旭暉瞼の裏に日差しを感じるも、重い瞼は未だ持ち上がることが無く、まだ覚醒しきらない感覚は聴覚に集約される。
すぐ傍で、静かに、深く、そして長く繰り返される呼吸。
緩やかに耳に届く音に自然と同調する呼吸のリズムは心地よく、静かに意識が浮上する。
夢と現の狭間でまどろむこの時間はイザナにとって数少ない心が凪ぐ貴重な時間。
布擦れの音をたて無い様、身じろぐことなく瞼を持ち上げ視線だけをそちらへ向ける。
壁ほぼ一面の窓には今はシアーカーテンのみで覆われ、朝日が優しく部屋を照らす。
逆光に浮かぶ男の姿。
ヴィラバドラアーサナ。
怒りが起源のこのポーズは、怒りや悲しみを愛と思いやりに昇華すると言われているらしい。
強く勇ましく、そして優しいこの男に良く似合うと思う。
自分の部屋に比べると狭くはあるが、それでも十分に広いこの部屋の家具は最小限。調度品の類も無い殺風景な部屋。
住居に全くと言って良いほど頓着の無いこの男が言葉を挟む猶予を与える事なく、一等地の高層マンション上層階に強制的に住まわせた。ワンフロアになっている最上階はイザナ自身の部屋だが、就寝時イザナがそこで過ごす事は無い。
眠れなくなったのはいつからだったか。
あると思っていた、手に入れた家族の中に自分の居場所は無かった。虚構だった。
あぁ、自分は何処まで行っても一人なのだと。
初めから知らなければよかった。そうであればこの足元が土台から揺らぎ崩れる恐怖も虚無も感じる事は無かったのに。
魘され飛び起きる日々に疲弊し、処方された眠剤は気休めにもならず、積極的に睡眠を摂ることは辞めた。
厳密にいえば睡眠はとれていた。ただ、一般的に言われる眠りとは異なり、喧騒と暴力、争いの合間に訪れる静寂の中で手放す意識。
「睡眠不足で人が死ぬことはない」
あれはいつだったか。テレビから流れてきた音を思い出した。
路上で、少年院で。出所してからも、どれだけ環境が変わろうとも同じだった。
そんな日々が続き、今の自室には寝具を置くことも無くなった。
時に上質なソファーに腰かけ、熱帯魚が泳ぐ水槽から聞こえてくるモーター音に耳を傾ける。
そんな機械音だけが響く部屋で緩く訪れる睡魔に身を任せる。
生命維持に必要な休息が取れればもうそれで良かった。
そんなイザナが唯一眠る事ができる場所。
ベッドを好まない鶴蝶は毎日布団を敷いて眠りにつき、毎朝畳んで収納する。
施設に居た頃に身に付いた習慣は今尚この男の生活に染みついている。
天気がいい日は窓を開け、広い部屋に布団を干す。
その日の夜はお日様と鶴蝶の匂い。そして本人の温もりに包まれる。
幼い頃、共に眠りについた記憶とは少し異なる安堵感に包まれ眠った夜は、もう数えきれない。
柔らかに注ぐ朝日に向かい瞑想に入り、最後に深く息を吐いたのを確認して、イザナも一つ大きく息を吐いた。
「おはようイザナ」
逆光で見えなくとも、その表情は音に乗って伝わる。
下僕であり、国のために戦う戦士。
その顔を知るのは自分だけでいい。
例え当の本人であったとしても、その権利だけは譲るつもりは無い。