忘羨ワンドロワンライ【朔月】「次の朔月は、夜明け前に冷泉で潔斎を行い卯の刻から冥室で朔月の楽の奉納を行うため、朝餉は思追が運んでくる」
静室での夕餉の後に藍忘機にそう言われ、魏無羨はキョトンと目を見開いた。
雲深不知処では年に二回、朔月に楽の奉納を行うことになっているらしい。本来は宗主が務める仕事だが、藍曦臣が閉関しているため藍忘機が行うのだろう。青蘅君が閉関中は長らく藍啓仁が務めてきたそうだ。雲深不知処には古くからの祭事が幾つも残っているが、潔斎まで行うものは珍しい。
「随分と厳格なんだな。朝餉くらい自分で取りに行けるぞ?」
魏無羨は数日前に結丹した。結丹の際に体に掛かった負荷は大きく、結丹したとは言えまだ回復は十分ではない。そのため、藍忘機は膳の準備から湯浴みまで甲斐甲斐しく世話をし、随分と魏無羨を甘やかしている。魏無羨が朝餉は自分で取りに行くというのに『だめ』と返して、藍忘機は言葉を続ける。
「今回の朔月は少し特殊なのだ。予測でしかないが、おそらくその日は――」
藍忘機の言葉を遮るように魏無羨は口を開いた。
「日蝕が起きる――そうだろ? つまり雲深不知処の朔月の奉納は蝕に関連したものだったのか、なるほどな」
なぜ知っているのかと僅かに首を傾げた藍忘機に、魏無羨は不敵に笑ってみせる。
「正確に次の日蝕がいつと知っていたわけじゃないぞ。実は大師兄になってから、聶宗主に天文の書を借りて蝕について学んだんだ。雲夢には日蝕の年は蓮の実が痩せるって言い伝えがあって、気にする民も多いんだ。それで前もって蝕を知る術はないかと思って色々調べた。前の日蝕は俺が乱葬崗に落ちていた頃だから、日蝕の周期を考えればそろそろだろう?」
なるほど――と藍忘機は頷いた。
「前の日蝕は、雲深不知処は大変な時期だったんじゃないのか?」
藍忘機はこくりと頷く。
「叔父上も兄上も奉納は難しいだろうと思い、一時身を寄せていた聶宗主の元で私が楽を奉納させていただいた。清河には天文櫓があるので、そこで」
雲夢が水運の要なら、清河は陸路の交易の要だ。大きな街道が交わり、旅人も多く、様々な地の情報が集まる。雨が少なく星がよく見えることもあり、古くから天文学が盛んなことでも知られている。
「そうか、あの蝕の時は藍湛が楽を奏でてたのか」
魏無羨は手入れのために藍忘機の前に置かれている忘機琴を眺め、小さく呟いた。
魏無羨が乱葬崗に落とされて、既に半月ほどが過ぎた。
霊気が途絶え空になった霊脈の中へと強引に入り込んだ怨気が、嬉々として霊脈に沿ってグルグルと魏無羨の体内を巡り、好き勝手に恨み辛みを身の内から訴えかけてくることにも、もう随分と慣れた。金丹を失った仙師の体というのは、ことのほか怨霊には居心地が良いものらしい。怨霊たちは耳元に冷たい水を垂らすような声音で『仲間になろう』『恨みを晴らそう』『体を貸せ、そうしたらお前を守ってやる』と訴えては、ギリギリと陰気で直接魏無羨の心臓を締め上げる。
落ちた当初、魏無羨は、陽のあるうちは、骨のような枝を伸ばす木々の幹から僅かに新芽の緑が伸びているのを眺めて心を落ち着けた。夜になれば、月の光と僅かに明滅する星の瞬きが心を慰めた。いつになっても精神まで明け渡そうとしない魏無羨の中を、怨気がグルグルと呪いの言葉を吐きながら巡り、隙あらば魏無羨を取り込もうと躍起になっている。怒りに任せて恨みを怒鳴り散らすモノ、切々と自らの悲劇を語るモノ、罵倒するモノ、嘲笑するモノ――それらの話を聞くとはなしに聞いていると、魏無羨の中で次第に『モノ』は『者』へと変わっていった。怒りの底には裏切りへの悲しみがあり、恨みの奥には相手への激しい愛着があり、傲慢な物言いは寂しさの裏返しだった。それらは人間の感情の成れの果てであり、怨霊は結局はただの人間だった。
