯が知りたい……!」
「あ、ああ……わかった」
勢いで押したら言うことを聞いてくれるのは、愛されているなとホクホクもするのだが、こいつよく今まで無事だったなと心配になったりもする。まあこれからはラーハルトがしかと守るので問題ない。
「オレだけ入るのは、なにやら面映ゆいな」
衣類を置く台の前で恥ずかしそうに脱ぎ始めたヒュンケルに内心サムズアップする。生ヒュンケルのストリップ。いや別に焼きヒュンケルとかないが。後ろを向いているからズボンを脱ぐとき動く尻が見放題である。尊い。あらぬところがスタンディングオベーションしそうだ。慌てて温度計に視線を移す。
現在30度。ここから徐々に温度を上げればヒュンケルが気持ちよいと感じられる湯の温度が探れるであろう。
風呂釜の竈部分にしゃがんでいたラーハルトは、浴槽への小さな階段を登ってゆく全裸のヒュンケルを熱く見つめる。片足を上げた股の全貌を下から眺めるという絶景に、手にした薪を落としかけた。いつもは彼を抱えて入るのでニュービジョンだった。心のアルバムにしかと保存した。なんとありがたい。
とぷん、とヒュンケルが湯に浸かった。
「適温が来たら言えよ?」
「ん……」
しかし、温度計を確かめながら慎重に薪を足しているのに、40度台の半ばを超えても一向にヒュンケルから声が掛からない。38度から43度ではなかったのか。
「もしかして遠慮をしていないか?」
「いや?」
「まことか?」
これまで煮立つ湯に浸けていたのはラーハルトの落ち度だ。それを咎めまいとして、ヒュンケルは適温を高めに申告する気ではなかろうか。
新たな薪の投入を躊躇していると、ヒュンケルが風呂のフチに手を掛けてひょっこり顔だけ見せてきた。巣穴から見下ろしてくるリスみたいだ。屈強な戦士の唐突な小動物感にときめく。
「オレとおまえの仲だ。誓って、嘘はない」
ヒュンケルが誓うのであれば偽りではあるまい。ラーハルトは薪をくべ足して、竹筒で吹いた。
温度は50度を超えた。まだ声は掛からない。
「ヒュンケル……おまえ本当に人間なのか」
「そのはずだが」
脆いとか儚いとかいう人間の概念を裏切り続けた男は、メラメラ勢いよく燃える火の上で、白い湯気の立ちすぎている風呂に悠然と浸かっている。
60度、70度……。もしや、彼が知らぬだけで彼は人間ではないのか? 見た目が人間なだけなのでは? だがしかしそんな種族は発見されていないぞ?
ラーハルトが悶々としていると。
「ん……、いい湯だ」
はあ、とヒュンケルが気持ちよさそうに吐息した。
ラーハルトは温度計を見た。
「……80度?」
ようやく分かった。ヒュンケルは人間ではない。ポタージュだったのだ。
SKR