ブレイキング・ダーンその10 被害者女性Aが噛まれたのは高校一年の時。これは聞き込み捜査の結果、他の被害者もだいたい同じで高校一年の頃に襲われていると思われる。
十代前半で発情が始まるオメガもいるにはいるが、大概は十代後半から二十代前半だ。単純に十代での出産は産む方、産まれる方双方にリスクが高いから進化の過程の中で発情が始まるのが遅い個体だけが生き残っていったのではないか、という説もある。現代の医療があればほぼ助かる命でも、そんな恵まれた時期は人類の歴史の中ではほんの一瞬だ。
被害者Aは、引っ込み思案な性格だった。心の殺人に遭いながら、強姦事件の被害者は訴え出ることが少ないというが、彼女もその一人だった。二次被害を恐れてのことだ。それでも、なんとか立ち直ろうとがんばっていたまさにその時、彼女は家庭教師をしていた大学生に惚れてしまう。そしてその大学生は女性であり、アルファだった。彼女をBと呼ぶことにする。男性の犯人に怯えていたAは強くBに惹かれた。
いつの間にかBもAを愛しく思うようになったが、Bは律儀な性格だったようで大学に受かるまでは清いお付き合いを続けていたのだそうだ。AはBを信頼していたようで辛い過去を打ち明けてもいた。そしてBはそれも受け入れていたというのだから、まぁ、普通に考えれば順風満帆だったはずだ。Aは無事、第一志望の大学に合格して、そしてその春、最初の発情が起こった。噛み跡はほんの小さなものだったし、被害に遭った時、Aは意識が混濁していたため、噛まれていたことにも気付いていなかったそうだ。
初めてのヒートでAは絶望する。
一生、共に生きたいとさえ思っていたBではなく顔も名前も覚えてはいない殺したいほど憎い相手を強く身体が欲したことに。ショックのあまり、AはBに「ごめんなさい」という謝罪メッセージをスマホで送って手首を切った。少々の知識もあったようで、水をためた風呂にその手首を付けたが、幸い傷は浅かったようだ。
既に社会人として働いていたBはそのメッセージを見た瞬間に「これはマズい」と会社を飛び出した。女の勘は鋭いというがこれは本当のようだ。BはAの家についてインターホンを鳴らしたが、誰も応答しない。メッセージアプリで問いかけを続けるが、そちらも沈黙したままだ。
律儀なだけでなく、豪胆な性格のBは、虫の知らせを信じてAの家の窓をぶち破って、中に入ってBを風呂場から救出するとすぐに救急車を呼んだ。
到着した救急隊員はガラスであちこちを切って血まみれになったスーツ女性が血の気の引いた真っ白な顔をしたずぶ濡れの女性を抱きかかえている凄惨たる状況を見て、たいそう驚いたらしい。まぁ、そんなこんなで間一髪、被害者Aは死にそこねた。
ここまでがゲンが語ってくれた話だ。
一般人にペラペラ喋っていいことじゃねえだろう、と言ったら「ここの部分は、千空ちゃんは聞いておいても良いと思うよ。俺と同じ治験者になってみるのお勧めしておいたから。ちゃーんと二人にも話をすることは了解とっているし」と半分眠ったような声で返してきた。
ゲンは家に帰ってきた時には抑制剤の切れかけで、ほんのりとフェロモンの香りを漂わせながら、寝不足と疲労でふらふらしていた。そんな状態でも発情の衝動に耐えられないようでとりあえずヒートが落ち着くまでと二人でベッドに入り、一度交わった。その後は、ゲンはもう動けない、と目を閉じて布団に潜り込んで、眠りに落ちる直前まで、今日会ったという被害者のことをつらつらと話していた。
気持ち良さそうに寝息をたてているゲンを起こさないように、テーブルの上に置かれている茶封筒を手に取ってベッドに戻る。
帰ってきたゲンが放り出したその封筒の中に入っているのは、今日被害者からとった調書、その警察資料のコピーだ。
わざわざ袋に入っているのは見ても良いし、見なくても良いという意味だろう。本来なら関係者以外が見て良い資料では無い。捜査員ではないゲンも関係者外だ。遠慮などする質でもないから、躊躇無く封筒から書類を出す。
