今日も、明日もてちてちてち。
屋根の上を規則正しく、飽きることない柔らかに打つ水音。
何とも単調なそれに、中庭を眺めるよう縁側へ腰掛けていた男は耳を澄ませてみせる。
詰まる息を肺から押し出すように一息溢しあ後、静かに聞き入るように瞼を閉じ、盃に微かに残していた酒を喉に注いだ。
「ああ美味い……何とも馨しい酒だな」
「ハクオロさぁん、あ、ハクオロさんてば」
「おや、エルルゥか。どうかしたのかい?」
縁側に面する床板を軽く蹴り、男の座る場所まで辿り着いた年若い娘を仰ぎ見て、いくらかほろりと酔っていると分かる頬を向けて仕舞えば、薬師の彼女が言うのは決まって。
「もう、ハクオロさん。飲み過ぎないでくださいねって、いつもお願いしているじゃないですか。この間も自棄になって飲み過ぎたせいで……」
「ああすまない、あれはすまなかったよ、もう許してはくれないか」
「んもう、許してはいますけど、言わないのはダメですっ だってハクオロさんてばちょっと目を離すとすぐ飲みすぎて二日酔いになるんですもんっ 政治は得意なのにお酒の飲み方は素人だって、ベナウィさんに言われるくらいなんですよ? 少しは自覚してくださいよ」
「うっ」
あの生真面目のかたまりのような、最近麾下に入ったばかりの部下にそう言われてしまうのは少ししくりとくる。
ハクオロと呼ばれた男は別段酒豪というわけでも、特別に酒が好きなわけでもない。せいぜいが人並みだ。
ただ基本は真面目な面と、意外に私生活は不器用なところがある皇を長いこと見てきた家族からすると、ハクオロは懐も大きく見目や性質の良い男だが、どこか危うく目を離しておくことが出来ない。
立派すぎる公人と反するように何故かダメな幼めいた部分をそれなりに抱え込んでいる、そんな男に見えるのだ。
そんな部分が顕著に現れるのが、多分酒に関するところ、というだけで。
出会った当初歳がそこそこ離れている彼が、包容力を際限なく持つ、それこそ父のようにエルルゥには見えた。
それが当人を知れば知るほど頼り甲斐とは別に、放っておくことが出来なくなっていくのだから、まるで山奥で稀に見る変わり身の早い蝶のようだった。
それでも。
「エルルゥ、こちらにきてご覧?」
「? ここから見えるのは雨、だけですよね? なんかお城の中庭におもしろいものでもあったんですか?」
「いいや、そうではないよ。ここに座って、少し目を瞑ってみてごらん?」
「……えーと、はい」
ちょいちょいと手招きしてくるほろ酔いの酔っ払いを見下ろしながら、その傍に腰を下ろす。
言われるまま、薬師の娘がハクオロの肩に寄り添いながら耳を欹てる。
ぴくぴくと震える大きな耳に聞こえるのは、雨樋を叩き、繰り返し響いてくる、変わらぬ雨の音だった。
瞼に隠していた黄水晶を持ち上げ、だらりと座る皇へ視線を投げる。
どこか子供じみた珍しい笑みをハクオロを見ると、小さく少女は首を傾げた。
「どうだい?」
「どうって……ええと、雨の音がするだけ、でしたけど」
「ああ、そうか……はは、そうだな。単に、雨の音がするだけ、だな、はは」
「……ハクオロ、さん?」
不思議なくらい穏やかに歯を見せて笑うハクオロの笑みは無邪気で、それでいて何故か遠く、抱きしめたくなるような痛みをエルルゥの心へと与えた。
「何故だろうなあ。なんだか新鮮で、知らぬ音を聞いている。雨や風の音を聞くと、そんな気持ちになるんだ……」
「ハクオロ、さん。それは」
「まるでこの身で、この耳で、おまえと同じ高さで聞く音が、ヤマユラに保護されてから……生まれて初めて聞いたかのような、そんな気に、させた」
きっとそう語るハクオロ自身、何かを知覚して、思って答えた言葉ではないのかもしれない。
嗚呼彼はヒトだ。
人なのだ。
唐突にエルルゥは当たり前のそんなことに思い至った。
紺の袖を、父がかつては纏っていた衣の袖を撫で、娘は静かに瞼を落とす。
ぎゅっと抱きしめた腕の暖かさを懐きながら、男へと同じ温もりを、分け与えるかの為に。
「ああ、いい音だなあ、エルルゥ?」
「……ふふそうです、ね。ハクオロさん」
あゝきっと、己は彼に出逢えて良かった。
何か特別な事を感じたでも無くて、エルルゥはすとんと心に落ちた言葉を受け止めた。
すでに畑を蘇らせる知恵者でも、祖母の跡を継いだ村長でもない。
皇となり、誰か一人の為のヒトでは無くなってしまった。それでも。
「明日はきっと晴れますね。裏の山にお弁当を持って散策に出かけましょうか、ハクオロさん。ヤマユラで時々そうしていたように」
「ああそう、だな……明日が、楽しみだよ、エルルゥ」
薄く斜に掛かった薄曇の中で、鷹目石が静謐に微笑む。
今でも彼はエルルゥの家族で、きっと誰より大事にしたいヒト、なのだから。