高瀬舟ヲ浄化セヨ(未完成)/ 夢小説消えた死刑囚と高瀬舟の設定
――手紙――
拝啓、孝行様へ。
草木生い茂る山を目一杯駆け抜けた日のことを覚えておられるでしょうか。
戦後間も無くして産まれた私達兄弟は、早くに両親を亡くし、祖母が住む京都に身を寄せておりましたね。家の裏手には山があり、私達はよくそこで遊んでおりました。
山を駆け回り、左右から鳴り響く蝉の声、水辺に群がる羽虫、木々に巣を張る蜘蛛や、遠くから聞こえる鳥や鹿の声など。沢山の生き物達を端で捉えながらも、私の意識は目の前を駆ける貴方の背ばかりを追いかけておりました。
あの日も、とても楽しかったことを今でも明明と覚えております。滴る汗を拭う事も、服が濡れるのを構う事もせず、ただ私は、貴方に早く追いつきたくてがむしゃらに身体を動かしたのです。
貴方に追いついたと同時に枝葉の屋根がひらけ、燦々と照りつける太陽に暗がりに慣れた目はしばしばと眩みました。後に慣れた目に映るのは、陽の光が河川の水面、岩に生えた苔を輝かせていた光景でした。瞼を閉じれば今でもその景色を思い出します。
男子であるにも関わらずその美しい光景に目を奪われ、感嘆の声を漏らした私に貴方は満足そうに、そして少し威張るように笑いかけましたね。私はそれに何と答えかは覚えてはおりませんが、貴方は「よし!わかった!」とはしゃぐ私の手を引き連れ、川の浅瀬に連れて行ってくださったのです。
足元、気をつけえや。転けるんじゃあらへんぞ。と言い、私が苔に足を滑らせると貴方は「ほら、みい。言わんこっちゃないわ」と少し慌てて私の小さな身体ごと抱え上げてくださいました。そのとき私は、さすが兄ちゃんじゃ、頼りになるのお。と他人事のように思い、そのまま口にすれば、ドアホ!気をつけえ言うたやろうが!と叱られましたね。それを思い出すと今でもおもわず笑ってしまうのです。
兄さん、どうかお願いをきいて頂けませんでしょうか。私を、またそこに連れて行ってほしいのです。
<hr>
自身が綴った文字を読み返し、手紙から顔を上げる。後ろを振り返れば、正面玄関に停めた車からは自身の濡れた足跡と水滴が幾つも落ちてコンクリートの地面を濡らしていた。自身のびしょ濡れの身体から落ちる水滴は、正面玄関ガラス扉の前で水溜りを作り続けている。
ぐしゃっと手紙をしっかりと握りしめて、取手に手をかけガラス扉を押し開けた。
足を踏み出した時、靴の中にある水がまるで生き物のように動く感触に多少の不快感を覚える。それでも、一歩、二歩、三歩。ずわり、ずわり、と感じながら歩き続ける。
警察制服に身を包む人々が此方を見るのも気にもしないで、真っ直ぐと警察署の受付へと足を動かした。
此方をみた若い女性警察官が目を見開き、凝視する。暫くして、「あ、あの…」と声を発した彼女に会釈を返した。
口を開いたその途端に、とても悲しい気持ちが自身の中に渦巻いた。何をどう言ったら良いのだったか。運転中にきちんと頭の中でまとめた筈であるのに、ぱく、ぱく、と魚のように口を開閉する姿はあまりにも滑稽で気味の悪いものであろうと自覚をするものの、やはり言葉は途切れ途切れにしか出てこなかった。
じわりと目尻に涙を浮かべ、やっとの思いで「わしぁ……」と言葉を紡ぐ。
「……わしぁ…弟を殺しました。……死刑でもなんでも受ける所存です。……遺体は川に沈んどるさかい、傷もぶれになる前に、早めに引き上げてやってくれまへんか」
「お願いします」と頭を下げると、唖然とした彼らは一拍置いた後に、ドッと騒めき立った。警察署に勤務する彼らは忙しなく動き始めた。
自身の濡れた肩をそっと抱くように手を置かれ、その人物を見上げれば彼は己よりも一回り以上もはなれているであろう二十代半ばそこらの男。柔らかな表情で「取り調べ室へと案内致します」と落ち着かせるようにそう言った。彼は自身を南原と名乗った。
――
――消えた死刑囚と高瀬舟――――――――
独房の一室を館長と蜂巣は覗き込む。
