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    2024年のジュンブラで頒布したカドぐだ♀偽装結婚本(全年齢)のWEB再録です。
    Pixivの方にも掲載しました!

    #カドぐだ

    Mariage Blanc1 偽装結婚始めました

     とある英雄曰く。
    「当方は誠に良き伴侶を得た。我が愛は常に勇気を与え、幸せを運んでくれる。結婚とは実に良いものだと心から思う。たとえその愛によって己が死に至ろうとも。
     ああ、もちろんそのために当方は英霊となってからガッツを身に付けたのでこれからは存分に愛し合えるというものだ。英霊とは実に便利だな!」

     とある英雄の妻曰く。
    「結婚なんて碌なものじゃないわ。特に英雄との結婚はダメ。英雄って自己犠牲の塊でしょう。他人のためにあっさり自らの身を賭してしまうのよ。遺された妻がどんな思いをするかなんてこれっぽっちも分からずに……!
     べ、別に誰と言う話ではないのですけれど! 英雄との結婚という概念のお話です!」


    「……結婚って、難しいんだなぁ」
     シグルドとクリームヒルトから話を聞き終えた立香は深い溜息をついた。
    「ますます『夫婦の在り方』がよく分からなくなってきちゃったよ。カドックはどう?」
    「僕だって結婚の経験はないから分かるわけないだろ。大体ここの英霊に訊くのが間違いだ。自分の両親とか、そういう身近な例を想定した方がいいんじゃないか」
    「うーん、確かに……」

     なぜこんなにも二人が夫婦の在り方や結婚に悩んでいるのか。それは今朝のブリーフィングでダ・ヴィンチから告げられた、これから向かうべき微小特異点の話に起因する。
    「今朝方観測された微小特異点だけど、少し変わった性質を持っていてね。変わったと言っても場所は日本の都市部だし、魔物が徘徊しているわけでもない。問題は特異点に入るための〝条件〟なんだ」
     条件が付くのはいつものことだが、ダ・ヴィンチの口振りではいつもと異なるらしい。どう問題なのかと首を傾げて続きを待つ。
    「夫婦であること。それがこの特異点に入る条件。選ばれたサーヴァントもシグルドとブリュンヒルデ、それにジークフリートとクリームヒルトと夫婦のサーヴァントたちだ」
    「うん。……えっ、それってわたしにも当てはまるの?」
    「そう、それが問題なんだ」
     既に婚姻関係にあるサーヴァントならばカルデアにも存在するが、婚姻関係にあるマスターは存在しない。特異点探索には唯一のマスターである立香が必ず同行しなければサーヴァントが活動できないけれど、その立香が独身である限り特異点には入れないことになる。
    「大した規模ではないから自然消滅を待つという手も考えたのだけど、どうやらそこに囚われているカルデアのサーヴァントたちがいるみたいでね。救出しないと特異点ごと消えてしまいかねない」
     それは大いに問題である。カルデアの大事な戦力が囚われているのならば絶対に救出しなければならない。とはいえ。
    「でも、わたしは結婚してないよ」
    「うん。そこでだ」
     ニヤリと笑ってダ・ヴィンチが立香とカドックを順番に指差す。
    「立香ちゃん、カドック。特異点の修復、そしてサーヴァントたちの救出のため、君たちには一時的に結婚してもらう。要するに、偽装結婚だ!」

    「————え」
    「————は」

     そんな突然の告知からあれよあれよと書面にサインをさせられ何故かぴったりサイズに仕立てられていた結婚指輪を嵌められて、「特異点修復が終わったらこれも破棄しておくからさ、形だけってことで申し訳ないが二人とも我慢してくれたまえ」と全く申し訳なくなさそうな笑顔で特異点へと送り出された。
     送り出される直前、一応仮にも夫婦として乗り込むからには結婚や夫婦とはどんなものかを同行するサーヴァントたちに聞いておこうと尋ねてみたところ、冒頭の答えが返ってきたというわけである。


     レイシフトした先は日本の海辺の都市。背の高い建物と大きな観覧車、半月型のホテルが見えることから横浜ではないかと推測される。その横浜の坂の上に趣のある洋館が三軒立ち並んでおり、既に名が記載された表札が掛けられていることからどうやらそこで各夫婦ごとに生活をしろということらしい。
    「ふむ。特異点修復のためとはいえ、こうして我が愛と夫婦として生活出来るのは幸運だ」
    「ええ、私もです。愛するあなた」
    「何で! この朴念仁と一緒に生活しなければならないの!」
    「俺は……正直、君と二人きりの時間を過ごせることがとても嬉しいのだが。君は嫌なのだろうか」
    「〜〜〜っ! 嫌とは言ってませんけど」
     対照的な夫婦の会話に苦笑しながら、カドックの顔をチラリと窺い見る。一時的に必要だったからとはいえ、その気もないのに結婚をさせられて不愉快なのではないだろうか。
    「……悪かったな。僕しか相手がいなくて」
     その視線を立香の不満と受け取ったのか、バツが悪そうにカドックが口を尖らせる。
    「あっ、違うの。わたしは良いんだけど、カドックが無理矢理こんなことになって嫌だったんじゃないかなって」
    「僕も別に嫌ってわけじゃ——」
     そこまで言って、慌てて口を押さえる。
     それはつまり、この状況がお互いに満更でもないのだろうか。カドックが嫌々なら申し訳ないと思ったけれど、そうではないのならいっそのことこの偽装結婚状態を楽しんだ方がいいのかもしれない。
    『よし、通信は繋がったね。ただ音声は問題ないが映像に関してはジャミングが入ってかなり不明瞭みたいだ。万が一に備えてここから先の通信は最低限にさせてもらうことにするよ。
     まずは立香ちゃんとカドック、表札が掛けられている家に入ってみてもらえるかな。名前が割り振られているようだけど、その名前以外の人も入れるのか確認してみてほしい』
     二人がダ・ヴィンチからの通信に頷いて、立香とカドックの名前が掛けられている家に向かう。ドアに手を伸ばした立香を一旦制してカドックがドアの解析を始めた。
    「……魔術的な仕掛けはないな」
     それでも念には念をだと言って、立香ではなくカドックがドアに手を掛ける。問題なく開き、住宅の玄関が顔を覗かせた。カドックと立香がそのまま家の中に足を踏み入れる。
    「では、当方も試しに入ってみるとしよう」
     シグルドがドアの方へと歩み寄る。玄関に入ろうとした瞬間、その体が何かに弾かれるようにして後方へと飛ばされた。
    「あなた!」
     駆け寄るブリュンヒルデの手を借りて身体を起こし、シグルドが飛ばされた衝撃でずり落ちたメガネを直す。
    「問題ない。どうやらこの表札に書かれている者のみという条件が発動しているようだ」
    『やはりそうか。ありがとうシグルド。ちなみに立香ちゃん、一旦入った後に出ることも問題ないかな』
     そう問い掛けられて、一度扉を中から閉めた後に再度開いて玄関を出る。
    「うん。出入りは問題ないみたい」
    『了解だ。では一度それぞれの家に入って調査を始めてくれ。気になるもの、違和感などあれば連絡するように』
     ダ・ヴィンチの言葉に頷くと、皆それぞれ割り当てられた家へと向かって行った。

     立香とカドックに割り当てられた家は二階建ての洋館で、所謂横浜山手の観光名所のような歴史を感じさせる佇まいだった。
    「横浜の観光地でまさか自分が生活することになるとは」
    「ここは横浜なのか。確か日本が江戸時代に開港した場所だよな」
    「よく知ってるね!」
     時折カドックから日本の知識が垣間見えて、別に日本出身の立香のために知ろうとしてくれているわけではないのだろうが、それでも何だか無性に嬉しい。やたら上機嫌な立香にカドックが首を傾げながら、引き続き部屋の中を確認して回る。ダイニングに足を踏み入れたところで、大きなダイニングテーブルの上にスマートフォンが一台ちょこんと置かれていることに気がついた。年季の入ったアンティークの調度品ばかりの家の中でこのスマートフォンだけが異様な存在感を放っている。
    「あからさまに怪しいな」
     カドックの言葉に立香も頷く。
     すると、二人が見つけたのを見計らったかのようにスマートフォンから着信音が鳴り出した。驚いてビクッと体が跳ねたが、一旦深呼吸をして落ち着かせる。
    『立香ちゃんとカドックどちらでも構わないから、その着信に出てみてもらえるかい?』
     ダ・ヴィンチにそう言われて立香がスマートフォンに手を伸ばす。着信音が鳴り続けているスマートフォンの画面には「限界原稿部」と表示されていた。
    「誰だか何となく分かった気がするなぁ」
     このネーミングに心当たりのある数名の顔を頭に浮かべながら、カドックにも聞こえるようにスピーカーにして通話ボタンを押した。
    『やっほーマーちゃん! おっきーでーす』
     案の定、修羅場姫——ではなく刑部姫の声が聞こえてきた。
    「おっきー、また特異点作っちゃったの?」
    『ちょっとマーちゃん、姫が度々特異点作ってるみたいな言い掛かりはやめてよ。まあ実際作ったことはあるし今回もその一端は担っちゃってる訳なんだけどぉ』
     ゴニョゴニョと何やら言い訳をしているが、その口振りからやはりこの特異点に彼女が絡んでいることは確からしいと分かる。
    『今度のサバフェスのネタに詰まっちゃってね、オルタちゃんとアルキャスちゃんとノクナレアちゃんと限界原稿部を結成してあーでもないこーでもないと悩んでたわけですよ。
     で、いろいろ意見交換をした結果今回はいちゃラブ新婚カップルの話が描きたいねってなったんだけど我々経験が圧倒的に不足してるわけでして。ダメ元でサバフェス主催のBBちゃんに相談したら、いちゃラブ夫婦を箱庭に集めて観察すればいいのでは? って言われて、なるほどやってみよーってなって、今に至る的な?』
     てへ、などと言って可愛く誤魔化そうとしているが、要するに彼らの原稿のネタにするためにわざわざ特異点を作ったということらしい。相談する相手が間違っていたのもさることながら、実行してしまったのも如何なものか。
    「おかげでわたしも偽装結婚することになったんだけど?」
    『あーね。あはは、それは考えてなかった!』
    「ちょっとぉ!」
     あっけらかんと言い放つ刑部姫に思わず声を上げた。
    『というか、本当に当初はガチ夫婦だけ呼んでこっそり観察する予定だったの。それがそのぉ、サバフェス原稿がやばいと鬼編集担当のきよひーとクロエちゃんに知られてしまって……姫たちは姫たちで【原稿が完成するまで出られない部屋】なるものに閉じ込められてしまってですね』
    「……え?」
     ということは、彼女たちは彼女たちでまた別途違う場所に閉じ込められて出られなくなっているということか。何やらややこしい状況になってきた。
    『原稿が終わらないとここから出られないし、でも勢いで特異点作っちゃったから後処理はしないといけないし、マーちゃん助けてー! ってなったわけです……』
    「……毎回思うんだが、おまえのサーヴァントはみんなこうなのか?」
     唖然としながら二人の会話を聞いていたカドックが呆れた顔をしてそう尋ねてくる。みんながみんなそういうわけでもないけれど違うとも言えない。むしろ立香としてもどうして毎回こうなるのかと訊きたいぐらいだ。
    「……はは」
     乾いた笑いで応える立香に何となく心中を察したのか、それ以上カドックも問い詰めるようなことはしなかった。
    「ところでそこのメンバーにオルタもいるの?」
     立香の問い掛けに、しばらくして刑部姫とは別の声が応える。
    『そうなのよマスターちゃん。あんなにカッコつけて退去したってのにこっちの霊基はバーサーカーだから普通に残っててしかもこんな場所に閉じ込められて原稿してるとか恥晒しにも程があるわ』
     はぁーっと深い溜息が聞こえてくる。残ってくれたのは立香としてはとても嬉しいのだが、ジャンヌ・オルタの気持ちも分からないでもない。
    『まあ言い出しっぺの癖にマスターちゃんに激甘すぎてわざわざ別霊基残したクハハよりマシよね』
     どっちもどっちかな、とは思ったけれどそこはグッと飲み込んだ。アヴェンジャーたちの優しさにはいつも救われているし、何だかんだみんな立香に甘いのだ。
    『あっ、ねぇ立香! 私も! 私もいるよ!』
    『ちょっとあなただけズルいわよ、私もいるんだから!』
     電話越しで声が少しくぐもってはいるが、おそらくアルトリア・キャスターとノクナレアだろう。相変わらずの仲良しっぷりで微笑ましいが、いつも騒動の中心にいるのは何とかならないものだろうか。
     電話の向こうがやいのやいのと盛り上がり始め、立香はカドックと目を見合わせて深々と溜息をついた。

