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    nezumoto_

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    nezumoto_

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    幸せの定義 第3話 ネームドモブがいます!

    幸せの定義Ⅲ猫は嫌いだ。

    「タケミッち、今日からよろしくな!」
    改めて、といった風に、はにかんだ千冬さんが言う。そこかしこから聞こえてくる犬と猫の鳴き声に、顔が引き攣らないよう必死に拳を握った。
    名残惜しそうな佐野さんに見送られ、千冬さんと場地さん、一虎さんと共に来たのは三人が経営しているというペットショップだった。店についた時点で帰りたいと思ったが、そんなこと口に出せるわけもなく店内まで来てしまう。ショーケースの中では小さな犬や猫がぴょんぴょん飛び跳ねながら鳴いている。「まずは餌だな」と場地さんが呟いた。
    今日から三日間はここでペットショップ経営の主な仕事を学ぶそうだ。こっち、と三人に連れられてショップの裏に入る。
    「今から餌をやるから、タケミッちも手伝ってくれるか?」
    「は、はい。」
    棚から餌皿を取り出す千冬さんに手を貸しながら、犬用と猫用のフードを分けていく。量や種類もちゃんと考えられているらしい。全部同じ量や同じ種類じゃないんだな、と知る。
    「これはこっちのアメショ、今タケミッちが持ってるのは隣のラグドールのとこ。」
    一虎さんや場地さんが犬のところに餌を入れているのを見ながら、鍵を開けてもらったショーケースの中に恐る恐る手を入れる。俺が指示されたショーケースのラグドールというらしい毛足の長い品種の子猫は、俺が持った餌皿を見るなりみゃあみゃあと鳴き始めた。
    「躾はされてるから、ひっかいたりはしないよ。」
    隣で千冬さんが安心させるかのように言う。子猫がショーケースから出ないように注意しつつ餌皿を入れて置くと、即座に近寄ってきた子猫はがっつくように餌を食べ始めた。
    「できたか?じゃあ次はこっち。ラガマフィンのところ。」
    らが……?と聞いたことがない品種に内心首を傾げつつ千冬さんの指が示しているショーケースの中を見る。先ほどのラグドールと似た長毛の子猫は、まだ起きたばかりなのか目をしょぼしょぼとさせて近寄ってきた。か細い声でにゃあ、と鳴いた子猫は、俺の手にある餌皿に気づくとかりかりと小さな手でショーケースを引っかき始める。千冬さんに鍵を開けてもらって手を入れると、俺の両手ほどしかない小さな体が擦り寄ってきた。
    「ッ」
    生暖かいその温度に、ぞわりと寒気が走る。千冬さんが「おー」と感嘆したような声を上げた。
    「珍しい。そいつ気難しくて滅多に近づいてこないんだよ。餌もらう時は愛想いいけど、擦り寄ってきたのは初めてだな。」
    犬たちに餌をやり終えたらしい場地さんが俺の方を見ながら言った。にゃあ、と一声、固まる俺を急かすかのように子猫が鳴く。慌てて餌をおいて手を引っ込めた俺に、子猫は餌皿に向かうことなく鳴き続ける。
    「はは、タケミッちがいい奴だって気づいたんだな。普段こんなに鳴かねぇんだぜ。」
    「良かったな!」と千冬さんが笑う。一虎さんも場地さんも微笑ましげな顔をしてようやく餌皿に向かい食べ始めた子猫を見つめていた。早くなる心臓を服の上から押さえて、そっとショーケースから視線を外した。

    餌やりが終わった後は店内を一通り回って、今日の主な仕事を教えてもらう。ひとまずバイトの俺は難しいことは覚えなくていいからと言われ、棚に並んでいる商品の品出しをすることになった。裏から段ボールを持ってきてひたすら並べるだけの仕事は、頭を使わなくていいので無心でできる。犬や猫のことは置いといて、割とできそうな方かもしれない。それだけじゃないのは分かっているけど。
    品切れの商品は発注書に書き込んで、賞味期限のあるものは前に出して並べる。難しいことはない単純な作業を二時間ほど続けていると、レジに立っていた一虎さんから声がかかった。近寄ってみると裏に手招きされるのでついていく。
