忘羨ワンドロワンライ【寝冷え】【秋の味覚】「藍先生、裏山を探検してもいいか? 小さいのを数人連れて行くんだけど」
ひょこりと松風水月の扉から顔を覗かせた魏無羨を眺め、藍啓仁は首を傾げて髭を撫でつけた。襟元の一条の紅の糸を見て、小さく頷く。本日の魏無羨は、きちんと甥のお下がりを纏っているらしい。一条の紅の刺繍はお下がりの証である。甥の昔の衣装を着ているときは、無茶をして衣装を損なうのを避けるためか、魏無羨は僅かばかりだがいつもより行儀が良い。それが僅かな差であったとしても、藍啓仁にとっては良いことなのである。
「何をする気だ」
魏無羨はにこりと笑うと、ポリポリと頭を掻く。
「童が風邪をひきやすい季節になってきたろう? 厨の家人が蜂蜜が少なくなってきたと言うから、この季節ならギリギリ蜜を採っても蜂の冬越えには支障がないし、今のうちに採ってこようと思ってさ。ついでに小さいのに蜂の巣の扱いを教えておこうかと」
藍啓仁は少しばかり思案し、小さく頷く。
「景儀も連れて行け。今年の蜂の巣別れのことを把握しているはずだ。今後、裏山の作物の仕事を任せていけるような師弟も同行させて、景儀の仕事を把握させなさい。そろそろ次に引き継いでも良い頃だ」
「分かった」
笑みの余韻だけ残して魏無羨がパッと駆け出そうとするのを、藍啓仁は見逃さない。
「走るな馬鹿者」
踊るような足音がピタリと止まって、そろそろと極力音を立てないように駆けていく気配を察して、藍啓仁はヤレヤレというように首を振ると小さくため息を吐いた。
雲深不知処では、剣技や弓の修練、学問や礼儀作法だけでなく、日々の生活も修練の一つと考えられる。童時代の身の回りの整頓から始まり、畑仕事や薬草園での世話、果樹の収穫、修行のために散在している東屋の整備など、成長するに従って作業内容も力や細やかさが必要なものになっていく。その過程で其々の特性に合わせて自らの専門を決める場合もある。雲深不知処の医務所や薬処に居る仙師は、修練の途中で自らの進む道を決めた者がほとんどだ。
外弟子の中には、将来的には雲深不知処を自ら離れ、生まれ育った場所で周囲を助けながら独立した仙師として生きて行くことを選ぶ者も居る。そういった外弟子の生家は、元々仙門百家の守りのない地域にあることが多い。そういう村では、巡回している仙師に子供を観てもらい、結丹できるかもしれないと分かると、村をあげて必要な費用を工面して雲深不知処へと子供を送り出すのだ。
藍氏は弟子になったからといってその者の一生を無理に縛るようなことをしないので、近くの世家を頼らず、故郷を守るために藍氏での修行を選ぶ者は多い。そういった者にとって、剣や弓、学問や礼儀作法だけでなく、生活全般を修練として学ぶ藍氏の修行は得難いものだ。魏無羨が連れて行くつもりの幼い師弟も、おそらくそういった外弟子達だろう。藍曦臣が未だ閉関を解かない中、藍忘機が仙督となり、どうしても人手が足りず縮小せざるを得なかった修練もあったが、魏無羨が補佐するようになってから徐々にそれも回復してきている。雲夢で大師兄を務めていた魏無羨は、少々教え方に型破りなところはあっても、とにかく下に学ばせるのが上手かった。
藍啓仁が周囲への影響を心配していた、おおらかさを通り越して無頓着とも言えるような魏無羨の規律遵守への関心の無さも、白を基調とした衣装の時に完璧な所作と礼儀を崩さない様子を見て、師弟たちの方が勝手に『完璧(白い時)にできるから日頃(白くない時)はちょっと崩しているのだ』と良い方に解釈しているようだ。童達などは、自分達の真っ白な衣装を見て、完璧に出来るようになれば白くない服が着れるのかも――という風に考えているかもしれない。
藍啓仁としては、どんな時でも家規を守って欲しいのだが、魏無羨がもたらす様々な影響を秤にかけて、渋々黙認している――というのが現在の雲深不知処なのである。
「景儀は、もうこの符は描けるんだよな? じゃあ、他の者も描けるようにしっかり指導しておいてくれ。野山で作業をする時はあって損はない符だ。威力を上げれば小さな邪祟くらいは閉じ込められるしな」
数人の弟子を引き連れて魏無羨は意気揚々と裏山から帰ってくる。弟子達の手には甕が抱えられており、ふわりと蜜の甘い香りがした。
「魏先輩、どうして幾つもの巣を巡ってちょっとずつ蜜を採ったんですか?」
一番小さい弟子が未だ舌足らずな幼い口調で尋ねるのに、魏無羨はくるりと笛を回す。
「これから冬になる雲深不知処には花が少なくなるし、蜂は巣に篭って冬を越すだろう? 蜜を全部奪ったら食べるものがなくなって蜂が死んじゃうじゃないか。ちゃんと冬を越せるだけの蜜を残しておいて、また来春元気に蜜集めをしてもらわないとな。果実や穀物も、魚だってそうだ。貪欲に全部を奪ったら、結局その先の全てを失ってしまう。そんなの割に合わないだろ?」
