酒を飲もうと誘われた際、ゆかりのない土地の山小屋を指定されたことに違和感を覚えないわけではなかった。しかし気の置けない仲ゆえに場所の理由を突き詰めはしなかった。
まんまとおびき出されてしまった訳だ。この、誰も探しに来ることのない辺境に。
「もう我慢できない。おまえをオレのものにする」
そう宣言された時はしたたか驚いた。
彼とは魔槍を譲り合った間柄だ。信頼をしていたし、自分と同じく実直な武人であると疑ってもいなかった。
それが、いざ帰ろうとした段になって突然ベッドに突き飛ばされたのだ。避けるよりも戸惑いが勝ち、無抵抗にシーツに尻を突いた。
覗き込まれてやさしげに微笑まれたら、ゾッとした。見知った男とはまるで別人だ。異常者という表現がしっくりくる。
「逃がさんぞ」
男は布団の下に隠してあった足枷を取り出した。そんな物まで準備していたとは。
足首が持ち上げられて、片方ずつ丁寧に靴を奪われた。
こちらに有利な体勢だ。ここで顎でも蹴り上げれば一撃で仕留めることすら可能だ。そんなことくらい相手だって百も承知している筈、なのに反撃を心配するような素振りが彼にはまるでない。隙だらけだ。
ずいぶん信頼されたものだと脳裏で嘯くものの、実際、反撃する気にはなれそうもない。自分にとって彼はそれほどに大切な人なのだ。
取られた素足に足枷が近付いてくるのを甘んじて待った。ひたりと冷たい感触が足首を包んだ。枷のちょうつがいがゆっくりと閉じられ、合わせ部分にかんぬきを入れられ、錠前が掛けられるのを、両足分、長々と傍観した。
鍛えきった身にもズシリと堪える重量だ。一体どのような材料を用いればこれほど重い枷が作れるのだろう。これでは歩くのがやっとだろう。
明日には引き受けていた仕事がある。自分が現場に現れなければ迷惑を掛けてしまう。
「いま、おまえ、誰か他のやつの事を考えていたな?」
図星を突かれてヒヤリとし、見上げれば彼の瞳は暗がりに爛々と輝いていた。
「……おまえのことも無碍に扱ってはいなかったはずだが?」
静かに見詰め返すと、眼光の威圧は夢見るように蕩けた。
「そうだ。そうやってオレだけ見てろ」
「……」
この男は一体いつから壊れていたのだろう。大魔王を倒した頃からか。その後に勇者が帰還した頃からか。
それとも出会う前からか。彼とて過酷な幼少期を過ごした者だ。精神の歪みはいつもどこかに内在していたのかも知れない。
「なぜ……?」
なぜ、これほどの暴挙に及んだ?
命をくれてやっても良いほどの友。彼の為ならばどんなことでもしてやる用意がある。しかし。
「絶対に逃がさんぞ」
交渉の余地が見いだせない。今日中の解決は諦めた。
狂った男との生活が始まった。
一体どんな想いを抱えてこの両足に枷を嵌めたのか。時間を掛けて理解を試みようと、ひとまずは忍耐を決め込んだ。
しかしながら己を閉じ込めた男は、意外にも甲斐甲斐しく衣食住を整えてくれた。衣は毎日洗われ、三食は抜かりない。寝具はしっかりとふた揃いあって別々に眠る。不埒な行為をされることもない。とんでもなく暇なことを除けば、拍子抜けするほどに快適な監禁であった。まるで親しい家族だとしてもおかしくないほどに。
狭い平屋だ。いつも視界内に互いが居る。
台所に立っている男の後ろ姿をベッドから眺める。
「出来たぞ」
「……」
重りの付いた足を鈍く進めて、食事の並ぶテーブルに着いた。
「この味付けは上手く行ったな。クセが強い香草なので扱いが難しかったが、臭み消しには丁度よかったようだ」
「……」
気心知れた友だったはずが、今は得体の知れない生物のようだ。監禁の当初から胸にうずまいている『なぜ』の答えがまるで見えてこない。
「こんなことして何になる。いい加減にやめないか」
言葉を以て諫めてはみたが。
「美味くなかったか? なら今後このメニューは控える。それももう残していい……」
話が通じない。
彼があまりに悲しそうに悄気るから、それ以上を追求できずに黙って料理を口に運んだ。
そんな虚しい食事が終わろうとする頃。
「本当はそんな枷くらいラクに千切れるんだろう? おまえなら」
他愛のない軽口のように核心を突かれて、ギクリとスープを掬う手を止めた。
差し込まれたかんぬきは唯の鉄である。やれば出来るだろうが、しかし。
「オレはおまえになにかしてやりたいから此処に居るんだ」
だから逃げるつもりはないのだ。それが偽らざる本心なのだ。
