忘羨ワンドロワンライ【赤い糸】 世家によって多少の違いはあるが、仙師は十二歳頃から結丹しはじめ、十五で座学を修め、十八で剣術を修めて一人前となる。二十歳を過ぎると結丹する者は稀だ。姑蘇藍氏のように幼くして門弟となり本格的な修練を始めることが普通であるという世家もあれば、ある程度成長するまでは通いで修練し、結丹してから門弟として迎えるような小世家もある。ひとたび門弟となるとその世家に一生を捧げるのが当たり前の世家もあるが、雲夢江氏のように門弟の出入りがある世家も多い。
雲夢江氏の門弟が流動的なのは、蓮花塢が水路を中心とした交易の要所であることが大きい。雲夢江氏は、門弟以外に武術を必要とする市井の民にも剣術や弓術を学ぶ機会を与えている。彼らの多くは水路沿いの街の民であり、男女の別なく水路の安全と街の安全のために武術を修めにくるのだ。その中にはごく少数だが修練によって思いがけず遅い結丹を迎える者も居る。彼らは市井の民と仙師の分け隔てなく武術を教えてくれる雲夢江氏に愛着と忠誠とを持っている。水路を伝って頻繁に街と蓮花塢を行き来する中で、世の不穏な気配や他の世家の情報を知ると、それを蓮花塢へと直ぐに伝えてくれるのだ。そんな日常の中で、門弟が民と縁を結んで蓮花塢を去り、結丹した民が妻を娶って蓮花塢の辺りに住み着き門弟となる。このようにして蓮花塢の門弟は流動する。全て人の縁によるものだ。
そのせいもあってか、雲夢には恋や縁に関する古い言い伝えや祭りがいくつもある。その中で最も甘やかで少年少女達の心をときめかせるのが、月下の赤い糸の伝説である。
曰く、蓮花が咲く季節の満月が天頂に掛かる夜に、少年が赤い糸を手首に巻いて蓮池に船を浮かべ、水面の月を覗き込むと運命の人が映る――少女が蓮池の辺りで水面の月に手首の赤い糸を落とすと、運命の人と堅く繋がり幸せな縁を築くことができる。
雲夢の少年少女は皆、一度はこの言い伝えを実行に移したいと夢見る。だが、実際に行動を起こせる者はほとんど居ない。蓮池には水鬼がおり、満月が天頂に上る真夜中は邪祟の支配する時間だからだ。
蓮池には行けなかったとしても、雲夢のほとんど民は一度は手首に赤い糸を巻いて家の窓から上る満月を見上げたことがある。それが雲夢の少年少女の青春なのだ。
江晩吟と魏無羨はじきに十二になる。二人の結丹は早く、魏無羨は十歳半ばで、江晩吟はそれに遅れること小半年で結丹した。競い合うような二人の修練の進みは早く、魏無羨に至っては、弓術では既に全ての師兄と師叔を打ち負かし、誰よりも高い的を誰よりも正確に射抜くようになった。そのため、蓮花塢周辺の簡単な邪祟や水鬼を狩る采配は二人に任されることが多くなった。元々雲夢の門弟は年齢に拘らない実力主義だということもあるが、幼くとも二人は宗主の息子と元大師兄の息子であり、年長の師兄も二人の采配で進む蓮池の水鬼狩を面白がって引き受けている。
そんな二人が、多くの少年達が夢見るだけの『月下の赤い糸』の伝説を実際に実行に移してみようと考えるのは、まあ、ある意味当たり前といえば当たり前かも知れない。二人にとって蓮池は庭のようなものであり、水路の流れも入り組んだ地形も全て把握している。脅威として語られる水鬼は、彼らにとっては狩りの的でしかないのだ。
「今夜は満月だぞ」
江晩吟が囁くのに、魏無羨は笑って頷く。
「分かった、分かった。雲がかからないといいな」
いつも悪戯を持ちかけるのは魏無羨なのだが、今回は違う。いつもは魏無羨の悪戯に振り回されている江晩吟が『月下の赤い糸』を確かめようと言い出したのは、きっと師姉の婚約が本格的に動き出したからだろうと魏無羨は思っている。
元々、師姉である江厭離の婚約は母親同士の口約束のようなものだった。だが、相手の金子軒が無事に結丹を迎えたことで、その動きは急に本格的なものに変わった。江晩吟にとって江厭離は大切な唯一無二の姉であり、その姉の婚約はいやでも自身の縁について想いを馳せる理由になるのだろう。
「剣を忘れるなよ、もしかしたら水鬼を狩る羽目になるかもしれないからな」
「江澄は手首の赤い糸を忘れるなよ」
魏無羨の揶揄うような言葉に江晩吟は顔を顰める。
「お前は巻かないのかよ」
「俺は別にいいよ。わざわざ顔を見なくったって俺の相手だったら美人ちゃんに決まってるからな」