「これが、先程言っておられた本ですか……?」
館長はそう訝しげに眉を顰めた。
二人が見つめる先にあるのは、独房部屋の中心に散らばる寝具、そして、ぽつんと置かれている一冊の本である。著者は森鴎外。題名を山椒大夫・高瀬舟。
「確かに、何処をどう見ても無人ですね。疑うつもりはありませんが、彼が脱獄した可能性は?」
蜂巣は部屋の入り口から中をぐるりと見回し、付き添いの警察官にそう問いかけた。
「いえ、脱獄はあり得ません。指紋も痕跡もなく、カメラにも映っていませんでしたので。見回りをしていた看守が目を離したのは一分もないでしょう。その短時間での脱獄は不可能です」
館長は「たしかに、不可解な事件だな。こりゃ……」と呟くと、警察官の許可を得て、牢屋の中へと足を踏み入れていった。
本日、帝国図書館のアルケミストである館長と蜂巣特務司書は、国の依頼で箱嶋刑務所に来ていた。二人を出迎えてくれたのは、この付き添いの警察官、もとい布基巡査である。
国から提示された依頼内容は、消えた死刑囚の独房内にある有碍書の浄化と、その死刑囚の奪還である。
それは一昨日の正午のことであった。何の前触れもなく愛橋孝行死刑囚は箱嶋刑務所内の独房から忽然と姿を消した。その独房に残されたのは、侵食された山椒大夫・高瀬舟という有碍書ただ一つのみであった。
この高瀬舟という作品は、一九一六年(大正五年)に中央公論にて初めて発表されたものである。そして、この本は一九三八年(昭和十三年)に岩波文庫から発売され、題名通りに"山椒大夫"と"高瀬舟"の二作品が掲載されている本である。この本の最終ページにはそれを記すものがあり、捜査の結果、製造番号も偽りなきものであった。
だが、その高瀬舟の方にはおかしな点があった。
"それは名を孝行と言って、六十歳ばかりになる、"と――。
あるはずの無い名前がそこに書かれていたのだ。そこから導き出される答えは、本の侵食……つまり有碍書ということになる。
国は、その刑務所から一番近い国定図書館であるホウザン支部に特命依頼をだしたのだ。
蜂巣は館長を見送りながら、「失礼ですが、その看守が見逃した、もしくは、誰かが意図的に逃したという可能性はないんでしょうか?」と布基巡査に問いかける。
布基は眉間に皺を寄せて不愉快を表す。彼の気持ちを代弁するなら、警察の人間でもない一般人が先程から何を言うのか、だろうか。
だが、声を荒げることなく彼はそれに首を横に振り、返答した。
「それもあり得ません。先程も申しあげたように、監視カメラが彼らの行動を記録してます。彼らが怪しい動きをしたのなら分かります」
布基は蜂巣の目を睨みつけるように見つめ「よろしければ、監視カメラの映像もご覧になられますか?」と問い、蜂巣も彼の目力に負けることなく口角を上げて「ええ、ぜひ」と答えた。
「もし可能であるのなら、映像を帝国図書館に持ち帰りたいのですが」
「関係者以外の閲覧禁止と帝国図書館の外に出さないと約束してくださるのなら、此方も協力いたします。上からの命令ですので…」
そこで切られた言葉の先は恐らく、仕方なく、だ。棘のついた言葉だと理解しながらも、蜂巣は微笑し頷いた。
「勿論です。持ち帰ったらまず、記録に秘密保護の錬金術を施しますよ」
「錬金術、ですか。それは……心強いですね」
布基は錬金術と聞き顔に困惑を滲ませていたが、それはすぐに嘲笑へと変わる。鼻で笑うかのように少し視線を逸らし「心強い」と答えた彼に、蜂巣は彼がアルケミストの存在を認知していないのだと理解した。
「アルケミストと対峙するのは初めてですか?それとも、それは詐欺紛いだという嘲笑でしょうか?布基さんは私たちを見て、どう思われていますか?」
「は?」
「あぁ、誤解しないでください。この問いに深い意味は無いんですよ。あなたが私達を嫌っていても信用していなくても何も構わないんです。この問いはただの好奇心ですから。私は基本的に同業者のアルケミスト、もしくは私達が生み出した思念体と共にいるもので、貴方のような"アルケミストを認知してい無い"方と対峙するのは初めてなんです」
