忘羨ワンドロワンライ【中秋節】 中秋節は家族で過ごす日である。もちろん雲夢でも、ここ姑蘇でも。
雲夢は宗主の屋敷を取り巻くように師弟や分家の屋敷が並び、下働きの家人もそのほとんどが通いであるため休みを取る。だから中秋節の食事を作るのは、虞夫人とその側近の二人、そして師姉の役割だった。時期がちょうど蓮の実の収穫期の終わりになるため、月餅の餡は蓮の実で作る。滑らかな餡を作るのは力仕事になるので、魏無羨は毎年延々スリコギを握らされていた。もうこれ以上はすり潰せないというくらいに潰して、蜜を加えて煮詰めて――滑らかな餡に仕上がるかどうかはスリコギでどれだけ頑張ったかによる。口でとろけるような餡に仕上がると、いつも師姉が手放しで褒めてくれる。
半日かけて食事と甘味を準備し、四阿に並べ、蓮池に映る月を愛でながらゆっくりと夜半までそこで過ごす。いつもはほとんど同席しない側近の二人もその日だけは同席していて、虞夫人に請われて琵琶を奏でる。二人は無口だが世話好きで、気付くと剥いた蓮の実が皿に山盛りになっていたり、好物が取り分けられたりしていた。
毎年必ず中秋節のその席で虞夫人は魏無羨に笛を吹かせ、次はこの曲を倣うようにと新しい楽譜を渡してくれた。側近の二人には笛の心得もあって、渡された譜の難しいと思われる部分に小さく注釈が付けられている事もあった。
水面に揺れる月と咲き遅れた小さな蓮花の慎ましく閉じた花弁、収穫を待つ蓮台、爪弾かれる琵琶の音と師姉の嬉しそうな笑い声――それが魏無羨の中秋節の思い出だ。
ここ姑蘇では、少し趣が異なる。
元々藍氏の内弟子は寄宿生活をしている。分家の師弟は雲深不知処に家族が居るが、多くの内弟子の家は雲深不知処の外にある。つまり、家訓の『夜は雲深不知処に入るべからず』は、雲深不知処の安全を考えた厳しい家訓でもあるが、多くの内弟子にとって『帰りが夜になるほど仕事に励んだ日は実家で体を休めなさい』という意味でもあるのだ。
中秋節、雲深不知処は寂しくなる。ほとんどの内弟子は実家に帰り、今年内弟子で残るのは思追と藍景儀だけだ。景儀は古い分家筋のため、家は雲深不知処の外れにある。毎年実家に帰っていたが、今年は椿のお婆婆が思追と景儀を招いたので、二人でお婆婆に甘えてくるようだ。未だ藍曦臣は閉関を完全には解いていないが、食事だけは中秋節らしいものにするという。だから、今年の中秋節は藍啓仁と藍忘機と魏無羨の三人で過ごすことになる。
魏無羨は張り切ることにした。藍忘機は雲深不知処の中秋節はもともと静かなものなのだと言っていたが、寂しいのは性に合わない。姑蘇の月餅は中に木の実の餡を入れてパリッと焼くというので、それとは別に蓮の実餡の柔らかな餅のような月餅を作ってやって、皆に食べさせようと考えた。表に雲紋や兎の型を押して、目も口も香りも楽しませてやりたい。藍啓仁は雲紋を喜ぶだろう。兎は藍忘機のためだ。自分のためには蓮花を象ろう。
童のための簡単な甘味や療養の時にも使える冷やし飴を厨に教えた縁で、厨の家人は魏無羨に親切だ。作ったことがない柔らかい月餅と聞いて、すぐさま協力を申し出た。魏無羨は金型を作るところから始め、数日かけて小さめの月餅を作り上げた。料理を作り終えた厨の家人にもいくつか持たせて家に帰し、椿のお婆婆の邸にも思追に持っていかせ、藍曦臣の食事にも付けた。
そして藍忘機と二人、喰籠に食事を詰めて松風水月へと赴いたのである。
藍啓仁の居室である松風水月は、いつもは雅正を体現したような墨の濃淡が麗しい屛風や品のある渋い茶器ばかりの部屋だが、今日この日ばかりは小さな提灯が飾られ、月の光が入るようにと飾り窓が開け放たれている。
「藍先生、見てくれ」
皿を並べ終わるのを待てず、魏無羨は菓子を入れた器の蓋をとる。
姑蘇の丸く整えて黄金色に焼いた素朴な月餅の横に、白く可愛らしい丸い月餅が並ぶ。型で抜いた上面の模様は一種類ではないらしい。
