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    「束縛」 ラーヒュン ワンライ 2025.04.30.

    #ラーヒュン
    rahun

     パプニカ城下に住まうヒュンケルは、ある朝、突然に猫になった。起床したら視界に自分の黒い前足があったのだ。
     特に焦りはなかった。ただ、己の悪行への罰が下ったのだなと理解した。
     黒猫は家を出ることにした。ここの家賃を払う手立ても、もうない。
     バッタを捕まえてみたが口に合わなかった。ネズミは美味かったので、そちらに狙いを定めた。一ヶ月もすれば慣れて調子が出てきた。
     路地裏や空き地での生活も、やってみればなかなか良いものだった。なにせ、これでもうヒュンケルが罪を犯すこともなく、憎まれる姿をさらして人の不快を煽ることもないのだから。
     ただの猫として生きるのは途轍もない開放感だった。道も屋根も森も、駆け回った。行ける限りの場所を気紛れに散策した。
     しかし過酷な日々でもあった。猫の体は戦の傷痕こそありはしないものの、元より人間にくらべれば格段にヤワである。野犬と出会えば死を覚悟するし、ネズミだって簡単には捕まってくれなかった。
     それと気懸かりなのはかつての仲間達のことだ。
     黒猫が状況を伺うためパプニカ城にゆくと、やはり雲隠れしたヒュンケルを捜索する会議が開かれているのを、窓の外から聞くことができた。
     そいつはもう猫であるから、なにも心配などしなくていいのだが。けれどそれを伝える術はない。猫は喋れないのだ。
     猫の厳しさは縄張り争いにもあった。訪れたパプニカ城の厨房や食料庫はネズミが豊富なので良い狩り場であったのだが、それだけに競争率が高く、容易には居座ることを許されなかった。
     黒猫は周囲の猫たちに戦いを挑み、そして城の厨房の縄張りを勝ち取った。
     しかし。
    「きゃっ! いやあね! しっし!」
     スカートを履いた人間にホウキで追われた。どうも、黒い猫は悪しきものであるらしかった。そうであろうと納得をした。猫には、罪深い自分が良きものであるとは到底おもえなかったのだ。
     猫は嘆いた。猫ならばもう誰も傷付けないと思っていたのに、人間を怒らせてしまったことを嘆いた。
     人間は黒猫にバケツで水を掛けたが、必死に飛び退いてこれを回避した。
     その時。
    「これしきで騒ぐな」
     知った声に顔を上げると、ラーハルトが居た。
     彼は、ダイがレオナと結ばれて以来は城勤めをしている。同じ都市に住んでいるので一ヶ月前までは頻繁に会っていた仲だ。
    「……黒猫が居着くのは凶兆ですので……その、申し訳ございませんでした」
     人間は謝罪をしながらそそくさと去って行った。
    「体の色ごときでなにが不吉だ、痴れ者め」
     呟きは独り言なのだろうが、黒猫は、気にするな、と彼の足に体を擦った。
     ラーハルトは偉そうに腕組みして、ふんと鼻を鳴らして見下ろしてきた。
    「貴様、猫にしては素早いな」
     この男に褒められるほどの実力ではないので、首を横に振って否定した。
    「だが動きに無駄が多い。やみくもに手足を動かしても素早さには繋がらん」
     指摘の通り、猫はまだ猫歴が浅く体術には長けていないので、首を縦に振って肯定した。
     するとラーハルトは怪訝そうに片眉を上げて、しゃがみ込んできた。
    「おまえ、まさか言葉がわかるのか?」
     コクリと肯定したら、ラーハルトは見たことも無いくらい毒気のない顔をして目を見開いた。
    「……そうか。ならばおまえに走り方というものを少し教えてやろう」



     気ままな猫は、街をうろつき、山野を駆けたが、狩りとなればパプニカ城の厨房付近を選ぶようになった。約束をしたわけではなかったけれど、夕暮れに行けばラーハルトが現れて稽古をつけてくれるからだ。
     ラーハルトの教えは、走り方、止まり方の基礎から、数日をかけて応用にまで至った。
    「獲物を掴まえるときは風下からが基本だが、向かい風だ。しかし向かい風を利用してスピードを上げる手立てがある。前からの空気は体裁きで上手く流せば後ろから押す力に転じられるのだ。それには疾走中に体の前方を球形に近く保つことが肝となる。おまえの場合であれば頭と肩の形でそれを整えることになる。……分かるか?」
     猫は首を縦に振った。突進力で戦う槍使いの技能に似た論理ゆえ想像は及ぶ。
    「飲み込みが早いな。……では実践だ。ゆくぞ」
     言ってラーハルトは元気なネズミを投げた。ネズミは着地し次第、猛スピードで逃げ出した。
     それを追いかけながら黒猫は、捕っておいたなら渡してくれればいいのに、と一瞬考えたが。
    「よし。よくやった! おまえは筋がいい」
     上機嫌なこの男は、野良で生きる術を教授してくれているのであって、決してエサをくれているのではないのだろう。



