マディ、ピート、ブラッドリー 何かが頬に触れる。それは髪を撫で、また頬を通って肩を撫でた。手だ。それも大きく温かい手。
「マーヴ、おはよ」
掠れた朝の声。ブラッドリーの声。
「んん……おはよう」
目を開くとブラッドリーは床に膝をついて、ベッドで眠る僕を見つめていた。
「よく眠れた?」
「ああ、眠れたよ」
答えながらあくびが漏れた。ブラッドリーは小さく微笑み、さっき手を触れた僕の頬にキスをした。
ブラッドリーのいるバージニアを訪ねて四日目。ブラッドリーは毎朝僕より先に起きていた。僕を起こす時、彼は決まって同じことを言って笑う。「俺、いつもはこんなに朝早くないんだよ」僕がいるから、興奮して早く目が覚めてしまうらしい。彼を子どもみたいだと思うことは時々あるが、まさか朝一番にそう思わされるとは、東海岸に来るまで予想もしていなかった。
「今朝も早いね、ブラッド」
ブラッドリーはへへ、と嬉しそうに笑った。
「マーヴがいるから。楽しくて寝てられない」
「もう四日目だよ、そろそろ慣れてこない?」
まさか!と否定するブラッドリーの髪が揺れた。僕より先に起きてはいたが、身だしなみは起きた時のまま手を加えていないみたいだ。
「慣れないよ、毎日初めてマーヴがうちに来た時みたいに嬉しい」
「そう思ってくれるのは僕にとっても嬉しいよ」
そう言う僕だって朝に頬や髪を触れられても、それがブラッドリーの手で、身体を包むのが彼のシーツであることを毎朝すぐには思い出せない。目を開くたび可愛い瞳に見つめられ、胸は驚きではなく喜びで跳ね上がる。四回目の朝もそうだった。そうだ、僕は今ブラッドリーの家にいるんだ。
「ねえ、今日は何する?」
まどろみから抜け出しかけた僕を見守りながら、ブラッドリーは弾む声で尋ねた。僕がここにいる一週間、彼も同じだけの休暇をとった。その間に僕にどう楽しく過ごしてもらうか、彼は毎日僕の意見を聞き、すべてを実行に移していた。そして彼は今日も同じ質問をする。
「行きたいところは? 食べたいものはある?」
「今日か……」
行きたかった場所や食べたかったものはもうすべて連れて行ってもらった。だから今は……。
「君とのんびりしたいかな。特に何も決めず、その時の気分で」
僕はその答えを口にしながら、ブラッドリーを困らせてしまうのではないかとほんの少し不安だった。まだ多くはない二人で過ごす時間を、何もせず過ごしていいものだろうか、と。しかしブラッドリーは何度か瞬きした後、小さな声で「あ、」と呟いた。
「それなら公園行こうよ、広い芝生があるんだ」
そこで何もせずただゆっくり過ごそう。ブラッドリーは僕の反応を伺った。枕に沈む僕の頭の先から、くしゃくしゃになったシーツに絡ませた足の先まで、ブラッドリーは僕の動きを見ていた。
「うん、そうしよう」
僕の短い返事に、ブラッドリーは小さな声で喜びの言葉を漏らした。そして立ち上がり僕に向かって腕を伸ばした。僕は躊躇うことなくその手を掴んだ。居心地のいい彼のベッドを出て、窓から差し込む柔らかい光の中で伸びをした。
僕が起きたのは朝だったが、ブラッドリーは外で食べたいから朝食を抜くようにと僕に頼んだ。キッチンカウンターではブラックコーヒーの水面が揺れるだけだった。
お腹を空かせて家を出ると、青い空には太陽がきらめき、ブラッドリーのサングラスを照らしている。
「いい天気だね」
青空の下で誰もが口にする言葉。だけどこの時ばかりは沈黙を埋めるための苦し紛れの話題作りではなかった。ブラッドリーが「ほんとだ」と微笑んだ時、彼の口髭も機嫌良く笑っているように見えた。
ブラッドリーの鼻歌が数曲終わった頃、通りには店が増え始めた。書店はまだ閉まっていて、カフェはまだ準備中。その中でブラッドリーは一軒の店の前で立ち止まった。ウィンドウ越しにはパンが見える。
「ちょっと待ってて」
ブラッドリーはその店に入り、しばらくして出てきた時には紙袋を抱えていた。
「この店のベーグル、最高なんだよ」
ブラッドリーは歩きながら袋の口を少し開け、鼻を鳴らしてベーグルの焼きたての匂いを嗅いだ。その時の彼の表情からは、何にも勝る喜びが読み取れた。
公園までの道のりは歩いてそう遠くはない。通りに沿って歩くだけ。その間もブラッドリーはほとんど前を向かなかった。僕に話しかける時も、僕の話を聞く時も、じっと僕を見下ろして目を離さなかった。僕も"危ないから前を向いて"なんて、もったいなくて言えなかった。しきりに僕の様子を伺う彼の表情に、僕も目を奪われていたからだ。
その視線の絡まりが解けたのは、公園に着いた時だった。二人の前に広がる青々とした芝生。敷かれたブランケットを固定する分厚い本やテイクアウト。眠る大人。笑う子ども。中でもブラッドリーの注目を集めたのは、それらの間を縫うように走る犬たちだった。どの犬も大きく、長い尻尾を激しく振りながら飛んでいくボールを何度でも追いかけている。
「可愛い……」
芝生に新聞紙を敷いている間に、ブラッドリーはクリーム色のある犬に目を惹かれた。
「ラブラドールだっけ?」
「ゴールデンだよ」
僕の曖昧な記憶を打ち消すように、ブラッドリーが間髪入れずに答えた。彼は広げた新聞紙の上に腰をおろし、隣のスペースを優しく叩いて僕を誘った。示された場所に座ると、彼は投げ出した僕の足を持ち上げブーツを脱がせた。
