1は0に戻らないという話丹恒は資料室の前に誰かが立ち止まった気配を感じ取り、アーカイブの整理を進めていた手を止めた。その直後、ノックが2回。
「丹恒。入っても構わないかい?」
扉の外から列車の中ではあまり聞き慣れない、しかし列車の外ではいくらか聞き慣れた声がして、丹恒は「あぁ」と答えた。
資料室の扉が開いて、声の主の景元が資料室に入ってきた。
「やあ、お邪魔しているよ。アーカイブの整理中かい?」
デスクで作業をしていた丹恒に、景元が近付いてくる。
「あぁ。景元は好きに過ごしてくれて構わない」
「じゃあアーカイブを……」
そこまで言って、景元の視線が丹恒の寝床に向いた。それから小さな笑い声を出した。
「ふふ。床に置いている本は君の私物かい?」
「あぁ」
「見ても?」
「好きにしてくれ。見られて困るものは置いていない」
景元は穏やかに笑って、手すりと布団の間に腰かけ床に散らばっている本を拾い上げた。
丹恒はそんな景元を見て、顎に手を当てた。
丹恒にはここ最近、景元に関する気になっていることがあった。
◆ ◆ ◆
景元は丹恒と二人きりになる時、必ず丹恒を部屋の入り口側に立たせる。それはとても自然な流れで行われていたため、丹恒がそれに気付いたのはだいぶ経ってからだった。
一度気付くと気になるもので、丹恒は景元のその行動を観察するようになった。
景元はどうやら女性や子ども相手には必ずそう振る舞っているようだった。そして景元が部屋の奥に立つというよりも、相手を部屋の入口の近く……つまり、何かがあったらすぐに部屋から逃げ出せるように、という配慮なのだろうと丹恒は考えた。
列車のメンバーでいうと、三月と姫子は部屋の入口側。ヴェルトはその時々によってまちまちのため、おそらく配慮外の存在。パムはパム自身が忙しく動いているため、これもまた配慮外の存在。
そして穹は。
◆ ◆ ◆
「……景元、聞いてもいいだろうか」
「ん? なんだい?」
景元が本から視線をあげて、丹恒を見る。丹恒は自分の布団の端を掴み、壁際に放り投げた。それから景元の前に座り込む。これはおそらく自分の方が部屋の奥にいる状態だろう、と丹恒は考える。
「丹恒?」
景元が不思議そうな顔をする。
「俺を子ども扱いしているのか?」
「……そのつもりはないが、完全に否定はできないかもしれないね」
丹恒にとってその回答は想像の範囲内のものだった。
開いていたページに栞を差し込んで、景元は本を閉じた。
「すまない、なにか不快な思いをさせていたかな」
「いや、それ自体は構わない。ただ、俺といるといつも景元が部屋の奥にいようとするだろう?」
景元が「あぁ……」と納得したような声を出した。
「確かに、それは癖だね」
「そうだろうな。でも穹にはしない。何故だ?」
景元はもちろん丹恒の出自については知っている。しかし穹については詳細を知らないはずだ。知らないなら穹の方を子ども扱いするのが妥当では?と丹恒は思っていた。だからとても気になっていた。
例外は自分か、それとも穹か。
「……そうだったかな?」
景元はとぼけようとしているらしい。丹恒は僅かに眉根を寄せる。
「何度も見た。三月や姫子さんも俺と同じ扱いで、穹とヴェルトさんはその癖の範囲外だろう? パムはあまりじっとしていないから、分からないが」
「……」
景元は困った顔をしている。
「景元」
丹恒が答えを促すと、景元は静かにため息をついた。
「丹恒にそう振る舞うのは、意図的にそうしているよ」
「そうか。理由は?」
「話そう。でもその前にもっと距離を取ってもらえるかな。出来れば撃雲を構えてほしい。君のために」
「……」
丹恒は立ち上がり、本棚を背にして立つ。撃雲は出さず腕を組む。丹恒がもう譲らないことを理解したらしく、景元は床に腰かけたまま話し始めた。
「万が一にも間違いが起きないように、だね。私はね、丹恒。君のことが好きなんだ。許されるのなら触れてみたいし、もっと近くにいたい。だから君の逃げ道を作っている」
「そうか」
景元がちらりと丹恒に視線を送る。
「……驚かないね?」
景元の表情が少し困っているように見えて、丹恒は僅かに首をかしげる。
「いくつか想定していた答えがあった。その中の1つだから特に驚くこともない」
「そう」
景元の視線が丹恒から離れた。
「丹恒が不安であれば、今後はふたりきりにならないように……」
「俺も景元のことが好きだ」
「……ん?」
丹恒は景元に近付く。もう一度布団があった位置に戻り膝をつく。また丹恒と景元の視線があう。
「俺は景元に触れられることも、近くにいてもらえることも、嫌じゃない。むしろそうしてほしいし、そうしたい」
景元は困った顔をする。
「私はきっと君を幸せにできないし、私も苦しむ。だから今まで通りでいる方がきっといい」
「なぜ?」
「私はいつか魔陰に堕ちる。その時きっと、君は近くにいないだろう。それはきっと……私はとてもさみしい。これ以上君の近くにいて、君のことを知って、もっと愛してしまったら……そのさみしさに、私は耐えられるのかな」