    「今は客もいねーから。」
    そう言いながら一虎さんはさっきのラガマフィンのショーケース前に行くと、鍵を開けて子猫を抱きかかえた。
    「ほら、抱っこしてみなよ。」
    「え……」
    片手で子猫を持った一虎さんに手を取られる。断る前に指先に柔らかな毛が触れて喉が凍り付いた。
    「こう、尻の方を抱えてやって、手と胸で抱いてやる。」
    後ろに回った一虎さんが俺の手を沿わせ、子猫を預けてくる。どっ、どっ、と心臓が嫌な音を立てて大きく鳴り始めた。
    「か、ずとらさ」
    はくはくと口を動かす。拒否の声は音にすらならなかった。抱きかかえた子猫が俺の顔を見てにゃあ、と鳴く。
    「お、暴れないじゃん。場地ですらじたばたされてたんだぜ。」
    手にじんわりと子猫の体温が伝わってくる。とくとくと小さな拍動も。こんな小さな体から心臓の音がする。当たり前だ。生きているんだから。生きて、いるんだから。
    ──お前が殺したんだろ?軽薄な笑い声が頭の中に響く。変な汗がじわじわと手のひらに滲む。お前が殺した。俺たちは知らない。冷たい目が、全身に走る痛みが。手のひらから抜け落ちた、小さな小さな命が。
    「は、あ……」
    体から力が抜けて、へなへなとその場にしゃがみこむ。子猫が俺の胸元に爪を立てて、落ちんとばかりにしがみついていた。
    「タケミチ?」
    「は、……すみ、ませ、ちょっと、トイレ……」
    引き離した子猫を慌てて一虎さんへ渡す。一虎さんは大きな瞳孔を丸くして口元を押さえる俺を見ていた。それを横目に立ち上がってドタバタと足音を鳴らしながら、来た時案内してもらったトイレへ駆け込む。扉を開けて個室に入り、鍵を閉めてからすぐ、便器に顔を突っ込んで胃を引っくり返したように吐いた。生理的な涙で視界がぼやける。胃液しか出なくなるまで吐いて、ズキズキと痛む頭を押さえた。暫くしてコンコンと扉がノックされる。声が出ずに何も言えないまま扉を見る。
    「タケミッち?大丈夫か!?」
    千冬さんの声だ。答えなきゃ、と思うのに胃液で焼かれた喉が痛い。
    「ごめん、気分悪いの気づかなくて。吐いちまったか?今日はもう帰るか?」
    扉越しに心配を滲ませた千冬さんの声がする。数回咳き込んでから、胃液で酸味の残る口を開いた。
    「すみませ、大丈夫です、動けます。」
    「無理しなくていいんだぞ?今からでもマイキーくんに……」
    「大丈夫、です。すぐ出ます。」
    トイレットペーパーで口を拭って水洗ノブをひねる。立ち上がって扉を開けると、焦りで顔を青くした千冬さんが立っていた。
    「本当に大丈夫か?顔、ちょっと青い。」
    「もう大丈夫です。ちょっと吐きはしましたけど、すっきりしたので……」
    「……分かった。無理強いはしない。でもちょっと休憩した方がいいな。休憩室行こう。」
    そう言った千冬さんの後をついていく。途中で、心配そうな顔をした一虎さんが来た。その手に子猫がいないことを視認して安心する。
    「体調悪かった?ごめん、もっと早く気づければよかったんだけど。」
    「大丈夫です、ご迷惑おかけしてすみません。」
    「ウン。とりあえずちょっと休んで、動けそうだったら出てこればいいよ。」
    「そうします。」
    時折チラチラと俺を振り返りながらレジの方へ戻っていく一虎さんの背中を見る。彼に悪気はなかった、ただの善意だ。はっきり拒否をしなかった俺のせい。自分の中で結論付けて、もやもやと暗雲の漂う心中を落ち着かせる。休憩室に入ると千冬さんは俺をソファーに座らせて、裏口のところにある自販機から買った水を手渡してくれた。口の中の酸を洗い流すように飲む。冷たい水が嘔吐で傷ついた喉に気持ち良かった。
    「俺はすぐそこで作業してるからさ、何かあったら呼んでくれな。寝ててもいいから、とにかく少し休め。」
    「はい……すみません、初日からご迷惑ばかり、」
    「謝んなよ。ちっとも迷惑だなんて思ってないからさ。それよりお前の身体が心配。無理はしなくていいから、帰りたかったら気にせず言ってくれよ。」
    休憩室を出ていく千冬さんの背中を見送って、ため息をつく。柔らかいソファーに背を預けて目を閉じると、休憩室の外から子犬たちの鳴き声が聞こえた。
