まやかしの世界 金曜日、示し合わせた訳では無いがたまたま門倉とキラウㇱの仕事が休みが重なった。
「たまには俺も荷物持ちするぜ」
なんて体の良い事を門倉は言ったが、キラウㇱはただ外に出る口実が欲しいだけだろと見抜いていた。
「じゃあ今日は米でも買うか」
敢えてキラウㇱは意地悪な事を口にする。
「うげえ、箸より重たい物持てないよお」
門倉はトレンチコートを羽織りながら情けない返しをする。
いつも行くスーパーへ歩いて向かうと、入口すぐには「3月3日はひなまつり」という丸みを帯びた赤い文字とピンクの背景、真ん中にはデフォルメされた可愛らしいお内裏様とお雛様が描かれたポップ。
ポップの下には桃の節句らしくピンクの袋に包まれた雛あられや期間限定と書かれたピンクパッケージのお菓子が文字通り山盛りに積まれていた。
「ああ、そういや今日って雛祭りか」
門倉は何の気なしに見たままの事を口にする。
「……ああ」
キラウㇱは一瞬だけ浮かない顔したが、すぐ何時もの顔に戻る。
どうしたとも声をかけるのも躊躇われる程の一瞬の表情の変化。
門倉は頬を人差し指で掻き「折角だし酒も買うか」と足早にピンク色の特設コーナーの横を抜けた。
その後キラウㇱは本当に米をカートに入れ門倉を驚かせたが、米以外の軽い物を門倉に持たせてキラウㇱが米を抱え帰路に着いた。
門倉は買ってきた食材を冷蔵庫に詰めていく。
キラウㇱは米櫃に米を詰め替えていたが、心ここに在らずといった様子で既に米が出切った袋を未だに米櫃に傾けていた。
「あのよ、キラウㇱ。さっき買った酒、あれは明日にしようぜ。ほら、二人とも連休なんて滅多にないし」
なんとも言えない空気感に耐えかねた門倉が態と普段より明るめに声をかけた。
「…………え」
パサっと米袋が床に落ちる。
キラウㇱは驚いたとも戸惑ったとも取れそうな何とも言えない表情をしていた。
「……なあ、キラウㇱ。なんかあったか?」
冷蔵庫を閉め、門倉がキラウㇱに近づき頬へ手を伸ばす。
触れた瞬間、キラウㇱはビクッと体を震わせ、顔を背けた。
斜め下を向いた顔は浮かない様子。
「…………別に」
漸く出たキラウㇱの声は小さく震えていた。
「お前嘘つくな下手なんだって」
門倉はキラウㇱの頬に添えた手を一旦離し、優しく両腕で抱き締める。
抱き締めたと言うよりは、まるで寝付けずぐずる子供を安心させるが如く優しく包み込んだと言った方が正しいのかもしれない。
すっぽりと門倉の腕の中に納まったキラウㇱは、最初こそ体を強ばらせていたものの門倉からぐずる幼子をあやす様に背中をポンポンと叩かれ観念して門倉の肩口に頭を埋めた。
キラウㇱの腕が門倉の背に回ることはなく、下に降ろされたまま。
それでも門倉は力を強めもせず弱めもせずキラウㇱが何か言うまで抱きしめ続けた。
「…………俺は」
根負けしたキラウㇱが口を開いた。
「俺は、門倉からいろんなものを奪ってしまったんじゃないか?」
「ん?」
キラウㇱの顔を見ようと首を横に向けたが、見えたのは黒々としたキラウㇱの後頭部。
仕方なく顔は見る目的もない前へ向き直す。
「俺は元々男が恋愛対象で、でも門倉はそうじゃなかった」
垂らしていた手で門倉の服の端を遠慮がちに摘む。
「俺と出会わなければ、今でも門倉は雛祭りを忘れずに祝えたんじゃないかって」
先程より声が少し揺れ、ずずっと鼻をすする音が続いた。
「さっき、スーパーで呟いた時の門倉の顔」
「顔?」
「あの顔を横で見るのは俺じゃなくて本当は……」
門倉は掴まれた服にぎゅっと力が入ったのを感じた。
もう一度背中を優しく叩くのが良いのか、それとも撫でる方が良いのか、それともこういう時は何もしないのが正しいのか、門倉には正解が導き出せずただただ虚空を見つめることしか出来なかった。
時間にして一分にも満たなかったかもしれない。
普段気にも留めない時計の秒針の音、冷蔵庫のブオンという電子音がやけに大きく耳に入ってきた。
「あのよ」
門倉が意を決して口を開く。
「俺はな、キラウㇱが考える様な出来た父親じゃなかった」
出来ればこのまま墓場まで持って行きたかった埃まみれの記憶の箱をゆっくりと紐解いていく。
「娘が生まれた時、仕事で予定外の問題が発生して抜けらんなくなっちまってさ。最悪な事に間に合わなかったんだよ。向こうの両親からは白い目で見られ、嫁からは『最初から間に合うとは思ってなかった』なんてズバッと言われちまった。そりゃもうご両親にも嫁にも平謝りするしか出来なくてな」
産後数時間経っていたとはいえ、まだ疲れが残った嫁の呆れ顔を思い出し、嘲笑が漏れた。
「家族が増えた事で当時の俺は家族の為にもっと仕事を頑張らないとって思っちまった。その結果、娘と雛祭りを一緒に祝った記憶は極わずか。誕生日、運動会、卒入学、娘のイベント事に俺は殆ど居なかった。言い訳に聞こえるのは百も承知だが、愛していたからこそ仕事に没頭しちまった」
時折鼻を啜る音は聞こえど、キラウㇱは話の腰を折る事も相槌を打つ事もなく黙っている。
「皮肉なもんで別れる原因を自ら作っちまって気が付きゃ嫁も子供も居なくなってた。とんだ駄目亭主に駄目親父だよ、俺は。しかも、そのタイミングで組織改革とかなんちゃらで休みの取りやすい環境になっちまってよ。俺の頑張った十何年って何だったんだって」
門倉はキラウㇱを抱きしめていた力を少しだけ強めた。
「だからよ、キラウㇱといようがいまいが雛祭りを祝うって考え俺には無かったってこった。情けない話だし面白くもねえ話だからキラウㇱに言わなくていいって勝手に決めつけてた。でも、キラウㇱが泣くまで悩むんなら恥でもなんでも投げ打って言っとくべきだったな」
「……門倉の情けない姿はいっぱい見てきたから今更だ。あと泣いてない」
キラウㇱは口では毒を吐きながら、漸く門倉を抱き返す。
「嘘つけ、泣いてたろ。いい加減顔上げろって」
「うるさい」
「ちょっと、鼻水肩に擦り付けるなよ」
いつの間にか時計の秒針も冷蔵庫の音も二人には入ってこなくなっていた。