    「で、わたしたちはこれからどうしたらいいの? 特異点を修復するためにやれることはやるけど」
     立香の問い掛けに、刑部姫が戻ってきて答える。
    『あっそれはね、その家で各自夫婦生活を送ってもらえれば大丈夫。姫たちはそれを遠隔的に見ながらネタを作って原稿するから。ただサバフェスのルール的に健全本オンリーなんで、一線は超えたらダメだよ♡』
    「超えないよ!」
    「超えるわけないだろ!」
     立香とカドックが顔を真っ赤に染めて同時に叫び、電話の向こうで何やらクスクスと笑っている声が聞こえてくる。
    『ではでは、他の夫婦たちにも情報共有よろしく! 我々の原稿は君たちのいちゃラブ度に掛かっている!』
    「変な責任負わせないでー!」
     立香の叫び声も虚しくプツンと通話が切れた。

     通信機で各夫婦に連絡を取り、再び立香たちの家の前に全員が集合する。
    「——そんなわけで、刑部姫たちの原稿が出来上がるまでわたしたちはここでそれぞれ夫婦生活をしろってことらしいよ」
     立香が先ほど電話で聞いた話をかい摘んで説明すると、シグルドとブリュンヒルデは幸せそうに見つめ合い、クリームヒルトが「何で他人に見られながらこの人と生活しなきゃいけないのよ!」と怒り狂うのをジークフリートが宥めていた。
    「当方たちは構わないのだが、一番の問題はマスターではないか」
    「構わなくないのだけど、でもそうね。あなたたちはここに来るための偽装結婚であって本当の夫婦ではないもの。困るのではなくて?」
     シグルドとクリームヒルトの言葉に苦笑いを浮かべる。それは本当にその通りで、電話でも刑部姫に伝えたのだが『マーちゃんとカドック氏もちゃんと夫婦を演じてね。じゃないと特異点から弾かれちゃうぞ!』などと脅されてしまったため、どうしたものかと頭を悩ませている最中なのだ。
    「夫婦っぽく見えればいいんだろう。別に四六時中ベッタリしているのが夫婦というわけでもないんだし、とりあえずは共同生活だと思って過ごせばいいんじゃないか」
     こんな茶番には付き合えないと言い出すかと思っていたカドックから意外にも前向きな発言が飛び出し、思わず目を丸くする。他のサーヴァントたちにとっても意外であったのか、皆キョトンとした顔でカドックの方を見つめていた。
    「な、何だよその顔は」
    「ごめん、ちょっとビックリしただけ。そうだよね、夫婦の在り方っていろいろだもんね!」
     満面の笑みでコクコクと頷く立香に、にっこりと微笑んでブリュンヒルデも同意する。
    「ええ、そうですね。殺さずとも愛せると思います」
    「アンタの愛は特殊すぎるんだけどな……」
     ブリュンヒルデの不穏な発言に眉を顰めつつも、カドックが頷く。
    「アイツらの原稿とやらが終わらなければ僕らもここから出られないのなら、腹括ってやるしかないだろ。特異点とはいえ日本観光ができると思って楽しむことにするよ」
     立香を励ますための冗談かと思いきやその目はキラキラと輝いていて、カドックが割と本気で観光を楽しむつもりなのが伝わってきた。カドックは冷静沈着に見えて意外とノリが良かったり想定外の事案に対する順応性が高いのが面白いところだ。
    「マスター側も問題ないのであれば、ひとまずここで暮らしてみるとしよう。もちろん警戒は怠らず、何か異変があれば都度連絡を。それ以外ではたっぷりと我が愛との時間を取らせてもらう。それで問題ないかな?」
     まあ、と頬を赤らめるブリュンヒルデに微笑みながら立香が「もちろんだよ」と頷いた。
    「仕方がないわ。本当に仕方がないけれどマスターのために一緒に暮らしてあげます」
    「ありがとう。こうしてまた君と一緒に暮らせるなんて俺は幸せ者だな」
    「っ、ほんと、貴方のそういうところよ!」
     心から嬉しそうに微笑むジークフリートに顔を真っ赤にして怒ってはいるが、クリームヒルトも本当は満更でもない——というよりすごく嬉しいという感情が全身から滲み出てしまっている。ここまで分かりやすいとジークフリートが浮かれてしまうのも無理はないだろう。
     二組が再びそれぞれの家に戻ったのを確認して、立香とカドックもまた視線を合わせて頷き合い、自分たちの家へと戻っていった。

     改めて家の中を物色し、これからここで生活するにあたり必要なものを確認する。キッチンの冷蔵庫には野菜や肉や果物、それに調味料などが入っており、戸棚には調理器具や食器が一式揃っていて、一応多少の食事ができる状態にはなっていた。水道を捻って問題なく水が出ることを確認し、次にシャワーでお湯が出るかを確認。こちらも問題なく使えるようだった。
     スマートフォンの中にキャッシュレス決済の登録もされていたので、それで買い物はしろということなのだろう。現金がなくても何とかなるのはこの時代の良いところだ。
    「今あるもので最低限の生活はできそうだが、夫婦生活をしろとなると家にあるものだけて食い繋いで細々暮らすだけではダメだろうな」
    「ある意味そういう夫婦として成り立ちそうだけど、きっとそういうことじゃないよね」
     それではあまりにもシュールな夫婦像すぎる。彼女たちはいちゃラブ新婚カップルの本を作ると言っていたので、ある程度はそういう素振りも必要だろう。具体的にどうしたらいいのかは分からないが。
    「いちゃラブって、何……?」
    「僕に訊くなよ……」
     困惑した顔で尋ねる立香に、同じく困惑した顔でカドックが答える。そもそも恋人でも何でもない二人にいちゃラブしろというのが無茶振りなのだ。

     カドックのことはカルデアの仲間として認識しているし、尊敬できる良き先輩だと思っている。ファーストインプレッションはあまり良くはなかったけれど、何だかんだ立香のことを気にかけて世話を焼いてくれる優しい先輩だということは理解した。人として好きだとは思うが、果たして異性として好きかと問われるとよく分からない。
     異性とか恋愛とかそういうのは、今の自分には必要ない。次々訪れる窮地への対処にとにかく必死で、そんなことにうつつを抜かしている余裕なんてないのだから。
     そう割り切って今まで生きてきたから、たまにカドックから「もう少し男女の距離感を弁えろ」だの「そんなに気安く男を部屋に入れるな」だのと言われて驚いたのだ。カドックはこんな環境でも自分を異性として認識しているのかと。
     だとしたら、カドックにとって今の状況はどう感じられるのだろう。嫌ではないと言っていたが、それはカドックからも多少は好意を持たれていると思っても良いのだろうか。恨まれることや疎まれることはあれど好かれる要素なんて何もないと思うのだけれど。

    「どうした。何か気になることでもあったか」
     カドックに視線を向けたまま険しい顔で思案に耽っていたことに気がつき、慌てて首を横に振る。
    「ううん、何でもない。とりあえず買い物がてらこの辺を観光してみようか」
     立香も以前家族旅行で訪れた時以来なのでそれほど詳しいわけではないが、この辺りだけでも有名な観光スポットがいくつかあったはずだ。少し歩けば商店街や中華街にも出られるので、生活に必要なものはそこで調達できるだろう。
     立香の言葉にカドックの顔がパッと明るくなる。しばらく一緒にいて分かったことだが、カドックは結構感情が分かりやすく顔に出るタイプだ。今のは本当に楽しみなんだろうなと察して自然と口角が上がる。
     カドック自身も顔に出てしまったと気付いたのか軽く咳払いをして誤魔化すと、「そうだな、じゃあひとまず外に出かけるか」といつもの淡々とした口調で答えた。
     スマートフォンをポケットにしまい、念の為身を守るための用意もした上で二人は再び家の外へと足を踏み出した。



    2 特異点探索開始

     近場の観光地を検索し、まずはこの辺りの景色を一望できる公園へ行こうと決めて他愛もない会話をしながら緩やかな上り坂を歩いていく。いつもの特異点探索なら何とも思わない状況だが、これで夫婦らしく見えるのかなどと考えると途端に距離感がよく分からなくなってくる。
     手とか繋ぐ? いや夫婦だからって別に繋がなくてもいいか。でもいちゃラブって言うからにはもう少しスキンシップがあった方がいいのでは。とはいえ急に取ってつけたように行動に移したらカドックも驚くだろうし、第一そんなことは求められていないかもしれない。
    「——藤丸」
     ぐるぐると悩み始めて少し歩みが遅くなり始めた立香に、カドックが手を差し伸べた。
    「悪い、歩くのが早かったか」
     そう言って自然に手を握られて、まさかカドックから行動に移してくるとは思わず目を丸くして彼を見る。だんだんとカドックも気恥ずかしくなってきたのか少し頬を赤らめて視線を落とした。
    「……嫌なら、離すけど。こうした方が歩幅を合わせられるだろ」
    「い、嫌じゃない、から、お願いします……」
    「そ、そうか……」
     お互いにぎこちなく返事をしあって、手を繋いだまま再び歩き出す。さっきより少し力を込めて握られた手はほんのり汗ばんでいて、なんて事なさそうな顔をしていたけれどその実かなり緊張していたのだろうか。
     なんだかそれが微笑ましくて、つい緩みそうになる口元をなんとか堪えながら立香もまた握る手に力を込めた。

     しばらく道なりに歩いて辿り着いたのは、横浜港を見下ろせる高台の公園だった。隣接した建物にはバラ園があり、ちょうど見頃を迎えた時期なのか様々な種類のバラが咲き乱れている。特異点ではあるが、そのバラを見に来たのであろう観光客と思しき人たちの姿もそこそこ見られた。
    「海だー! バラだー!」
    「……見たままだな」
     語彙力のない立香の叫び声に呆れながらも、カドックもまた庭一面のバラに目を奪われていた。ひと通りバラ園の中を散策し、港が見える展望台のベンチに並んで腰掛ける。
    「横浜港やみなとみらい一帯が一望できるし、よく手入れの行き届いた綺麗な公園だ」
     カドックが感心したようにそう言って、ベイブリッジのある方を興味深そうに眺めている。大小様々な船が橋の下を行き交っていた。
    「ただ、日本の夏は湿度が高いことが難点だな」
     言われて確かに少し汗ばんできたなと気がつく。気温自体はそこまで高くないはずなのだが、湿度の高さのせいで暑苦しさが増しているように感じられた。
    「まだ初夏でこれだと、本格的に夏が来たら僕は生きていける気がしない」
    「暑いの苦手だもんね」
     うんざりした顔で言うカドックに、南米異聞帯でも暑さでバテていたのを思い出して立香が苦笑した。
    「だったらどこか屋内に入る? 少しお腹も空いてきたし、レストランとか探そうか」
    「そうだな。そうしてもらえると助かる」
     そう答えたカドックは既に白いコートを脱いで腰に巻いていて、熱中症になる前にどこかに入らなくてはと急いで近くにあるレストランを検索していくつか候補を見つけ、二人は展望台を後にした。