けれど真摯な訴えは届かなかった。
「絶対に逃がさんぞ」
「……」
目の前の男の真意の分からなさに奥歯を噛んだ。
彼が求めてくるのは、軽いハグと食事の同席。そればかりだった。
その間にも、激昂したり、嘆いたりと情緒の不安定さに止めどがなかった。
絶対に逃がさんぞ。
事あるごとに耳にそう吹き込まれる。それがもしも大声の脅迫であったならば口論にも至れたろうが、実際には不安そうな小声で縋り付いてきたりするものだから、きつく言い返すのは憚られた。
たしかに自分はこの男だけを大切に思っている訳では無い。彼に死んでくれと請われれば応じてやるくらいの覚悟で此処には居るものの、だが彼以外にも命を賭けるに足る存在はある。もしも彼の望みが、この心から他の者すべてを追い出すことなのであれば、永遠に叶えてやることは不可能なのだ。
してやれることが何も無い。
あの誇り高い男が正気を失っているさまが憐れで、ここに来てから沈んだ顔ばかりしている自覚はあるが。
「他のやつへの笑顔ほど腹立たしいものはないが、オレに笑わないのも許せない」
苛ついた声色で強要されても、笑顔は口角が引き攣るばかりだった。何度も作り笑いに失敗して、そのうち疲れてしまった。
「笑ってくれ、頼む」
最後には涙声で腹をかき抱かれたが、それでも表情は上手く作れなかった。ベッドに腰掛けて足を見下ろした。
枷が重い。
延々と『なぜ』の答えを探し続けている。
理不尽な仕打ちを受けているにも関わらず、それでもなおも彼のことは憎からず思っていた。どんな事をしても救いたかった。だから例えばもしも、体をつなげたいというのであれば、それくらいの些細な希望ならば喜んで頷いていただろう。
なのに待てど暮らせど彼の要求は、ここに居ろ、だけだった。
だから。
「なあ」
腹に置かれた頭を撫でてやり、床に着いた足の枷を示しながら提案をしてやった。
「重りと言わず、両足とも切ってくれてやろうか?」
そうすれば彼が安心できるのであれば悪くはない。
だが彼は目を見開いて震え上がった。
「なんと恐ろしいことを言うのだ! この美しい足を切るだと!? そのようなこと……二度と口にするな!」
男はかんしゃくを起こしたかと思うと、今度は力なく崩れ落ちて。
「おまえと居たいんだ。そのままここに居ろ。ずっとだ」
肩を落として、床板に手を突いた。
項垂れながらも絶対に逃がさんぞ、とオウムのように繰り返す男に、途方に暮れるしかなかった。
「買い物に行ってくる」
男は何日かに一度はこうして物資の調達に出かけた。なし崩しに月日ばかりが経過していた。
ベッドの上に一人で佇む。
行くか、戻るか。揺れる心に決着をつけた。
もういいだろう。彼との対話に解決の道はない。他者の協力を仰ぐべきだ。
逃げよう。
素足を床に着け、陽光の射してくる窓辺へと歩いた。
だが、何気なくそこへ手を伸ばして驚愕した。絶対にあるはずだとおもっていた結界がない。指先はひたりとガラスに触れられたし、内カギも容易に解錠できたし、窓も外開きに押すことができた。腕を出せば肌が外気に吹かれた。
馬鹿な、と。
慌てて部屋を振り返り、重い足で玄関の前に立った。
内側からは一度も触れたことのないドアノブに手を掛けて捻ると、きい、と簡単に外へ通じた。
カギの掛かっていない扉と、壊せる強度の拘束具。
──絶対に逃がさんぞ
やっと分かった。逃げろという意味だったのだ。なんのことはない、『なぜ』の答えは初日にきちんと聞いていた。
──もう我慢できない
だから男は、手の届かないところまで逃げてくれることを望んだ。彼が、誰も居ないこの部屋を発見したときに、彼の望んだ永遠の別れは完了するのだろう。つまり。
「おまえ、正気だったのだな……最初から」
突如、稲妻のように悟った真実が怒濤の思考となって駆け巡る。開いた扉に手を掛けたまま彼を思い浮かべると、逃げろ。絶対に逃げろ。軽蔑して居なくなってくれ。そうしたらやっとおまえを諦められる。そんな声が聞こえてくるようで、今の今まで穏便に抜け出せるのであれば此処を去ろうと考えていたのに。
扉を閉めた。
これでは逃げられない。もしもこれが手管だとすれば大したものだ。すっかり縛されてしまった。
いいだろう。高々、百年足らずだ。
「おまえが死ぬまでは付き合ってやるよ。ヒュンケル」
ラーハルトはようやく作りものではない笑顔を湛え、唯一大切にしてやる予定の男の帰りを待った。
SKR