    ──猫は嫌いだ。犬も、好きじゃない。それは自覚しているけど、まさか触っただけで吐くとは思わなかった。最後に動物を触ったのは、小学生の時。最初で最後。
    お前が殺した。俺たちは見てただけ。足蹴にされたお下がりのランドセルはすっかり潰れて傷だらけになってしまった。擦りむいた膝と殴られた体中が痛かった。腕の中で、とうに体温を失ってしまった小さな体が固まっていた。白と茶色の八割れ。さっきの子猫は、あの子によく似ていた。まるでそのまま生まれ変わったみたいに。
    「……」
    ズキズキと頭痛がする。薬を取り上げられてしまって眠れなかったせいか。それとも思い出したくないことを思い出したせいか。
    「くすり……」
    ポケットに手を突っ込んで、プラスチックのピルケースを取り出す。昨日佐野さんの前では出さなかった偏頭痛の薬だ。三錠取り出して口に放り込む。溶け出す前に水で流し込んだ。飲んですぐ効くわけでもないけど、飲まないよりはマシだろう。ケースをポケットにしまおうとして、誰かの視線を受けているのに気付いた。入り口に目を向けると、場地さんが立っていた。
    「具合、悪いか。」
    休憩室に入ってきた場地さんは、隣に腰を下ろして俺の顔を覗き込んだ。
    「ちょっと……偏頭痛持ってるんです。それで頭が痛くて。」
    「ああ……イザナと同じやつか。今日天気悪いからなぁ。」
    イザナ……と頭の中で昨日顔を合わせた人たちのことを思い出す。ああ、何を考えてるのか分からなくてちょっと怖かった銀髪の。
    「イザナさんもなんですか。」
    「よく頭抱えてるぜ。薬は飲むの嫌なんだと。」
    くるくると髪を弄りながら話す場地さんの横顔をぼーっと見つめる。俺の視線に気づいた場地さんは視線を右往左往させて、少し言いづらそうに口を開いた。
    「お前さ。本当は動物あんまり好きじゃねーだろ?」
    その言葉にどきん、と心臓が冷える。切れ長の目が俺を見つめていた。
    「ショクギョーガラっつーの?何となく見てて分かるんだよ。」
    「あ……」
    「別に、責めてるわけじゃない。ただそう思っただけだ。」
    場地さんの視線から逃れるように手元を見る。ガタガタの爪でささくれを捲るのを無意識にやっていると、横から伸びてきた手がそれを止めた。
    「痛いだろ、やめろ。」
    「……あの、俺……すみません、」
    「何が?苦手なのはしょうがねーだろ。何にも悪いことじゃない。」
    「ちゃんと苦手だって言えなくて……それで、迷惑かけて……」
    バカみたい。そう呟いた俺の手を握ったまま、場地さんが黙り込む。やっぱりここには来るべきじゃなかったんだ。
    「ごめんなさい。でもちゃんと仕事はします。もういきますね。」
    立ち上がった俺を、赤茶色の瞳が追いかけてくる。正直まだ頭痛はしていたけど、これ以上長居はしたくなかった。
    休憩室から出て千冬さんの元に行く。
    「あ……タケミッち、どうした?」
    「もう大丈夫なので、戻ります。何かやることありますか?」
    「本当に大丈夫か?無理してない?」
    「大丈夫です。もう動けます。」
    「うーん、そっか。でも今は手ェ足りてるし……あ、店の中の掃き掃除お願いしてもいいか?」
    「わかりました。」
    箒と塵取りを受け取って表の方に出る。レジに立っていた一虎さんが「もう大丈夫なん?」と問うてきたので、それに頷いた。
    「また具合悪かったら言えよ。」
    「はい、ありがとうございます。」
    塵取りを隅に置いて、店内の床を掃き始める。箒を動かす俺に反応して、子犬たちがケース越しに飛び跳ねるのを見ながら埃や小さなごみを集めていく。
    掃いて集めたごみを塵取りにまとめて、それを何回か繰り返していると、ふと来店のベルが鳴った。入ってきたのは俺と同い年くらいの女の子だった。
    「いらっしゃいま─」
    「花垣君?」
    「え?」
    女の子が驚いたような顔をして俺を見つめる。一虎さんも同じような顔をして女の子を見ていた。それよりも今、この子は俺のことを「花垣君」と呼ばなかったか?
