拝啓 閣下殿「ないごて……ッ!」
あまりの衝撃に思わず誰も居ない廊下で大声をあげた。
眼の前にある無機質なスチール扉のドアノブには、次の入居者用に向けた電気や水道の冊子がぶら下がっている。誰がどう見ても空き家だ。
震える手でモバイルを取り出し相手の電話を鳴らしたが『お掛けになった電話番号は……』と無情にアナウンスが流れてくる。
そんな、何が起こってる?
パニックになっているとガチャンと隣の部屋のドアが開いた。藁にもすがる思いで鯉登はそのドアをガッチリと掴んで、顔も知らぬその男をとっ捕まえた。
「月島はッ!ここの住民はいつ引っ越したんだ!」
「は?ツキシマ……?知らねぇけど此処に住んでた奴なら多分2ヶ月くらい前じゃなかったかな」
あんまり覚えてないけど、と迷惑そうにぼやく男の言葉はもはや愕然とした鯉登の耳には余り入ってこなかった。
2ヶ月前。月島から、忙しくなるので暫く会えなくなると言われた頃だ。
その頃から、彼はーー。
幸運が重なり今世でも月島と出会えてもうすぐ四年になる。残念ながら彼に前世の記憶は無かったが、それでも鯉登の側に居てくれた。
生涯を愛し抜いた人との邂逅は若い鯉登を簡単に滾らせつい抱きしめた身体は、しかし強い力で押し戻された。
付き合い出してからもどうしてなかなかその肌に触れさせて貰えず、怨みがましく縋り付いて漸く手を繋ぐ事だけ許された。
『十代はちょっと……』と頑として渋る月島を慮って二十歳になるのをジリジリと待ち、体を繋げるようになって漸く二年。
鯉登は予定どおり大学を卒業し、この春からは就職も決まっている。何もかもが順風満帆だと信じていた。
ところが二日ほど前から、月島と連絡が突然付かなくなっていた。ある日メールを送ったらエラーとなったのだ。コミュニケーションアプリでメッセージを送っても既読にならない。嫌な予感がして電話を掛けたら『この番号は現在使われておりません』とガイダンスが流れてきた時は頭が真っ白になった。
携帯電話が壊れたとかではない。圏外ではなく番号が使われていないとアナウンスしているのだから。
番号が変わった?けれど自分は教えてもらっていない。
そこから必死で彼の行方を探した。
家で会うときはいつも鯉登の家だった。月島の家に行ってみたいと強請ったこともあるが『俺の家は狭いし、貴方の家の方が落ち着くので』とやんわり断られていた。
今更ながら相手の住所どころか、月島の住んでいる街さえ何も知らされていない事に気付く。
何か、なにか手掛かりが無かったかと頭の中を引っ掻き回し、去年の暮れに二人で旅行へ行ったのを思い出した。あのとき、彼が書いた宿帳を横でチラッとだけ見たのだ。悪意はない。向こうも隠すような感じでは無かったし。
誰にともなく言い訳をしながら薄ぼんやりとしか覚えていないその記憶と、それから月島と交わした今までの会話の端々に上がっていた住まいと思われる地域の情報、出てきた駅名。ビデオ通話をした時に映っていた間取りや『ウチ三階なんですよ』という言葉。
それらのピースを掻き集めて、興信所や少々強引な手口を使ってでも漸く此処を見つけたと思ったのに。いや、もしかしたらさっき訪れた部屋が間違いで、あの近くに正しい月島の家があるのかもしれない。とにかくもう一度何か見落としがないかよく確認して、悲観するのはそれからだ。
そう鼓舞しながらも、手の中の繋がらない彼の携帯番号が重く感じる。こんな事は前世でも無かった。
彼が自分にも何も言わずに居なくなるなんて。
それが現実だということを認めたくなくて、帰宅への道が足早になる。まるで会っていた四年間が幻だったかのように、何も残さず消えてしまった恋人の姿。
呆然と自宅マンションに帰った鯉登は、郵便ポストの中にダイレクトメールに紛れて一通の封筒が入っているのを見つけた。
差出人の名前は書いてないが、宛名の字に見覚えがあった。右上がりの少し癖のあるその字は月島のものだ。
慌てて他のものをダイニングテーブルに放り出し、手紙の封を切る。
何故、どうして。突然連絡が途絶えた理由が書かれているのだろうか。
力が入って破る勢いで強く開いた白い紙が、鯉登の手の中でくしゃりと音を立てた。
拝啓、閣下殿
貴方にこの手紙が届く頃、漸く俺の不在に気付いたでしょうか?この手紙をポストに投函したら、携帯電話を解約するつもりなのでそれで気づいたかもしれませんね。
突然連絡が付かなくなり、貴方は驚いたことでしょう。忙しくなるから会えないと言った俺の言葉を、貴方はこの二ヶ月間信じていてくれました。それは貴方が、『月島は自分の側から離れない』と言う事を信じていた証であり、俺が貴方から離れようと思った原因でもあります。