     彼の部屋へ招かれた。もっと背が高かったころにはよく訪れていた部屋だ。迷わず椅子に飛び乗った。
    「おまえもそこに座るんだな」
     部屋の主はテーブル越しの向かいに腰掛けて懐かしそうに笑んだ。
     前より小さくなった分、ラーハルトが遠かったのでテーブルに登ったら、今度は手が届きそうなほどに近くなった。
     けれどラーハルトは決して毛並みを撫でることも、そして食べ物をくれることもなかった。それが飼い猫との線引きだからであろう。


     いつも二人で話ばかりしていた。といっても喋れるのはラーハルトだけだが。
    「友が消えたのだ。荷物も持たずに、家具も食器もそのままに、暮らしていた家から煙のように消えたのだ」
     知った話なので相づちを打った。
    「どう思う? と尋ねても答えられはせんよな。オレがどう思うか……の話なのだろうな」
     どう思うのだ? と首を傾げた。
    「この国はあいつにとって窮屈すぎたのかも知れん。かくいうオレにも、いささか窮屈だからな……」
     栄誉ある竜の騎士の従者であれども、パプニカでのラーハルトは種族も所属も完全なる外様である。城では風当たりは強かろう。
    「あいつだけが心許す友だったのだが……」
     と、ラーハルトが遠い目をしたので、前足で宙を掻いて抗議した。
    「そうだな。おまえも居たな。では友よ、明日からも修行に励めよ。野良の極意は狩りの腕前と、威嚇合戦に競り勝つこと。それが全てだぞ」



    「ああ! また居る!」
     訓練を受けはじめてより早、二十日。猫は一躍ネズミ捕りの名手となったが、やはり体の黒さを疎んじる人間はなくならなかった。眉をひそめて行く道を変えられることは常で、追い払おうとしてくる者もあった。
     そういうとき猫は逃げた。逃げて逃げて、あまり人の来ない細い通路まで走る。
     しかし本日は、ガシャンと金属が鳴って網カゴに囚われてしまった。通路に罠が仕掛けられていたのだ。
    「やったわ! はやく川に沈めてしまいましょう」
     黒猫は周囲をスカートに取り囲まれた。毛を逆立たせるが、ただの猫に網を破る手立てはない。せっかくラーハルトが稽古をつけてくれたのに無駄にしてしまった。あと一刻もすれば猫はきっと水の底に居るだろう。
     しかし女たちが黒猫のカゴに寄ろうとすると、作業着の男が立ち塞がった。
    「おい、なにしてくれてんだよ! コイツは食料庫の守護神だぞ? ねずみ捕りのエースだ!」
    「だって真っ黒じゃないの。使い魔かも知れないわ。パプニカにはそういうこと出来るひと多いんだから用心しないと!」
    「そりゃあ迷信だろが。使い魔なんざ、猫だろうが鳥だろうが、どんな色だろうがあるだろ!?」
    「黒猫が一番多いわよ!」
    「どうやって数えたんだよ!」
     庭の片隅の口論に終止符を打ったのは、猫のカゴを片手でかっ攫った男だった。
    「騒ぐなといつぞやに忠告したはずだが?」
     ラーハルトであった。