    「花垣君だよね?やっぱりそう!」
    女の子がさっきとは打って変わって嬉しそうな顔で詰め寄ってくる。俺はそれにあの、だとかえっと、だとか、小さく声を漏らすしかなかった。
    「あ……ごめん、覚えてないかな。私、カラタチだよ。ほら、小学校と中学の時同じクラスだった……」
    カラタチ。カラタチ……頭の中で今までの交流関係を思い返す。そうして一人、思い当たる人物がいたことを思い出す。
    「あ……枳殻さん?覚えてる、中学まで一緒だったよね。」
    「そうだよ、枳殻!うふふ、覚えててくれて嬉しい。」
    枳殻さんは嬉しそうに笑って俺の手を取るとぶんぶんと上下に振った。一虎さんがバタバタと裏の方へ駆けていくのを横目に見ながら枳殻さんの顔を見る。中学の時は黒髪に眼鏡だった彼女は、今は垢ぬけて可愛らしい見た目になっていた。
    「花垣君、中学途中でやめちゃったでしょう。ちょっと寂しかったんだよ。でも会えてよかった。」
    「枳殻さんは……いまは何してるの?高校生、だよね。」
    「今は専門校に通ってるの。獣医になりたくてね。」
    そう言う枳殻さんはショーケースの中の子猫たちを見てから俺の掛けているエプロンを見て、首を傾げた。
    「花垣君はバイト中?進学はしてないの?」
    「あ、俺は……」
    何と答えようか一瞬迷う。中学中退してから体を売ってました、なんて嘘でも言えることじゃない。
    「まぁそんなとこ。タケミチは今ウチで働いてんだ。」
    横から一虎さんが入ってくる。枳殻さんは一虎さんの顔を見て見惚れたような目をしながら「そうなんですね、」と頷いた。
    「タケミチとは知り合い?」
    「小学校と中学校の同級生だったんです。」
    「そうなんだ。あ……さっき花垣君って呼んでたよね。」
    「え?はい……花垣武道くんって言うから。……もしかして、今は違った?」
    気遣うような枳殻さんに、言葉が詰まる。義兄を殺してからは苗字も捨てたようなものだった。
    「……今は、苗字ないんだ。でも気にしなくていいよ。」
    「あ……そうだったんだ、ごめん、タケミチくんって呼ぶね。」
    「……うん、ありがとう。」
    枳殻さんは店内を見回しながら、「でも良かった」と呟いた。
    「……?何が?」
    「あんなことがあったから、猫も犬も嫌いなんだと思ってた。ここで働いてるってことは、もう平気?」
    「あ」
    どくん。心臓が鳴る。枳殻さんの泣きぼくろが特徴的な目元が、嬉しそうに緩んでいる。どくん、どくん。そうだ。枳殻さんもあの時、あの場所にいた。
    「ごめんね、私、あの後なにも出来なくて。本当は止めなきゃいけなかったのに。」
    平気なんかじゃない。今だって、ぶり返してきた吐き気で目眩がする。でもそんなこと、言えない。枳殻さんには関係ない。彼女は俺がアレを克服したんだって、喜んでくれているのに。
    「佐々木くんたちが怖くて、何も出来なかった。……本当に、ごめん。」
    「……だい、じょうぶだよ。」
    カタカタと震えだす手を押さえる。お前が殺したんだろ、この猫殺し。嘲笑の混じった声が頭の中でぐわんと響く。あの日、俺の中のいくつかの「好き」は「嫌い」になった。猫も、鬼ごっこも、ヒーローも。
    「あ……ごめん、お店の外からタケミチくんを見かけたから、つい入っちゃっただけなの。お仕事邪魔したら悪いし、もう行くね。」
    固まる俺を名残惜しそうに見つめた枳殻さんは、「また来るね」と手を振って出口に向かっていった。一虎さんが見送りの為か彼女と一緒に外に出る。二人が何かを話しているのをぼうっと見つめながら、か細くてもしっかりと聞こえるあの子猫の鳴き声が苦痛で耳を塞ぎたくなって、集めたごみを捨てに行くふりをして裏へと戻った。

    「猫が嫌い?」