     マップを頼りになるべく日陰を通りながらうろうろと歩き、ようやく候補のうちの一つが見えてきた。こちらもまた歴史を感じさせる綺麗な洋館で、庭にはたくさんのバラが咲いていて店内だけでなくテラス席もあるようだった。
    「和風の建物よりこういった西洋風の建物が多いのは、横浜が日本の最初の玄関口だった名残なのかもしれないな」
    「うん、そうだと思う。近くに外国人墓地もあるしね」
     もしカドックが京都のような日本家屋を期待していたのなら申し訳ないが、これはこれで興味深そうに眺めているので特に問題はなさそうだ。
     年季の入ったやや重い扉を開けて店内に入ると、アンティークの家具や食器、人形やぬいぐるみなどがずらりと並べられた可愛らしい空間が広がっていた。ショーケースに並んだケーキや焼き菓子はどれも美味しそうで、思わず「わぁ……!」と感嘆の声が漏れる。
    「こういうのが好きなのか」
     カドックに訊かれて、コクコクと首を縦に振った。
    「好き! 一人だとちょっと入りづらいけど、デートするならこういうところがいいなって思っ——」
     そこまで言って、これでは今カドックとデートをしている気になっているようではないかと気がつき慌てて手で口を押さえる。恐るおそるカドックの方を見ると、少し頬を赤らめながら視線を泳がせていた。
    「ご、ごめん。わたし浮かれて……」
    「い、いや、間違ってはいない、と思う……」
     間違ってはいないということは、カドックもこれはデートだと思っているということだろうか。あくまで特異点探索のためなんだから浮かれるなと小言を言われるかと思ったが、立香が思っている以上にカドックもまた楽しんでいたのかもしれない。
    「あら、マスター! いらしてくれたのですね!」
     二人の間に漂う気不味い空気を払拭するように、明るい声が割って入ってきた。声の主が店の奥から立香たちの方へと笑顔で駆け寄ってくる。
    「ジャンヌ! ここで働いているの?」
     綺麗な金糸の髪を揺らしながら、ジャンヌが微笑んで頷く。
    「ええ。今回のレイシフトメンバーには入っていなかったはずなのですが、気がついたらこのお店の店員になっていたのです。とはいえサバフェスの原稿が終わって暇を持て余していましたし、ケーキも紅茶も美味しいですし、ここで働くのもアリかなぁなんて思って」
     こうしてマスターともお会いできましたしね、とジャンヌが言って、はたと何かに気がついたように口元に手を当てる。
    「あっ、申し訳ありません。立ち話も何ですからどうぞお席へ。お腹は空いていらっしゃいますか? アフタヌーンティーのご用意もありますよ」
     窓際のテーブルへと案内されて、促されるままに席に着く。先ほど店内へ入る前に見かけたバラの庭が窓からよく見えた。
    「せっかくだからアフタヌーンティーにしようかな。カドックは?」
    「僕もそれで」
    「かしこまりました。本来ならアフタヌーンティーのお客様は二階の個室でお出しするんですけど、生憎ご予約で埋まっておりまして」
     申し訳なさそうにジャンヌがそう告げる。別に食べられるならばどの席でも問題ないし、個室だと変に緊張してしまいそうなのでむしろここがちょうどいい。カドックも同意してくれたので、ジャンヌが再度頭を下げて店の奥へと戻っていった。
     店内には立香たちの他にもお客さんの姿がちらほら見えて、皆ゆっくりとお茶の時間を楽しんでいる様子だった。立香の記憶にあるカフェと言ったらチェーン店で忙しなくお客さんが入れ替わるイメージだったので、同じ日本なのにまるで時間の流れが違うかのように感じてしまう。
    「いいところだな」
     窓の外に視線を向けながら、カドックがポツリとそう口にする。
    「うん。こんな場所で新婚生活って素敵だよね」
     もしいずれ本当に結婚したとしたら、こんな場所でのんびりと暮らすのも悪くない。ここに来るまで不明瞭だった結婚というビジョンが少し見えてきた気がした。
    「……ワルシャワにも、こういうカフェはたくさんある」
    「——え?」
     ワルシャワにもたくさんあるから、一体何だというのだろう。立香が聞き返した直後にアフタヌーンティーセットが運ばれてきて、「何でもない、忘れてくれ」と結局カドックのその言葉の真意は有耶無耶にされてしまった。


     ジャンヌから「お夕食の足しになれば」と渡されたローストチキンサンドの入った袋を手に、二人の表札が掛かった家へと帰路につく。その道中、大きな教会の前を通りかかった。カドックが足を止め、教会の方へと視線を向ける。
    「ダ・ヴィンチ。ここ、霊脈があるんじゃないか」
     立香には何も感じ取れないが、カドックはそうだと確信を持った口振りでダ・ヴィンチに問い掛けた。
    『カドックの言う通り、この教会はこの土地における霊脈の一つだ。現状では特にこれといって問題は起きていないが、念のため確保しておくことをお勧めするよ』
     ダ・ヴィンチからの返答に頷いて、立香とカドックが教会の扉を開ける。幸い中には誰もおらず、急いでサークルの設置に取り掛かった。マシュがいないため簡易的なサークルにはなるが、この特異点でそこまで大掛かりな召喚を行うこともなさそうなのでひとまずはこれで何とかなるだろう。
    「とりあえず簡易召喚ぐらいならできそうだけど、ここにジャンヌもいてくれたのは心強いね」
    「ああ。戦力は多いに越したことはない」
     同行した四人はアタッカーとして申し分ない戦力だし、ジャンヌは守りの要となってくれる。そこに追加戦力も投入できるようになれば、戦闘が発生するのかは分からないがまずまずの安定した布陣だろう。
     そこへ、魔力の高まりを察知した四人のサーヴァントたちも続々と教会に集まってきた。
    「確かにここなら霊脈としても拠点としても良い場所だな」
     シグルドがサークルと教会の内部を確認しながらそう告げる。
    「自宅からも近い。何かあればすぐに集まれるだろう」
    「そうね。今度から全員集まる時はここに集合するのが良いのではないかしら」
     ジークフリートの言葉に頷いてクリームヒルトがそう提案する。皆それに異論はないようなので、今後何かあって集合をかける場合にはここを拠点とすることになった。
    「で、早速だけれどここで情報交換をしましょう。今日一日で何か変わったことはあったのかしら」
     改めて皆で教会の椅子に腰掛け、クリームヒルトの言葉に目を見合わせる。
    「ちなみに私たちは何もないわ」
    「バラのソフトクリームを食べる君がとても幸せそうで可愛らしかったぐらいだ」
    「そっ、そんな報告は! 今いらないでしょう!」
     相変わらずのツンデレ夫婦っぷりを発揮してくれていて微笑ましい限りである。カドックがややうんざりした顔をしているが、毎日見続ければそのうち慣れるだろう。
    「当方たちも異変という意味では何もない。実に充実した夫婦水入らずの時間を過ごせている」
    「ええ、幸せのあまり何度か殺しかけてしまいました」
     愛おしそうに微笑み合いながら物騒な発言をする夫婦にまたもカドックがドン引きしている様子だが、もう立香は以前の夏イベントですっかり慣れてしまったのでこれもいずれ慣れるだろう。慣れるのが良いことかどうかは兎も角として。
    「わたしたちはジャンヌに会ったよ。この教会からまっすぐ行った先にあるカフェで働いてるんだけど、気付いたらここにいたって感じで本人も何故ここにいるのかは分からないみたい」
     立香からの情報に、サーヴァント四人が少し目を見開いた。
    「ジャンヌって、はぐれサーヴァントではなくカルデアの聖女ジャンヌよね。まあオルタの方がこちらにいるのなら霊基が引っ張られてきてもおかしくないのかもしれないけれど」
     クリームヒルトがそう言うと、カドックがそれに頷いて続ける。
    「戦力としては頼もしいが、何か理由があってここにいると考えた方がいいかもしれないな」
    「そうね。理由なく特異点に現れるということはあまりないはずだわ」
     何となく特異点にいるパターンもなくはないのだが、今回はレイシフトに制約のある特異点にも関わらず制約外のサーヴァントが喚ばれているので確かに何かしらの理由がありそうだ。
    「ならば情報確認がてら当方も明日そのカフェに行ってみよう。我が愛とアフタヌーンティーを嗜むのも悪くない」
     シグルドの言葉にブリュンヒルデが嬉しそうに微笑む。
     それを見たジークフリートがチラリとクリームヒルトに視線を送る。それに気づいたクリームヒルトがその視線から逃げるように顔を背けると、「……気が向けば」とひと言ポツリと呟いた。
    「じゃあわたしたちはもっと坂を下って商店街の方まで出てみようか。そっちの方がお店もたくさんあるし、もしかしたら他のサーヴァントもいるかもしれないしね」
    「そうだな」
     立香の提案にカドックも同意してくれたので、それぞれ明日の行動プランは固まった。

    「じゃあ、そろそろみんな各々の家に戻って——」
    『立香ちゃん、外だ! 複数の敵性反応がある!』
     突如割って入ったダ・ヴィンチの叫び声によってその場の全員に緊張が走る。周囲に人気がないからか外で騒ぎなどは起きていないようで、物音一つ聞こえなかったため全く気づけなかった。
    「マスターは後ろに。当方とジークフリート殿が先陣を切る」
     すぐさま剣を構えたシグルドとジークフリートが教会の扉の前に立ち、その後ろに立香とカドック、立香たちを挟むようにしてブリュンヒルデとクリームヒルトが囲み戦闘体制に入る。
    「行くぞ!」
     勢いよく扉を開けてシグルドとジークフリートが飛び出した。
     教会の外にいたのは本の形をしたエネミーたちで、強さこそそれほどではないがかなり数が多い。教会を取り囲むようにしてわらわらと浮いていて、いつの間にこんなに現れたのだろうか。
    「……あの本、何か書いてないか」
     次々切り倒して行くシグルドたちの方を見つめていたカドックが、ふと気づいたように立香へ声を掛ける。
    「えっ。あ、本当だ。『ネーム終わらない』……?」
    「『線画辛い』、『増えるページ数』……なあ、これって」
    「うん、刑部姫たちの苦悩がエネミーになってるって感じだね……」
     おそらくはリアルタイムで苦しんでいる彼女たちの苦悩が本型のエネミーとして反映されて襲ってきているのだろう。サバフェスでもそんなことがあったような、なかったような。必死だったのであまりハッキリとは記憶していないがうっすら身に覚えがある気がする。
    「つまり、コイツらを全部殺せばあの子たちの苦悩が晴れるってことなの」
     その体には大きすぎるバルムンクを振り回して切り伏せながらクリームヒルトが叫ぶ。
    「確証はないけど、多分そう!」
    「違ったら鬱陶しいだけなんですけれど!」
     そう言いながらもその手の大剣は次々に本を焼き切っていく。いくら彼らの戦闘力が高いとはいえこの数を一体ずつ相手にしていたのではキリがない。
    「ジークフリート!」
     令呪を一画使ってジークフリートへ魔力を送る。送られた魔力は彼の宝具である大剣へと収束していった。
    「ありがとうマスター。全員俺の後ろへ!」
     ジークフリートの大剣が眩い光を纏い始める。立香とジークフリートの意図を汲んで引き続きエネミーの攻撃から防御はしつつ皆がジークフリートの後方に回った。
     射程圏内から全員いなくなったのを確認し、ジークフリートが大剣を振り上げる。
    「撃ち落とす——バルムンク!」
     叫びと共に大剣が振り下ろされ、放たれた青白い閃光が大量のエネミーたちを一瞬で薙ぎ払った。

     教会を取り囲んでいたエネミーたちが消え去り、周囲に魔力反応がなくなる。しかしまだ追加発生する可能性もあるため警戒は解かないままその場で視線を巡らせる。
    『敵性反応は完全に消失したようだ。お疲れ様!』
     ダ・ヴィンチからの通信で、ホッと胸を撫で下ろした。この状況について限界原稿部から何か弁解でもあるかとスマートフォンをポケットから取り出すも、特に通知もなく沈黙を保ったままである。
    「せめて今ので悩みが解決したかどうかぐらいは教えてくれてもいいんじゃないかしら」
    「うーん、力尽きたのかも……」
     うんともすんとも言わないスマートフォンに向かってクリームヒルトが文句を言い、立香がそれに苦笑する。彼女たちを庇うわけではないが、本を生み出すというのは締切まで常に全力疾走状態でまさに命懸けの行為なのだ。これだけの苦悩を一気に晴らして原稿に打ち込んだとなれば力尽きるのも無理はない。
    『みんな、今日のところは大丈夫そうだから家に戻って休んでくれたまえ。何か異変があればまた連絡するよ』
    「ありがとうダ・ヴィンチちゃん。じゃあみんな、帰ろうか」
     立香の呼び掛けに皆頷き、教会から各々の家へと帰宅していく。
    「わたしたちも帰ろう。お腹空いちゃった」
    「そうだな。このサンドイッチと、家にある食材でスープでも作るか」
    「スープ良いね。一緒に作ろう!」
    「おまえ包丁使えるのか?」
    「失礼な。ならエミヤと新所長仕込みの腕前を披露してあげようじゃない」
    「へぇ、それは楽しみだ」
     軽口を叩き合いながら、立香とカドックもまた二人の家へと戻っていった。

