二人だけの夜 藍忘機は剣を両手で抱きしめたままガタガタと震え続ける魏無羨を己の膝の上に寝かせ、色を失って乾き切っている唇に布に含ませた水を垂らしてやることしか出来なかった。額に霊力を注ぎ入れやっても、まるで底のない瓶のように入れた端から失われていく。
二人、暮渓山に閉じ込められてすぐ、藍忘機が怪我の熱に疲れ切って眠っている間に魏無羨が水を精製するために敷いた陣は、少しずつ光を失い、今にも効力が失われそうだ。
皆を逃すために二人残った夜から、藍忘機の足の怪我の回復を待ちながら屠戮玄武の倒し方を検討するのに二日、残された弓や剣を拾い集め準備を整えるのに一日、決死の戦いで魏無羨が傷ついてから既に三日、水があるからようやく命を保っているようなものだ。
藍忘機は震える魏無羨の体を己の外袍で包み、上半身を胸元に抱き込む。藍忘機の外衣の袖は左右共に断ち切られ無様なことこの上ない。片袖は己の脚を治すために、もう片袖は熱に魘される魏無羨の体を冷やし、汚水と妖獣の血を拭ってやるために切り裂いた。
妖獣の邪気をまともに全身に浴びた魏無羨は、高熱に魘され、額は火のように熱く、手足は氷のように冷たい。邪気に全身を侵され、傷を癒すための霊気が滞ってしまっていて、霊気を回す助けをしてやらなければこの熱が引くことはないだろう。ガタガタと震える体を温めてやるには藍忘機自らの体温を使うしかない。
藍忘機は魏無羨の左右の手を握りしめると、ゆっくりと自らの掌から霊気を流し入れる。
「魏嬰、気を回せ」
じわりと僅かに漏れた気を、反対の手で吸い出してやる。
「魏嬰、今しばらく耐えよ」
藍忘機は目を閉じ、自らと魏無羨の身体を通ってぐるぐると回る霊気を思い描き、ひたすら念じていた。
生きろ――と。
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皆を何とか逃し片足に重傷を負って二人閉じ込められた夜が明け、藍忘機が目を覚ました時、魏無羨は既に起きていた。まだ服が乾ききっていないのか、赤い里衣のまま常と変わらぬ屈託のない笑顔を向けられ、最初に感じたのは僅かな違和感だった。
「寝なかったのか」
魏無羨は何も言わずにこりと笑う。
「藍湛、傷は塞がったみたいだから、抹額は戻しておいたぞ」
薪火の横には陣があり、おそらく湖の近くに落ちていた剣や装備を拾っきて作ったのだろう奇妙な何かが鎮座している。兜に湛えられた濁った水は薪で温められ、湯気が剣を伝って別の兜の中に雫となって滴り落ちていた。
「水を濾過してる。幸いなことにあの辺りは岩じゃなくて土だったんだ。掘ったら水が湧いてきた。多少の濁りがあるだけで濾過すればなんとか飲めそうだ」
見れば寄りかかった壁とは反対側に掘った跡がある。
「お前の足の傷は塞がった。幸い『奴』の牙には毒はなかったようだ。だが、せっかく繋がりかけた骨がまた折れたみたいだ。使い物になるまでの間固定しておくために装具を作ってやるよ。靴を脱いでくれ」
人はつい無意識に体を動かしてしまうものだ、少しでも早く治すためには固定して動かせないようにした方がいい――そう言って魏無羨は外していた両手の皮の护腕を薪の火に翳して温めはじめた。
魏無羨は器用だった。温めて柔らかくした护腕を藍忘機の素足にピタリと合わせて冷えて硬くなるまで待ち、护腕を止めていた紐をそのまま使って固定する。一つで踵を包むようにし、もう一つで膝下を覆う。その二つを繋ぐように丈夫な木の枝を挿して、魏無羨は困ったように首を捻った。