「だから気になって」と楽しげに曲げられた蜂巣の目に相対して、布基は目を細めて顔を顰める。それを悟られまいと顔を背けるが、蜂巣は彼の表情をちゃんと見てとった。
「まだ……その、アルケミストというものに慣れていないだけですので、お気になさらず」
「慣れていない…ですか。正直なところ、疑っているのでは?アルケミスト等という得体の知れない奴らに任せられないと」
口を噛み締める彼に、なかなか面白いと蜂巣の悪癖が発動する。
「以前館長から聞いたことがあります、警察とアルケミストは犬猿の仲であると。貴方も警察官…なれば、そのような考えを抱いていてもおかしくはないでしょう?貴方は私達を良しと思っていない」
「い、いや……」
「アルケミストの対応はどうしてです?上からの命令でしょうか。それは信頼を置かれてるからなのか、もしくはその逆か……。犬猿の仲であるならば後者である可能性が高いとみますが……どうでしょうか」
いや、もう既にしているのだ。アルケミストというものを信じていない彼が、どうやってアルケミストに協力するのか。怒り、苛立ちの感情をどこで見せるのか、信じてもいないアルケミストにここまで言われどう答えるのかと楽しみでならないでいるのだから。
じっと見つめた先で、彼の目線が小さくも怒りに揺れた。
「後者でしたか」と呟けば、彼は声にならない怒りを持って蜂巣を睨みつける。それを受け入れるように彼の目を見つめ、じっと彼の言葉を待っていれば「こら、やめないか!」と館長に頭をこつかれる。
「まったく……君ってやつは!喧嘩を売りに来た訳じゃないんだぞ。人の気持ちも少しは考えて行動しろといつも言っているだろう」
「喧嘩など売っていませんし、人の気持ちを考えた上での行動で」
ですが、と言い終わる前に「嫌な気持ちにさせるなと言っているんだ」と、再度頭をこつかれる。
彼は顔を顰め、歯を噛み締めて口を閉じている。
たしかに、自身ではよく分からないが世間一般的な感情論からみれば、彼には物凄く嫌な思いをさせたかもしれない。好奇心に負けたことを反省すると、申し訳なく思えて、蜂巣は素直に布基に頭を下げた。
「……すみません、つい好奇心に負けてしまって……。本当に貴方を嫌ってやって事ではないんです」
「いや……、はい。正直に申しますと、とても不愉快な気持ちになりました。ですが、此方の態度も悪かったと反省しております」
布基のその謝罪に蜂巣は手を振っていいえと首を横に振り、「私は他人の言動で気分を害す事は殆どありませんので、気にしないでください」と返した。
「……貴女は見た目と反して、思ったよりもよく喋るんですね」
布基の口からぽろりと本音がこぼれ落ち、布基はあっと小さく声を漏らした。失礼にあたる言葉だろうと思ったが、蜂巣は先ほどの言葉通りなにも思わないのか普段通りに言葉を返した。
「興味のあることだけです。私は私自身が気持ちを理解するのに乏しいもので、他人の感情、気持ちの揺れにとても興味を惹かれるんですよ。ですから、仕事よりも貴方に興味を惹かれてしまったんです」
そう言うと蜂巣はもう一度「本当にすみませんでした」と謝り、「では本職にもどりますね」と背を向ける。
渋い顔でそれを見ていた布基は溜め息をついて「変な奴だ……」と呟いた。
彼の呟きを興味ないと聞き流した蜂巣は、仕事をするために独房内へと足を動かした。本の前にしゃがみこんで、触っても?と聞き許可を得て本を手にする。
パラパラとめくってみれば、警察官の話の通り、黒くなって、本来あるはずの人物名"喜助"は"孝行"へと変わっているとこが見受けられる。たしかに、これは有碍書で間違い無いだろう。そして、彼がこの中にいることも紛れの無い事実である。
「これは最初からこの場所に?」
「はい。上からの命令で、帝国図書館のアルケミストが来るまで誰にも触れさせるなと」