「どうだか。飴屋のおかみさんみたいだったらどうするんだよ」
「江澄、お前、口は災いの元だぞ。飴屋のおかみさんだって、嫁いだ先が飴屋だからぽっちゃりしちゃっただけで、若い頃は細くて美人だったって、飴屋の親父が自慢してたの、聞いたことないのか?」
魏無羨は窓から月を見上げる。既に中空に輝く月は、もう半刻もすれば天頂に輝く。既に蓮花塢の門は閉じられ、宿直の師弟が起きている程度だろう。
「行くか」
魏無羨と江晩吟はスルリと窓から抜け出し、足音を潜ませる。小舟は事前に草陰に潜ませてあり、中に弓も準備してあった。回廊を抜け、軽く塀を飛び越え、二人は小舟の中に身を滑らせる。
「漕げ、漕げ。奥の水路なら流れが緩やかで月を映すにはちょうどいいだろう」
ピチャリと雫が水面に落ちる音を立て、二本の櫂が控えめに水面を駆っていく。風はなく天空に雲も少ない。丸い月が明るく周囲を照らすが、蓮の葉の影には時折チラリと怪しげな陰が顔を覗かせた。
「雲は大丈夫そうだな――でも、江澄、これは――」
先に異変に気付いたのは魏無羨だった。
「さすがに真夜中の蓮池だな。こっちに来たのは失敗だったかもしれない。江澄、数が多い。群れで来られたら厄介だぞ」
ヒタヒタと小舟を遠巻きにして、水鬼達は蓮葉の陰を伝いながら追ってきていた。
「これは、俺たちだけじゃさすがに無理か。どうする、戻るか?」
魏無羨は水底に目を向けると、首を振った。
「もう、囲まれてる。最近、水路で狩れる水鬼が少ないと思ったら、こっちに隠れてたんだな。江澄、御剣して師兄達を起こしてこい。俺は舟を囮にして陣を張っておく。どうせ狩らなきゃいけないんだ。今から狩るぞ。残念だけど『赤い糸』は来月だな」
これから花の盛りになる蓮池は、花を市に出す民が舟を出す機会が多くなってくる。このままでは昼間でも被害が出るだろう。
「無茶するなよ」
江晩吟は三毒を鞘から引き抜くと、一気に天空に駆けた。水鬼に気付かれない高さまで一気に上がって、滑るように蓮花塢へと剣を向ける。その軌跡を見送って、魏無羨は周囲の暗い水面を見渡す。そして不意に納得したように頷いた。
「確か何度か豪雨で被害があったな。川伝いに流れてきて集まったのか」
魏無羨は随便を抜くと飛び乗る。そして懐の札を一枚舟に叩きつけた。途端にまるで誰かが乗っているかのように舟は傾ぎながら動き始める。その動きに合わせて、水底をズルズルと水鬼が這いながら付いていく。
「陣は五芒陣にするか」
魏無羨は呟くと懐から札を取り出す。滑るように御剣で水面を駆ると、指で呪を描き札を水中に叩きつける。水底に落ちた札はポウと淡く青い光を放ち、周囲の水鬼が怯えるようにザワザワと札から離れた。同じように魏無羨は残り四箇所にも札を沈め、トンと船の上に降り立った。
「さて、閉じ込めて少し絞っておくか」
蓮花塢の方で気のざわめきを感じる。江晩吟に起こされた師兄達が、狩りの準備を始めたのだろう。
ギイギイと傾ぐ舟の上で、魏無羨は素早く呪を描き、クイと紐を引くように中空を絞った。遠巻きに舟を囲んだ五つの光はゆっくりと円を描きながら舟に向かって僅かに絞るように縮む。舟を狙って集まった水鬼は、もうその光に円から外には逃げられない。魏無羨は思案する。絞り込んだ方が狩るのは楽だ。だが、絞りすぎると異変を感じた水鬼は一斉に舟へ襲いかかってくるだろう。
「まあ、そろそろ師兄達も来るだろうし、始めとくか」
魏無羨はさらに絞り上げた。途端にザワザワと水鬼は水面を揺らし始める。魏無羨は左手に握った、鞘に入ったままの随便を水平に掲げた。
「切れ」
囁くように命じながら水面に軽く振り下ろしたただけで、随便は赤い剣光を走らせて水中に沈んでいく。その動いた輝線の分だけ、水鬼が水泡になって消える。音を立てて鞘に戻った随便を見て、魏無羨は満足げに笑った。やはり、良い剣だ。
再び魏無羨は随便を走らせる。水中を駆ける剣光を目で追っていたその時、ぐらりと舟底が突き上げられ、舟は大きく二つに割れた。魏無羨はそのまま水中に沈む――が、水鬼はその体に爪を立てるようと群がり、キイと悲鳴を上げて飛び退いた。魏無羨の革の髪冠は自ら作った特製で、裏面にびっしりと護りの呪が書き込まれているのだ。水鬼など側に寄ることすら出来ない。