    隣で発注書の内容を確認する一虎くんに聞き返す。「おん」と何ともやる気のない返事が返ってきた。タケミッちは休憩に行かせているので、ここにいるのは俺と一虎くん、場地さんの三人だ。
    「見たら何となくわかるだろ。拒絶反応出るくらいには嫌いっつーか……過去になんかあったんだろうな。」
    「さっき吐いたの、多分あれ、拒絶反応か。」
    「お前何したんだよ。」
    「良かれと思ってあいつ抱かせてやったんだ。すぐ真っ青になってトイレ駆けこんじまったけど。」
    あいつ、と一虎くんが指をさすのはさっきタケミッちに擦り寄っていたラガマフィンの子猫だ。今はお腹がいっぱいになったからか、満足そうに丸まって寝ている。
    「嫌いなのは仕方ねーけど、なーんか引っかかるんだよな。」
    「あ、それ、原因分かりそうだぜ。」
    一虎くんが得意げな顔をしてポケットから紙切れを取り出す。見ると、誰かの連絡先のようだった。
    「何ですかそれ。」
    「タケミチの元同級生の連絡先。」
    「は!?客に手ェ出すなっていつも言ってんでしょうが!!」
    大声で問い詰めれば一虎くんは「まぁまぁまぁ」なんて言って、両手を上げて笑った。場地さんはと言えば感心したように「やるじゃん」なんて言っている。
    「訳アリのワケを知ってる大事なキーマンだぜ?と、いうわけで、明日俺は話聞きに行くから、よろしくな。」
    「何言ってんですかサボらせるワケないでしょ。」
    「タケミチの事情が知れるかもしんねーのに?」
    煽るような表情で言う一虎くんに顔が引き攣る。知りたくないと言えばもちろんウソになる。
    「……ていうか、そんなヤツいつ会ったんです?」
    「さっき来たんだよ。泣きぼくろのかーわいい子。カラタチさんって呼ばれてたな。なんつーか、雰囲気がヒナちゃんに似てた。」
    「ヒナちゃんに?」
    「そー。まぁ、聞いた話は全部話してやるからさ。」
    とんとんと発注書をまとめた一虎くんは遠い目をして、「あんまりいい話じゃないだろうけど。」と付け加えた。触れなくなるほど猫に何かしらのトラウマがあるタケミッちをここで働かせるのは無理があるだろう。仕方ないけど、うちには来ないかもな、そう思った。明日にでも無理がありそうという旨をマイキーくんに伝えた方がいいかもしれない。
    猫と言えば、稀咲がタケミッちにヒーロー性を見出したきっかけも猫だったな、と思い出す。あの時は虐められていた猫を庇ったヒナちゃんをタケミッちが横入りして助けたらしい。前はペケJのことも特に問題もなく可愛がってたのに、今回は違うんだな。自分とタケミッちを繋ぐものが一個消えてしまったような気がして、虚しくなる。
    「戻りました。」
    休憩から戻ってきたタケミッちは、相変わらず血の気のない顔色をしている。顔合わせの時にも思ったけれど、今までの環境を考えるに体質になってしまったんだろう。
    戻ってきたタケミッちに気づいたあの子猫は、またみゃあみゃあとか細い声で鳴きながらショーケースを小さな手で引っ搔き始めた。俺たちにはあんなに素っ気なかったのに、もはや必死ともいえるくらいにタケミッちの気を引こうとしている。タケミッちもそれに気づいたようだけど、頑なに子猫には目をやらない。なるほど。確かに嫌いなんだろうな、と言うような反応。あんまり直接触れ合うような仕事を与えるのは避けた方がいいな、と考えて、裏でペットフードの仕分けをしてもらうことにした。残る勤務時間はあと二時間ほど。個体ごとのフードを調合して仕分けていればあっという間に時間は過ぎるはずだ。今日はあんまり客も来ていないし、ちょっと早く閉めても許されると思う。タケミッちを裏に連れて行って、仕分けるフードの説明をしつつ様子を伺う。俺の話を真剣に聞きながら、ちゃんと手元でメモも取ってくれている。前のタケミッちが不真面目だったわけじゃないけれど、何だかやっぱり前とは違う目つきに調子が狂いそうになる。
