忘羨ワンドロワンライ【抱擁】 ポタリ――と落ちた雪が白く世界を覆う。黒々とした地面と木々を覆い尽くして、世界は白くなる。
魏無羨は雪が生まれ落ちる天空を見上げた。月を覆い尽くした厚い雲から、音もなく雪が生まれ落ちる。
魏無羨は冷泉で垣間見た藍忘機の白い背中を思い出す。
藍忘機の白い背中には、無惨なほどに痕を残した戒鞭の傷があった。傷の所以を尋ねても藍忘機は答えなかった。答えをくれたのはその兄だ。
魏無羨のために負った傷――否、藍忘機はそうは思っていないだろう。知己と共に有ろうとして、あの日の誓いのままに生きようとして負った傷だ。
魏無羨はそっと琴を爪弾く藍忘機を振り返る。
地位も名声も、輝かしい栄光も富も要らない、この世でただ一人、この知己が居ればそれで十分に満たされる――魏無羨は思う。
魏無羨が黒衣の裾を翻して、琴を爪弾く知己の元にゆっくりと歩み寄ると、藍忘機は琴の手を止めた。魏無羨はそのままストンと腰を下ろし、その白い肩先にもたれかかる。
「魏嬰?」
背中に、その白い冷え冷えとした姿からは想像もつかないほど熱い知己の体温を感じ、魏無羨は目を伏せた。
戒鞭の傷は容易には癒えなかったはずだ。痛みはどれだけ長く藍忘機を苦しめ、どれだけ深く藍忘機の心を抉っただろうか。
叶えられるなら、その痛みと苦しみの中の知己を抱きしめて、少しでも痛みを拭い取ってやりたかった。
「忘機はどうしている」
藍啓仁の顔色は悪い。血の気の引いた顔は強張り、噛み締め過ぎたのか、唇の端は切れている。
「戒鞭の傷からの血が止まりません。譫言で、まだこの子は三つに満たないと、この子は棄子だと何度も繰り返しております」
藍啓仁は藍曦臣の言葉を聞き、ギリと奥歯を噛み締める。
「忘機の言葉にも一理あります。状況からしておそらく温氏の子を連れてきたのでしょうが、医師の見立てでも未だ三つにはなっておらぬだろうと。三つに満たないとなれば正式に温氏の籍に連なったわけではない。赤子は身罷りやすく、藍氏でも正式に籍に記載されるのは三つになってからです。他家では五つになってようやく籍を作ることもあります。あの子の同族は全て死に絶えました。一人取り残されたあの子は正式な籍のない棄子です」
跪いた藍曦臣は縋るように叔父の顔を見上げ、なおも言い募る。
「不夜天に吊るされた温氏の民を叔父上は見ていらっしゃらない。彼らはそもそも温氏の残党などではなく、年寄りばかりの無辜の人々です。連座させると言っても、剣も持たない彼らに咎がありましたか? ましてや三つに満たない子供に何の罪があるというのですか。しかも、忘機は既にあの子の分まで戒鞭を受けました」
藍啓仁は大きくため息を吐く。
「他家はあの子に気付いているか? 江晩吟はどうしている」
「他家は子供になど興味もありません。江宗主は谷底を攫い、笛を見つけ出しました。傍に骨はあったと聞きましたが、遺骸かどうかは分かりません。江宗主は持ち帰らなかったそうです。連日捜索に出ていたようですが、後のことは他に任せて一旦雲夢に帰ったと」
「ならば遺骸ではあるまい。だが、奴が簡単に笛を手放すとも思えぬ。江宗主はなぜ帰還した。笛で満足したのか」
「いいえ、金丹に激しい痛みがあり、念のために休養を。雲深不知処の医師にも治療法が分かるかどうか使者が来ましたが、そのような前例もなく。温情殿がおいでなら何か分かったかも――と」
「皮肉なものだ。必要なら蔵書閣を開いて治療に協力せよ」
藍啓仁は顔を歪ませ、意を決したように顔を上げる。
「今宵のうちに子供の籍を作れ。日付は数ヶ月前にしておけ。数ヶ月前、忘機は何度か一人で夜狩に行っておった、その時の拾い子と記載せよ。椿のお婆婆に子供の世話を頼め。忘機は血が止まり次第、面壁させる」
藍啓仁は深く肩を落とし、額に手を当て再び俯く。
「なんということをしでかしたのだ、魏無羨よ。座学のあの時に、それはならぬと儂が言い、射日の後も何度も忘機がならぬと伝えたのではなかったのか」
