星を抱いてレイシフト先から無事に帰還して管制室のみんなに挨拶もそこそこに自室に向かって歩いていた。
レポート提出を促すゴルドルフ所長の声を聞き取りながらそういえば出先でまたまた見てしまった逢い引きというか男女のアレやそれは報告した方がいいのかとふと疑問。直接任務には関係の無いことだし書かれた所で向こうも困る事だろう。報告書を読む彼の眉間にシワが寄るのか下らないと一蹴するのかどちらでもなんか面白いなとむくむく悪戯心を育てながら自室に到着。
「んー…疲れた」
手足を伸ばしてグンっと伸びをする。疲労と言えばそうには違いないのだがどちらかと言えば気疲れの方だろう。
レイシフト先は幕末の江戸だったがサーヴァントの1人が他愛もない軽口から端を発したガチの喧嘩が始まり一髪触発といった所までいったのだ。これは探索どころでは無いなと諦めもあったがとある人物の半ば強引な仲裁で事なきを得た。
ゴチンっ!!
──双方、戯れは帰ってから致せ
まぁ自身の生きた時代とあってピリピリしていたのも事実。売り言葉に買い言葉になってしまった部分は否めない。とはいえ自分達より歳下(に見える)からの拳骨は本人の風格もあってか珍しく永倉と斎藤は本気で沈黙し素直に説教を聞いていた。
一部始終を見ていた立香とて恐怖を覚えない訳じゃない。過去一度だけその人から鉄拳を食らったことがあるのだ。本人からすれば相当手加減はしていたらしいが胸ぐらを捕まれで鬼気迫る勢いで諭されては痛いのが勝るよりも内心(怖えぇっ)の方が軍配が上がった程。普段より凪いだ水面のように物静かな人間の激情に駆られた姿…というのが如何に恐ろしいのか身に染みた出来事でもあった。
コンコンと戸を叩く音がする。そういえば事前に行くと前もって約束をしていたがもうそんな時間だったのかと着替え中のラフな格好で時計を見たがまだ約束の時間には余裕はあるので他の人かもしれない。
「マスター様?いらっしゃいますか?」
「う、うんちょっと待って!」
女性の声。少し幼さを残したそれは最近になって召喚された彼女。
─オトタチバナのものだった。
私服のタートルネックに急いで着替え扉に向かう。下のズボンも着替えようと思っていたがこの際だ仕方ない。仮にも高貴なお方だというのにこのままでいいのかと頭を掠めたが待たせるよりはいい。
「すみません!ってアレ、カヤ?」
「へっへ〜マスター騙された!」
「もう…脅かさないで」
額を覆い空を仰ぐ立香とは対称的にニカッと輝く笑顔で出迎えたのはカヤだった。
カルデア召喚ではあるあるだが神代の神様やら様々な事情でそのままサーヴァントとして召喚できない者たちが依代を立てて現界することがままある。その中でも割合を占めるのが今を生きている人間を器として選んで召喚されるパターン。殆どはこれに当てはまるのだがことオトタチバナに関しては何故か伊織の義妹…カヤを依代として召喚サークルから飛び出してきた。
あの盈月の儀が執り行われたという慶安4年。剪定されたifの世界を生きたその1人。それだけならタケル達のように名の知れた英霊でもないし依代に選ぶにも既に亡きもの。色々と複雑な事情があって今の共存姿勢なのだとは本人の談である。
「もう少ししたら兄ちゃんと約束あるんでしょ?」
「カヤも知ってたんだ。仲が良くていいね」
「兄ちゃん、ちゃんとできるか心配だもん」
「伊織はいつもちゃんとしてるよ?」
「もーマスター、あの朴念仁だよ?私もしもの事があったらオトちゃんと一緒に泣くしかないんだけど……」
「??」
少し会話が噛み合ってないのを気にしながらも中に促してから詳しく話を聞くことにした。特段問題行動もなくオトタチバナもタケルの奥さんというのも手伝ってかカルデアには馴染んでいるようだった。些か過保護が過ぎるようでそれはそれでまた一悶着あったのだが割愛する。
「マスター様」
「ん?」
「折り入って話があり今回不躾ではありますが参った所存です」
「うん」
「マスター様(マスター)は……伊織様(兄ちゃん)の事をどうお考えですか?」
「……うん?」