目の前の土に陰鉄剣を突き刺したまま調息している魏無羨を、なんとかして取り込んで喰らい尽くそうと近付いてきた怨霊の多くは、魏無羨の霊脈の空に巣食うか、陰鉄剣に絡みつくかする。陰鉄剣に絡みついたもののほとんどは、一晩もすると剣の中に取り込まれてしまった。時折、意に反して取り込まれることに反発して火花を散らす怨霊もあったが、大抵は断末魔の叫びもあげず、剣の中の闇い安住の地へと取り込まれていった。それでも周囲の怨霊は尽きることがない。それほどに乱葬崗の怨霊の数は凄まじく、陰気は幾重にも濃く魏無羨を取り巻いた。
怨霊にも変わり者は居るようで、数日前から盛んに魏無羨の背中にしな垂れかかってくる女鬼が居る。女鬼は魏無羨が乱葬崗に落ちて以来、何度も切々と己の生前の恨みを語り、いかに自分が哀れに切り刻まれたか、野晒しにされた自分が野犬にどんな仕打ちを受けたかをずっと訴えていた。その話は確かに哀れで、魏無羨は思わず一粒涙を溢した。女鬼は嬉しそうにその涙が顎から落ちるのを手を広げて待ったが、掌に受けようとした涙は女鬼の手を素通りして地面に落ちた。女鬼は悔しそうに落ちた雫の跡を眺め、それ以来、どうした訳か魏無羨の背に寄り添っては、辺りを漂う弱い怨霊を手に持った鈴でチリンチリンと追い払っている。
『嫌だ嫌だ。嫌な時間がやってくる。お前、大変な時に来ちゃったねぇ。お前、まだ一応生きてるのに』
女鬼は心底嫌そうな声を上げる。昼でも薄暗い乱葬崗は、靄のように僅かに周囲が見えることでようやく昼だと分かる。昼の乱葬崗は夜に比べれば幾分か陰気が薄い。
『嫌だ。嫌だ。嫌な時間だ。お前、耐えられるかしら。数刻くらいなら持つかしら』
女鬼はしっしと周囲の怨霊を追い払う。追い払われた怨霊が、常になく身を震わせて悲鳴を上げると、絡繰がグルリと反転するように周囲の気配が変わった。
『ああ、来た。嫌な時間だ』
女鬼がチリンと鈴の音を立てて消えていくのと、何かが陰鉄剣の柄の上に降り立つのは、ほぼ同時だった。
『お前、棄てられた子だな。親から棄てられ、養い親から棄てられ、友から棄てられ、敵から棄てられ、とうとうこんな所に落ちた。棄てられる運命の子供だ』
目の前の陰鉄剣を覆うようにして現れた影が、自分が心底嫌いな鼻先の長い動物の姿を模していると気付くと、魏無羨は目を閉じた。ハアハアと陰気の強い嫌な臭いの息を吹き掛けながら、その野犬の顔をした奇妙な人影は魏無羨の顔を舐めるように見つめる。
『お前、災いを呼ぶ子供だな。養い母にも言われたろう? 全部お前が元凶なんだ。養い母はお前を恨んでいたもんなぁ。他愛もない事で何時間もお前を跪かせて、酷い養い母だったろう? 嫌いだったよな? なあ』
「否」
魏無羨は短く応える。
虞夫人は厳しかったが、魏無羨を息子と同じように扱った。家族と同じ食卓につかせ、魏無羨のために遠くまで教本を探しに人を送ってそれを求めて来た。確かに悪戯には厳しく罰は重かったが、終わればいつも師姉がお菓子をこっそりくれた。そうそう悪戯で叱られることもなくなってきた頃、そのお菓子がとても高価なもので師姉が毎回用意することは到底無理だということを知った。宗主がそんな些事に関わるわけはなかったから、そうなると菓子を用意できるのは一人しか居なかった。
『お前、義弟にも嫌われてたよな。妬まれてたしな。仕方ないよな、お前、元々棄て子だもんな。金丹まで奪われてさ。お前、哀れだよな』
「否」