相手が自分よりうんと小さくて弱くても、ちゃんと相手のことを考えておかなくてはいけないんだ、自分のことばかり考えるのはよろしくないんだぞ――魏無羨の言葉に小さな頭がコクンと大きく頷く。
「確か、童の部屋の世話役だったよな? 風邪をひいた子は居るか?」
二番目と三番目に小さな師弟が顔を見合わせる。
「内弟子の部屋には居ませんが、南の方から来ている外弟子の中に熱を出した者が数人。ただ、急に朝晩が冷え込んだので、寝冷えをしたのか腹の調子を崩したものや喉が痛いと言う子は内弟子の中にも何人も居ます」
そうか――と魏無羨が頷くと、藍景儀が問いかける。
「思ったより蜜が採れたし、厨に頼んで童達に何か作りますか?」
「そうだな。夜狩で引率を任せられそうなのや薬処に興味がありそうなのを数人見繕って、厨で学ばせてもらうか――ーっと、麓の方ではまだ金木犀咲いていたよな?」
咲いてます――と弟子達が声を上げる。
「残り少なくはなりましたが、まだ散ってません」
「よし、じゃあ、ついでに採ってこよう。金木犀は胃に良いんだ。酒に漬けたり蜜で煮たりして保存できるしな」
藍景儀が『雲深不知処で酒は――』と目を吊り上げるのに、『薬だ薬』と返しながら、魏無羨は楽しげに数歩駆け出す。
「蜜は厨に運んでおけ。花を摘んだらすぐに行くから、厨で準備しておけよ」
駆け出した魏無羨を見て、幼い弟子達は自分の甕を藍景儀や年上の師兄に押し付けて、その背を追いかける。
「魏先輩、待ってください。私も摘みます」
無理やり二甕押しつけられた藍景儀は、走り去る小さな背中と手元の甕を見比べて、不満げに呟く。
「――走るな馬鹿者」
同じく甕を押しつけられた後輩に『似てませんね』と言われ、『似せてない!』と噛みつきながら、藍景儀はため息を吐いた。藍啓仁の気持ちがちょっとだけ分かる。
分かるようになってしまった。
藍忘機が静室の扉を開けると、既に卓に夕餉の膳が並べられていた。
「おかえり」
魏無羨はというと、手元に天子笑の甕を抱えて笑っている。その手元から花の香りが漂ってくることに気付いて、藍忘機はそっと手元を眺める。
「金木犀だ。漬けておこうと思って」
魏無羨は甕の口を開くと、そこに可愛らしい花をそっと落とし込んでいく。思い返せば、魏無羨は蓮の香りの酒を醸してみたり、花の香りのお茶の作り方を学んできたりと、花を目で愛でるだけでなく五感で楽しむ。食すだけでなく薬としても使うし、女童の爪を赤く染めてやっていたり、布や紙を染めることもあるし、顔料がわりにして絵を描いたりもする。一度、試しに藍啓仁が花を生けさせたら、それなりに上手く生けてみせた。驚く藍啓仁に、魏無羨は顔を顰めながら『虞夫人の側近に睨まれながら生けたら誰でも上手くなる』とこぼした。なるほど魏無羨の教え方が常に学ぶ者が楽しめるようにと考えられているのは、かつての自らの辛い経験を教訓にしているらしい――と、藍忘機は納得したと同時に、せめてもう少し常の行儀が良かったら睨まれることも少なかったのではないか――と、当時の虞紫鳶の苦労に思いを馳せもした。
「今日は外弟子のチビを連れて蜜の採り方を教えてきた。山間部で生活するなら知っておいて損はないからな。いっぱい採れたから、みんなで梨の葛湯も作ったんだ」
そう言うと、魏無羨は卓の中央に置いていた可愛らしい蓋付きの小鉢をとりあげる。藍忘機の顔の前で蓋を開けてみせると、中からふんわりと生姜と梨の良い香りがした。
「梨園の実はもうほとんど収穫が終わったんだけど、実りが遅かった株にだけまだ残ってるんだ。場所があまり良くないから甘味は少ない。でも蜜を足してやって葛湯にすれば十分楽しめるぞ。朝晩冷えるようになったから、今日のみんなの夕餉に小鉢として加えてもらったんだ。生姜も入っているから体もあったまる」
ほら――と、とろりと優しげに湯気を立てる葛湯を匙で掬って口元に差し出され、藍忘機はそっとそれを口に含む。
甘い梨の香りと蜂蜜の濃厚な香りが広がり、生姜の優しい刺激が舌を撫でる。摩り下ろされた果肉は滑らかで、喉越しは優しい。
「うまいだろ」
藍忘機に食べさせるのが楽しくて仕方がないと言わんばかりの笑顔を見て、藍忘機は微笑む。
「うん。残りの梨とは思えないほどだ」
「藍湛は修為が高いから寝冷えなんてしないかもしれないけどさ、最近は朝晩冷えるから気をつけないとな」
寝相が悪いのはむしろ魏無羨だ。夏場など、掛けた布団を蹴り散らかしている。布団を自分で蹴り散らかしていながら、明け方体が冷えると、モゾモゾと藍忘機の袂や襟元に冷えた手を差し入れ暖をとろうとするので、藍忘機が布団へと入れてやることが多い。
「うん」
自分のことは綺麗に棚に上げて、とにかく滅多にない藍忘機の世話を焼ける機会を逃すまいと、ふた匙目を掬おうとする魏無羨から器と匙とをそっと取り上げ、ひと匙掬って魏無羨の口元に差し出す。
「君も、注意して」
魏無羨は嬉しそうに口を開けると、藍忘機が匙を差し出す前に自らパクリと顔で匙を迎えに行った。