たっぷりと間を空けてやっと出てきた言葉はそんなものだった。
「どうって、頼りにしてるけど?」
「それだけなのですか(それだけ)?!」
「う~…ん、」
これには思わず腕を組み頭を傾けてしまう。彼女たちに伊織はどのように説明しているのだろうか。そこが分からない限り下手に言うべきでは無いと思うのだが何せカヤは伊織の身内。そこに不誠実なのは良くないがありのままに包み隠さず言うには自分達の置かれた状況が良くなかった。
──すまない、マスター。
特段なにかきっかけがあった訳でもなくただ何の気なしに「伊織の事俺好きだよ」なんて言ってしまった。多少下心はあったとはいえ友達に好きーと気軽に言うような気持ちだったのでそもそも告白だなんて大層なものを想定していなかったのだ。確かに淡い気持ちは持ち合わせて居たがそれだって初めから期待してない。今日視界に伊織がいるだけで嬉しいな頑張ろう程度のいわば推し活のようなもの。恋はエネルギーとはよくぞ言ったもので伊織がいるだけで活力に溢れた日々を送ることができていた。伊織様々万歳、そんな自分だけの楽しみをついポロッと好意として言ってしまったのが事の発端。
それからというもの拒否られた事実は中々に立香のメンタルをぐちゃぐちゃにしてくれたがまぁそれはそれこれはこれ。今後伊織にはなるべく近づかないように努めて彼との接触も必要最低限にした。
そうなるとどうだろう、今度は伊織の方がおかしくなっていったのだ。立香はその場を見ていないので事後報告やカメラの映像で確認しただけだが明らかに精彩に欠けた姿が散見された。折角の強者との打ち合いの最中でもどこか心ここに在らずといった具合にとにかく覇気がない。元々ダウナー系なんて本人には不名誉なレッテルも貼られてはいたがそれでもだ。
「あの……マスター様?」
「あ、ごめん」
「やはり(やっぱり)伊織様(兄ちゃん)となにかありましたか(あったんでしょ)?」
2人の声はそれぞれ違うものの同じ意味を持つ言葉として耳を通り抜けていく。となると彼女たちはどうやら立香と伊織の仲違いの心配をしているのだ。伊織も過分には語らぬ性分、しかしそばで見ていた人間からすればその心理や行動原理を察するのは他人より秀でているのだろう。
「あの、実は──」
こうなっては隠していても互いの為にはならない。
◇◇◇
(少々支度に手間取った)
ツルツルとして硬い床に時折足がもつれそうになりながらも風呂敷に包んだ荷物を落とさぬように先を行く。走ってもいいのだが特段急を要する用事でもない、いや訂正する火急の用事だ少なくとも自分に取っては。
(マスター……)
戀しいだなんて今の今まで感じた事ない感情に随分と振り回されている。思えば何故あのような返答をしてしまったのか。過去の己を切り伏せたい位には恥じ入っている。だが、弁明が許されるのであればあの返事には続きがあった。
──すまない、マスター……
──!
──一介の使い魔に対し貴殿の気持ち痛み入……マスター
続く言葉を紡ぐ前にマスターは目の前から遁走していた。あまりの速さに残像すら残して。
「あれは何とも……いや俺が悪いな」
現実に仕官先の主に粗相をしたとなれば場合によっては首が飛んでいたかもしれない。今はマスターのサーヴァントだから今の所は胴と首が仲良くしていられるのであって彼の多大な恩情のおかげだということは肝に銘じなければいけない。
兎にも角にも自分が言葉足らず……というか良くも悪くも取れる物言いだったせいで彼には悪いことをしてしまったと反省。そのせいもあってか目に見えて会う機会も減りあからさまに避けられていると理解が追いついた頃にはとうに自分では治しようがない程に挙動が狂っていた。伊織自身もおかしいと医務室に行ったが精神的な問題と言われ気休めの栄養剤と休めの言の葉、或いは問題を切除しろ話はそれからだ、と。
好きにも種類がある。それは伊織とて理解はしていたが実感としては薄いのが現状だった。好いた腫れたを語れる程人付き合いなどしている暇があれば日銭を稼ぐか剣を振るう日々。小笠原の養女になったカヤが嫁ぐともなれば感慨深いと胸を打つ情はあったにしろそれと今回の件はどうにも方向性が違う。如何に鈍いと言われている彼ですらそんなことは百も承知。