     その夜、ラーハルトの部屋で彼の帰りを待っていると。
    「待たせたな」
     部屋の主は、律儀に猫に声を掛けながら入ってきた。浮かない顔をしていた。
     折りいった話があるのを察して、彼の事務机に飛び乗り、きちんと前足を揃えて座った。彼は真正面の椅子に座った。しばし見つめ合った。
    「猫よ」
     ラーハルトは猫をいつもそう呼んだ。野良猫に名前は無いからだ。
     だが今夜の彼は、一本の革の首輪を取り出した。予期せぬことだった。
    「これはオレの仕える御方の紋章だ。格好良いだろう?」
     首輪には竜の紋章が銀で押されていた。誇らしげな彼へ猫はコクリと同意した。
    「おまえのことを相談したら、我が主が授けてくださったのだ。しかし……」
     ラーハルトは心苦しそうに声を潜めた。
    「ひとたびこれを着けたなら、おまえはパプニカ城に住まう猫と認められるのと引き換えに、他所には行けぬ身となる。おまえが失態を犯せば身元を引き受けたオレと、引いてはオレの主の名にまで泥を塗ることとなる。ここで食料の守り手としての仕事を得ることになるが、ゆえに街や森で病気を拾わぬよう城に閉じ込められる」
     落胆した。どんな景色の中も走れるあの開放感はもう二度と味わえなくなるのか。
     ラーハルトは首輪を机に置き、猫を見据えた。
    「おまえはオレの二人目の友だ」
     一人目は誰かと推察すれば、背の高いころの自分なのだと思い至った。だったら彼の友は本当は一人しか居ないのだ。
    「おまえが気高き野良猫で居ることを望むならば、無理にとは言わん。ここに住めというのはオレの我が儘に過ぎんからな。……どうする?」
     未来を大きく二分する決断がここにある。首を横に振ればどこへなりとゆける自由な生活が続き、縦に振れば目の前の男ただ一人に生涯を捧げるのだ。
     猫は項垂れた。
     ラーハルトは猫が黒いというだけで追われているのを見過ごせずに助けてくれた。彼も体の色が違うから友が居ないのかも知れない。
     ならば猫はたった一人の友として、彼の側に居よう。
    「……いいのか?」
     机から首輪を咥えて拾った猫は、ラーハルトにそれを差し出して首を縦に振った。
     青い指先は儀式のように厳かに、猫の首に輪を留めた。
    「……おまえの短い一生くらいは、オレが責任を持って面倒を見てやる」
     名を与えられて、猫はラーハルトの飼い猫になった。
     誰にも言ったことはないとのことだが、その名はラーハルトの父の名だったそうだ。内密に頼むぞと請われたので、猫は嬉しくて、初めてニャーと鳴いた。



    「戻ったぞ」
     ラーハルトはどんなに多忙でも必ず帰ってきた。これほど猫好きとは知らなかった。いや、言葉の通じる友であればこそ、なのだろうか。
    「退屈だったか?」
    ──はい。
    「それはすまなかったな。なにか玩具でも用意しよう。……それともおまえ、字も読めるのか? 本の方がいいか?」
    ──はい。
     言葉が分かることを認識してくれていれば、首振りの『はい』と『いいえ』だけでもそれなりの意思疎通が可能となる。便利なものだ。
    「雨の匂いがするな。おまえにも分かるか?」
    ──いいえ。
    「そうか。存外鼻が悪いな」
     はいでも、いいえでもないので猫は首を傾げた。匂いを知らないだけだ。
    「そういえば、おまえは前からこの辺りに居るんだったな」
    ──はい。
    「ならヒュンケルという男を知っているか?」
    ──はい。
     まさか肯定が来るとは予測していなかったのだろう、ラーハルトは仕事着から部屋着に着替える手を止めて、こちらを凝視した。
    「……最近は見たか?」
    ──いいえ。
    「そうか……。まあそうだよな」
     行方を知りたかったのだろうが、猫の意見ではヒュンケルなどという男は存在しなくとも良い。猫は猫であるのが世のためだ。
    「ヒュンケルのことはよく知っているのか?」
    ──はい。
    「ほう? そうなのか。いい奴だろう?」
    ──いいえ。
    「……あいつが嫌いか?」
    ──はい。
     ラーハルトは駄々っ子のように口を尖らせた。
    「おまえ見る目が無いな」
     そうだろうかと首を傾げたら、ラーハルトはゆるいシャツに腕を通しながら語りだした。
    「あの男はな、とてもやさしい奴なのだぞ。己の命よりも他者を優先する、心根の真正直なやつで……」
     そこから延々と続くヒュンケルへの褒め言葉を、片耳をピクピクさせながら聞き流した。
     着替え終えたラーハルトが手を伸ばしてくるから、頭を撫でてもらえるのだなと耳を後ろに倒して準備をしたら。
    「……オレは大好きだったんだ」
     小さい体に大きな両腕が巻き付いてきた。飼い猫になってからはよく触ってくれるけれど、こんな風にギュッと抱きしめられたのは初めてだった。
     そうか、さみしいのか。
     猫は、猫の寿命を思い浮かべた。既に成猫ではあるが、がんばってあと十年は生きることを目標にした。