    「……と、まぁ、大まかに言えばこんな感じ。でもわからなかったら都度聞いてくれな。全然気にしねぇから。」
    「分かりました。」
    教えたとおりにフードを取り出して、個体ごとに合わせた調合でフードを混ぜていく。ウチは扱ってる個体も多いし、それなりに時間もかかるだろう。タケミッちの近くで事務仕事をしながら、ぼんやりと今のタケミッちが猫を嫌いになった理由を考えてみた。触るのを嫌がってたし、小さい頃に引っ掻かれでもしたんだろうか。でもそれだけで触ったら吐くほどの衝撃にはならないはずだ。一虎くんも「あまりいい話ではなさそう」と言っていたし、本当はもっともっと深刻な何かがあったんだろうか。人手が抜けるのは大変だし、サボタージュするのを容認したようで癪だけど、明日話を聞いてきてくれるという一虎くんに任せるしかないか、と早々に考えるのをやめた。相変わらずあの子猫だけはタケミッちにご執心なようで、耳をすませば裏まで鳴き声が聞こえてくる始末だ。声が枯れちまうぞ、と思いながら、フードを仕分けるタケミッちの横顔を見ていた。

    細々とした雑用をしていれば、二時間はあっという間に経った。そろそろいいだろうと思って入り口の看板をclosedに変える。丁度仕分けが終わったらしいタケミッちに声をかけて、店の閉め作業にかかる。売り上げを確認してレジを締め、後は戸締りをするだけだ。
    「今日はありがとな、タケミッち。明日と明後日もよろしく。」
    「はい。」
    本当は今すぐにでもマイキーくんに今日のことを話すべきなんだろうけど、まだタケミッちと居たい気持ちがそれを邪魔した。嫌いな動物がいる環境はタケミッちにとって酷だろうとも思うのに、「無理してこなくていいよ」なんて辛辣にもとれる言葉を言えるわけなんてなかった。それにこちらで勝手に判断するのも良くない。タケミッちが本当に無理だというまでは様子見だ。ひとまずそれで自分を納得させて、戸締りを確認して一虎くんと場地さん、タケミッちと裏口に向かう。帰る先は同じなので、大きめのバンに乗りあって本社ビルまで戻ることになっている。タケミッちがバンの後部座席に座ったタイミングで、ショルダーバッグに入れているスマホが鳴った。
    「……はい?」
    恐らく相手はマイキーくんだろう。いつの間に連絡先を交換したんだろうか。いいな、と思いながらタケミッちが電話をするのを横目に見つつエンジンをかける。
    「はい、はい……大丈夫です。何もなかったです。あ……分かりました。稀咲先生のところですよね。はい。今から送ってもらいます。はい、じゃあ……」
    タケミッちが通話を終えてすぐ、俺のスマホにポコン、とメッセージの通知が入ってきた。マイキーくんからだ。通知をタップしてトーク画面に行くと、『タケミッち、どうだった?』というようなメッセージが入っている。それに少し体調が悪くて吐いてしまったこと、でもそれ以降は特に問題もなく仕事を頑張ってくれていたことを端的に打ち込んで送信する。すぐに既読がついて、『吐いた?』と疑問文が返ってくる。
    『タケミッちが大丈夫の一点張りだったので少し休憩をさせました。連絡できないですいません。』
    『そっか。帰ってきたらもう一回具合悪くないか聞いてみるよ。様子見て無理そうだったら次の研修はちょっと間をあける。』
    『了解です。今から本社戻ります。』
    『気を付けて。』
    スマホを閉じて、全員が乗ったことを確認しアクセルを踏み込む。ミラー越しに見たタケミッちはぼうっと窓の外を見ていた。


    研修を終えて本社に帰ってからすぐ、俺は稀咲先生のところに用があることを千冬さんたちに伝え、一階の診療所の前で別れた。佐野さんにメッセージで本社に着いたことを連絡すると、「今から下に降りるから少し待ってね」との返信があったので診療所に入ってすぐの待合で待つことにした。ソファーに座ってぼうっとスマホを見ていると、前を横切った誰かが俺の隣に腰かけたのに気付いてちらりとそちらを見る。白衣を着た、茶髪を肩まで伸ばした男の人が俺の方を見てニコニコ笑っている。
