ノンアルコール・モヒート!(3) 客との距離は、付かず離れず。来る者拒まず去るもの追わず。決して踏み込ませないし、踏み込んではいけない。それが俺のモットーだった。店で美味しく楽しく過ごしてもらう事に粉骨砕身すれども、深入りをしてはいけない。
「何だ、溜息なんぞ吐いて」
江澄に言われて気付いた。溜息を吐いていた事に。
江澄とは幼少期からの付き合いだ。遠慮のない物言いは近年では『ツンデレ』と呼ばれるものを地で行ってるんじゃないかと、最近思ってる。
「わかんないんだよな、自分が」
俺の言葉が意外だったのか、江澄は片眉を上げる。グラスが空になっているので、彼の好きな年代物ウイスキーをロックで出してやる。
「なんていうかさ、もう来ないだろう客を待ってる自分がいるんだよな」
「例の烏龍茶野郎か」
相変わらず変な所で勘が鋭い。鼻で笑いながらウイスキーを舐めるように一口飲む。
「そんなもの待って何になる?」
相変わらず痛い所を突いてくる。そんなもの、俺だって知りたい。何にもならない事くらい、わかってる。
江澄は開店前に来ては、客が来る前に帰って行く。江澄の休日に、突然連絡が来るのだ。店でゆっくり酒を飲みながら話すこの時間は、数少ない俺の癒しの時間でもある。
「例の取引はどうなったんだ?」
わざと話題を変えたわけではないが、彼が仕切っていた重要な取引の話が気になって聞いてみる。
「………悪くはない。向こうもやり手の者がいてな」
「相手は姑蘇、だっけか。デカい会社だもんな」
江澄は大手企業雲夢の御曹司。古武術道場から発展したジムなどを経営している。健康食品やサプリメントなど手広く商売している企業だ。家が近所で、俺の父が雲霧に勤務、母は古武術道場の師範だった。小さい頃から江家の出入りをし、道場で古武術を習っていたので兄弟同然の幼馴染という訳だ。
「その方がやり甲斐がある」
目をギラリと光らせる江澄は、強気な笑みを浮かべてウイスキーを呷った。
「オープンの時間遅らせるか」
俺の城は自由だ。外の灯りが点いていなければ、クローズしている状態。江澄が少し酔いそうなので、このまま不定休日にしてもいいかと考えながら、日本酒を舐める。
「師姉は元気にしてるのか?」
それを聞いた瞬間、江澄の表情があからさまな嫌悪の色を宿した。
「金子軒との婚約の話が進んだ」
「あの孔雀野郎か…」
師姉である江厭離には、幼い頃からの婚約者がいた。金子軒とは国内最大級の大会社、金家の跡取りだ。江澄も俺も、あまり賛成はしていない。しかしそんな子供の感情など、関係なく話は進んでいる。
江澄と話が何となく盛り上がり、気付けばオープンの時間は過ぎていた。思ったより江澄は酔わなかったが、今日は不定休日でいいかと、気を楽にした。
帰る江澄を見送り、少し片付けてから帰るかと鍵を閉めずにグラスと皿を洗いながら考える。
『そんなもの待って何になる?』
江澄の言葉が、頭を反芻する。待つ事に意味などない。ただ、彼に逢いたい。そう自覚してしまった。
こんな気持ちは生まれて初めてで、思春期に周りの皆が恋愛話に花を咲かせている時も、そういった感情の理解が出来なかった。皆好きだし、特別などない。
『博愛』という単語を知った時、納得した。自分は多くを愛せるけれど、代わりに唯一は作れないのだと思った。それこそ、運命の相手に出逢わない限りは。
この歳で、今更初恋などとは。己の事ながら、恥ずかしくて転げ回りそうだ。しかも絶対に叶わない恋。こんな恋は、知らなくて良かったのに。
