沢蕪君は「あにうえ」と呼ばれたい②「兄上、金子軒の犬はどうなりました?」
「今朝早くに金氏の門弟が金鱗台へと連れ帰ったよ。もう雲深不知処にはいないから心配ないと無羨に伝えてくれるかな」
平静を装った弟の声にどこか喜色が滲んでいることに気づいて、藍曦臣は微かに笑む。
魏無羨との仲が進展したのだろうか。
だが尋ねたところで、この弟は内心を吐露してはくれないだろう。彼の中では自分はまだ共通の目的のための協力者だ。
それでも「兄」と呼んでくれるのだから、今はそれで良い。
(忘機、いつかお前にも無邪気に頼ってもらえるように私は頑張るよ)
密かに決意を新たにする兄の胸中に気づくこともなく、藍忘機は「そういえば」と言を継いだ。
「何度か彩衣鎮を訪れましたが、あの町は野犬こそいないものの犬を飼っている家は多いように見受けられました。魏嬰は大丈夫なのですか?」
「そのことなら心配ない。彩衣鎮に限らず、無羨が町に出かけるときは事前に私が各家を訪ねて、あの子が町にいる間はなるべく犬を屋外に出さないでほしいとお願いしてるからね」
投げかけられた問いに藍曦臣が朗らかに答えると、兄より幾分色素の薄い藍忘機の瞳がわずかに見開かれた。
「沢蕪君自ら、ですか……?」
「無理なお願いをするのだから、礼を尽くすのは当然だろう。さすがに姑蘇の外までは難しいけれど」
犬の件を本人に確認したことはなかったが、念の為講じていた措置は間違っていなかったようだ。
藍氏の領域内なら、魏無羨が犬に遭遇する確率は限りなく低い。確証を得たからには今後はさらに徹底しなければ。
「ただお前も見た通り、最近は犬を飼う家がさらに増えていてね。特に若い娘さんの間で人気らしいのだけれど。このままでは無羨が町に行くときは、家から誰も出られなくなってしまうかもしれない」
ふぅ、と小さな溜息とともに懸念を零す実兄を、藍忘機は眼を瞬かせて見つめる。
(それは貴方のせいでは……)
しかし年頃の女性が犬とともに屋内に留まってくれるのならむしろ好都合と、藍忘機は胸に浮かんだ答えを飲み込むことにした。