    「タケミチ、だよね。」
    急に名前を呼ばれたので、視線を彷徨わせながら恐る恐る頷く。男の人の白衣につけられたネームプレートには「山本」の文字があった。
    「俺、ここで薬剤師やってるんだ。山本タクヤ。顔合わせの時は来れなくて……仲良くしてもらえると嬉しいな。よろしく。」
    山本さんは、人好きのする笑みを浮かべながらそう言った。確かに顔合わせの時には見なかった人だ。慌てて体を山本さんの方に向けて頭を下げる。
    「よろしくおねがいします、山本さん」
    「うん。俺のことはタクヤって呼んでくれると嬉しい。」
    「……タクヤさん?」
    「うーん、まぁいいか。」
    山本さん改めタクヤさんは俺を見て目を細めて笑った。
    「薬のこと、聞いたよ。それで来たんだよね?」
    「あ……えと」
    薬のこと、というのは、きっと昨日あったことだろう。佐野さんが話したんだろうか。
    「タケミチが今までもらってたのは、ちょっと効き目が悪いんだよね。だから量を増やすしかなかったんでしょ、怒ってないから大丈夫だよ。」
    「えと……はい。薬、変えるんですか?」
    「ウン。ちゃんと少ない量で効く、副作用も重くないやつにね。マイキーくんが来たら渡すから、少し一緒に待ってようか。」
    「はい……」
    それきり無言になって、何となく居心地が悪くなる。指先をもじもじとしていると、横からタクヤさんの笑い声が聞こえた。
    「フフ。……変わってないね、その癖。」
    「……?」
    「あ、いや。なんでもないよ。昔の幼馴染がさ、気まずい時にそうやって指をもじもじするの、癖だったんだよね。」
    「そう、なんですね……?」
    確かに、気まずい時に指をいじるのは癖だったかもしれない。無意識なので指摘されて初めて気づいた。タクヤさんはどこか遠い目をして笑っている。
    「だから、久しぶりに見れてちょっと嬉しかった。」
    穏やかな笑みで言うタクヤさんに、今はもうその幼馴染には会っていないんだろうかという疑問が湧いた。まるでその幼馴染の人を懐かしむような目をしていたから。
    「さて」と呟いたタクヤさんが立ち上がる。その様子を無言で見つめていたそこへ、佐野さんが入り口から入ってくるのが見えた。
    「タケミッち!と、タクヤ。」
    「待ってましたよマイキーくん。」
    佐野さんは俺とタクヤさんを交互に見ると、「何か話してたの?」と問うた。
    「ちょっとだけ。あ、薬、持ってきますね。」
    タクヤさんは処方箋を出す受付の向こうに消えていった。タクヤさんが先ほど座っていたところへ、佐野さんが座る。じっと顔を覗き込まれるので、気まずくて視線を彷徨わせた。
    「……うん、顔色、いいね。千冬から聞いたよ。店で吐いちゃったんだって?」
    「あ……はい、でも、もう大丈夫です。」
    「それならいいけど。無理だけはしないでね。」
    目尻を指でなぞられて、それから頭を撫でられる。相変わらず距離感が近い人だ。
    「マイキーくん、これ。」
    受付の奥から戻ってきたタクヤさんが、薬の入った袋を佐野さんに手渡す。俺の薬だけど、もう完全に佐野さんが管理するらしい。申し訳ないやら情けないやらでグッと拳を握った。
    「用法用量は中の紙に書いてあります。そこそこ強い薬なんで、増やすときは一錠からで。」
    「りょーかい。稀咲、何か言ってた?」
    「また何かあったら言ってくれって。」
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