知らず、溜息が漏れる。江澄との会話がまだ記憶に新しい中で、自覚する程の溜息を何度吐いたか。
ぼんやりしていたら、ベルを鳴らしながら扉が開く。常連客なら、外の灯りが点いていない事でクローズと知る。鍵をしていなかった自分の失敗にまた溜息。
「すみません、今日は……」
顔を上げた瞬間に固まった。そこに、たった今まで考えていたその人がいるのだから。
「休みか…?」
待ち焦がれた美男がいた。瞬間、心臓は高鳴る。
「ごめん、鍵を掛け忘れてた。外の灯りが消えてる時はクローズなんだ」
言いながらカウンターから出る。美男は、肩を落としたように見えたがそれは俺の願望だろうか。
「……けど、入店させちゃったから特別営業。貸切気分なんてどう?」
冗談めかして告げる。これ以上間違って客が入らないよう、鍵をする。疚しい気持ちはない。絶対ない。
「しかし……」
「お客さんが一歩でも入店したら、そういうルールにしてるんだ」
自分でも驚くようなルールが口から出任せで出てきた。そんなルールは初耳だ。
「飲みに来たんだろ?」
カウンターから出て向かい合うのは初めてだ。いつもより近い距離で顔を覗き込む。琥珀色の瞳が、僅かに迷うように揺れた。軽く肩を押して、カウンターの真ん中に座らせる。
「今日は甘いのも試してみるか?」
音楽も流れていない店内で向かい合うのは不思議な心地がする。おしぼりを渡しながら質問すると、静かに頷く美男に笑みを浮かべる。今日は何にしようと考えながら冷蔵庫を開ける。甘いと言っても、フルーツの甘さなら大丈夫かもしれない。
コースターを手前に置いて、シンデレラを注いだグラスを置く。
「今夜はフルーツの甘さで癒されてみて」
何処と無く、疲れた気配を感じ取ったので甘いものを用意した。美男は静かにグラスを持って、一口飲んだ。僅かに上がる口角、穏やかになる眼差しに視線が釘付けになってしまう。
「……ありがとう」
とても綺麗な笑顔を向けられて、一瞬時が止まった気がした。目線を下げてグラスに向いた時には、いつもの無表情に戻っていた。
夢かと思うような瞬間だった。
「気にすんなって。俺も飲んでるし」
気負わせないよう俺は、日本酒の続きを飲む事にした。営業が持ってきた数種の試飲。先程、江澄と二本空けたので別の瓶を開ける。滑らかな舌触りと甘みが口内に広がった。
「たまにはさ、仕事とか関係なくこうして誰かと飲みたい時もあるんだよ、俺だって」
戯たように目を伏せ、日本酒と猪口を持って一つ空けたカウンターの椅子に座る。手酌で猪口に冷酒を注ぎ、隣を盗み見る。
正しい姿勢で、背筋を伸ばして座っている男はまさに、美しかった。月見酒、花見酒と似たような感覚になり、観察しながら冷酒を舐める。
視線に気付いた美男が、此方を向く。そして、スーツの胸元に手を差し入れたかと思うと名刺入れから名刺を一枚出した。
「君のように、特別ではないが……」
差し出された名刺には『株式会社 姑蘇 開発部部長』の文字が。その下に『藍湛/忘機』と名が記載されている。会社の電話番号、所在地などが小さく書かれていた。
「ありがとう。嬉しいよ」
名を知れた事に嬉しくなり、笑みを浮かべてカウンターに腕を付き下から覗き込むようにして見上げる。目を細めて笑えば、静かに見下ろす眼差しは逸らされた。
「今だけはさ、藍忘機って呼んでもいい?俺もバーテンじゃないから、友達感覚で飲みたいなって」
少し甘えるような声音で頼む。目線を外された時点で断られるのも承知の上だ。
無言が拒否と受け取り、否定の言葉を口にしようとした瞬間。
「……魏嬰」
名を、呼ばれた。