藍忘機はぼんやりと冷泉の辺りに立ち尽くしていた。
戒鞭を受け、静室に寝かされていたはずだ。だとすればこれは夢だろう。夢だからこそ、冷泉に見えるはずのない過去の自分が写っているのだ。
夢という自覚がありながら藍忘機は冷泉の人影を眺める。
人影は二つ。明るい声をあげて、真っ白な校服を着た魏無羨が無邪気に手を伸ばしてくる――友達になりたいのだ、と。
思わず足を一歩踏み出すと、冷泉の影は瞬く間に消え、広がったのは広い空だ。
『一生、悪をくじき、弱きを救えるように』
知己が夢見るように見上げた空は、非情にも明るい。知己が最期の瞳に映したのも空だ。
夢の中で、藍忘機は雲深不知処を彷徨い歩く。
跪いた魏無羨を見つめた庭で、知己は無邪気に木の棒を振って笑った。雲深不知処から歩き去る背中は、迎えの養父への愛着と嬉しさで飛び跳ねている。二人で閉じこもった蔵書閣で、知己はわざとらしい真面目さで墨を擦った。剣を交わした屋根の上で、半分あげるから見逃してと酒を差し出して笑う。初めて出会った門前で、あれは邪術だ看破してみせた――
そこ此処にまだ彼が居るのに、なぜ今、自分はただ此処に立ち尽くすのか。
何処からか聞こえる笛の音に、藍忘機は小さくまた一歩を踏み出す。
いつも先に差し出してきた魏無羨の手を、避けずに自分が握り返していたら。最初の賄いの酒を苦笑しつつ受け取っていたら。
酒に酔って『母は居ない』と誰にも言えなかった心の奥の寂しさを吐露した藍忘機に、魏無羨は何も言わずに寄り添って、親が居ない自らの過去を語ってくれたのに。
笛の音が響いてくる。ふらふらと藍忘機が笛に音を辿ると、自らが眠るはずの静室が見える。この部屋に彼を隠して、弱き者を庇護し続ける彼を世間の罵詈雑言から守りたいと願った時、そんな自らを思い止まらせたのもまた、夢見るように微笑んで天灯に誓いを述べた彼の明るい横顔だった。
静室の中、部屋の片隅の棚に置いた小さな黒塗りの小箱の中から、笛の音が聞こえる。藍忘機はそっと小箱を取り出し、明るい月の光の下でその蓋を開けた。
小箱の中で月の光を受けて思い出が揺らぐ。魏無羨が書き損じた家訓、くしゃくしゃになった紙人形、耳元に花を描いた藍忘機の絵姿、道中何かあったらすぐに使えるようにと渡された魏無羨の破魔呪――
『藍湛の琴が強いことは知ってる。でも、既に剣を握っている時に咄嗟に使うには便利なんだぞこれ』
懐の符を惜しげもなく差し出され、確かにこの身を守るために使った破魔呪の、大切な残り。
「魏嬰」
『ここだよ』
いま、何処にいるのだろう。あの日、蔵書閣で、呆れるほどの笑顔で手を挙げて藍忘機を揶揄って応えた彼は。
「魏嬰」
『どんな名前にする? 同袍? 無衣?』
いま、何処にいるのだろう。勝手に紐でお互いを結んで、一人で行くなと笑った彼は。
「魏嬰」
『みんなが輝かしい道を進もうと俺は険しい道を進むのみ』
いま、何処にいるのだろう。あの日、小さな子の手を優しく引いて、無辜の民のために世界に背を向けて歩き去った彼は。
「魏嬰」
『藍湛』
いま、何処にいるのだろう。
せめてお前と同じものでありたいと、その自分勝手な願いを叶えるために受けた罪と罰の、この背の傷が痛くて、私はお前を探しに行けない。
『藍湛』
せめて、お前が守ろうとしたものを共に守りたいと願うのに、私には、兄に必死に頭を下げる以外、あの子を守る術がない。
『藍湛』
暗闇の中からひたひたと何かが現れ、藍忘機の俯いた頬を撫でた。明らかに闇の気配を漂わせる見えない影に、藍忘機は何かを見出そうと血の気を失った白い顔を上げる。その影はそっと藍忘機の首に巻き付き、その血まみれの背を優しく撫でた。
「魏嬰」
藍湛。
叶えられるなら、その痛みの中のお前を抱きしめて、少しでもその痛みを拭い取ってやりたい。この世にたった一人の知己が居ただけで、確かに満たされるものがあったのだと。