「人懐っこいんだって、ゴールデンって」
「ああ……見てるだけでなんとなくわかるよ」
そのクリームのような毛色を持つゴールデン・レトリバーは、飼い主でなくても目が合う人間には迷わず突進している。その度に悲鳴のような笑い声が公園に響き渡る。優しい人間を見分けることができるのだろう、誰一人としてゴールデンの突撃に嫌な顔をしていない。
幸せで可笑しい光景に見惚れていると、ブラッドリーは一度大きく息を吐いた。
「いいなあ……俺も犬飼いたい」
「ふふ、きっと楽しいだろうね。一人暮らしでは寂しい思いをさせてしまいそうだけど」
「だから俺が退役したら飼おうかなって考えてんの」
隣を見ると、ブラッドリーは僕を見て微笑んでいた。走り回る犬を見ていると思っていたのに。それから彼はまた芝生へ視線を移す。
「動物を飼うなら時間に余裕がないと。あと広い庭がある家もね。近くには公園がないとダメ、ここみたいな公園が。ビーチもあった方がいいかも」
そうでしょ?と、ブラッドリーは同意を求めて再び僕に顔を向けた。向こうではしゃぐクリーム色のゴールデンよりも、コーヒーを多めに入れたようなブラウンヘア。風に揺れる彼の髪は、この公園の芝生よりも柔らかい。
「朝は俺とマディが──あ、マディは犬の名前ね。ゴールデンを想像して──ベッドまでマーヴを起こしに行くの。それから俺が三人分の朝ごはんを用意する。毎日リクエストを聞くからね。マーヴは僕が作るよって言うだろうけど、まあまあ、そこは俺に任せてよ」
まるで朝日の差すキッチンにいるかのように、ブラッドリーは身ぶりで僕を制止した。
「それから公園かビーチで散歩。あの子みたいに走り回る子だと楽しいよね、たぶん俺たち二人も年を食っても体力は有り余ってそうだし、ついていけると思う」
彼の視線の先には、疲れ知らずのゴールデン。愛情をかけてケアされた艶やかな被毛が動きに合わせてふわふわ踊る。
「なんか俺、動物飼ったら自分の子どもみたいに可愛がっちゃいそう」
「ブラッドリー、ちょっと待て」
「へ、なに?」
「どうして僕が一番最後に起きることになってるんだ? きっと僕は君より早起きだぞ、だから僕がマディと一緒に君を起こしに行くよ」
ブラッドリーは一瞬呆けた後、眉を下げて笑った。
「俺はね、マーヴといると早起きなんだよ、わかるでしょ?」
首を傾げたブラッドリーは、僕に今朝のことを思い起こさせる。
「それより一緒に住んでることにツッコんでくると思ってた。ほら、俺が勝手に将来二人が一緒に暮らしてることにしちゃったから」
正直言って、そんなことには欠片も気がついていなかった。言われてみればたしかにそうだ。いつそんな約束を結んだ? ブラッドリーはまた笑った。約束はまだしていない。結局それがいつであっても、僕たちはいつか二人で一緒に暮らす。そのことにはなんの異論もないのだから、ブラッドリーの望む生活がどんなものか、先に知っておいて損はないのかもしれない。
「君の早起きがいつまで続くか見ものだな」
「俺のこと信じてないの?」
「きっとこの休暇中にも本当の姿を現してくれるだろうと思ってるよ」
ブラッドリーは不満げに、しかし同時に笑いたいのを我慢するように口元に力を込めてその口髭を波打たせた。
「いいよ、その時になればわかるんだし。たぶんマーヴは毎朝俺とマディのキスを受けることになるけど」
「なあ、そころでそのマディって名前はどこからとったんだ?」
「ただの思いつきだよ。ベラかベイリーでもいいけどね、俺とイニシャルがおそろいになるし。あ、それともPで始まる名前がいい? フィービーとか、ピクルスとか……ああでも、シェルターにいる子はみんなすでに名前があるんだよな……どうする、マーヴ?」
「僕はなんでもいいよ……」
そんなにたくさん名前の候補を考えているということは、動物を飼うことはほとんど決定事項なのだろう。僕と一緒に暮らすことと同じように、ブラッドリーの頭の中に当たり前にある未来。
ブラッドリーはその後も犬(と僕)と暮らす一日を具体的かつ明確に想像し、説明した。人間が寝られそうなほど大きなサイズのベッドを買ってあげたい、だとか、ブラッシングは二人で一緒にやることにしよう、だとか。中でも一番の心配事は、マディにマーヴを取られないようにするにはどうすればいいのか、ということだった。まだ犬は飼っていないし、今は退役だってお互い考えていない。それ以前に僕とブラッドリーは遠距離で、一目会うことだって簡単ではないのに。だけど不思議なことに彼の話を聞いていると、すべてが現実になりそうな予感がする。
ブラッドリーとなら、すべてがうまくいく。マディも二人の家もまだ存在しないが、ブラッドリーにはそんな愛おしい未来を本物にする力が宿っているような気がする。
「そうだ、ベーグル! 忘れてた」
短く叫んだブラッドリーは紙袋からベーグルを二つ取り出し、中身を確認して一つを僕に差し出した。
「ねえマーヴ、」
ほら、また夢が現実に近づく音がする。ブラッドリーが僕を呼ぶ声。
「ゴールデンの名前さ、ベーグルはどう? イニシャルがB、俺とおそろい」
それからブラッドリーの笑い声。