「雲紋は小豆、蓮花は蓮の実、月兎は胡麻の餡だ。蜜はあまり入れなかったから食べやすいけど日持ちはしない」
どうだ見てくれ誉めてくれと言わんばかりの顔は、かつての蔵色散人を思い出させる。
『啓仁、藍啓仁、藍二公子、見てみろ、可愛いだろう。麓の飴屋の親父に習ったんだ』
不恰好な動物の飴細工を並べて得意げに見せびらかしているので、仕方なく唯一まともに見えた鳥の飴を褒めると、それは魏長沢が作ったやつだとブスくれた。背後で長身の黒衣の青年は頭を掻き、隣で江楓眠と虞紫鳶が声を殺して笑っていた。四人で麓まで足を伸ばしたらしい。藍啓仁が座学に参加した遠い日の思い出だ。その眩い青春の数年後からは、藍啓仁は座学で教鞭をとるようになった。
魏無羨の作った月餅の模様は精巧で、雲紋などは白い餅の上で美しい。藍啓仁は髭を撫で、思わず呟く。
「良かったな、魏嬰。菓子細工の上手さは長沢似だ。蔵色に似たら目も当てられん」
キョトンと魏無羨が目を丸くする。
「儂が魏長沢と交流を持ったのは座学の期間だけだが、江楓眠と共に三人で夜狩もした。――そうか、そういった話をお前にしてやれるのはもう儂だけか」
魏無羨が大師兄として江晩吟と一緒に参加したように、魏長沢も雲夢の大師兄として江楓眠と共に座学に参加した。蔵色散人はちょうど陣法の書物の編纂のために抱山散人から遣わされており、下界の常識を学ぶためについでに座学に参加したのだ。蔵色散人が雲深不知処を引っ掻き回しても無碍に放り出すことが出来なかったのは、座学の学生ではなく、陣法の知識を乞うて滞在してもらっていたからにほかならない。そのために藍啓仁の髭は二度も犠牲になった。
「聞きたいか」
魏無羨は首が折れるのではないかと思うほど強く何度も首を縦に振った。
藍啓仁は座れと魏無羨を促し、気を利かせた藍忘機が煎れた茶で喉を潤した。
怪異が出ると聞いたのは、座学が中程まで過ぎた頃だった。北の地では妖狼の群れの話が、近隣では狐と思しき怪異が伝わっていた。座学が休みになる数日の間、藍啓仁は許しを得て夜狩に出た。いつもなら師弟を引き連れていくが、今回は既に雲夢で何度も夜狩に出ている江楓眠と魏長沢が同行してくれた。師弟を多く引き連れていくのは、他の座学の学生の手前少し気が引けたのだ。怪異の場所までは水路が続き、水に慣れた仙師の方が都合が良かったため、江楓眠の方から自分達が行くと申し出てくれた。
狐の怪異はたいしたものではなかった。江楓眠と魏長沢は江氏でよく鍛えられている。
異変に気付いたのは、狐を屠り、術で縛り上げ引導を渡した直後だった。
「気付くと狼の群れに囲まれていた。月は満月に近い上弦。――意味は分かるな」
魏無羨は頷く。
「妖狼は月齢で強さが変わる。上弦で力を増し、最も避けるべきは満月。狩るなら下弦を待つのが鉄則だ。最悪だな」
「群れの数は大きく、陣を敷くには適さない狭い林道だった。陣を敷ける場所までは行くには群れを突破しなくてはならない。その場に居たのは剣使いの江家の次期宗主と陣が敷ける藍家の二公子、そして江家の側近だ。どう配置する?」
「公子二人に突破させ、側近は殿で追撃を防ぐ。陣が敷けるまで死守だ。宗主の血族を殿にはできない」
藍啓仁は髭を撫でながら頷いた。
「そう、それしか道はない。僅かに満たないとはいえほぼ満月の下での妖狼は凄まじく強い。それでも戦う以外の道はない。魏長沢のそれは死闘に近かった」
藍啓仁は必死で走った。藍啓仁がすぐに陣を敷けるようにと、前方の突破は江楓眠がほぼ一人で担った。頭の中で陣形を展開させ、丹田に霊気を練りつつ走りながら藍啓仁は必死だった。背後では獣の激しい咆哮が響き、断末魔と思しき唸り声が絶え間なく聞こえてくる。
広場に出ると、藍啓仁は一気に陣を展開させる。足りない霊力は江楓眠が陣に手を翳して補填した。必死で陣に霊気を送り込みながら藍啓仁は背後に続いているはずの魏長沢を探した。