「これを固定したいんだけど、抹額ではちょっと足りないな」
仕方ないかと呟いて立ち上がり、徐に傍に投げ出していた自らの外衣の裾を破り取ろうとするので、藍忘機は慌てた。
「待て」
藍忘機は自らの外衣の片袖を差し出す。
「これを使え」
「いいのか? 不恰好になるぞ?」
束袖を好む魏無羨の服に余分な布はない。余分といえば藍忘機の広袖の袂くらいのものだ。
魏無羨はありがたくその広袖を断つと、幅広の包帯にして器用に木の枝を固定して巻き上げていく。
「藍湛は修為も高いし元々霊力も豊富だから、こうしておけば二日もあれば何とかなるだろう。本当は骨継ぎ用の薬草を煎じたいところだけど、手元にあったのは傷に効く草ばかりだったから、せめて動かさないようにしておいてくれ」
ふうとため息を吐いて、魏無羨が細い枝を薪火に焚べる。その時藍忘機はようやく魏無羨が眠らなかった理由に思い至った。ある程度の飲み水を確保するためには、濾過のための火を消すわけにはいかなかったのだ。
「すまない。火は私が見ている。君は寝てくれ」
魏無羨はクスリと笑うと、小さく首を振る。
「まだ火傷の痛みが邪魔であんまり眠くならないんだ。そのうち眠くなったら遠慮なく寝るから、そうしたら藍湛が火を見ててくれ」
魏無羨は周囲の枝を放り入れてしまうと、よいしょと立ち上がる。
「枝を拾ってくる。藍湛は絶対に足を動かすなよ。動かさずに一分一秒でも早く骨を継げ。いいな」
パタパタと赤い裾を翻しながら走り去る背中は細い。元々、雲夢の剣は変幻自在で相手の勢いを利用して舞うように剣を滑らせ、突きと薙ぎを自在に操る。正確で素早い突きと、切れ味の鋭さ、何より速さがその剣技を支え、当然身の軽さも必要となる。そのせいなのだろうか、魏無羨の体は細くしなる鞭のようだ。その細さに微塵も弱さを感じさせず、むしろしなやかな強さを感じさせる所がいかにも魏無羨らしい。
藍忘機は傍に放り出されたままの黒衣に目を向け、その周囲が僅かに湿り気を帯びているのを見つけて眉を顰めた。この場に汀に置き忘れられた剣や兜がある時点で気付くべきだった。藍忘機が眠っている間に魏無羨は一人で湖へと行ったのだ。
風で落ちたものなのか、それなりに大ぶりな枝を引き摺りながら駆け戻ってくる魏無羨に藍忘機は微かに苛立った声を上げる。
「魏嬰」
「どうした」
魏無羨は藍忘機の隣に滑り込み、引きずってきた枝をせっせと折り始める。仕方なく藍忘機も同じように枝を折りながら、咎めるように放り出されている黒衣に再び目を向けた。
「傷が痛むのは、水に入ったからでは?」
しまった気付かれたか――とでも言うかのように、魏無羨はペロリと下を出し、肩をすくめる。
「何人か、争いで命を落としたろ? せめて喰われないように汀から離してやろうと思ったんだ。でも、ちょっと遅かったな、もう喰われてたよ。それで、丸腰で居るのも不安だから、ついでに剣を拾ったり、湖の水温を確認したり、みんなが脱出したあたり様子を確認したりしただけだ。あ、でも、無茶はしてないぞ。藍湛が言った通り『ヤツ』は目が悪いから、黒衣で気配を消すとかなり近くに居ても全く気付く様子がなかった」
魏無羨は枝を折り終わると、湿った黒衣を薪に翳して乾かし始める。
「なあ、藍湛。藍湛はあれを屠戮玄武だって言っただろう? つまり妖獣で、元は亀だ。雲夢は水に囲まれてるから、もちろん亀は普通にその辺にけっこう居る。蓮の新芽を喰われたりもするから、増えすぎたら狩るし、種類によっては喰ったりもするんだ。喰うと精がつくしな。食べるためには捌くから、亀がどういうものかは知ってるつもりだ。でも、あれ、本当に亀か?」