     二人で和気藹々と料理を作り、それぞれ入浴を済ませて二階の寝室に向かう。当然のように寝室は一部屋で、大人が三人ぐらい横になれそうなほど大きなベッドが一つ置かれている状態だった。
    「あー、まあ、そうだよね」
    「……じゃあ、僕は下のソファで寝るから」
    「いやいや、寝室バラバラはダメでしょ」
    「未婚の男女が同衾の方がダメだろ」
    「今は結婚してるじゃん」
    「っ、確かにそう、なんだけど……!」
     なおも何か必死に葛藤しているカドックを無理矢理寝室に押し込んで扉を閉める。
    「大丈夫だよ、変なことしないから」
    「それはおまえのセリフじゃないだろ……」
     そういうことを心配しての葛藤かと思ったのだが、どうやらそうではなかったらしい。諦めたように大きな溜息をつく。
    「おまえは警戒心っていうものがないのか。……まあ誰にでも部屋を貸し出すようなヤツだもんな」
    「部屋を貸すのは別に気にしないけど、いくらわたしでも誰とでも一緒に寝るってわけじゃ——」
     ない、と言いかけて、それではカドックと一緒に寝たいと言っているかのようではないかと思い至り口を噤む。実際カドックと一緒に寝ることに関して抵抗はないけれど、そこにやましい意味があるわけではない。カドックは真面目だから変なことはしないだろうという安心感のようなものがあるからだ。

    「僕となら、一緒に寝られるって?」
     カドックは変なことはしない、はず。
     そう思うのに今立香を見据える彼の目はいつもの優しい先輩の目ではなく獲物を狙う肉食獣のような鋭い目をしていて、安心感が一気に崩れていくのが分かる。
     いつもとは違う雰囲気に気圧されて、反射的に一歩後ずさろうとしたところを腕を掴まれ止められた。
    「今の僕が怖いと思うなら、一緒に寝ない方がいい」
     どうする、と目が訴えてくる。
     確かに今、気圧されてしまった。彼がただの先輩ではなく〝男〟に見えてしまったから。カドックが言っているのはそういうことなのだろう。ちゃんと異性として意識したのならば適切な距離を保てと、そう警告してくれている。
     ——でも。
    「怖くはないよ。カドックなら、怖くない」
     それが不思議と怖くはなかった。気圧されて、動揺して、そして無性に胸が高鳴った。カドックにそういう対象として見られていることが、怖いよりも嬉しいと感じてしまったのだ。
     立香の言葉を聞いたカドックが少し目を見開き、ハァーッと大きな溜息をついた。
    「別に腹を括れっていうつもりじゃ……いやもういいか。分かったよ、一緒に寝るし、何もしない。どのみち誰かに見られながら手を出すような趣味もないしな」
     どこか諦めたようにブツブツとそう呟いて、「ほら、もう寝るぞ」と言い捨ててさっさとベッドの中に入ってしまった。
     多分何か誤解されている気がする。自分の中のカドックに対する感情に気付いただけで、腹を括ったつもりはないのだけれど。
    「……ま、いっか」
     これ以上蒸し返してカドックがまた出て行ってしまっても困るので、弁解はせず立香もまたベッドの中に潜り込んだ。



    3 特異点探索二日目(午前)

     翌朝、昨晩全くの無反応だったスマートフォンからのけたたましい着信音によって立香は目を覚ました。
    「はーい」
    『マーちゃんおはよう! 昨日は原稿修羅場ってたのがエネミーになっちゃったみたいで大変ご面倒をお掛けしました……!』
     電話越しだが何となく刑部姫が最敬礼で頭を下げている姿が目に浮かぶ。もし目の前にいたら土下座していることだろう。
    「それで原稿は大丈夫なの?」
    『昨日悩んでたところはお陰様で何とか。それよりマーちゃん、昨日の夜は何もされてない? 姫たち力尽きちゃって昨晩観測してなかったから万が一のことがあったらと思って朝イチに電話したんだけど!』
     どうやら本当に力尽きていたらしい。サーヴァントは眠る必要などないはずなのだが、マスターである立香と離れているためかいつもより魔力の回復が遅くなってしまうのかもしれない。
    「何もないよ。心配してくれてありがとう」
    『えっ、一緒に寝てて何もないの?』
    「えっ、何かあってほしかったの?」
     安心させるはずが想定外に驚かれて、思わず問い返してしまった。
    『ごめんごめん、そういうわけじゃないんだけど。ねぇ聞いた? カドック氏はちゃんと紳士だったよ』
    『そう。何かあったりしたら刀の錆にしてやるところだったわ』
    『そんで市中引き回しの刑でしょ』
    『アルキャスちゃんどこで覚えたのよそんなの』
    『遺体はチョコレートの海に沈めて固めましょ』
    『待ってもう遺体処理の話になってる』
     万が一の場合におけるカドックの処置について電話の向こうで盛り上がり始めてしまった。寝ていたはずのカドックもさすがにこの騒ぎで起きたらしく、鬱陶しそうに眉間に皺を寄せてうっすら目を開けた。
    「……だから、何もしてないって言ってるだろ……」
     寝惚け眼を擦りながら、カドックが上半身を起こして電話の向こうに釘を刺す。
    「おはよう、カドック」
    「おはよう……朝から元気だな」
     昨晩はいろいろあったけれど、結局疲れていたのもあってすぐに寝てしまった。立香は元々悪夢さえ見なければ寝つきも良いし寝起きもスッキリ目覚めるタイプだが、カドックは朝があまり得意ではないのかまだ目が虚ろでぼんやりとしている。
    『カドック氏も起きたことだし、今日も引き続きいちゃラブ生活よろしくね。見せゴマになりそうな胸キュン初心ラブをマーちゃん夫婦に期待してるから!』
     刑部姫が元気にそう言い残してぷつりと通話が切れた。
    「何なんだ一体……」
    「ちょっとよく分からないですね……」
     呆気に取られたまま二人が顔を見合わせる。
    「とりあえず朝ごはんにしよっか。冷蔵庫にお味噌とお豆腐があったし、今朝はわたしが和朝食を作るよ!」
    「うん……ありがとう」
     まだ眠そうに目を擦っているカドックに微笑みかけて、朝食の用意をするべく立香は寝室を後にした。


     朝食を済ませ、軽く身支度を整えて立香とカドックは午前中のうちから外へと出掛けた。昨日は自宅周辺のみの散策だったが、今日はもう少し遠くまで足を伸ばしてみるつもりだからだ。ジャンヌの他にもサーヴァントが飛ばされてきていないか、昨日のエネミーのような異常が発生していないかといった通常の特異点探索に加えて、所謂デートとしての意味合いもある。いちゃラブが出来ているかどうかは兎も角、夫婦らしく見えないと特異点から弾き出されると言うのであれば、ひとまずそれらしい行動を取ってみるのが一番だろう。
    「今日は坂を下って商店街や中華街あたりに行ってみようか」
    「ああ。この特異点がどこまで横浜を再現しているのかは分からないが、その辺りは有名な観光スポットだな」
     地図アプリを見ながら緑が生い茂る公園の横の坂を下っていく。少し坂道の傾斜がきつく、足元に気をつけないと転がり落ちてしまいそうだ。
    「……手、繋ぐか」
     カドックも同じことを思ったのだろう。少し照れくさそうにそう言って、立香の前に彼の手が差し出される。
    「……うん。ありがとう」
     昨日は躊躇っているうちにカドックから繋がれたその手を、今日は自分から迷いなく掴んだ。

     坂を下り切って商店街に辿り着くと、坂の上とは違い人通りも多くとても賑わっていた。カフェやブティックなど様々な店が立ち並び、石畳の街道を歩いて回るだけでも何だかワクワクしてきてしまう。
    「あっここ、有名なパン屋さんだよ! 行ってみたいと思ってたんだ」
    「へぇ。随分と歴史のありそうな店だな」
     一軒のパン屋の前で立ち止まり、ソワソワと中の様子を覗き見る。さすがに全国で名が知られているだけあって店内は客の姿が多数見られた。カドックの言う通りここは明治時代創業の歴史あるお店で、開店当初からの人気パンがちょうど焼き上がったところらしく店の外にまでふわりと香ばしい香りが漂ってきている。
    「入るか」
    「えっ、いいの?」
    「そんなあからさまに入りたそうな顔しておいて、無視できるわけないだろ」
    「へへ、顔に出ちゃってたか」
     分かりやすすぎる自分が恥ずかしくて笑って誤魔化すと、カドックもそれに釣られて微笑む。
     二人は手を繋いだまま、パンの香り漂う店内へと足を踏み入れた。

    「はぁ〜、どれも美味しそう……。パン屋さんって良いよね。いろんなパンを見てるだけで幸せになっちゃう」
     トングをギュッと握りしめながら綺麗に陳列されたパンたちをうっとりと眺める。
    「確かおまえの夢は『好きな人とパン屋を開くこと』だったな」
    「えっ、何でそれ知ってるの」
    「特異点の記録はチェックしてるし、マシュが嬉々として教えてくれたよ」
    「ま、マシュ〜〜!」
     先日温泉旅行のために訪れた特異点で木乃美に何とかして夢を明かしてもらうため勢いで叫んだことだったのだが、あの場限りのはずがまさかカドックにまで知られてしまうとは。顔から火が出そうだ。
    「……凡人のつまらない夢だって笑うでしょ」
     そんなことは自分が一番よく分かっている。
     だけど、新所長の作るサクサクのクロワッサン、エミヤの作るバターたっぷりのロールパン、そして——ドクターがよく食べていた甘い菓子パン。元々パンは食べるのも作るのも好きだったけれど、このカルデアでたくさんのパンと出会ってきて、パンがどれだけ人を幸せにするかが分かった。だから、もし元の生活に戻れたら好きな人と好きなパンを毎日焼いて、たくさんの人に幸せを届けたいと思ったのだ。
    「いや。それはおまえが人類最後のマスターとしてじゃなく、一人の一般人として——普通の女の子として描いている夢だろう。だったらその夢は、大事にするべきだと思う」
     茶化すことなく真剣な眼差しで、カドックがそう告げる。そんな真面目に受け止められると思わず少し虚をつかれてキョトンとしてしまった。
     いつか元の生活に戻ったら。普通の女の子に戻れたら。その上での、立香のささやかな夢。毎日朝早くからパンを焼いて、パンに囲まれて暮らす日々。地元のお客さんに愛されるような小さなお店で、いつも隣には好きな人が微笑んでいて——。
     そこまで想像して、不意にその微笑む人物がカドックの姿をして現れたため頬がカッと熱くなる。
     好きな人って。いやいや、カドックのことは確かに好きだけど、まさかそんな。
    「どうした。具合でも悪いのか?」
     心配そうな整った顔に覗き込まれて、思わず反射的に手にしたトングでカチカチと威嚇してしまった。
    「な、なんだよ」
    「ご、ごめんごめん。じゃあ夢の第一歩ってことで、いろんなパンを買って食べ比べしてみようよ。カドックも食べたいパンを選んで!」
     自分の挙動不審さを誤魔化すように威嚇していたトングをパンの方に伸ばす。カドックもまだ納得のいかない顔はしながらも、立香に促されてずらりと並んだパンに視線を移した。

     二人分の昼食には多すぎる量のパンを買い込み、両手にぶら下げながらぶらりと商店街を歩いて回る。先ほどの店以外にも蔦が覆うフランスの田舎をイメージしたパン屋やカフェを併設したパン屋などもあり、その都度立香が足を止めるのでカドックに苦笑されてしまった。
     ジュエリーショップも何軒か見られ、ちょうど六月でジューンブライドということもあってかどの店舗でもブライダルフェアが開催されていて、婚約指輪や結婚指輪を見にきているカップルの姿も見られた。
     店外ポスターに掲載されている指輪は大きなダイヤモンドがキラキラと輝いていて、今立香たちが嵌めているシンプルな結婚指輪とは違う。おそらくこれが婚約指輪なのだろう。テレビでよく見る、彼氏が指輪のケースをパカッと開けて「結婚してください」とプロポーズをする時のアレだ。パン屋に続いて夢見がちだと言われそうだが、ああいうシチュエーションにも少し憧れる。
    「ジュエリーショップも見ていくか?」
     立香がしばし立ち止まっていたことで気になっていると思ったのか、カドックがそう問い掛けた。
    「ううん、大丈夫。行こ」
     偽装結婚の二人には不要なものだ。今嵌めている指輪だって、この特異点が修復されたらなくなるものなのだから。
     笑って首を横に振ると、再び道なりに歩き始めた。




    4 特異点探索二日目(午後)