魏無羨は、ゆっくりと沈んでいきながら、螺旋を描くように水中を切り裂き水鬼を滅していく随便の軌跡を目で追って、嬉しげに笑った。割れて沈んだ舟の方に群がった水鬼は、獲物を見失って怒りに震えている。大の字に手足を広げてゆっくりと水底に沈みながら、魏無羨は水面の向こうの満月を見上げた。視界に赤い紐が目に入り、一瞬首を傾げ、それが自分の髪紐だと気付くと、『なんだ、赤い紐は持っていたのか』と埒もないことを考えた。
丸い月影、蓮葉の落とす丸く黒い影、水面の先に滲んで揺れる蓮花の蕾の紅、水に揺れる髪と赤い髪紐、そして――
それは一瞬だった。何かとても綺麗な白いものが魏無羨に手を伸ばしていた。真っ白な、美しい何か。
ビンと鼓膜を震わせたのは、琴の弦の響きだ。魏無羨は思わずその白い輝きに手を伸ばした。一瞬、熱く優しい光に指が触れて、魏無羨の体は水底に落ちた。随便が魏無羨の手を掠めるように飛んでくるの掴み、一気に水面に上昇する。
「おい、大丈夫か?」
頭上に江晩吟が居た。師兄達の舟もすぐ傍まで来ている。
「五芒陣で閉じ込めてある。狩り放題だ」
舟から師兄の剣が水鬼に襲いかかるのを、魏無羨は満足そうに眺めた。
「もう少し絞るか」
クッと頭上で手を引き結ぶと、くるくると円を描いていた光の柱はさらに縮み、中の水鬼は剣に追い立てられる。
「あぁあ、とんだ月見だったな。赤い糸どころじゃない」
江晩吟のぼやきを魏無羨は笑う。
「残念だったな」
笑いながら濡れた体でクシャンと小さなくしゃみをする。
「おい、大丈夫か? お前、水に落ちたんだろう?」
「うん、舟を囮にした時にな。水中からの月見もなかなか良かったぞ。なんか綺麗で輝いてた」
鼻を啜りながら笑う魏無羨を見て、江晩吟は呆れたように首を振った。
「月見もいいけどな、風邪ひくなよ。あ、あと、母上が後で二人で祠堂に来いってさ」
不貞腐れたような江晩吟の声に、魏無羨はため息を吐く。
「お前の提案で水鬼狩りしただけ――って言っても無理かなぁ」
「それはそれ、夜中に抜け出したことは別――だってさ」
そうかぁ――そう呟いて、魏無羨はしょんぼりと肩を落とす。頭上の月の光が、濡れた魏無羨の髪からポタリと落ちる雫をキラキラと照らした。
藍忘機は月を見上げていた。常ならもう眠っている時間で、見上げることのない天頂の満月だ。月の中に柔らかな花のような影を認めて、藍忘機は僅かに首を傾げる。
「忘機、眠くはないかい? 今日は叔父上の代わりに琴を勤めてくれてありがとう」
兄の優しい声に、藍忘機は小さく首を振った。
「とても勉強になりました。叔父上のお勤めは清談会前の大切なものなのでしょう?」
藍曦臣は弟の幼さの残るほっそりとした白い顔を覗き込む。
「うん。少し世の中が騒がしいようだ」
「江殿のことですか?」
今朝、清河へと旅立つ前に、藍啓仁は藍曦臣に江家と金家の縁談についてどう思うかと尋ねていた。藍忘機はその時、兄が『義母となる方に強く望まれている縁ほど、良い縁はないと思う』と答えていたのを聞いている。おそらく叔父は聶宗主にも同じ問いを投げかけるのだろう。
「江殿は、大世家でただ一人の宗主直系の女性だからね。どこに嫁ぐのかということはどうしても議論の的になってしまうだろう。聶宗主は宗主としてはお若いが思慮深い方だから、波風立てるような振る舞いはなさらないが、近隣の世家たちからの様々な意見が叔父上の所に上がってきたそうだ。大世家と縁を結んで自家を大きくしたいと望む世家は、けして少なくはないのだよ」
姑蘇藍氏は生まれながら持っている運命的な縁を尊ぶが、それでも藍啓仁は藍曦臣に江厭離の婚姻について問いかけた。
「縁――」
藍忘機は呟くと、月を見上げた。
幻のように、丸い月の縁から、ホロリホロリと薄紅の花弁が光となって舞い落ちているように見える。
「ああ、今日の満月は美しいね」
藍曦臣は月を見上げる。
「姑蘇にはあまりその手の話はないが、清河や雲夢には、月に運命の赤い糸の端を持つ人が映るという、縁を知るための言い伝えが幾つもあるそうだよ」
「赤い糸――」
では、月の丸い光の中に朧に見える、優しい花のような淡い紅の影は、運命的な何かなのだろうか――
藍忘機は静かに月を見つめ、滴り落ちる朧な光の花弁を掌に受けるようにそっと右手を差し伸べた。柔らかな優しい気配が掌を擽り、静かな甘い花の香りが風に溶けて消えていった。