「───」
水面にひとしずく、ぽたんと落としたような微かな声は彼の人へ届くことはない。
サーヴァントとしてマスターに仕えられたのは伊織にとってもこの上ない栄誉。それが身分の隔たりもなく対等でいようとしてくれている彼に最初から憎からず思っていた。年嵩も背格好もそう変わらず周りの者達からも兄弟のようだと何ともこそばゆい感想ももらったものだ。
身の丈に合わぬ運命を背負わされた少年の一助になればと剣を奮った。
どれ程巨大な敵だろうとも立ち上がり前を向く姿に敬意を持った。
自分よりも多くの傷跡を心身に持ちながら気丈に振る舞う様に己の無力さを知った。
話し相手をせがまれ寝落ちた顔があどけなく心の底より護り抜くと誓った。
体調不良で寝込み自分の差し出した手に「冷たくて気持ちいい」と赤らんだ顔で微笑む様子に暖かな気持ちが芽生えた。
何より空虚な自分を厭わずに自ら右手を差し出してきたマスターに温情や感謝の念はあれど嫌う由は何一つとして伊織の中には存在していなかった──
「マスター、宮本伊織参上仕った」
「は、はいっ!いいよ開いてるからどうぞ」
「御免」
なにか派手に物が落ちたような音がしたが室内を見渡すと何故かマスターが寝台の傍で膝をつき肩で息をしていた。
「?もしや先客があったか?」
「あったにはあったけどもう帰ったから大丈夫!」
ぜーはー、と随分荒い客も居たものだと持っていた風呂敷を傍の台に置くとつかつか寝台まで寄る。未だ呼吸の整わないマスターを介抱してやりたいがその前にやることが出来てしまった。どこか落ち着かない雰囲気を先に壊したのは伊織で眼下に見下ろすパイプベッドの中央に向けて鉄拳をひとつ。壊れるのでは無いかと心配したが流石に他人の寝床を破壊するつもりは無かったらしく布団が凹んだだけに終わる。瞬間きゃっ、と聞こえた聞きなれた女の声に低い声で告げた。
「主たるマスターに嘘なぞつかせ……恥を知れ、カヤ」
「うっへ~兄ちゃん怖すぎだからぁ!」
「馬鹿者お前の軽率な行動で媛様も危険に晒すのだ今後慎め」
「いえ伊織様。私も同罪ですからあまりカヤを叱らないでくださいませ」
ベッドの下から貞子よろしく這い出てきたオトタチバナ=カヤに呆れながらも説教をする伊織の姿にお兄ちゃんだなぁと感心する立香。媛ということもあり流石に地べたに正座はあれだと思ったかイスに2人(?)を座らせてお説教タイム開始。その様子をまじまじと見ていたがこうしてみると不名誉な浮名が代名詞として聞かれる彼とてこと身内に関しては別なんだろうなと思った。
「聞いているのかマスター?」
「あ、やっぱり俺も怒られる系?」
「あまり彼女たちを甘やかさんでくれ……媛様に関しては後が」
「あーうん言わずもがな……かな」
「……痛み入る」
今頃妻恋しさに鳴き喚いて探し回っているかもしれない何処ぞのセイバーを思い浮かべ頭が痛くなる。
一頻り説教も終わった所で伊織はカヤ達に退出を命じた。大切な話をするから部屋の外で待っていろと告げると彼女たちは少しだけ残念そうにしていたが素直に出て行く。邪魔をするつもりは毛頭ないのだとしても行動力は誰譲りなのだろうかと苦笑した。
「さて仕切り直す」
「……そういえば伊織のあの荷物何入ってるの?」
「後で話す」
大きさにしてサッカーボールくらいだろうか。無地の風呂敷に包まれたそれは彼が持ってきたということもあり変に存在感があって気になってしまう。そんな立香の気持ちなどお構い無しに促されるまま楽な姿勢をと言われたので一先ずベッドの縁に腰を落とした。すると伊織は徐ろに刀を二刀とも腰から外して立香の前に差し出し床に置いてしまったではないか。何が始まるのかと冷や汗をかき始めた折伊織は床に額を付けんばかりの勢いをもって土下座していた。
「申し訳ない。俺は貴殿の心を計り知る事をしなかった」
「え、何??」