     ひと通り見て回るとちょうどランチタイムを過ぎたぐらいで、先ほど坂を下る際に通りかかった公園まで戻りベンチに腰掛けてパンを食べながらひと休みすることにした。
    「ほら、飲み物いるだろ」
     そう言ってカドックが鞄から水筒を取り出す。中には温かい紅茶が入っていた。
    「えっ、用意してくれてたの?」
    「一応ここも特異点だからな。万が一に備えて水分と簡単な食料ぐらいは持ってきてる」
    「すごーいえらーい」
    「……おまえ、よくそれで今までやってこれたな……」
     基本的には立香も特異点に向かう際には必要な水と食料は持ち歩くようにしているのだが、今回は特異点探索よりも観光に比重を置いていたためすっかり頭から抜け落ちていた。この状況でも冷静にいつもの用意が出来るカドックには感心してしまう。
     用意してもらった紅茶とパンを食しながら、午前中の探索結果について話し合う。
    「今のところ、サーヴァントの姿はなかったね」
    「エネミーもいないな。ここだけ見たらただの観光地だ」
    「午後は一本奥の裏通りを見て、その後中華街に向かおうか」
    「そうだな」
     会話もそこそこに黙々とパンを頬張る。焼きたてのパンはどれも美味しくて、明日の朝食にと買っておいた食パンもきっと間違いないだろう。
     ふと何かを思い出したようにカドックがベンチから立ち上がった。
    「悪い、少しここで待っていてくれ。買い忘れたものがある」
    「いいけど、一緒に行こうか?」
    「いや、すぐ戻る。おまえは好きなだけパン食べてていいから」
    「そう? 分かった」
     スマートフォンをポケットにしまって小走りに商店街の方へと戻っていくカドックの背中をもぐもぐしながら見送る。確かに先ほどまでの買い物では立香の欲しいものばかりを購入していたので、もしかしたらカドックも気になってはいたが買えなかったものがあったのかもしれない。
    「ジャムも買ってきてくれたらいいなぁ」
     明日の朝食の食パンには美味しいジャムを載せて食べたいなぁなどと思いながら、パンを頬張りつつカドックの戻りを待つことにした。

    「あら、マスターじゃない」
     食べたいパンもひと通り食べて紅茶を飲みながらひと息ついていると、背後から声を掛けられた。
    「クリームヒルトとジークフリート! 二人も下りてきたんだ」
    「ええ。例のカフェに行ってみたのだけれど、確かにジャンヌが働いていたわ。でも他にサーヴァントの気配はなかったわね」
    「客も全てこの特異点の一般人だったな」
     クリームヒルトとジークフリートがそう報告する。昨日と特に変化はなさそうだ。結局朝から二人で行ったということにとてもほっこりしたが、言うと怒られそうなので心の中に留めておいた。
    「そっか、二人とも調査ありがとう。商店街も大通り沿いはひと通り見たけど、サーヴァントはいなかったよ」
    「というよりカドックもいないじゃない。何でマスターを一人きりにしてるのよあの男は」
    「買い忘れたものがあるって言って今商店街に戻ってるの。わたしも行くって言ったんだけど待ってるように言われて」
     苛立ちを露わにするクリームヒルトに苦笑しながら立香が状況を説明する。すると、苛立っていたクリームヒルトの表情が少しだけ和らいだ。
    「……ふぅん。ま、何となく察したわ。彼が戻るまで私もここに居ることにします。マスターの護衛は必要でしょう」
    「ああ、それが良い」
     そう言ってクリームヒルトが立香の隣に腰掛け、ジークフリートが二人の背後に立って周囲の警戒を始めた。
    「あっ、じゃあパン食べる? たくさんあるから良かったらどうぞ」
    「本当、緊張感のない子ね……。まあ、せっかくだからいただくわ」
    「俺もいいのか」
    「貴方まで食べてたら誰が剣を振るのよ。そこで立っていて頂戴」
    「……承知した」
     見るからにしょんぼりした様子のジークフリートに申し訳ない気持ちが込み上げる。そこまで気を張らなくても良いとは思うのだが、そう伝えるときっとまた「マスターは警戒心がなさすぎる」とクリームヒルトに怒られそうなのでグッと堪える。
     ふと思い立って、まだ残っているパンを数個選んで別の袋に移し替えた。
    「こっちの袋にいくつか入れておくから、持ち帰って二人で食べて。美味しいのは保証するよ!」
    「すまないマスター。後で有り難く頂戴しよう」
    「マスターがそこまで気を遣わなくても良いのだけれど……」
     困った顔のクリームヒルトにパンの入った袋を託し、嬉しそうなジークフリートににっこりと笑い掛ける。サーヴァントに食事は必要ないのだが、こうしていつも立香やカルデアの皆が当たり前のように振る舞うので一緒に食事をしてくれるようになってくれたことがとても嬉しい。

     三人で雑談をしつつベンチでのんびり寛いでいると、商店街の方からカドックが戻ってくるのが見えた。クリームヒルトがサッと席を立ち、ジークフリートに目配せをする。
    「彼が戻ったのなら私たちは行くわ。またね、マスター」
    「何かあったらすぐに連絡してくれ」
    「うん。ありがとうクリームヒルト、ジークフリート」
     軽く手を振り、二人がこちらに向かってくるカドックの方へと歩き出す。

    「悪い、僕が離れている間藤丸の側にいてくれたのか」
     カドックに声を掛けられ、クリームヒルトが涼やかな顔で彼の方に視線だけ寄越す。
    「彼女のサーヴァントとして当然のことをしたまでよ」
     そして、カドックの後ろ手に握られているものをチラリと一瞥した。
    「そういうことはもう少しスマートにやりなさい。妻を放置するなんて夫失格ではないかしら」
    「悪かったな。経験がないから勝手が分からないんだよ」
    「……耳が痛い話だ」
     何やら心当たりがあったのか、クリームヒルトの小言がカドックだけでなく彼女の夫であるジークフリートにも被弾した。二人が叱られた子犬のようになっているのをフン、と鼻であしらってクリームヒルトが颯爽と去っていく。その後ろを小走りにジークフリートがついていった。

    「おかえり、カドック。クリームヒルトと何話してたの?」
    「いや、大したことじゃない。それより……その、買い忘れたもの、なんだが」
     何故か辿々しい口調で、視線が泳ぎ始める。買いたいものが見つからなかったのだろうか。他の場所を探したいのであれば別に遠慮する必要などないけれど。
     首を傾げている立香の目の前に、三本の赤いバラの花束が差し出された。
    「……えっ?」
    「昨日バラ園に行った時に喜んでいたから。本当なら昨日渡せたら良かったんだろうけど、デートってものに縁のない生活をしてきたからそこまで気が回らなくて、こんなタイミングで悪い」
     タイミングなんて全然気にしないけれど、それよりもカドックがまさか花を買ってくるとは思わず完全に意表を突かれてしまった。キョトンとしたまま固まっている立香に、カドックがはたと気がついて恐るおそる問い掛ける。
    「……もしかして、日本ではあまり花は贈らないのか」
    「あっ、いや、贈る人もいると思うけど、わたしは貰ったことなかったからちょっとびっくりしちゃって。でもお花を貰うってすごく嬉しい。ありがとう!」
     立香が満面の笑みでその花束を受け取ると、ようやくカドックが安堵の表情を浮かべた。
    「さっきクリームヒルトから『もっとスマートにやれ』って小言を言われたよ。悪かったな、こういうことに不慣れで」
     ムスッとして口を尖らせるカドックにクスりと苦笑する。不慣れながらもこうして立香のために用意してくれたことが何よりも嬉しいので、別に行動がスマートかどうかなんてどうでも良かった。
     ポーランドでは花を贈るというのは当たり前のことなのかもしれないが、カドックが立香のために花を買っているところを想像すると何だかすごく微笑ましくて顔がニヤけてしまう。
    「ふふ」
    「なんだよ」
    「ううん、嬉しいなぁって」
    「……そうか」
     カドックが照れくさそうに視線を逸らす。
     どこに飾ろう、テーブルの上がいいかな。せっかくだからあの家に合いそうなお洒落な花瓶もどこかで買いたい。裏通りにも素敵な雑貨店があるといいのだけれど。
     バラの花束を見つめてそんなことを考えながら、立香はまたもニヤニヤと口角が上がってしまうのを抑えられなかった。


     再び商店街に戻って裏通りを探索し、アンティークの雑貨店で細身の花瓶を購入した。ひと通り歩いて特にサーヴァントやエネミーの気配がないことを確認して、今度は中華街の方へと足を伸ばす。こちらも観光客で非常に賑わっていた。食べ歩きメニューに特化した店舗も多いようで、お腹がいっぱいでなければいろいろ食べてみたかったところだ。
    「あ……」
    「どうしたの?」
     中華街では珍しいヨーロッパ雑貨ばかりが置かれた店舗の前でカドックが足を止める。その視線を辿った先に、可愛らしい小花柄の皿やマグカップが売られていた。
    「ポーリッシュポタリー——ポーランド食器だ」
    「えっ、そうなんだ。可愛い!」
     どの食器も繊細で可愛らしい絵柄と色合いで、あの家で使ってもよく映えそうだ。
    「ね、これお揃いで買おうよ。お皿とマグカップセットでさ、朝はこのお皿にパンを載せて、マグカップにコーヒーを入れるの」
     どうかな? とカドックに問い掛ける。少し逡巡して、こくりと頷いた。
    「ああ。じゃあ好きな柄を選べ。僕も選ぶから」
    「やったぁ! ふふ、本当に新婚みたいだね」
     二人でお揃いの食器を買うなんて、と冗談めかしてそう言うと、それに対してカドックが向けたのは呆れ顔ではなく優しい笑顔だった。
    「そうだな」
     まさか同意が返ってくるとは思わず、虚をつかれてその場に固まる。
    「なに驚いてるんだよ。おまえが言い出したんだろ」
    「そっ、そうなんだけど。いや、うん、そうだよね」
     同意されると急に恥ずかしくなってしまって、返事がしどろもどろになる。釣られてカドックまで恥ずかしくなってきたのかじわじわと頬に赤みが差し始めた。
    「ほら、買いに行くからさっさと選べよ」
    「あっ、はい!」
     照れ隠しのように催促されて、慌てて気になっていた柄の皿とマグカップを手に取り奥のレジへと運んでいった。

     花瓶や食器などの重い荷物はカドックが持ち、しばらく中華街をあちこち散策する。日が暮れるまで途中買い食いを挟みながらひと通り見て回ったが、こちらもサーヴァントの姿はなく特に変わったことはなさそうだった。他の二組からも通信はなかったので、特段大きな異変などはなかったのだろう。
    「今日の報告会も兼ねてまた教会に集まってもらおうか」
    「そうだな。それにまた夜になるとあの本型エネミーが出てくるかもしれない」
    「確かに」
     日中は三組の夫婦を観察していて夜になると原稿をするスケジュールなのか、昨日も今日も昼間にエネミーの姿は見られなかった。もし夜にまた発生するのであればサーヴァントたちと合流した方が安心だろう。
     すぐさま通信機で他の二組と連絡を取り、完全に日が沈み切らないうちに立香たちも教会へ向かうことにした。





    5 特異点探索二日目(夜)

     昨晩と同様に立香とカドック、シグルドとブリュンヒルデ、ジークフリートとクリームヒルトが教会に集結する。急いだつもりではあったが中華街から教会までは距離があったため、着いた頃にはすっかり日が沈んでしまっていた。
    「さて、もう夜ね。また例のエネミーが現れるのかしら」
     クリームヒルトの言葉で皆が一斉に周囲の気配を探るが、ダ・ヴィンチからの通信もなく今のところは問題なさそうだ。
    「ひとまず当方から報告だ。とはいえ特にこれといって異常はないのだが、今日は我が愛と例のカフェに行った後みなとみらいというところまで足を伸ばしてみた」
    「大きな観覧車から眺める景色がとても素敵で……雰囲気に飲まれて殺してしまうところでした……」
    「公衆の面前で殺人事件を起こすのはやめてくれ……」
     カドックが眉間を押さえながら訴えかける。この二人ならばやりかねないが、何とか踏みとどまってくれて助かった。特異点とはいえ余計な騒ぎは起こさないに越したことはない。
    「私たちはマスターと会った後、関内駅という場所へ行ったわ」
    「ああ。この辺りとはまた違った趣のある建物が多い場所だったな」
     うんうんと頷いて聞いている立香に、少し険しい顔でクリームヒルトが続ける。
    「そこで気が付いたのだけど、その辺りの作りが曖昧なのよ。観光地はしっかり作られているのだけど、所謂オフィス街的な場所については何ていうのかしら。ガワは作ってあるけどハリボテのような雰囲気ね」
    「そして、それより先は行き止まりだ。というか、先に進もうとするとこの家の近くに戻されてしまう」
    「箱庭で夫婦生活を観察するのが元々の目的であるのなら、最低限のリソースで狭い範囲のみ作っているという可能性が高いわね」
    「なるほど」
     カドックが納得しているのに対し、立香がもう一つの可能性も口にする。
    「ただ単にあの四人がオフィス街に対する解像度が低いだけっていうのもありそうだけど」
    「ああ……それもあるだろうな」
     ジャンヌ・オルタはハワイの時と同様に観光地に関してならばくまなく調べていると思われるが、おそらくそれ以外は地図を見てうっすら知っている程度だろう。その曖昧さが特異点にも反映されているような気がする。

