魔法舎の片隅でぱらり。ページを捲る音が聞こえる。それ以外は聞こえない。
すん、と息を吸うと馴染みのある香りがした。深みのある、草木のような、香のような。
んん、と身じろぐと少し冷たい指先が額に触れる。さらり、前髪を梳く感触がした。
ゆるゆると意識が浮上して、徐々に視界が白んできて。
「起きた?」
「……もしかしなくても、結構寝てた……?」
「よく寝ていたよ」
おはよう。あたたかい声が耳から身体に染み渡る。
見下ろしてくる相貌は穏やかで、細められた紫はとろりと慈愛を注いでくる。起き抜けのまだ靄がかった頭で、ああきれいな人だなと思った。
「ヒースとシノは……?」
「まだ苦戦しているみたいだね」
午前中は座学を行ったものの、午後になれば動き足りないシノが実技訓練を所望したため、ファウストはひとつ宿題を与えたのだ。幾重にも封印魔法を施した箱を、二人で開けてみせなさいと。
『片方だけがうまくできても開かないよ。二人で心を合わせて、やってごらん』
すぐに開けてやると意気込んで部屋に戻っていく後ろ姿を見送り、陽当たりのよい談話室で並んで本を開いているうちに眠ってしまったのだろう。ネロは窓に目をやった。陽は随分と傾き、もう夕方といった頃合いだ。
ファウストの顔越しに見える天井から、どすん、ばたん、次いで何やら言い争うような声がする。やってるなぁと奮闘する二人に心の中でエールを送り、さてと、とひとつあくびをした。
「そろそろ夕食の支度をしないとな」
「手伝うよ」
「お、いいの」
「かわいい寝顔をたっぷり堪能させてもらった御礼」
「わーお、高くつくよ?」
普段の喧騒が嘘のように静かだ。依頼に出たり国に戻ったりとそれぞれの予定が重なり合った結果、魔法舎に残ったのはネロ達東の魔法使いの四人だけだった。つまみ食いされる心配も、途中でコミュニケーションという名の殺し合いが始まる危険もない。
「どうせならヒースとシノを待つか。今日はどうせ東しかいないから、そんなに大した準備も要らないだろ」
「いいよ。でも、手伝いにかこつけてきみと二人になろうとした僕の下心が置き去りになるんだけど?」
「おっと、それはいけないな。晩酌でリベンジさせてもらおうかね」
「シェフ渾身の肴で手を打ってあげてもいいよ」
「喜んで」
ちょいちょい、とファウストのウェーブがかったオリーブブラウンを甘えるように引っ張る。意図を拾い、仕方ないねと心得た唇がやさしく重ねられる。もう一回、ねぇもう一回、とねだれば甘やかすように応えてくれて、何度か繰り返してついにこらえきれずに笑った。猫みたいに額をすり合わせてくすくす笑い合った。
穏やかな静寂に包まれた、ひとときの魔法舎。大人だってくっついたりじゃれ合いたい。誰の目も無いし、ちょっとくらいいいだろう。
二対の賑やかな足音が駆け降りてくるまで、もう少しだけ。