藍忘機は自らに襲いかかってきた姿を思い出す。
「歯は蛇のようだ。だが、牙に毒はなかった。蛇から転じた妖獣はほとんど毒を持つ」
「そう。神獣玄武は亀と蛇だ。だから『ヤツ』も亀と蛇の両方の性質を持っているのかと思ったんだよ。でも、牙には毒はない。蛇の妖獣が毒を持たないわけがない」
でも、亀っぽくないんだよな――魏無羨はそう言うと黒衣をポイと放り出し、藍忘機ににじり寄った。
「まず、鼻だ。亀は首を伸ばして鼻を水面に出して息をするだろう? だから出しやすい向きについているのが普通なんだ。でも、やつの鼻は蜥蜴みたいだ。そして足だ。爪はあったけど、水掻きがなかった。つまり、『ヤツ』は水の中で泳いで生きてるわけじゃないんだ。それで、皆が脱出した辺りを確認してみたんだ」
皆が脱出しただろうと思われる穴は、かなり深みにあった。周囲の水は濁り、岩が散乱していて以前と様相が変わっていたので、おそらく皆の臭いを辿って『ヤツ』がその辺りを足で探ったのだろうと思われた。既に穴は塞がれてしまったかもしれない。周囲の岩にも爪痕があり、岩肌に甲羅を擦った跡もあった。
「目が悪いなら、鼻か音に敏感な筈だ。鼻が利くなら水に潜って嗅げば良い。でも、ヤツは足で盲滅法に探った感じだ」
どう思うかと問いかけるように顔を覗き込んできた魏無羨をまじまじと見つめて、藍忘機は口を開く。
「潜れないのでは」
うん――と魏無羨は頷く。
「固い甲羅があれば身を守るためと思うのが普通だ。でも、やつの場合、あの甲羅を使って体を浮かせているんじゃないかと思うんだ」
つまり――そう繋げた魏無羨の言葉の先を藍忘機は口に出す。
「やつの甲羅の中は伽藍堂だ。背中の上を天蓋のように甲羅が覆っていて、そこには必ず隙間がある筈だ」
「やっぱり藍湛もそう思うか」
思い返してみれば、温晁を引っ掴んで甲羅に乗っていた時、なんだか砂地を踏んでいるような感触がしたんだよな――魏無羨は独り言をブツブツと言いながら岩壁に寄りかかる。
「亀を捌く時は、どうやるんだ」
「ん? ああ、雲深不知処では亀は喰わないのか。甲羅の中に逃げ込まないように、何かに噛み付かせて首を伸ばして、頭を切り落とすんだ」
「ならば、その方法で倒すべきだろうな」
亀だろうと亀でなかろうと、甲羅に隠れるなら引きずり出すしかない。
「お前の避塵があれば、あれくらい太い首でも切れるだろうが、落ちてた剣じゃ無理だな、たぶん折れて終わりだ」
ふうと藍忘機がため息を吐く音を聞いて、ハッとしたように魏無羨は手を伸ばした。首筋に手の甲を当てられ、藍忘機はその手の冷たさに瞑目する。
「また熱が出てきたな。骨が折れてるせいだ。とりあえずヤツを倒す方法はここまでにして、まずは寝ろ。あ、ちょっと待て」
魏無羨は濾過した水を掌に取り、そっと藍忘機の口元に当てる。
「ちゃんと水を飲め」
藍忘機は言われるがまま何口か嚥下すると、その掌を魏無羨の口元へと押しやる。
「君もだ」
魏無羨は目を白黒させると、言われるがまま残りを飲み干し、小さく笑った。
「もう、ヤツを倒す方針はたった。様子を窺いに行く必要もない。一人で湖に行ってはいけない」
熱で頬を赤く染めながらも魏無羨を見つめながら諭すように言うその様子に、魏無羨は苦笑する。
「うん。もう行かない。だからまずは寝ろ。起きた頃には熱も下がっているはずだ」