    「ま、どちらにせよ探索範囲は大体把握したわ。あとはあの子たちの原稿とやらが終われば——」
    『みんな、また現れた! 外に多数の敵性反応だ!』
     ダ・ヴィンチの割って入ってきた声に、すぐさま全員が戦闘体制を取る。
    「決まって夜に悩むのね。もっと昼間から余裕を持って出来ないのかしら」
    「限界原稿部の部長? の刑部姫が追い込まれないと本気を出せないタイプだからなぁ……」
     大剣を構えながら溜息混じりにボヤくクリームヒルトに立香が苦笑する。「それが出来たら苦労しないよぉ!」と叫ぶ刑部姫の姿が目に浮かぶようだ。
     昨晩と同様にシグルドとジークフリートが先陣を切って教会から飛び出し、その後に立香たちが続く。外にはやはり本型のエネミーたちがウヨウヨと飛び回っていたが、今夜はそれだけではなかった。
    「なに、あのでっかいの!」
    「竜種のエネミーだな」
     本型エネミーの攻撃を防御しながら、カドックが答える。それは見れば分かるのだが、何故この中に混じって現れたのかが分からない。その間にも巨大な竜種のエネミーは火を噴きながらのしのしとこちらへ向かってきていた。
    「アイツにも、何か書いてあるわ!」
     大剣を振り回しながらクリームヒルトが立香にそう伝える。よく見ると確かに首から何か書かれたプレートを下げていた。
    「カドック読める」
     視覚強化のできるカドックに助けを求めると、すぐにカドックがそちらを睨みつけた。
    「『あと一日』……締切か何かか?」
    「そんなこと言ってたっけ?」
    「話は後だ。ひとまずアイツを斬るぞ!」
     首を捻っているカドックと立香に向けてそう叫ぶと、竜特攻を持つジークフリートが竜種のエネミーへ向かって駆け出す。シグルドも彼に続いて応戦し始めた。
    「なら、この雑魚たちは私たちで何とかしましょう」
    「ええ、そうですね」
     クリームヒルトとブリュンヒルデもまた本型エネミーたちを次々と斬り倒していく。
     彼らの戦闘を見守りながら、昨晩との違いについて立香は思案を巡らせた。本型エネミーは昨晩と同様に彼女たちの苦悩が形になったものだ。だが新たに現れた竜種のエネミーはそれらとは大きさ、強さ共に一線を画している。そして「あと一日」というメッセージ。原稿が明日締切ということなのか、それとも何か他に意味があるのだろうか。
    「マスター、魔力を!」
    「! オッケー!」
     ジークフリートに呼び掛けられて、意識を戦闘に集中させる。一晩経って戻った令呪の一画から再びジークフリートに向けて魔力を送り込んだ。
    「撃ち落とす——バルムンク!」
     竜種とその周りの本型エネミーに向けて高火力の閃光が放たれる。しかし、本型エネミーは消え去ったものの竜種だけはまだ残っていた。ダメージは入っているようだが、未だ攻撃力は衰えていない。
    「っ、倒し切れないか……!」
    「ならばマスター、こちらにも魔力を回してもらえるか。竜殺しとしての力、今こそ発揮させてもらおう!」
    「分かった。お願い、シグルド!」
     令呪二画目を今度はシグルドへ向けて使用した。一気にシグルドの魔力が高まり、それが彼の魔剣へと収束していく。
    「これなるは破滅の黎明——ベルヴェルク・グラム!」
     シグルドの魔剣が巨大な竜を貫き、眩い光と共に消えていく。ようやく全てのエネミーが夜の町から消え去った。
    「何だったのよ、今の竜は」
     この場にクリームヒルトの問いに答えられるものは誰もおらず、答えを持っているであろう人物たちからの連絡を求めてスマートフォンをポケットから取り出す。しかし何の反応もなく、今朝方掛かってきた番号に掛け直しても応答はなかった。
    「毎回肝心な時に力尽きちゃうの、困るなぁ」
    「だが一応倒してはいるからそれで解決——というほど簡単な話でもないか」
    「もしこれで原稿が完成したのなら、力尽きる前に連絡が来るなり聖杯が現れるなりするんじゃないかしら」
     立香のボヤきにカドックが希望的観測を述べるが、クリームヒルトがそれに対して疑問を呈す。確かにこれで解決したのであれば、立香たちの任務も終わるし特異点が修復されても良さそうなものだ。それが変化なしということは、まだやるべきこと——すなわち原稿が残っているのだろう。
    「きっとまた明日の朝にはおっきーたちから連絡が来るだろうから、それまでは自宅に戻って待とう。連絡が来たらすぐ伝えるよ」
     立香の言葉にサーヴァントたちが頷き、昨晩と同様それぞれの家へと戻っていく。
    「原稿っていうのはそんなに大変なものなのか」
    「そうだねぇ。人によるとは思うけど、毎回まあまあの地獄かな。カドックも作ってみる? 同人誌」
    「……結構だ」
     うんざりした顔のカドックにクスクスと笑いながら、二人もまた自分たちの家へと戻っていった。





    6 特異点探索三日目(朝)

     その晩は一日中歩き回り戦闘もこなした後ということもあって立香もカドックもすぐに眠りに落ちた。昨日は散々揉めた同衾もすんなりと受け入れ、カドックの慣れの早さに少し驚いたほどだ。心なしか寝る時の距離も詰まっているような気がして、逆に立香の方がドキドキしてしまった。
     立香が目を覚ますと隣には既にカドックの姿はなく、ほんのりぬくもりが残っていることから少し前に起きたのだろうと推測された。昨日叩き起こすようにけたたましく鳴り響いた着信音も今朝はまだ鳴っていない。昨日の一件について問いただしたいところなのだが、こちらから連絡が取れない以上待つことしかできない。
     ひとまず顔を洗おうと体を起こす。ベッドから降りようとしたところで、部屋のドアがノックされた。
    「……起きたのか。朝食用意してあるから」
     開いたドアの隙間からカドックが顔を覗かせる。それと共に焼きたてのパンとコーヒーの香ばしい匂いが寝室の中へと漂ってきた。その匂いを嗅いだ途端、先ほどまで全く何も感じていなかったお腹が急にグゥーっと鳴り出す。
    「ありがとう! 顔洗ってから行くね」
     立香の返事に少し口角を上げて、カドックがまたドアの向こうに姿を消す。空腹に急かされるようにして立香も急いで着替え、未だ鳴らないスマートフォンを手に寝室を出た。

     スクランブルエッグとソーセージ、それに具沢山のスープとこんがり焼き色のついたパンが食卓に並べられている。
    「すごい、全部カドックが作ってくれたの?」
    「別に、作るって言っても焼くだけとか煮込むだけとかだし」
     立香が感嘆の声を上げると、カドックがそう言って照れ臭そうに視線を逸らした。
    「食パンにはジャムかなって思ってたんだけど、スープもアリだね」
    「ああ。ポーランドはパンをよく食べるから、パンに合うスープもいろいろあるんだ」
    「そうなんだ!」
     もしいつか自分のお店を出すとしたら、店内にちょっとしたカフェスペースを作ってパンと一緒にスープもセットで出せたら良いかも、などと想像が膨らんでくる。
     その時は是非カドックにアドバイスをしてもらって——というところまで考えて、またしてもカドックと二人でパン屋を営む姿を思い描いてしまい慌ててブンブンと頭を振る。
     今は確かに夫婦だけど、これはあくまで特異点探索のための偽装結婚。特異点が消えれば消える関係だというのに、調子に乗って勝手にそんな妄想をしてしまってはカドックも迷惑だろう。
    「どうした。頭でも痛いか?」
     心配そうに覗き込んでくるカドックに、曖昧に笑って誤魔化す。まさか本人に打ち明けられるわけがない。
    「ううん、大丈夫。じゃあ早速いただいてもいいかな」
    「ああ」
     いただきます! と元気に手を合わせ、真っ先に楽しみにしていたパンへと手を伸ばした。

     二人がもぐもぐと朝食を食べているところに、昨晩からずっと音沙汰のなかったスマートフォンの着信音が鳴り響いた。慌ててミルクをたっぷり入れたコーヒーでパンを流し込み、通話ボタンを押す。
    『マーちゃんおはよう! 昨日はまたお騒がせして申し訳ありませんでした……!』
    「おはようおっきー。それは良いんだけど、昨日のあのおっきな竜? は結局何だったの?」
    『それについてもそのぉ……お伝えしないといけないことがありましてぇ……』
     立香の問い掛けに、刑部姫の口調がしどろもどろになる。この言いにくそうな雰囲気からして何やら嫌な予感しかしない。
    『元々ちょっと観察してすぐ帰還してもらお〜って思って作った特異点だから、実は特異点作成に聖杯じゃなくて聖杯の雫を使ってて……その分維持するリソースも聖杯より少なくなるわけで、何とか追加リソースを注ぎ込みたかったんだけどここからじゃ何も出来なくてですね……』
    「つまり、これ以上は維持できないと?」
     ゴニョゴニョと言い訳をしてくる刑部姫に対しカドックがハッキリと問うと、「ウッ」という呻き声を漏らした。
    『っ、そ、そうですぅ! あの竜はそのカウントダウンで、つまりあと一日しか特異点が維持できないってことなんですぅ!』
    「ええっ で、でも原稿はまだ終わってないんだよね? わたしたちが手伝いに行くことはできない?」
    『うう、マーちゃんに手伝ってもらえるとすごく助かるけど、気付いたら出られない部屋に閉じ込められちゃっててここがどこなのかも良く分からなくて……スマホの電波が繋がるから特異点の中のどこかだとは思うんだけど……』
    『窓もないし外で物音もしないのよ。何らかの遮断スキルが使われてるんでしょうけど。ちなみにアルキャスとノクナレアは昨日の修羅場でまだへばってるから今日は実質私とおっきーで何とかするしかないわね』
     刑部姫に続いてジャンヌ・オルタが向こうの状況を説明する。なかなか大変な状況になってしまっているようだ。
    『マスター、聞こえるか! まだ朝だというのに外に本型エネミーが現れた!』
    『こちらも確認した。取り急ぎ対処する!』
     そこへ敵襲を知らせるシグルドとジークフリートからの通信が入った。昨日までののんびりした雰囲気とは打って変わってどこもかしこも緊急事態の様相を呈している。
    『特異点が崩れかけててエネミーが暴走しちゃってるのかも〜! ど、どうしようマーちゃん〜!』
     電話越しに刑部姫の嘆く声が聞こえてくる。どうしようと言われても、むしろこちらが聞きたいぐらいだ。
    「チッ、このままここにいても埒があかない。ひとまず外の戦闘に加勢しよう。簡易召喚は出来るな?」
    「サークルも設置したし大丈夫のはず! ちょっと待ってて二人とも、エネミー倒しながら解決策を考えてみる!」
    『お願いマーちゃん〜! 姫たちはそれまで必死に原稿するよぉ!』
    『要は今日中に終われば良いんでしょ。やってやるわよ!』
     情けない刑部姫の嘆きと威勢の良いジャンヌ・オルタの宣言を最後に通話が切れる。外からは朝の静かな住宅街に似つかわしくない爆発や剣戟の音がそこかしこから聞こえてきて、本格的に戦闘が始まったことを知らせていた。