「許しを乞う身では無いのは重々承知の上恥を忍んで願い申し立てる」
「ちょっと伊織待って」
頭を上げない伊織を無理やりに上げさせ向き直る。意外にもすんなりと顔を上げた伊織の瞳は静かなる熱が篭っていた。
「俺と契を交わしてくれ」
「は?」
思わず蔑むような乾いた返しになってしまった。華麗な土下座からの突拍子もない要求ときては流石の立香といえどそんな度量は無くとっくに許容範囲は超えている。なんなら今の今までで1番有り得ない会話をしている自覚があった。数多くのサーヴァントと契約している以上そういった告白もプロポーズも幾度となくされては来たがどれも本気で受け取ったことはなくて持ち前の人間性とコミュ力で何とか乗り切ってきた次第。不誠実だと罵られればそれまでだが立香自身不和が生まれるよりは和を以て貴しと為す精神だったせいもある。
だからこそ伊織は別格だったのだ。
「えーと、とりあえず座ってくれない?」
「赦してくれるのか……」
「いやそれどっちの意味!」
捨てられた子犬のように眉を下げて立香に訴える伊織に頭痛を通り越して倒れそうだ。ここで倒れたら誰が1番に駆けつけてくれるだろうか?あ、外でカヤ達が控えていてくれているのを忘れていた。だがこんな場面を見たカヤの気持ちも見られた伊織の気持ちもどちらも気持ちの良いものでは無いだろう。寧ろ互いに遺恨を残しかねない。
「怖い怖い怖い、伊織が怖い」
「落ち着けマスター」
「むしろ伊織はなんでそんな発想に至るの?俺確かに好きとは言ったけどそこまでしてくれとは言って無いよね?」
「それはそうだがそれには由が」
「0か10しかない由??」
「……あのな──」
バツが悪そうに視線を逸らし気味にあの日の真実を話し始める。他に目撃者などいない為証明できようもないがそれでも厭う由があって立香の事を拒絶したのではないと懇々と言い連ねた。
「他の皆も言うように俺はそういった色事に関しては疎い。だがマスターの事となれば話は別だ。主からの言の葉にはきちんと返事をせねばなるまい」
「俺がマスターだからこんなこと考えたの?」
「……それも一端ではある。だが……ただ情を返した所でそれは主従による縛りから生じたものだろうと断ぜられるのは目に見えていた」
現代では当人達の気持ちが最優先事項と聞いては益々頭を悩ませる羽目になった。家同士の結び付きの為の婚姻など珍しくもなく一般的だった時代。町人ともなればその辺は大分緩い部分もあったかもしれないが残念ながら遠い記憶だ。
憎くはない憎いはずがない、寧ろ好感が持てるマスターだ。しかし彼の思う好きを同じカタチで返すとなると伊織にとって見れば難題に思えてならない。後ろに控えて外敵から護るだけでは決して対等(おなじ)にはならない。
「貴殿の言う好きが俺には見えない」
「……」
「見えないものをどう掴もうか。あれやこれやと考え知恵を振り絞ったが結果が之だった」
「俺の中で伊織の行動と思考が結びつかないんだけど」
「教えを請おう、と」
落ち着きを取り戻した室内に瞬間浸透する静寂。世界から切り離されたような乖離感。手足の感覚もまるで取って付けたように心もとない。それでいて目線は逸らすことが出来なくて縫い付けられたかに思える足はその場から動くことを許そうとはしない。
伊織の瞳には立香の立像がはっきりと形取られてコチラから見ていてもそれはわかった。だからと言って彼がそれだけしか見ていないとは限らないではないか。
いや、案外的外れでもないのかもしれない。目は口ほどに物を言うというと先達は言ったのだから。
「……な、に……それ」
「そのままだ。書の受け売りだが”燃えるような愛も有れば、緩りと育む愛もある”なれば俺よりも詳しい貴殿に倣い育むもの良かろう」
言葉が出てこない。伊織の提案に立香の思考は混乱を深める。分からないから識り気持ち同じくして育てたいという彼に僅かに体に震えが走りたじろぐ。意味が理解出来ないのでは無い、たったそれだけの為に一生を投げ打とうとする姿勢に呆れを通り越して恐ろしささえ覚えた。