今までの被害者は死んでしまってからの調査になるので暴行を受けた際の記録は残っていない。この調書が犯人を実際に見た人間が喋った初の資料だ。覚悟はしていたが、気分が悪くなるような内容しか書かれていなかった。
今から三年前、被害者は、高校からの帰り道、人気の無い道で車に何か薬品を嗅がされて朦朧となったところを車に押し込まれて廃墟に連れて行かれている。騒ぎ立てられては困るからだろう、家からさほど離れていない場所だ。衣服が破られるようなこともない。小さな傷とかみ傷は付けられたが、傍目から不審に思われるような大けがはしていない。用意周到で、下調べもきっちり行っているのがよくわかる。大きな怪我をさせれば刑事事件に発展する。暴行後の姿を写真に収めて、それを被害者宅に丁寧に送りつけて口をつぐむように脅迫までしてきている。警察に何か言えばこの写真をネットにばらまくぞ、というわけだ。
これ、と決めた被害者がどこに住んでいるのか、何時にどこを通るのか。しっかり把握した上で綿密に計画を立てて、実行している。犯行時、顔が見られないように目元以外は黒い生地で覆われていたそうだ。噛む時以外はずっと顔を覆っていたのだろう。被害者は、意識が混濁していたせいで、背格好もあやふやでわからないときている。わかるのは犯人が男ということだけ。
薬品はスプレーのようなものを鼻先で噴射された、そうだ。
簡単に手に入りそうな薬品で、そんなもんあったろうか?
何かヒントになるものはないかとゲンの机から以前見たファイルも出してきて開いてみる。何かしら共通点はあるのだろうが、いくら見ても被害者は全員若いという点とオメガであることくらいしか思い浮かばない。
いや、何か、ひっかかるものはあるのだが、それが何か分からない。
小さく首を振ってため息をつく。
「千空ちゃん……?」
動き回ったせいか、起こしてしまったようだ。ゲンが少しだけ目を開けて声を掛けてきた。
「まだ夜中だ。寝てろ」
「んー。眠いんだけど、お腹空いた」
そういえば、帰ってきてからゆでようと思って出汁だけとったな、と落ちているシャツを拾い上げて羽織ってからキッチンに向かうと、同じように下着とTシャツを拾いながらゲンが付いてきた。
「袋麺じゃなかったの?」
「袋麺だ」
「それ、なぁに?」
「具を兼ねてとった出汁だな」
鶏肉がごろっと入っている鍋を冷蔵庫から出してそれを火にかける。
「そういうのって骨とかからとるのかと思った~」
「肉からでも充分旨みは出る。素人が家で片手間に作んのにガラから出る匂い消しだの後処理だのなんだの面倒なことやってらんねえだろうが」
「そこまでは、ちょっと趣味人じゃないと無理だね。ん~、美味しそう」
良い香りが漂ってきて、ゲンが肩越しに鍋を覗き込んでくる。顔を寄せても、もうフェロモンの匂いはしない。香ってくるのは今、鍋から漂ってくる鶏のスープの香りだけだ。
だいたい三日。番が居て、交わりがあれば早く軽く終わる。短いが、ゲンのヒートは元々軽い方だと言っていたから明日からは平常運転だろう。
次にここに泊まるのは、おそらく三ヶ月後だ。
ほんの数日一緒に暮らしただけなのに、何故か、それが寂しく待ち遠しく感じる。
世間で言われるように、オメガとの性交はやたら気持ちが良かった。他の思考をすべてすっ飛ばして強烈に求め合う夢現、シラフではありえない。酒に例えられたり、麻薬に例えられたりするが、後で後悔するほど辛い二日酔いや後ろに手が回るような行為との引き換えをしなくても我を忘れる恍惚感を得られるということだ。どちらも経験は無いので本当に同じ感じなのかわかりかねるが、ヒート中のオメガとのセックスは酒やクスリと違って合法かつ人体に害もない。
それに、今まで見たことの無かった平穏とかけ離れたゲンやその仲間の仕事を垣間見るのも面白かった。こちらは、あの部屋にいけば継続できるしゲンから捜査の協力要請も受けているので継続できるのはありがたい。
「なぁに?」
すぐ目の前に、鍋を見ているゲンの顔があって薄い唇に視線が行く。