さみしさを隠そうとしない景元の顔。丹恒から目を逸らし、床の水面をただ見ている。
「景元」
丹恒が名前を呼ぶと、景元はゆっくり丹恒に視線を戻した。景元はまださみしさを携えている。
「景元、諦めてくれ」
丹恒は、景元の瞳が微かに揺れたのを見た。
「確かに俺達は互いの死に目に居合わせることは難しいだろう。俺もその時が来たら、きっとさみしく思うだろう。でも、もう手遅れだ。俺は景元を好きになっている。今のままだって、きっと酷くさみしい。もうそれを……悲しみやさみしさを、ゼロにすることはできないだろう? ゼロにする方法があるなら、きっと貴方はもうそれを実行しているはずだ。でも景元はまだそれを抱えている。つまり、景元にだって方法が分からないんだろう? 俺も分からない。だから景元が受け入れようが拒絶しようが、揺るがない。だから悲しみもさみしさも、全て受け入れろ。それから、俺は勝手に幸せを掴み取る。誰かに一方的に与えられるつもりはない。俺はかつて、それだけの自由が与えられたからな。もうただ待つ必要はないんだ」
丹恒は一息ついて、それから続ける。
「まくし立ててすまない。なにか聞きたいことはあるか?」
一言も口を挟まなかった景元は、丹恒に促されて口を開いた。景元の顔にはもうさみしさは見えないように見えて、丹恒は静かに息を吐いた。
景元は少し困ったような、照れたような顔をしている。
「……丹恒、手に触れても?」
「好きにしろ」
丹恒が両手を出すと、景元はそっと手を重ねた。丹恒はその手の温かさと大きさに、少しだけ口元を緩めた。
「丹恒、好きだよ」
「俺もだ、景元。好きだ」
「もっと君のことを知っていいかい?」
「あぁ。俺も知りたい」
「もっと近くにいていいかい?」
「もちろん」
「悲しませたり、さみしい思いをさせてしまうよ」
「お互い様だ」
「ひどく嫉妬してしまうかもしれない」
「ぜひ教えてくれ。そんな景元を見てみたい。……俺ももし嫉妬した時は伝えよう」
「……丹恒が私の特別になって、私が君の特別になってもいいかい?」
丹恒はフッと笑う。
「光栄だ」
重ねられていた手をそっと引いて、丹恒は景元に近付く。体が触れそうな距離まで近付いて「触れても?」と確認すると、答えるより先に景元が抱きしめてきた。
初めての距離に丹恒は急に躊躇い、景元の肩の辺りに顔を埋める。
「丹恒?」
耳の近くで名前を呼ばれて、顔に熱が集まってきた丹恒はさらに景元に顔を埋める。
「……静かにしてくれ。心臓に悪い」
景元が丹恒の背中を撫でる。
「分かった。静かにするから、丹恒も私の背中に手を回してくれないか?」
「……」
丹恒はゆっくり景元の背中に手を添える。景元のマネをするように、そっと手を滑らせる。
景元がポンポンと軽く叩くと、丹恒も同じようにポンポンと弱弱しく叩く。景元が抱きしめる力を少し強めると、丹恒も力を込める。
丹恒の頭に何かが触れる。景元の肩に顔を埋める丹恒はそれが何か目視は出来ないが、恐らく景元の頭が触れているのだろうと想像した。
その時。
「丹恒! 景元! 食事の準備ができたぞ!」
資料室の扉の外からパムの呼び声がした。丹恒は少しだけ顔を上げ「分かった」と返事をした。
その声はちゃんとパムの耳に届いたらしく、廊下から「早く来るんじゃぞ!」と声がしてすぐに気配が遠くなった。
「…」
案の定景元の頭は丹恒の頭に触れていて、今までにないほど近くに顔があって丹恒は少し狼狽えた。それから「景元」と呼んだ。離れるのは名残惜しいが、自分だけならともかく景元に冷めた料理を食べさせるのは忍びない。
景元はそっと丹恒を離し、丹恒も景元から離れる。丹恒は心を落ち着けるようにゆっくりと息を吐く。
「行こう、景元」
「すまない、長居をしてしまったね」
立ち上がった景元は、いつも通りの顔をしている。
「構わない。パムもいつも食べて行けと言っているだろう」
丹恒が資料室の扉に向かおうとすると、また景元の手が丹恒の手を取った。それから指を絡められて、丹恒の元に戻っていた顔はまたうっすら赤く染まった。
「おい!」
「ふふ、すまない。丹恒が愛しくて」
景元は楽しそうに笑っている。丹恒は捕まっている反対の手でそっと景元の手を外して、目を逸らしてうつむく。
「先に行け。俺は、落ち着いてから行く」
「おや、それは申し訳ないことをした。じゃあ、お先に」
景元の手が丹恒の頭に触れようとしているのに気付いて、丹恒は飛びのいてその手を避ける。
「早く行け!」
「ふふ、すまない」
「思っていないだろ!」
景元は笑って資料室を出て行った。
ひとりになった丹恒は大きく息を吐く。心臓の音が大きくて、すぐには落ち着きそうにない。適当に放り投げた布団を直して、中途半端にしていたアーカイブの整理を続けることにした。
丹恒が食事の場に現れる前に景元が列車組に交際を始めた旨を伝えていたことを、丹恒が知るのは数日後のことだった。
おわり