純真且つ心底そう思っているのだろう。だからこそ始末に負えない。これは此方から引導を渡さねば相手の身を滅ぼしかねない案件だ。本来なら喜ぶべき提案なはずなのに立香の心はじわじわと冷たくなっていった。
「駄目だよ伊織」
「……何故?」
「確かに伊織の言う在り方もあるよ?だけどそんな事は俺は望まないしして欲しくない。
伊織には伊織でいて欲しいから」
どこまでも研鑽を積み高みを目指そうとしている彼に所詮自分は不純物になってしまう。自分が伊織の足を止める存在でた在りたくない。みっともなく縋り付く位ならどうかその剣でひとおもいにこの気持ちごと切り伏せてくれ。
「…ぇ」
「頼む。立香」
ぽすんっと迎え入れられた胸板にうまく頭が働かない。聞いた事のない弱々しい声音で懇願されて困るとても困る。だって回された腕はいつだって振り解けそうな程緩く本当に包み込むように穏やかな手つき。
「もう万策尽きた。これ以上はもう手がない」
「い、伊織……」
「立香……立香」
縋っているのはどちらだろう?好きが見えないと言った伊織。なのにどうして俺を抱き締めたりなんかするのか。肩に頭を預けて繋ぎ止めようとする姿は幼い子供を連想した。伊織から子供時代の話を聞いたことは無いがもしかしたら無意識にそうさせたのかもしれない。幼い子供が無償のあいを乞うように伊織はもまた立香にあいたいのだ。
「あの…伊織」
「……」
「顔上げて?」
「……」
「じゃないとキス出来ない」
「!」
ようやく頭をあげた彼と緩慢な動作で向き直る。肩から回されていた腕は腰へと移り暗に離さんと言われているようではあったがこの際だ、気にしないことにする。
「き、キスして。伊織から」
「俺が、か?」
こくん、と頷く。何故かさっきは言えた単語が向かった途端にどもる。心臓がうるさい位に働いていてあんなに冷たかった指先はもうポカポカだった。
顔に手を添えられ目を閉じた。開けていられる自信が無かった。伊織の目に映る自分の顔なんて見れたもんじゃないと思ったから。
本当に本当に壊れ物を扱うみたいに優しい口付けが落とされる。薄い唇が触れてそこだけ溶けてしまうんじゃないかって位には熱い。1度目が終わると目を開けたが伊織はというと……
「……なんて顔してるの」
「~~~ッ」
「嫌だった?」
「そうではない。之は……」
口元を覆い言葉を探している伊織。あーでもないこーでもないと思案しているその表情を見ればとても何も知らない童子ではないのは一目瞭然。それでいて本人その人に自覚がないのでは一体今までどれ程の人間を泣かせてきたことだろうか。伊織にも非はあるにせよ恐らくここまで彼に対して行動した者も立香を除いて居なかったに違いない。マスターという立場からのアドバンテージは大きかったがそれはあくまできっかけに過ぎない。伊織はそれらに触れ学ぶ機会に恵まれなかっただけの事。そこに踏み込んだのかたまたま立香だった。尤も彼の興味を強く引いたのも要因としては大きかろう。
「胸がザワつく、何よりこそばゆい」
「うん」
「お前は平気なのか?」
思い、想われて平然としていられるほど枯れてない。こちらとら人生経験はまだまだ浅い若輩者なのだ。人生の先輩ということならそれはどう考えても伊織の方が正しく当てはまるというのにこちら側に関しては立香の方が拳ひとつ分程差がある模様。
「そんな訳ない……。…………好、き……な人に、されたら………嫌な、はず……が無いだ、ろ」
言ってしまった……。
気が抜けたのと顔から煙が出そうなくらい恥ずかしくて目の前の伊織にしがみつく。何をやっているのだろうと思い返すだけでも憤死しそうで今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られる。しかし彼から回された腕の中から離れたくはなくて二律背反な気持ちがせめぎ合いめちゃくちゃになっているのが実情だ。
「藤丸立香殿」
「……はぃ」
「無骨な自分に貴殿の教え、授けてはもらえぬか」
「どうぞ、お手柔らかにオネガイシマス?」
「其れは俺の台詞だろうに」