     戦闘用の礼装を身に付け、立香とカドックも急いで家の外へと向かう。
    「刑部姫たちはこの特異点のどこかにいると言っていたな。だが、ひと通り見て回ったがそれらしい場所もサーヴァントも見当たらなかった」
     シグルドたちの元へ駆け寄りながらカドックがそう話し掛ける。確かに立香たちも、そして他の二組からもそのような報告はなかった。だとしたら、一体どこにいるというのか。
    「——あ!」
     これまでの探索を思い返してみて、ふと立香の脳裏にここへ訪れた日の記憶が蘇った。
    「初日のカフェ! ジャンヌがいたお店!」
    「あそこか? だが他にサーヴァントの気配は——」
    「わたしたち、二階を見ていないんだよ」
    「——! 認識阻害か!」
     立香の言葉でカドックも同じ結論に至ったようだった。
     ジャンヌに「二階は予約で埋まっている」と言われて、二人ともそれ以上の追求はしなかった。そこに何の疑問も持たなかったし、その後二階の存在すら記憶からすっかり消えてしまっていた。しかしよく考えてみたら何もない場所にジャンヌがいるわけがない。そして彼女は立香たちが現れてもなお、決してあそこから動かない。それはつまり。
    「ジャンヌが部屋の存在を隠しているのか」
    「本人の意図なのか、無意識にそうさせられているのかは分からないけど!」
    「要するにあの店に何か解決の糸口があるってことなのね」
     本型エネミーたちを斬り伏せながらクリームヒルトが叫ぶ。
    「多分そう! みんな、ここは任せても大丈夫 ひとまず簡易召喚でサーヴァントを一人喚ぶから!」
     そう言って立香が取り急ぎその場で簡易召喚を行う。誰か強力な助っ人が来てくれることを願いたいが、果たして。
    「——呼び声が聞こえたので参上したわ。マスター、指示をくださいな」
     光の渦から現れたのはぬいぐるみを抱えた小さな少女——アビゲイル・ウィリアムズだった。アビゲイルが立香にニッコリと微笑み掛ける。
    「アビー! クリームヒルトたちの助っ人を頼めるかな!」
    「ええ、もちろんよ。マスターはどちらに?」
    「わたしはわたしの戦場に向かう!」
     キリッとカッコつけて言ってみたけれど、要するに同人誌の原稿を手伝いに行くというだけである。しかしこの中でそれが出来るのは立香しかいないのもまた事実だった。
    「分かったわマスター、お気をつけて! お互いの戦場でベストを尽くしましょうね!」
    「うん、ありがとう! 行こうカドック!」
    「クソッ、どうしてこうなった……!」
     アビゲイルの声援に応え、悪態をつくカドックを引き連れて立香はジャンヌのいるカフェの方へと走り出した。





    7 限界原稿部と秘密の部屋

     途中何度か本型エネミーと遭遇したが、カドックの防衛魔術で何とか凌いでカフェまで辿り着き、やや重い扉を開けて店内に駆け込んだ。前回来た時は気にしていなかったが、扉を開けてすぐ目の前が二階への階段になっている。一階のお洒落な店内に気を取られて全く気付いていなかった。
    「マスター! どうされたんですか?」
     そこへ慌ててジャンヌが店の奥から駆け寄ってきた。
    「ジャンヌ、二階を見せてもらってもいい?」
    「えっ? いえ、二階にはご予約のお客様が——」
    「その予約客だが、アンタは二階から出てきたところを見たことがあるか?」
    「——!」
     カドックに問われてジャンヌがハッと息を呑む。この様子では彼女もそのことに今初めて気が付いたようだ。
    「働いているアンタが見たことがないのはおかしいよな」
    「そう、ですね……。自分でもおかしな話だと思うのですが、今までそのことに全く疑問を抱いていなくて——」
    「マスター、とうとう気付いちゃったのね」
     そこへ、三人以外の声が割って入ってくる。いつの間にか店内にクロエと清姫の姿があった。やれやれといった様子でこちらに向かって歩いてくる。
    「作家陣が聖杯の雫で特異点を作っていたから、私たちも聖杯の雫で缶詰部屋を作ってみたの。ジャンヌおねえちゃんに門番の役割を与えたのも私たちよ」
    「ええ、だって遊んでばかりでちっとも原稿が上がって来ないんですもの。ちょっと灸を据えるつもりで監禁してみました」
    「何でみんなそんな気軽に聖杯の雫を使っちゃうのかな……」
     全く悪びれていない二人にさすがの立香も頭を抱える。
     聖杯を無断で持ち出すよりはマシとの判断なのかもしれないが、聖杯の雫だってカルデアの大事なリソースである。塵も積もればで聖杯を鋳造することができるのだから、無闇に使うのは危険すぎる。
    「でも特異点がピンチなんでしょ。だったら仕方がないわ。本当は原稿が上がってくるまで誰も入れないつもりだったけど、助っ人の投入は許可します。でも原稿が完成しないと出られない設定は変えられないから急いで仕上げてね!」
     そう言ってさっさと二階へ向かわせようとするクロエに対し、カドックが眉を顰める。
    「どうしてそこは変更できないんだ」
    「雫といえどそこは聖杯由来のものだから、願ってしまったからには叶えないと出られないのよ!」
     カドックの質問にクロエがそう答え、「さあ行って! 早く!」と背中を押されて再度二階へと急かされる。
     まだ文句を言いたげなカドックと共に二階の部屋へと続く階段を駆け上り、閉ざされていた扉を開いた。

    「——えっ、マーちゃん」
    「ウソ、本当に来れたの」
     扉を開いた瞬間、立香とカドックは部屋の中に転移させられていた。既に扉の姿はなく、店の外から見えていたはずの窓もない。完全に「出られない部屋」に入り込んでしまったということになる。
     突然現れた立香とカドックに刑部姫とジャンヌ・オルタが目を丸くしているが、詳しく説明している時間はない。
    「早速だけど、わたしたちは何を手伝えばいい?」
    「僕に作画は無理だぞ」
     立香に訊かれてハッと我に返り、刑部姫が現状の原稿データをチェックしながら指示を出す。
    「あっ、じゃあマーちゃんはペン入れ終わってるページのトーンをお願い! カドック氏は写植頼めるかな?」
    「写植?」
    「フキダシ——セリフのところにテキスト入れるの!」
    「承知した。それなら出来そうだ」
     タブレットをそれぞれ手渡され、原稿データを受け取る。俄かに騒がしくなったことで目を覚ましたらしいアルトリア・キャスターとノクナレアがこちらを見て声を上げた。
    「えっ、立香? 何でいるの」
    「私たちがダウンしてる間に一体何があったのよ!」
    「ごめん、説明してる暇はないの! 二人はまだペン入れ終わってないページを仕上げちゃって。姫とオルタちゃんは表紙と裏表紙を描くから!」
     まだ動揺している二人をひとまず無理矢理着席させ、刑部姫が仕事を割り振る。ずっとこのペースで仕事を配分していたのならきっと間に合っていたのだろうが、今さらそんなことを言っても仕方がない。
    「ところで、これってどんなお話なの?」
     立香の問いに、刑部姫がキリッとした顔で答える。
    「お家の事情で偽装結婚した二人が次第に惹かれ合い最終的に本当のラブラブ新婚生活を送るようになる話よ!」
     どこかで聞いたような設定に思わず立香とカドックの表情が固まる。
    「わ、わぁ……」
    「……どんな顔して原稿に向き合えば良いんだ」
    「フィクション! フィクションだから! あとラブラブ加減はジククリ→シグブリュって流れになるから!」
    「それもうフィクションじゃなくない?」
     刑部姫の力説に思わずツッコんでしまった。
     内容のことはさておき、とりあえずまずは手を動かさなくては始まらない。
    「と、とにかく。みんな、目の前の原稿を何とかして完成させるよ!」
     立香の言葉に皆がコクリと頷く。
     カドックがいろいろな感情の籠った深い溜息をついた。
    「……まさか本当に僕も同人誌を作ることになるとはな」
     限界原稿部のラストスパート、そしてカドックにとって初めての同人誌制作が始まったのだった。

    ◇◇◇

    「あの、私は手伝いに行かなくて良かったのでしょうか」
     消えた二人の身を案じながら、ジャンヌがクロエと清姫に問いかける。ジャンヌもサバフェス原稿を毎年描いているのでひと通りの手伝いは出来る。人手が足りないのならば自分も加わった方が良いのではないかと思ったのだ。
    「貴女にはここに残っていて欲しかったの。何故なら——」
     クロエの言葉の続きを遮るように、本型エネミーたちが店の敷地内へ侵入してきた。すぐさまジャンヌが店員の衣装からいつもの霊衣に切り替え、三人が険しい表情でエネミーたちを見据える。
    「何としても、ここを守り切らなきゃいけないからよ!」
    「火力には自信がありますが、加減が出来ずお店ごと燃やしてしまいかねませんので。鉄壁の守りをお願いしたく!」
     クロエと清姫の言葉にジャンヌが頷き、大きな旗を頭上に掲げた。
    「……分かりました。そういうことならば、神の御名のもとに必ずや守り抜きましょう!」
     ここでもまた、原稿部屋を守るための戦いの火蓋が切って落とされた。

    ◇◇◇

     部屋に閉じ込められてから早三時間。外が見えないので感覚が麻痺してくるが、お昼過ぎということもありだんだんとお腹が空いてきた。まさかこんなことになるとは思わず朝食もそこそこに飛び出してきてしまったことが悔やまれる。
    「そろそろ補給が必要だろう」
     そう言ってカドックがポケットからスティック状のレーションを取り出し立香に手渡した。
    「えっ、用意してたの?」
    「いや、今回はたまたま入れてあっただけだ。これ以上の予備はないな」
    「じゃあこれはカドックが食べて。わたしは何とかなる——」
     から大丈夫、と言おうとして、グゥ〜〜っと盛大にお腹が鳴り響く。
     そのタイミングが良すぎる空腹アピールにカドックだけではなく他の四人も思わず噴き出した。
    「ご、ごめん……イタダキマス……」
    「ンンッ、そうしてくれ」
    「腹が減っては戦はできぬってね。カドック氏は申し訳ないけどしばらく我慢してくれるかな」
    「大丈夫だ。一日ぐらいなら問題ない」
     刑部姫の申し入れに淡々と応え、カドックがまた写植作業に戻る。
     自分だけ食べるのはとても心苦しいけれど、ここで力尽きてしまっては元も子もない。お言葉に甘えて立香は貰ったレーションの封を切りパクりと咥えた。


     ◇◇◇


     住宅の前では変わらず本型エネミーによる襲撃が続いていた。夜の修羅場エネミーのように悩みが書かれているものから文字とも判別できない何かが書き殴られているものまで次々に湧いて出てくる。
    「これっ、キリがないわ! 持久戦だとしたら、私はバーサーカークラスだから正直あまり持たないわよ!」
     次から次へと大剣で斬り捨てながらクリームヒルトが訴える。彼女の死角から迫ってきたエネミーをジークフリートが剣圧だけで斬り伏せた。
    「大丈夫だ、君は俺が守る!」
    「〜〜っ、貴方の! そういう! ところ」
     クリームヒルトが顔を真っ赤にして叫ぶ。一見怒っているようにも見えるが、口元がやや緩んでいる。怒っているというよりどうやらニヤケそうなのを必死に堪えているようだった。
    「……ねぇ、あの二人って実はとても仲良しなのかしら」
     アビゲイルがエネミーの攻撃を躱しながらシグルドとブリュンヒルデに問い掛ける。
    「ああ。まさに相思相愛だな」
    「美しい夫婦愛です……」
    「いたいけな少女に勝手なこと吹き込むのはやめてくださる」
     深く頷いて肯定する二人に、クリームヒルトが金切り声で抗議した。
    「相思相愛と言えば、マスターたちも少し雰囲気が変わった気がするな。あくまで当方の主観だが」
     これ以上の内輪での諍いを避けるためか、シグルドが話題を立香とカドックの二人へと移す。
    「っ、そうね。マスターはともかくとして、カドックの方はそれなりに意識はしているんでしょうね」
     昨日カドックが後ろ手に握っていた花束はバラが三本。本数の意味を理解して用意したのだとしたら、それは明確に立香へ好意を持っていることになる。
    「カルデアに帰還してからどうなるのか、実に楽しみだ!」
     シグルドが目の前のエネミーたちを一振りで一掃する。
    「そのためにも、まずは無事に帰還しなければいけないわね!」
     クリームヒルトも周囲に湧き出てきたエネミーを斬って落とした。ひと息つく間もなくまた湧いてくるエネミーに嘆息しながら、小さな声でポツリと呟く。
    「頼んだわよ、マスター……!」