ゆっくりと瞼が閉じ、コトリと首が傾げそうになるのを見て、魏無羨は藍忘機の体に自分の体を寄せると、傾いできた頭をそっと肩で受け止める。肩で受け止めた藍忘機の頬は燃えるように熱い。
魏無羨は、昨夜眠る前に藍忘機が一粒だけ流した涙を思い出す。重傷の叔父と引き離され、折られた脚の手当てもされないまま、連行されるように藍忘機は温氏の座学へと連れてこられた。その衣には雲紋がなかった。連れて来られる前にわざわざ別の白い衣に着替えさせられたのだろう、雲深不知処はもうないのだと、纏っている本人に知らしめるために。
酷なことをする――と魏無羨は唇を噛み締める。
藍忘機は、雲深不知処で不自由なく生活していたはずだ。雲深不知処の生活は規律正しく豪奢を嫌うが、常に清潔で清浄だ。夜狩で野宿をすることがあったとしても、こんな血と泥と腐敗の匂いが漂う場所で、満足な薬も食べ物もなく、衣も着替えずに夜を過ごすことなど経験がないだろう。家規で、きちんと毎日里衣を着替え自らを清潔に保つことまで決められていたのではなかったか。
「藍湛、しばらくの辛抱だ。明日の夜にはきっと骨も繋がる。そうしたらヤツを倒してここを出るんだ」
不思議な縁で、何かがあるときはいつも二人だ。水行淵を起こした湖を鎮圧しに行った時も、寒潭洞に迷い込んだ時も、温氏の監視の鳥を二人で縊り殺した時も。
「必ず出してやるからな」
魏無羨は藍忘機の頭に頬を寄せた。そして伝わってくるその高熱に唇を噛み締めながら目を閉じる。
「絶対にここから出してやるからな、藍湛」
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ブルリと腕の中で魏無羨が大きく震えた。
咳き込んだ体を起こして背をさすってやり、もう一度深く抱き込んでから、そっと衣の合わせを緩めて魏無羨の胸の火傷の傷を確認する。一度は塞がった胸の傷は、屠戮玄武と戦った際に傷が開いた。その上、妖獣の血と汚水に汚された傷は酷く膿んだ。それを見た魏無羨は藍忘機に矢尻を焚き火で焼けといい、藍忘機は指示されるまま、その焼いた矢尻で膿の部分を焼いた。焼いたことでそれ以上傷が膿むのは避けられたが、傷口は痛々しい。
藍忘機は残り少なくなった水を口に含むと、そっとその傷の上に吐き出し傷口を洗う。そして裂いた袖を濡らして額に当ててやり、もう一度しっかり自分の体の上に抱き込んだ。
「藍湛……」
消えそうなほどか細い声に耳を傾けると、気配を察したのか魏無羨の目がうっすらと開く。
「藍湛、いいか。もしも水がなくなったら、腰佩の玉を口に含むんだ。唾液が出て乾きを癒せる。いいか、諦めるなよ」
絶対に諦めるな――言葉が途切れ、気を失ってことんと魏無羨の頭が藍忘機の胸元に落ちる。
藍忘機はギリと奥歯を噛み締めると、燃えるように熱い額に頬を寄せた。霊気を分け合い、少しずつ己の中の霊力が枯渇していっているのが分かる。魏無羨は霊気を完全に失う前に自分を放りだして崖を駆け上がれと藍忘機に言ったが、腕の中の魏無羨を離す気はなかった。
「魏嬰」
藍忘機は決めていた。霊気が枯渇する前に、いざとなれば魏無羨だけでも崖の上へと投げ上げる。直に膿んだ火傷の傷は塞がり、滞った霊気の流れも戻るだろう、この陰気が充満した場から逃れれば、まだ助かる望みはある。
「絶対にここから出してやる」
熱に魘されたあの夜、何度も耳元で囁かれた言葉を、胸に抱き込んだ魏無羨に囁き返す。
絶対に諦めるな――
遠く空耳のような呼び声が聞こえてくるまで、藍忘機は魏無羨を抱きしめたまま身じろぎすらしなかった。