くすりと可笑しそうに笑う伊織にやっと彼自身に触れられたような気持ちになりこっちまで笑えてきた。
◇◇◇
しゅるり、包みを一度解けば中から現れたのは小さな1組の盃と茶色い瓶。ラベルからしてどう見ても酒にしか見えないそれを手に取りちょろちょろと注がれる透明な液体。
「伊織俺未成年」
「承知している。当世は随分と珍妙な品を作るのだな」
「?」
「のんあるこおる、というらしい。酒のように見えて酒精が無いとは滑稽な話だ」
ノンアルコールの単語にピンとくる。なるほど、確かに世のニーズに合わせてお酒のノンアルも多岐に渡っていたなとスーパーや酒屋で見かけた色とりどりの缶や瓶たちを思い出す。とはいえ酒を想起させること、微量とはいえアルコールを含むものもある為未成年が飲むことは極力避けるべきとの社会通念もあった。あと数年で成人といった年齢に差し掛かってはいるがそれでも良くは無いのでは?と不安から伊織の方を向く。
「案ずるな、確かにお前が食すモノに万一があってはならないと用意したが今から行う儀に之を飲む必要は無い」
「飲まなくてもいいの?」
「実際酒が飲めない者は口をつけるだけだ。幼くして婚姻した者に酒は飲まさんだろう?」
「確かに」
「本来であれは大中小の盃を用いて9回口を付けねばならないらしいが流石に略式だ」
意外に面倒な作業なんだなと思った。たまに神社で見かけた結婚式やテレビのワンシーンで夫婦になる男女が着物を着て酒の入った盃を飲み交わす、そんなイメージと現実のギャップに思わず苦笑い。飲めない人からすれば神聖な場面だとしても思う所はあるだろう。
「立香」
差し出された盃を受け取る。朱塗りのそれは嘗て見た盃そのものでイメージ通り。
2人ともイスに座って相対し、立香は神妙な面持ちで少し緊張していた。どことなく表情が硬い彼に気づいたのだろう、伊織が口を開く。
「そう緊張しなくてもいい。この儀を経ても特に何も変わることは無い。俺が操立てするだけだからな」
「でもそれって不誠実じゃない?仮にも神様に誓うんでしょ、俺だけ自由ですよっていうのは……」
「お前の立場上致し方ない場合もあるだろう。俺とて寛容な訳では無いし是非は見定めるつもりではあるが、」
「あるが?」
「節度は弁えろ」
──然もなくば、その御身……斬る
囁くように告げられた言葉は言霊だ。正しく約束を違えぬようにしなければ必ず伊織の刃は立香に向く。
そういえば彼は魔術の素養も持ち合わせていた。曰く毛の生えた程度と謙遜していたが剣の達人で魔術師ともなれば立香に勝ち目は初めからない。
誓いを違えるつもりは初めからないが少しだけ脳裏を過ぎった光景を現実にしてはいけないと気持ちを引き締める。
(伊織にそんな思いさせたくない)
無骨ものだと軽々に言うが身内に対する接し方や態度でどれだけ気持ちを傾け心を砕いているのかは遠くから見ていた立香ですら知っている。そんな伊織が自分を伴侶にと望み理由こそズレているが共に在りたいと言ってくれた。
いつまで一緒に居られるかはこの旅路次第だがそれでも最後まで誓いを守り抜きたい。
大好きな彼が泣くことないようにしたいから……
「では一献」
「頂きます」
盃を少し傾けて口をつける。飲まなくてもいいとのことなのですぐに離して彼の様子を伺う。伊織の方はひとおもいにくいっと飲み干したようで特に変わった様子もない。盃を机に置くと向こうも立香の視線に気づいた様だ。
「どうした」
「ううん。なんでもない」
「味気ない三三九度ですまないな」
「伊織らしくていいんじゃない?」
「……っ、之は一本取られた」
他愛ない会話に頬が緩むのを感じる。戦いに身を置く者だからこそ、そのひと時はどんなに瑣末な事だとしても楽しいものだ。ましてやそれが今もって誕生した初々しい番同士であれば尚のこと。
◇◇◇
「最近伊織のやつ妙に付き合いが悪いのだ。オトタチバナ、カヤに何か聞いてないか?」
「いいえ私は何も存じません。ですが、そうですね……」
「?」
「きっと小鳥が鷹のいない空に自由に飛んだのでしょうね」
「タカ?コトリ??」
「ふふふ」