軽く背伸びをして身体を捻って軽くキスをすると、ゲンが驚いたように目をぱちぱちとしばたかせてから、にっと笑った。
「なぁに? 恋人みたいなことしちゃって」
「キス以上のことなんぞ、散々してたろうが」
考えも無く行動してしまって、らしくないことをしてしまった、とは思うがきっとまだヒートの余韻が残っているのだ。そういうことにして、沸騰しはじめたスープに乾燥麺を二つ、突っ込む。
「どんぶり用意しとけ。きっちり三分であけるぞ」
「タイマーいる?」
「いらねえ」
「それできっちり三分わかるの?」
首を傾げながらゲンが調理台にどんぶりを二つ並べている。
寸分のずれもなく、三分間。茹で上がったラーメンをどんぶりに入れて、スープと出汁取りに使った鶏肉を上に豪快に乗せる。時計を見れば日付を超えた時分だ。
「ラーメンを啜るにはなかなか背徳感を感じる時間だねえ」
「気にするような歳でもねえし、太ってもいねえだろうが。伸びないうちに喰え」
箸が一人分しか無いから、とコンビニでもらってきたものらしき割り箸を千空に手渡した後、ゲンがどんぶりを持って、楽しげに小さなテーブルまで運んで行く。
「さっきのちゅーで思い出したんだけどさ、まだ夢も希望もあった頃に恋人が万が一できたらやってみたいことが実は六つあってその内の一つが、料理作ってもらって一緒に食べることだったんだよね~」
いただきます、と二人で手を合わせてからどんぶりの中の麺を口に運ぶ。
朝も同じようなことをしたな、と思ったが目の前の光景は大分違う。朝は丁寧に麺を巻き付けて食べていたゲンが、腹が減っていたのもあるだろうが、がっつくようにラーメンを食べていた。食いっぷりの良さに、いつも作っているものなのに何割増しか味が良く感じてしまう。
「火傷すんぞ」
「だって、お昼食べられなかったから。おいしぃね、これ」
ラーメンしか見ていないが、応対はしてくれた。
肉は多めにしたが、こんな風に喰ってくれるなら、煮卵も用意しておいて乗せてやれば良かった。
「あとの五つは?」
「ん?」
「夢と希望があった頃にやってみたかったとかいうヤツ」
どんぶりから数秒だけこちらに視線を移し、その間にふふふと奇妙な笑いを浮かべる。
「一つは、今の逆。俺が作ったものを食べて貰うこと」
それは朝やったな、と思いながら自分の分の麺を啜る。
「それから、一緒に映画見に行きたいんだよね。美術館とかそういうのにデートにも行きたい。あと、一緒にワインとかのんびり飲みたい。俺、アルコールあんまり強くないから家呑みがいいな。潰れても良いように」
「酔い潰れたいのかよ」
「そうじゃなくって、気を遣わないで楽しく飲みたいってこと!」
そこで、ぴたりと口を噤んだのでゲンを見ると、少し困ったような顔をして小さな眉をひゅっと寄せていた。
「随分、お可愛い夢と希望だな」
「初々しい思春期の妄想だからねえ。テレビとか漫画とか、そういうので見たことあることしかわかんないのよ」
「六つって言ってたよな。一個足りねえ」
「……ん~。もう一個は内緒」
ゲンは少し照れた様に言って、またどんぶりの中身に集中する。
気にはなるが、今は話す気がないようだ。時間はある。最後の一つは追々聞くとしよう。
今わかっている五つは、どれも別に難しいことではない。あっさり二つクリアだ。
「高校生の時に考えてたことだからね。ホント、若いよね~」
麺を食べ終えてから最後にとっておいたらしい肉の塊をゲンが一口サイズに箸で切って口に運んでいる。
「千空ちゃんは、そういうのないの? つい最近まで現役高校生だったよね?」
「考えたことねえわ」
だいたいやってみたいと思ったことはすぐにやってみるし、できないことはできるように細分化して考える。未来にどうしたいか、というよりは今できることは何か、で考えがちだ。
そもそも色恋に興味が無いし、何かのきっかけで恋人ができたらその時に考えればいいこと。
それから、今、一緒に食事をした相手は恋人ではない。
成り行きでなった番だ。
それでも、身体の関係を持って、キスをしたいと思った相手。