江澄は父親に似て我慢強いが、母親譲りの矜持の高さと愛着の激しさがよく他人に誤解された。だが、魏無羨の悪戯を庇っては悪くもないのに虞夫人に叱られ、罰として食事を抜かれる魏無羨のためにいつもこっそり万頭を用意しておいてくれた。そもそも引き取ってくれたから結丹したのだ。貰った金丹を返したに過ぎない。
『義理の姉もさ。本当は呆れてたと思うぞ。毎回母親の機嫌取る羽目になってさ』
「否」
『友だってさ』
嫌な息が魏無羨の頬を打つ。
『もうお前のことなんて忘れたろうな。堅物だったし、お前のこと嫌ってたもんな。お前が消えてせいせいしたんじゃないか? お前も嫌いだったろう? 無視されてばっかりで、嫌な奴だったよな。なんて名前だっけ? なあ、なあ』
ギリと魏無羨は唇を噛み締める。こんな怨霊の成れの果てのような奴に、好き勝手言われて良いような友ではない。こんな奴が友の名や姿を思い浮かべていると思うだけで、嫌悪と激しい怒りが沸いた。
「否!」
叫んだ魏無羨の呼吸の乱れを知るや、闇い影は魏無羨へと躍り掛かる。鞭打つような陰気の気配に魏無羨が思わず目を開くと、大きく裂けた口は牙を剥き出しにして目の前に迫っていた。
――だめだ、避けられない!
闇に堕ちたように暗い世界の中で、突然、チリンと鈴が鳴った。
『お馬鹿。こんな小物に襲われるなんて』
女鬼だった。滴る血のように赤い爪が、何か嫌なものの気配を引き裂いて食いちぎっている。
『お前、本当にお馬鹿。泣いてもだめ』
その時ようやく魏無羨は自分が泣いていることに気付いた。
『ああ、でもやっぱりお前の涙は綺麗だ。光ってる。キラキラと綺麗ねぇ』
女鬼は舐めるように涙を見つめる。
『私だって、生きている時は泣けたんだ、あの人を思って。親に引き摺られて行きながら、最後まで私に向かって手を伸ばしてくれたあの人を思い出して、私だって泣けたの。可哀想に涙で顔をぐちゃぐちゃにして、あの人は私の名前を何度も呼んだ。姿が見えなくなっても、ずっと私の名前を叫ぶあの人の声が聞こえてた。だから私は決めたの、死んでも恨むと。あの人をあんなに泣かせたモノを恨むと決めたのよ』
身分違いの恋だったのだと女鬼は笑った。相手が不誠実だったら、むしろ諦められただろう。男はあまりに誠実で、なのに男の親はあまりに非情で、腹の子ごと切って棄てられたのだと悟って、女は鬼になった。
『お前はまだ泣けるんだね。そうか。うん、そうだね。いいよ、泣いていい』
見上げた空に燃えるような光の輪が出来ているのを見て、魏無羨はようやくこの奇妙な変化の原因を知った。蝕だ。太陽が朔月に隠されている。萎えかけた体を奮い立たせて、魏無羨はもう一度調息を始める。夜以上に濃厚な闇の気配は肌の間際まで迫って、魏無羨を飲み込もうとしている。今が蝕の極大だとすれば、一刻も耐えれば戻るはずだ。耐えねばならない。
サワサワと骨のような木々が風に音を立てて、女鬼が風上に顔を巡らす。
『琴だ。琴の音が聞こえる。ああ、なんて綺麗なんだろう』
澄んだ綺麗な音。整った韻律。深かった闇さえ、綺麗な黒い絢のように規則正しく整えられていく。
「藍湛?」
魏無羨は小さく友の名前を呼んだ。
闇の奥、微かな光が魏無羨を手招く。ふらりと立ち上がり足を進めた魏無羨の手に陰鉄剣が触れ、魏無羨は無意識にそれを掴んで抜いた。剣先を引き摺りながら歩いた先、微かに赤い光を放っていたのは、数本の竹だった。陰気に黒く染め上げられた乾き切った竹は、それでも本来の健やかな性質を失わず、空へと真っ直ぐに伸びている。
『お前、笛は吹ける? 吹けるなら笛を作ってよ』
楽しげに魏無羨の周りを漂いながら女鬼が歌うように強請る。