林道から広場に抜ける手前、魏長沢は黒衣を闇に融かしながら、狼を広場に入れまいと剣を振るっていた。
「無口で生真面目で、主人に似て温厚だと思っていたが、その時の魏長沢は修羅だった。雲夢の大師兄とはこれほどかと感嘆した。愛剣を右手に、左手に匕首を持って、蹴り上げ貫き、その剣光は鮮やかな紅だった」
紅――とポツリと魏無羨が呟く。
「もしかしたら飛沫く血潮だったのかも知れぬ。だが、確かに赤い光に見えた。見事な剣技だった」
陣が発動したと同時に江楓眠は魏長沢の元へと飛び出した。既に霊力は尽きかけているはずだ。気力だけで剣を振るっている。その時、背後から凄まじい勢いの呪法が飛び、激しい閃光を煌めかせて狼の群れを一閃した。
「夜狩に出たと聞いた蔵色が追ってきていたのだ。妖狼が南下しているかもしれぬとの報を雲深不知処で聞いて、嫌な予感がしたのだと。蔵色は陣の範囲を押し広げ、江楓眠がとうとう霊力が尽きた魏長沢を陣に引き摺り込んだ」
蔵色散人は激怒していた。陣を展開させて霊力が尽きかけた藍啓仁と、霊力が尽きて倒れ込んでいる魏長沢と、長沢に必死で霊気を送っている江楓眠の三人を前にして、蔵色散人は小一時間ギャンギャンと叱り続けた。
その翌る日の事だ、藍啓仁の髭が姿を消したのは。夜狩は藍氏が請け負ったもの、責任を取るべきは藍啓仁ということなのだろう。
「藍先生の髭はそういうわけで消えたのか」
「一度目はな」
魏無羨は笑うことも出来ず、かといって同情するのも藍啓仁の逆鱗に触れそうで、なんともいえない顔をした。
「満月を見ると、時々思い出す」
藍啓仁は部屋に差し込みはじめた月の光を眺める。
剃り上げられた藍啓仁の髭を見て、魏長沢は申しわけなさそうな顔をした。そして小さく『蔵色を許してやってください』と藍啓仁に請うた。藍啓仁は、その時ようやく、どうして蔵色散人があれほど激怒したのかに思い至ったのだ。
魏無羨は月の光を見つめ穏やかに微笑む藍啓仁の顔を眺め、小さく問いかけた。
「二人は藍先生の中で今も生きていますか?」
ゆっくりと月の光から視線を戻した藍啓仁の目に映ったのは、泣き出しそうな顔をした魏無羨と、その背を気遣わしげに撫でながらそっと我が身に引き寄せた藍忘機の姿だった。
「魏嬰、思い出はけして死なぬ。忘れ去ろうともその身に深く刻まれているのが思い出だ。長く生きれば悔いもある。忘れたい過去もあるかも知れぬ」
――だが、思い出はけして死なぬ。問霊をする藍家の仙師にとって、故人の思い出とは常に身の内に生きて在るものなのだ。
魏無羨は静室の広縁に座り、天子笑を煽りながら月を眺めていた。
結局あのあと半分泣きながら膳を平らげ、藍啓仁に呆れられながら月餅を齧った。幸い柔らかな月餅は藍啓仁の口にも合ったようだった。
「藍湛」
背後に立った藍忘機を振り返ると、魏無羨は手を伸ばしてその袖を引く。
「藍湛」
震えるような呼びかけに応えて、藍忘機は魏無羨の手を取り我が身に引き寄せる。抱き上げられるようにして身の内に抱き込まれて、魏無羨は白い胸元に額を擦り付けた。
「藍湛、俺が居なかった十六年間も、お前の思い出は生きていたのか?」
藍忘機は月の光を弾く魏無羨の新たな髪冠を眺めた。出会った時に着けていた藍忘機の髪冠は今、魏無羨の髪を彩る。
「私が君を忘れたことは、一瞬たりともない」
鮮やかな青春の残り香が何度も胸を深く刺し、狂うような嘆きの夜を過ごしても、次の日に目に映る風景の中には鮮やかに魏無羨の思い出が息づいていた。その思い出に深く傷つき、そしてその思い出の煌めきに魂を救われてもいた。
藍忘機はようやく手に入れた温かな体を抱き締める。
叔父の話を聞いてよく分かった。これは藍氏の男の業なのだ。
「これから先も、一瞬たりとも君を忘れることはない」