    ◇◇◇

    「ペン入れ、終わりました!」
    「こっちも終わったわ! このページのトーンは私がやるから、その前のページをマスターお願い!」
     アルトリア・キャスターとノクナレアがほぼ同時に宣言して、データを共有フォルダにアップする。
    「了解! あっ、こっちにまだ写植してないとこあったからカドックにデータ渡すね!」
    「ああ、頼む」
     立香から共有されたデータを受け取り、カドックが慣れた手つきで写植を行う。
     限界原稿部はいよいよ大詰めを迎えていた。ここまでくると最早今描いているストーリーが面白いかどうかなどどうでも良くなってくる。とにかく特異点が崩壊するまでに何としてでも原稿を終わらせる。こんなに切羽詰まった締切が今までにあっただろうか。
    「ルルハワのループもしんどかったけど、時間制限もキツいなぁ……」
     思わず立香の口から愚痴がこぼれる。
    「焦るけど、こまめに保存はするように。ここに来てデータが消えたら一巻の終わりよ!」
    「そうそう、こういう時に限ってソフトが突然落ちたりするからね……姫知ってる……」
     ジャンヌ・オルタが注意を促し、刑部姫が死んだ魚のような目をして実感の籠った共感を示す。おそらく過去に経験があるのだろう。できることなら今回はご遠慮願いたい事態だ。

    「わたしのページは終わったよ! 刑部姫たちはどう?」
     立香の問い掛けに、ジャンヌ・オルタがニヤリと笑って親指を立てる。
    「裏表紙は完成。表紙は?」
     訊かれた刑部姫が画面から視線を外さずにブツブツと答える。
    「あとちょっと……もう少し色味加工して……あっタイトルロゴどうしよ……もうこれでいいかな……」
    「ああもう、ちょっと貸しなさい。そんなセンスのないタイトルロゴでは貴女の素敵な表紙イラストが台無しよ」
     半ば諦めかけていた刑部姫を押し退けてノクナレアがどかっとモニターの前に腰掛ける。
    「この話の内容だったらかっちりしたゴシック打ち文字より手書きロゴの方が良いわ。表紙のイラストが可愛いから可愛い系の字で……ほら、こんな感じはどう?」
     そう言ってペンタブでサラリと書いて見せる。刑部姫のイラストの雰囲気とマッチした可愛らしい手書き文字のタイトルロゴに仕上がった。
    「えっ、やば。ノクナレアちゃん天才?」
    「ノクナレアにそんな才能があったなんて……」
    「ふふん、もっと褒めてくれて構わないわよ! じゃあこれで表紙は大丈夫ね」
     刑部姫とアルトリア・キャスターから手放しで褒められてノクナレアが得意げに胸を張った。
    「写植も終わって、ついでに奥付も作っておいたぞ」
    「さすがカドック、仕事が早い!」
    「……まあ、絵が描けない分それぐらいはな」
     カドックが少し照れくさそうにそう言って出来上がったデータを共有する。それぞれの完成したデータを全て共有フォルダ内にアップし、刑部姫が各ページの最終チェックを行う。
     最後に表紙データをチェックして、画面から視線を外し天井を見上げた。
    「出来た……完成した……!」
    「やったー!」
     刑部姫の感極まったひと言で皆一斉に盛り上がる。ハッとなってジャンヌ・オルタが刑部姫の肩を掴んだ。
    「保存! ちゃんと保存した バックアップも取ってる」
    「保存した! クラウドにも上げた!」
    「よし! じゃあ、入稿お願い!」
    「了解!」
     刑部姫が力強く頷いて、印刷所のサーバーに完成したデータをまとめて送る。しばしの間を置いて、データ受領の通知が届いた。
    「データ受領——と、いうことは……脱稿です!」
    「終わったぁぁぁ!」
    「みんなお疲れー!」
     刑部姫の周りに皆が集まり、互いに健闘を讃えあう。少し離れて草臥れた顔で座っているカドックも安堵の溜息をついたのが見えた。
     その直後、窓も扉もない部屋だった原稿部屋が一階のカフェと同様のアンティーク家具に囲まれた洋館の一室へと変化した。どうやらこれが本来のこの部屋の姿のようだ。
    『通信繋がった! 立香ちゃん、エネミーは全て消えたよ。でもって特異点自体もかなり崩れてきている。エネミーの対処に当たってくれていたサーヴァントのみんなには先に帰還してもらったから、あとはその部屋にいる君たちだけだ!』
    『先輩、カドックさん、お疲れ様でした! 帰還されましたら是非私にもその御本を読ませてくださいね!』
     ダ・ヴィンチからの通信に続いてマシュが嬉々としてそう告げる。こんな状況でもブレない本好きっぷりを披露してくるマシュに、カドックと目を見合わせて苦笑した。
    『ではレイシフトを始めるよ。みんなお疲れ様。そして刑部姫たちは後でお説教だからそのつもりでね!』
    「ヒィン……分かりましたぁ……」
     ガックリと肩を落とした刑部姫の情けない声を残し、原稿部屋の六人もまたこの特異点から姿を消した。





    8 偽装結婚終わります

     カルデアに帰還すると、刑部姫たち限界原稿部の四人は既に帰還していたクロエと清姫と共にすぐさま管制室に呼び出された。これから新所長とダ・ヴィンチちゃんによるお説教タイムが始まるのだろう。そもそもの助言をしたBBは特異点に立香たちが向かって以降姿を眩ましているらしいので、どうやらこのまま逃げ切る算段のようだ。しかしBBのことなのでどこかで結局ヘマをやらかして怒られることになる気がするのだが。
     シグルド、ブリュンヒルデ、ジークフリート、クリームヒルトの四人とジャンヌは既にひと通りの報告を終えた後のようで、立香たちを出迎えた後はそれぞれのマイルームへと戻っていった。心なしかジークフリートとクリームヒルトの距離が近づいていて、思わず顔が綻ぶ。
    「カドックに貰ったバラの花も持って帰りたかったなぁ」
     新所長への報告を終えて指輪も返却し自室に戻る道すがら、立香が溜息交じりにボヤく。
     あの特異点で唯一の心残りはそれだった。せっかくプレゼントしてもらったのに結局一晩飾って楽しんだだけだ。花を貰う経験なんてなかなかないので、できればもう少しゆっくり眺めていたかった。
    「別に花ぐらいいつでも買える——ってわけでもないか、今は。まあ、欲しいならまた機会を見て買うよ」
     カドックの言葉に、うーん、と立香が首を傾げる。
    「花が欲しいっていうか、カドックからのプレゼントが嬉しかったんだよね」
     カドックが立香に花を贈ろうと思って自ら選んでくれたということが、何より嬉しかった。特異点と共に消えてしまう関係だとしても、その花を見ればあの時の幸せな気持ちを思い出せる。だから持ち帰ることができるのなら持ち帰りたかった。
     それを聞いたカドックが少し目を見開き、視線を泳がせながらポケットに手を入れる。そして何かに気がついたようにハッとした顔をして口を開いた。
    「——藤丸。後で時間ができたら僕の部屋に来てくれるか」
    「? 今からではダメ?」
    「今から、でも、いいけど」
     立香に訊かれて少し動揺した様子でそう答える。
     何の要件かはよく分からないが、ひとまず自室に戻る前にカドックの部屋に寄ることにした。

     カドックと共に部屋の中に入り、扉を閉める。以前は「男の部屋に気軽に一人で入るな」と怒られたりもしたが、この三日間二人で寝食を共にしたからかそのことに対して抵抗はなくなったようだ。
     ここでも変化が起きているなと実感していると、カドックがポケットから何かを取り出した。掌の上に載せられた小さいけれど重厚な箱は、ジュエリーケースか何かだろうか。
    「その、花と一緒に買ったはいいけど、さすがに重いかと思ってポケットに仕舞い込んで……まさかこっちだけ持ち帰ることになるとは思わなかった」
     そう言って、静かに蓋を開ける。
     中には商店街のポスターで見たような大きめのダイヤモンドが付いた綺麗なプラチナの指輪が入っていた。その眩い輝きに目が釘付けになる。

     いや、というかこれは。この状況は。
     所謂ドラマとかで指輪をパカッてする、あの状況ではないだろうか。

    「えっ……えっ」
     まさか自分の身に起こるとは思わず挙動不審になっていると、カドックも釣られてオドオドと言い訳のような説明を始める。
    「店に在庫があるものしか買えなかったから、サイズが合わなかったら悪い。あと、別にこれを重く捉えてほしくない——というか、この指輪に縛られる必要はない。この先君には君の人生がある。
     ただ、もし僕からの贈り物で少しでも幸せな気持ちになれるのなら……今だけ、持っていてほしい」

     控えめな、でも立香のことをすごく大事に思って贈ってくれた、カドックからのプレゼント。
     花を貰うのだって初めてだったのに、まさか指輪まで貰うことになるとは思わなかった。嬉しさで胸がいっぱいになって、その箱を受け取ると早速指輪を自分の左手薬指に付ける。

    「ありがとう。大事にする!」
    「……ああ」

     その指輪は立香の指にはちょっと大きくてブカブカだったけれど、カドックの優しい笑顔と相まって今まで見たどんな宝石や聖晶石よりも輝いて見えた。




    「ちなみにバラの花を三本贈った時点で僕の意図は伝えたつもりだったんだが」
    「えっ、あれ何か意味があったの? わたし花言葉とか疎くて全然分からなくて。教えて!」
    「自分で調べろ」
    「えー、先輩のケチ!」
    「……先輩はやめろ、先輩は」





    【バラ(三本)】
    意味:「愛しています」「告白」
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    aki

    DONEカドぐだ♀双六アンソロに寄稿しようと思って書いた作品で、以前SNSに投稿した作品のぐだちゃん視点リメイク加筆修正版です。
    やっぱりアンソロには一から書き下ろそう!と新たに別作品を書いたためこちらは展示に回すことにしました。
    たとえこれが夢だとしても! 透き通るような白い肌がしっとりと汗ばみ、火照っているのかほんのり赤く染まっている。
     意識が朦朧として倒れそうになったところをその汗ばんだ腕に抱き止められた。肌の温度を直に感じる距離で、虚ろに視線を寄越した先には細身だが筋肉質で引き締まった腹と二つの黒子が見える。

     カドック、こんなところに黒子があったんだ——。


     そんな、夢を見た。


     いや夢にしてはあまりにも生々しすぎる。黒子の位置なんて妄想だとしてもマニアックすぎるし、汗ばんだ肌が触れた感覚も支えてくれた腕の温かさも何故だかありありと思い出せるのだ。
     それに、夢の記憶はそれだけではない。カドックの運転する車の助手席に乗ってドライブをしていたこともうっすらと覚えている。珍しくサングラスをかけていて、横顔がかっこいいなぁと思って眺めていた。だが別にデートというわけではなく、後部座席には新所長と、なぜかオベロンも同行していたような気がする。でもみんなでドライブをしているのにあまり楽しい雰囲気ではなくて、何か切羽詰まった状況にあったような、そんな気がするのだ。夢なので明確に何に切羽詰まっていたのかは分からないのだが。
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    麦茶丸

    PROGRESSタイトルがまだ決まらないので仮案でウブ立香でいきます。ポイピクには一章ずつ上げれたらなって思ってます。好意関係は最初はこんな感じです↓
    カド(→→→)→(←?)ぐだ
    恋一歩手前の立香が恋仲になってから恋をしていることに気づいて、両想いって感じです。でも異性としてみるカドに、馬鹿みたいにウブな立香。あと立香の恋愛経験が浅い設定なので、若干女々しくしています。
    恋人宣言 立香視点カルデアでは月に1度、サーヴァントの霊基メンテナンスが行われる日がある。マシュもその日は定期メンテナンスが組まれており、マスターである立香には月に1度の平穏な休みが明け渡されていた。

    ゆっくりと羽を伸ばすといい。そのお達しに立香はいつも困ってしまう。
     
     誰も来ない静かな自室で、一人で過ごすのはあまりにも寂しいのだ。しかし厚意を無碍にもできず、困った末に同じく休みであるカドックを頼ることにした。

    月に一度の貴重な休み。その休みの日に毎回訪れるのは気が引けたが、回数を重ねていけば当たり前になってしまった。カドックもそれに慣れたようで、立香の端末に連絡が入る。

    『コーヒー豆がないから、もし食堂寄るならついでにもらってくれないか』
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