魏無羨が手を伸ばすと、竹はチリチリと陰気で魏無羨の指を焼いた。陰鉄剣を振りかざすと、竹は簡単に切り折られ、まるで元からそこに在ったかのように魏無羨の手の中に収まる。
吹き口を調え、指穴を調整し、震える唇に吹き口を当てると、魏無羨に笛を教えていた虞紫鳶の側近の声を思い出す。
『笛は吹くのではなく語るの。音色には誠実でありなさい。言葉にできないものは、言葉にしてはいけない。お前が語って良いのは音色だけ。お前にはこの意味が分かるわよね。それが私達のような者の生き方だと』
息を吹き込むと、笛はピイと高く泣いた。切れ切れに聞こえる琴に耳を澄ませ、魏無羨は笛に息を吹き込む。語れなかった寂しさを、伝えられなかった感謝を、途切れた別れの言葉を、誰からも知られないように――自分自身にさえ隠し通した、言葉にできない、心の一番柔らかい所にある幼い夢を。
女鬼は魏無羨の傍に座って、蝕に隠された太陽が戻って微かな昼の活力が薄暗い乱葬崗に戻ってくるまで、ただじっと琴と笛の音を聞いていた。
『お前、本当にお馬鹿。何で言葉にしなかったの。本当にお馬鹿で可哀想な子供』
「魏嬰?」
怪訝そうに自分を見つめる藍忘機の声に、魏無羨は過去の景色から引き戻される。
「蝕の時の楽がどうかしたのか?」
「いや。でも、どうして藍氏が蝕のための楽の奉納をするんだ? 天文は聶氏の十八番だと思っていた」
藍忘機は手入れを終えた愛琴をそっと爪弾く。
「元々、聶氏と藍氏とで暦の編纂をおこなっていたのだ。暦の編纂には天文と算術の技術が必要だから、双方がそれぞれの力を持ち寄った。そしてその後、暦に関する祭事は藍氏が担い、商人を通じて情報を集め暦を広める役目は聶氏が担うようになっていったのだ」
魏無羨は、琴を爪弾く藍忘機の傍にストンと腰を下ろした。
「祭事の琴は清心音にも通じる音律で、琴の鍛錬にもなる。祭事は宗主が担うことが多く、歴代の宗主は天文や暦に関する言葉を剣や愛琴に名付けてきた」
琴の音は様々な乱れを正し、絹の刺繍の糸筋のように気配すら調える。細いようで遠くまで響く琴の音は、人の心の乱れを調え、気の乱れをも整えて消えていく。
魏無羨は、随便や避塵と並べて無造作に壁際に置かれた陳情を眺める。陳情を飾る蓮花の房飾りは、落ちた乱葬崗で一度は失ったものを、あの女鬼が探し出してくれた。
女鬼を最後に見たのは不夜天だ。世界と己を天秤に掛けて、世界を残して己を自ら棄てた時、落ちていく魏無羨の頬に伝った涙に手を伸ばして『本当にお馬鹿で可哀想な子供』――と、そう言って女鬼は笑った。
陰虎符を封印した今では、もう、あの女鬼を呼び出すことは叶わないだろう。
「祭事の琴はここに居ても聞こえるかなぁ」
魏無羨の呟きに藍忘機が小さく笑う。
日蝕の深く闇い怨気の渦巻きすら、綺麗な黒い絢に整えた、あの女鬼が惚れ込んだ琴の音。魏無羨の背にしな垂れかかりながら、また琴が聞こえてきはしないかと女鬼は何度も耳を澄まし、聞こえてこないと分かるとため息を吐いて、魏無羨に笛を吹いてと強請った。
「魏嬰、おいで」
藍忘機に手を広げられ、魏無羨は物慣れぬ様子でおずおずとその腕の中に身を預ける。
「身体が冷えている。そろそろ少し厚い上衣を誂えなければ」
「もう結丹したんだし、大丈夫だって」
「だめ」
藍忘機はブツブツと文句を言いたげな魏無羨の痩躯を自分の袂ですっぽりと覆うと、小さくため息を吐く。
「朔月の朝餉だって、ちゃんと自分で――」
「だめ」
言い終わらぬうちに拒否されて、魏無羨は藍忘機の腕の中で不満げに小さく口を尖らせた。
遠く闇の中で笑うようにチリンと鈴がひとつ鳴って、誰にも知られる事なく、微かな余韻を残して消えた。