背負うばかりの貴方へ「ほら、かあさまの所へおいき」
ママがいない、と泣き叫んでいた幼女は涙で濡れそぼっていた顔に花の開いたような笑顔をいっぱいに浮かべ、ファウストの手を離すと母の元へと駆けていった。
幼女を抱き締めた母がありがとうございます、と一礼する。応えるようにファウストは帽子のつばを下げ、ネロはもう迷子にならないようにな、と手を軽くあげた。
家路へ向かう親子。夕陽に向かって歩く二人の影が長くのびている。
二人の姿が見えなくなるまで視線を逸らさなかったファウストは、どこか懐かしむような顔をしていた。
「珍しいなと思って」
親子の姿が見えなくなり、箒に乗れそうな開けた場所へ向かう道すがら。ファウストの様子を伺っていたことがバレたらしい。何か言いたいことでもあるの、と告げたファウストにネロは答えた。
「何が」
「迷子に手を差し伸べたのが」
道のど真ん中で泣き叫んでいた幼女を、群衆はまるでそれが風景のひとつであるのかのように見て見ぬふりをして過ぎ去ってゆく。
『どうしたの』
根は優しく真面目ではあるが、面倒事を極力避けたがるところのあるファウストだ。そんな彼が自分から、言ってはなんだが面倒事の気配しかない迷子の子どもに声を掛けたのが意外だった。
「……」
「気まぐれ、って感じでもなかったし」
膝を折り、視線を合わせ、帽子を外して真っ直ぐに幼子に語りかける。しゃくり上げながらも一生懸命に言葉を発する幼子をファウストは急かすことも、遮ることもせず、手を繋いで街を歩き、歩き疲れたとぐずれば背におぶって歩いた。
意外で、優しい光景をネロは傍で見つめていた。
「……妹がいたんだ、昔」
ぽつり。大切な宝箱をひっそりと開くようにファウストは呟く。
「似てたの」
「人は声から忘れると言う通り、もう兄さま、と呼んでくれた声も覚えていない。革命軍の発足以降は一度も会っていないから、どんな風に育って、いつどこで死んだのかも知らない。だから先程の幼子と似ていたのかすら分からない。そんな薄情な兄だけれど」
ファウストが過去の話をする時、決まって自分に対する嘲笑や皮肉が混じる。昔話が自傷行為に等しくなることはネロにも覚えがある。
今、あたたかな春の雨のようにほとほとと語られるファウストの過去は、ファウストを傷付けるどころか、真綿のように柔らかく包み込むような気配がする。
「二人で家に帰る時は、決まって手を繋いで歩いた。疲れたとぐずられて、背におぶって歩いたことの方が多い気がするよ。……そんなことを、ぼんやりと思い出したんだ」
もうとっくに忘れ去ってしまったのかと思っていたのに。
広大な記憶の海原から、遠い過去の優しい記憶を閉じ込めた瓶がファウストの心に流れ着いた。確かに在ったその時間は再びファウストの手によって掬いあげられた。きっと、もう忘れることはないだろう。
「そっか」
妹をおぶる優しい兄の背中は、やがて革命軍の誇りと命を背負うものとなり、今では賢者の魔法使いという使命、そして世界の命運を背負う背中となっている。
決して広くも大きくもない背中は、常に何かを背負い続けている。
……背負ってばかりで、背負ってもらうことをしない。
「この辺りでなら、箒を出しても差し支えないだろう」
いつの間にかちょうどよく開けた場所に出たようだ。雑踏から離れた小さな広場は僅かに小高い場所にあり、遠くに行き交う人々が見える。
「……な、ファウスト。今日は俺の後ろに乗っていけよ」
帰ろうか、と箒を出したファウストはネロの提案に訝しげな顔をした。きゅ、と眉を寄せた表情をさっきしていたら、きっとあの幼女はまた泣き叫んでいただろう。そんな怖い顔しなくても、とネロは笑った。
「なに、突然。……落とすなよ」
「落ちないようにちゃんと捕まっててよ」
釘を刺して箒を消したファウストと反対にネロは箒を出して跨ると、少し浮かせた所にファウストを呼ぶ。後ろにファウストが腰掛けたのを確認すると、ふわりと高度を上げた。
「安全運転だぞ」
「分かってるって」
高度を更に上げる。眼下に広がる景色は行き交う人々から、やがて家の明かりがぽつぽつと灯り始めるものへと変わってゆく。人の営みが息づく景色というのは、今も昔も変わらない。先程の親子の家もあるだろうか。遠い過去にはファウストのような家族の家も、あったのだろうか。
暫く無言で箒を飛ばしていると、ファウストがぴたりと背中に身を寄せたのを感じた。普段は風が当たる背中が、今はじわりとあたたかい。
「……俺はさ。怪我したりされたりして、肩に担がれたり担いだりすることの方が多かったけど」
ほんの少し過去の欠片を差し出したネロの言葉に、ファウストは黙って耳を傾けている。
血なまぐさい記憶ばかりだ。ファウストのような優しい記憶を掘り起こすことが出来ないし、そもそもそんなものがあったのかさえ疑わしい。
それでも広く、逞しい背中に全幅の信頼を感じていた記憶は存在していた。その背の熱さに心を奮わされていた記憶も、ネロの中に確かに残っている。
「なぁ、どう?ファウスト」
「なにが」
「俺の背中、あったけぇだろ」
おんぶの代わり、と振り向くと、ぱちりとファウストと目が合った。
「あんた、絶対背負われてくんねぇからさ」
箒の後ろに乗せることでは同じものだとは到底言えないけれど、寄せられた身体が感じるぬくもりの感覚はきっと似ている。
いつかネロが感じていた心を奮わせる熱さにはまるで及ばず、いつかの時代に生きた少女が感じた兄の優しさには遠く及ばずとも。
誰かの背中はあたたかくて、生きている鼓動の音が鳴り響いている。背負ってばかりの、背負わされてばかりのひとにもそれを知ってほしくて、感じてほしくて。ネロが相乗りを提案した理由なんてそれだけだ。難しい意図は無い。優しく真面目なこのひとに背中を貸してあげられるなら、それはきっと自分だけなのだろうという確信めいた願いと共に。
進行方向へ顔を戻すと、ややあって、ぽすりと背中に衝撃を受けた。ふぅ、と笑みを含んだ吐息の湿り気を背中越しに感じる。
「……こういう時、きみは僕より年上だなと思い知るよ」
「嫌い?」
「まさか」
ぎゅ、とネロの腰に腕が回る。しがみつくように更に詰められた距離では、背中はぬくいどこか少々熱い。その熱さが心地よい。
日が沈み掛けた空を、二人分の重さを抱えた箒が常よりゆっくりと進んでゆく。ファウストに気付かれないよう、ネロはそっと箒の速度を落としていた。