「そうですか、それで布団が散らばったままなんですね。この本はこの牢屋の…えっと」
「はい。愛橋孝行死刑囚の所持品です」
館長は自身の顎髭を触りながら「愛橋さんはどうしてこの本を?収監時から持っていたとは考えにくいですが……」と聞く。
「この本は、ここの看守が渡したものだと聞いています。獄中で死なれては敵わんので暇つぶしに渡したと」
「獄中で亡くなる……ですか?」
「はい。飲まず食わずで次第に気力を無くしていく愛橋死刑囚の気力を持たせる為だったと証言しています」
「気力を持たせるねぇ…。そういう方は多いんですか?気力を無くし獄中死してしまう方は」
「多いとは言えませんが、そう言った話は聞いた事があります。精神的なものから病に陥るものも」
「では、愛橋孝行さんもそうなんですかね?死刑判決による精神的なものでやる気を無くし、食事も取れない状況であった?」
蜂巣の言葉に警察官は頷き「そうだと聞いています」と答えた。
「じゃあ、これはその看守の方が持ってきた物ですか」
布基は首を横に振った。
「いえ、この刑務所の本棚にいつの間にかにあったと」
「いつの間にか?刑務所って結構緩いんですね」
うちの帝国図書館だったら有り得ない事だと蜂巣は思った。帝国図書館の本は全て記録してある。その日の担当を務めるアルケミストや文豪達が交代交代に裏図書館の本の有無を確認するのだ。
一冊増えていても一冊減っていてもいけない。それが有碍書である可能性があるからだ。
だが、それは此方が侵食者を扱う帝国図書館だからだろう。刑務所というのは囚人の管理だ。此方とは違うのだろうと思った。
だが、布基はいいえ。と首を横に振った。
「刑務所内に持ち込む物は用紙に記入しなければなりません。特に、囚人に渡すものなら尚更です。彼らがそれを使い、脱獄を企てる可能性があるからです」
「どこにもその書面がなかったと?」
布基は小さく頷いた。
「ええ。彼は記入されてあるものだと思い渡したようですが……先日、此処の者達と捜索しても何処からも出てきませんでした」
「本を渡した方の名前は?」
「浜坂幹夫です」
蜂巣はううん……と唸りながら、本をパラパラと捲る。
「どうした?」
「館長、此れは誰の本なんでしょうね?」
そう言って、本の最終ページを館長にみせる。
そこに書かれていたのは、種屋英一という名前だった。
「たねや、えいいち?たしかに、聞いた名前と違うな。刑事さん、この名前に心当たりはありますか?」
館長にそう聞かれた彼は、いいえ。と首を横に振った。
「私は存じ上げません。此方で調べてみましょう」
「ありがとうございます。しかすると、誰かのの知り合いかもしれませんね?」
「どうだかなぁ……。君の時みたいに勝手に動くやつも稀に居るだろう?本が浜坂さんに渡させた可能性だってある」
「いえ、あれは作者による思念がもたらした結果です。この作者は森鴎外。彼が愛橋智一さんに特別な思いを抱いていたとは到底考えられませんよ」
たしかに、館長が不安に思う気持ちは分かる。
もしも、この本が意志を持って此処にきたのだとしたら、謎はさらに深くなる。
ううん……と唸る館長は、ボソリと聞こえた声に顔を向けた。
刑事の布基は、目を丸くさせて此方を見ていた。
本が……動く……?と呟いた声に、二人はあぁと納得する。
彼は本が自ら移動するということに驚いているのだ。移動というよりは、正確には転移であるが。
普通の本であればまずあり得ない現象である。有碍書であっても、珍しいケースだ。
だが、館長と特務司書はこのケースを知っている。この目で確かめたことなのだ。嘘や偽りではない。
「今回のこれは違うと思いますよ」
蜂巣は真っ直ぐに布基の目を見て言った。
安心させようと思ったのだ。認知していない人からしたら不気味であるだろうから。
「これは人間が故意的に行ったものだと思います。ですから、心配いりませんよ。」
「……はい」
「では、人物に関することは其方にお願いします。私達は、この有碍書を調べますので」