貴方と俺が初めて会った時を覚えていますでしょうか?深夜に近い新宿駅の構内で、貴方は迷惑なほど大きな声で『ツキシマ!』と呼びながら俺の腕を掴んで、俺がどんなに人違いだと伝えても離してはくれませんでしたね。結局駅員を呼ばれて警察沙汰になるくらいならと、駅前のマックで貴方の話を聞くことにしました。
貴方の話は長かった。そして壮大な映画を見ているかのようでした。
信じたか?いいえ、到底信じられるような話ではありませんでした。明治時代の軍人の生まれ変わり?アイヌの金塊争奪戦?小説家にでもなりなよ、と何度口にしそうになったことでしょう。
では何故俺が黙って貴方の話を聞き、連絡先を交換したのか。それはあの日が十二連勤の最終日であり、漸く得た休日をこれ以上減らしたくないと言う気持ちからでしかありませんでした。
何度目かの懇願の後、再び貴方と顔を合わせた時に、貴方は俺に過去の事は思い出さなくていいから自分の側に居てくれないか、と言いましたね。その時にはもう貴方がマルチや宗教の勧誘ではないだろうとーーただ妄想癖のある子なのだろうと思えましたので、知人になって時々会うくらいならと了承しました。
貴方のあの言葉は嘘ではありませんでした。俺に無理に思い出せと迫ったり、まだ思い出さないのかと責めるような言葉を吐くことは一度もありませんでした。ただ、貴方が俺の事を『月島』扱いをすることを止めなかっただけで。
ご存知でしたでしょうか?貴方は俺を無類の米好きだと思っていましたが、俺は米も好きですが、パンも、パスタも、ラーメンも好きです。一人の時の朝食はほぼパンですし、昼はラーメンをよく摂ります。一日米を食べない日もあります。
風呂は嫌いではないですが、熱い風呂は苦手です。温泉に行ったのも貴方とが初めてですが、それは経済的な理由ではなく生活環境と興味の問題でした。
仕事が不規則なのも勤務先がブラックなのではなく、取引先が日本ではない為に、その国に合わせた対応が必要だからです。貴方と出会った日は偶々土日が潰れてしまい十二連勤になっていましたが、本来そんな事は滅多にありません。
出生地は新潟ですが、住んだ記憶も佐渡に渡った事もありません。ロシア語が話せるのも成り行きで、死ぬ気で覚える必要があったわけでもないです。
体を鍛えるのは確かに趣味ですが、過去に人から暴力を受けた事も人に暴力を振るったこともありません。
家族とも定期的に連絡を取っていますしーーつまり、貴方が想像するような『可哀想な基少年』はどこにもいませんでした。
貴方と初めてセックスした日、俺は一人で泣きました。体中が痛くて、情けなくて、悔しくて……悲しくて。涙が止まらなくて貴方を起こさないように必死に嗚咽を噛み殺しました。
貴方が俺を見ていない事を知りつつも、離れることが出来ない程には、もう貴方のことを大切に思ってしまっていたからです。記憶のある貴方からすれば、同じ人間なのにと思うかも知れませんが、俺からすれば自分と『月島基』は別の人間です。前の恋人と比べられるならまだしも、前の恋人だと思われて扱われる。それが悲しくないなんてことがあるでしょうか?
貴方は非道い男です。ずっと側に居てくれと言いながら俺を見ようとはしなかった。
俺は非道い男です。側に居ると頷きながらずっと貴方の事を騙していました。
貴方は恋人としては申し分のない人です。優しくて、可愛くて。頭もいいし、気遣いもできる。セックスも上手いし。(まぁ他の人を知りませんが)
少々世間知らずなところもありますが、一緒に過ごしていて不快に思うような事はありませんでした。ご両親の育て方の良さが滲み出ているのでしょう。
そんな貴方から大学卒業を機に同居(貴方は同棲という言葉を使いましたが)したいと言われた時、俺は貴方の前から居なくなる事を決めました。
どんな未来も選べる貴方が、過去に囚われて俺を選ぼうとしている。それは余りにも勿体ないことです。
もっと広い視野を持ちなさい。過去と違って今の貴方には沢山の選択肢があるのですから。
これが俺から出来る最期の忠告です。
貴方を心から大切に思っていました。その気持ちは本当であったと覚えていただけましたら幸いです。
敬具
ここで本来なら名前を書いて締めるべきなのでしょうが、敢えて書かずに終わろうと思います。
何故なら。
俺の名前は月島ではありません。
貴方が信じていた『月島』はどこにも居なかったのです。
これが、貴方が知ろうとしなかった、俺が黙っていた真実です。