ワンドロ間に合わなかったやつ 地平線が鮮やかなオレンジ色に染まり始めた帰り道。
ちょっと休んで行きましょう、という要の言葉で立ち寄った公園には2人以外に誰も居なかった。
喧騒から外れたそこは定番の子供用遊具が置かれているだけの小さなもので、遊具自体も所々ペンキが禿げて錆びた金属が露出している。
鉄棒、シーソー、砂場、ブランコ。そして、一つだけ建て替えでもあったのか、見るからに新しいアスレチックタイプの滑り台。
公園に立ち寄る事を提案した要は、巽の隣ではなく、その滑り台に登ってニコニコと楽しそうにしている。
渋々降りた外出許可は門限付きで、公園内を照らす夕陽が落ちる前には帰らなければならないから、彼の言葉は一緒に居られる時間を引き伸ばすための口実だと思ったのだが。
予想はどうにも外れてしまったらしいと、巽は勝手な期待をした自身を誤魔化すように要に呼びかけた。
「要さん、見晴らしはどうですかな」
「ん〜……案外良くないのです」
手すりに頬杖をついた要が不服そうに目を据わらせる。
どうやら期待外れは楽しそうにみえた彼も同じだったらしい。とはいえ子供用遊具の高さは安全のために低めになっていて、長い入院生活のせいか巽よりはいくらか小さい要であっても、低いと感じるのは仕方がない事だろう。
ぷく、とふくらんだ頬が小さな子供みたいで愛らしい。そんな要を皆が幼子の様に扱うのは兄であるHiMERUのせいでもあるけれど、あどけない表情に年齢が1つしか変わらないという事実が何だか不思議に思えてくる。
「小さい頃は楽しそうで羨ましいって、思ったのに」
「羨ましい、ですか?」
聞き返した巽に、要は何も言わなかった。
ただ此処にはないものを見ているかのようにゆっくりと瞬いて、風に煽られた空色の髪を手で抑える。
こんな時の彼は決まって『家族』の事を考えていると知っているのに、兄の真似をして隠すのが上手くなってきた金糸雀色の瞳はこちらが何か言う前に大人びた色に染まってしまった。
心配そうな表情を隠せなかった巽をおかしそうに笑った要は、話題を変えるように滑り台の上から身を乗り出して巽に向かって手を伸ばしてくる。
「手が届いちゃいそうなのです」
「……っ」
たったそれだけの、何気ない動作。
届きそうで届かないその景色に『何か』が重なって跳ねた鼓動に、胸が苦しさを訴える。
決して助けを求めるように必死なわけでも、痛みに耐えかねて歪に曲がった訳でもない指先。
目の前で暗い場所に引きずり込まれてしまったあの日と違って、要は不思議そうな顔でこちらを見下ろしている。
落ちるから危ないですよとか、確かに届きそうですね、とか。
口にするべき言葉の選択肢はいくらも浮かんだのに、伸ばされた手にどうしたって上手く息が出来なくて、巽の身体は無意識に動いていた。
あ、と思った時には縋るように掴んでいた自分のものより小さな手。
「巽先輩?」
「……すみません」
名前を呼ばれた事にハッとして、申し訳ないと謝罪の言葉を口にしたのに、どうにも必要以上に強く掴んだ手は離せなかった。
それは落ち始めた夕陽が作り出す逆光が要の表情を隠してしまったからでも、迷子の幼子みたいな心に寄り添いたかったからでもない。
そんな綺麗な理由なら良かったのに、伸ばされた手が『あの日』を連想させたから、だなんて口に出来そうもない。
なのに滑り台の高さすら講堂のステージに似ているような気がして、巽は自身の妄想に乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
この手を掴むことが出来なかった無力さは今も強く心の一部に、今度こそ離しはしない、と懺悔に似た切なさと共に黒く染み付いている。
指先からじんわりと伝わってくる体温の心地良さだけでは足りないのに、望みを口にすることが不得手な喉からは何も音にはならない。
雄弁にものを語ってしまう視線を伏せれば、結局は要の方が先に口を開いてしまった。
「悲しい事でもあったのですか?」
「え、」
「難しい顔をしているのです、ぼくと居るのに不満ですか」
「そんな事は」
「君は本当に仕方ないですね!」
「……あっ、要さん?」
ポカン、としてしまった巽を置き去りに、要は随分あっさりと掴まれていた手を振り解くと、巽の元へ降りてきてくれるらしい。
変なところでショートカットするでもなく、律儀にも滑り台を滑るため、狭そうなトンネルを苦戦しながらくぐっている。
やっとたどり着いた滑り台部分は、着ている服の素材のせいで滑りが悪いのかズルズルしては引っ掛かり、またズルズルしては引っ掛かり。しかし立ち上がって走り降りる気配はない。
危ないからやらないのではなく、恐らくは怖いからやらないのだろうところも可愛らしくて、先程感じたはずの焦燥はいつの間にか薄らいでしまっていた。
折角慎重に降りたと思えば何も無い地面に軽く躓いて、要はそれを誤魔化すようにむぅ、と頬を膨らませている。
そして極めつけは開口一番の、この言葉。
「ほら、来てあげましたよ」
「……ぇ」
「ぼくが隣に居なくて寂しかったのでしょう?」
金糸雀色の瞳が不思議そうに瞬いて、夕陽に煌めく。
自信に満ちたその色はいつだって巽を映してくれるし、巽の些細な変化には気付かない癖に、感情の揺れには酷く敏感にその身を寄せようとしてくれる。
彼にばかりは救うつもりが救われてしまうのだ。
あの頃も、そして今現在も。要は何時だって他の誰にも出来ない角度で、聖人たらんとする巽の手を引いてくれる。
決して寂しかった訳ではない。確かに再会した後の『HiMERU』から誘いを断られたり、名前で呼ぶ事を拒否されてしまった時に感じたのは寂しさだったのかもしれないが、それ以上に他者から与えられる幸福があった。
けれど今、正しく再会し、そばに在る半身に巽が感じるのは『寂しい』なんて可愛らしいものではないのかもしれない。
「要さん」
「なんですか?」
呼べば覗き込んでくる瞳は、巽が知る何よりも美しい。
一度は手放してしまったこの色を再び失くすという事に感じるこの焦燥は、果たして何と名付けるべきだろう。
寂しいと似て非なる感情はどうにも己の手には負えない気がして、巽はもう一度要の手を取った。
「……君と離れるのは寂しいので、もう少し一緒に居たいです」
半分は嘘で、半分は本当だった。
けれど純粋な要がそんな巽の願いに嬉しそうに破顔して握った手に力を込めてくれるから、普段はあまり表に出ない望みが溢れてしまうのだ。
巽は擦り寄るように要の髪へ自身の額をくっつける。
それから、擽ったいのです、とくすくす笑う要が拒否しないのをいい事に、バレないように一瞬だけ己の唇を押し付けた。
「お兄さんへの言い訳が思いつかないので、良ければ一緒に叱られてくれませんか」
「君はお兄ちゃんに叱られるような事をしたのですか?」
「……これからしてしまう予定なので」
「お兄ちゃんは怒ると怖いので止めた方がいいのです」
「分かってはいるのですが、困った事に我慢出来そうになくて」
落ち始めた夕日に、離せそうにない手。
兄に叱られたくはないのかジト、とこちらを見上げてくる瞳に魅入られて、頬が熱くなる。
夕陽では誤魔化しきれないその熱がどこから来たものなのか、今はまだ同じ色には染まってくれない要に告げる事は出来ないと、巽は要のまあるい額に唇を落とした。