でも、ゲンの言うようにこの関係を仮に恋人同士のようなものとするなら、飯を作ってやりたいと思ったのも、ゲンが作った朝食を食べたいと思ったのも事実だ。やってみたいことではなくて、やりたかったことではある。
「ま、あんま変わんねえな」
「何が?」
割り箸の先でどんぶりの端を叩くと、ごちそうさまと律儀に両手を合わせていた男が首を傾げる。片側だけ伸ばした、アンシンメトリーの髪が揺れた。
一緒に飯を喰う相手が居るのは存外に悪くない。
「一人分も二人分も作る手間は大差ねえからな」
意図をくみ取ったようでゲンが目を細める。
「可愛くない言い方~。一緒にご飯食べたかったって言うのよ。そういう時は」
「誰も俺に可愛げなんぞ求めてねえだろ」
「んじゃ、俺が求めてあげよう」
「いらねえ」
けらけら笑ってから、後片付けを済ませるとゲンはもう一度寝直すからその前にシャワー浴びてくる、と言って先に浴室に入っていった。
見送ってもう一度、ゲン秘蔵のファイルを手に取る。
物言わぬ被害者達の写真を、あの男は何を思って眺めていたのだろうか。
発情が現れる前に噛まれているという点では同じだが、先ほど見た調書と同じように被害にあっているとしたらゲンの時とはだいぶ違う。彼はナイフで脅されて路地に連れて行かれたものの、激しく抵抗して怪我を負って刑事事件にまで持ち込んでいるのに対して、こちらの被害者達は、抵抗できないように何かしらの薬品で酩酊状態にした上、車での搬送し助けを求める手段を封じられて口外しないように脅しまで受けている。
まるで、ゲンを襲う時にした失敗を反省し、活かしているようだ。
「あいつの時も、同一犯……?」
もし、そうなら。
ぞっとしない。自分達は、仮止めされているだけの番だから、ゲンの本物の番はこの犯人だ。そのことに、ゲンが気付いていないはずも無い。彼の心のどれほどを、この犯人が占めているのだろう。少なくても八年間。自分と出会うよりずっと長い時間。
腹立たしいが、過ぎたことを愚痴るのは意味が無い。それより。
「こいつの体組織さえ手に入りゃ解放できるんだが」
そう考えると、今回得た犯行の手口は値千金の情報だ。刑事事件として立件されれば表だって刑事も動ける分、情報は増えていく。正攻法での捜査ができれば無理も利く。
「そうそう手に入るもんじゃねえ、この薬品の正体がわかりゃ……」
犯人のぐっと絞り込めるはずだ。ひっかかりはある。自分の持っている知識の中に、ヒントがある。それなのに、目を閉じて集中して考えてみるが、すぐには浮かんでこない。
「千空ちゃん、もうヒート終わったし、大丈夫だから俺、床で寝ようか?」
バスタオルを被って、浴室から出てきたゲンに提案されてはっと顔を上げる。寝てた?と聞かれて首を振る。
「布団あるのか?」
「無いけど、その辺はてきとうに布団になりそうなものでいいんじゃない?」
「だったら、狭えが一緒でいいだろ。遠慮するような仲でも性格でもねえし」
寝る前にさっと洗おうと、浴室を使わせてもらうためにファイルを置く動きをゲンの視線が追いかけてくるのを感じる。
「風邪なんぞひいたらアホらしい」
「ヒートの時ならともかく、通常はただのヒョロガリよ? 一緒に寝ても楽しくないと思うけど」
ふんわりと笑みを浮かべてゲンが寝間着になりそうなラフな服を渡してくる。寝る前にシャワーを借りようと思っていたことが通じたように。
「俺は千空ちゃんのこと好きだから、それでも全然いいよ~」
服を受け取って、ひょろりとしたなで肩にぽん、と手を置く。
「ヒートで本調子じゃなかった分、いろいろ遅れたろ」
「そうね……」
「捕まえんぞ、そいつ」
「うん」
頷いた時に、さらりとした髪が手に触れた。曖昧に浮かべていた笑みが挑発的なものに変わる。今はヒートの煽りをくらったラットの状態がまだ残っているだけ。一晩、しっかりと眠ればあの薬品の正体に気づけるかもしれない。
例えかりそめの番でも、今夜はまだ、手の中にある。奪われる心配もない。きっと、安心して眠れるはずだ。