     一度ラーハルトが、大怪我をしているのに治療もそっちのけで部屋に帰ってきたことがあった。
     取り乱して駆けよったがラーハルトは、おまえに水をやらんとな、と器に注いで、直後に倒れた。
     彼は、猫とは病棟に入れぬからと自室での療養を選んだ。その枕元で猫は考えた。この首輪はどちらを縛るものであるのかと。
     猫は、この城の一部と、彼の部屋にしか出入りできないこの数年にまったく不満はない。ならば損をしているのはラーハルトばかりだ。厳しい仕事を勤め上げて尚、必ず帰宅をして脆弱な生き物を保持する義務を負っている。それが飼うということだ。
     その負担から解放してやりたくとも、猫には野良で生きる為の能力はもう無かった。城に住んで久しい身では不潔な荒野に耐えられまいし、また新しい地を開拓するにも年を取り過ぎた。
     猫に出来ることは最早、ラーハルトをぬくめることだけであった。


     ラーハルトは、外では隙一つ晒さず、力の限り主君を支え、女にも、数ある縁談にも見向きもしない孤高の武人であった。
     だが猫にとっては世話焼きな飼い主であり、そして話し相手であった。とはいえ猫が聞き上手すぎるので、話とはおおむねラーハルトの零す城の出来事の愚痴ばかりであった。
     猫はいつでもラーハルトの味方であった。時には首を横に振って諫めることもあったが、時には一緒になってニャーニャーと怒った。
     ラーハルトは一日を終えるたびに猫と話して、添い寝してくれた。おだやかで、たのしくて、あたたかくて、こんなに幸せで良いのかなと感じながら彼の膝で寝たりもした。


     そうして猫は老齢となり、自慢の狩りの腕も衰えて食料庫の守護神を引退した。
     ラーハルトが生肉の皿を持ってきてくれた。コトンと置かれたので、ありがとうと頭を下げてからペチャペチャと頂く。エサが貰えるのは飼い猫の特権のようである。
     時間をかけて食べ終えて、もう一度ありがとうと頭を下げた。忙しい男に毎日食べ物を運ばせるとは恐縮である。
    「遠慮するな。どんなに痩せ衰えても、おまえは最後までオレの友だ」
     男は硬い手で猫を掴んで揉んだ。
    「……オレをこんな気持ちにさせた奴は、おまえで二人目だよ」
     ギニャー。
     せっかく良い気分だったのに、変な奴の話をされて猫は立腹した。
    「ははっ。おまえ未だにヒュンケルの話をすると機嫌が悪くなるよな」
     彼の笑い声を聞けるのも、飼い猫の特権のようである。



     猫が、猫になってから十年経った。
     野良猫であったならば、こんなに長くは生きられなかったであろう。だがここまでだ。寿命がきたのだ。
     寝床にしている箱を覗き込んだラーハルトが、涙を浮かべながら薄くなった毛並みを撫でてくれた。彼が素直に泣き顔を見せる相手など己だけであろうと猫は満悦した。
    「明日のおまえは、息をしてはおるまいな……」
     ぐったりと横たわり、頷くほどの体力すらもうなかった。
     生を全うしたのだから、なんら悲劇ではないのだとラーハルトも承知しているだろう。けれどラーハルトはずっと泣いていた。
    「今夜は眠らずついててやるから安心しろ。ああくそ、おまえのせいで目が腫れそうだ。だがまあ、十年以上も真面目に勤め上げているのだ。おまえがゆくとあらば、明日の一日くらいは休ませてもらってもご納得いただけよう」
     柔らかい布を何枚も体に掛けられて、ふわふわと眠ってゆく。
    「まだ、瞬きは出来るか? 出来るなら二回しろ」
     猫は目を開けて、パチパチとまたたいた。
    「最後に質問がある。否定なら一回、肯定なら二回、瞬きしろ」
     猫はパチパチまたたいた。
    「……おまえ、幸せだったか?」
     猫はパチパチ、パチパチ、またたいた。猫は、生きてきて本当によかった。大事にしてもらえて、たくさん話ができて、城のだれも知らないラーハルトの素顔をいつも見ていられて、咎人にあるまじきほど幸せで、パチパチパチパチまたたいた。
    「そうか……。それだけが、おまえに首輪を着けた者の責務だったからな。ありがとう」
     猫は渾身の力で、ニャーと鳴いて、最後の力を使い果たして、幸福につつまれて旅だったので、彼からの最後の一言を聞くことは叶わなかった。
    「大好きだぞ」







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