仮眠 一時限目から眠たそうにしていた彼は、セーフハウスに上がるやいなや大きなあくびをした。ゆうべ、うまく眠れなかったのだそうだ。嫌な夢をみて夜中に飛び起きて、それから朝方まで寝つけなかったと言っていた。
どんな夢だったのか尋ねることは、もちろんできなかった。彼に、「嫌な」記憶を、無理やり思い出させてしまうような気がして。
「ちょっと眠った方がいいんじゃないか?」
ケンゴもリョウタも外に出ている。このあとギルド会議を行う予定だけれど、どうせ始められるようになるまで小一時間はかかるだろう。仮眠をとる時間くらいはありそうだった。
「寝てもいいなら寝たいけど……。でも、いいのかな」
「大丈夫さ。二人が戻ってきたら起こすよ」
とろんとした目をした彼は瞼をこすっている。眠たがっていてもフローリングに上がる前に脱いだ靴は丁寧に揃えられているのだ。要所要所できちんとしているところが、俺には好ましかった。
「それなら……。悪いけど、頼んでもいいかな」
消え入りそうな声をこぼすなり、彼は上体をことんと倒してその場へ横になった。つるつるの、ひんやりとしたフローリングの上に。
「ああ、そのまま寝るのは待ってくれ。毛布があるんだ」
板っぱりの床に寝るんじゃ背中や腰が痛くなってしまう。俺たちのセーフハウスがよりリラックスできる空間であるために、経費で調達しておいたものがあるのだ。とうとう出番がやってきたなと勇んで立ち上がった俺を前に、彼は困ったように首を振った。
「シロウ。俺は大丈夫だから……。わざわざ悪いよ」
どうやら俺に対して気を遣ってくれているらしい。優しい気持ちを嬉しく受け止めながら、でもそれに甘えてしまうつもりはないと、今度は俺が首を振った。
「俺が君に、してあげたいんだ。そんな大したことはできないけど……」
嫌な夢に悩む君の力になってあげることはできなかった。いつだってそばにいられるわけじゃない。でも今は、そばにいる。そうであるなら、俺は君に、できる限りのことをしてあげたい。
決意を胸に、彼を見つめ返す。俺の意思が伝わったのか、彼はふっと表情をほどいた。
「じゃあ、お願いするよ」
「ああ!」
部屋の奥、作りつけのクローゼットへと向かう。扉を開ければ、毛布はすぐ目につく所に置いてあった。淡いキャラメル色で、触り心地はふわふわだ。広げると柔軟剤の甘い香りが鼻先に漂う。それを感じ取ってか、彼は眠そうにしながらも微笑んだ。
「ちゃんと洗濯もしてあるし、この前の休みにお日様を当ててあるから。清潔なはずだよ」
「さすが。シロウはまめだね」
ますますにっこりして褒めてくれる。
「これくらい、当然のことさ」
めがねを押し上げ、なんでもないというそぶりをしてみせる。でもどうしてだろう、彼が褒めてくれると素直に嬉しいのだった。
半分に折り畳んだ毛布を、フローリングの床に広げる。
「さ、ここへどうぞ」
「うん。ありがと……」
手で指し示せば、彼は子どものような素直さで毛布の上へ横になった。数度身じろぎをし、体を落ち着かせる。
「ああ、学ランは脱いだ方がいいんじゃないか? しわができてしまうよ」
シャツと違って、洗濯も容易じゃない。立ち上がってハンガーを探す。確か、どこかにあったはずなのだけど。そういえば、こういう時はコートかけもあった方が助かる。近いうちに購入する物の候補に加えておかなければ。
きょろきょろする俺をよそに、彼は「大丈夫だよ」と声を上げた。
「大丈夫。布団の代わりにするから」
「布団? あっ、待ってくれ、もう一枚毛布を出してくるから……」
敷くもののことにばかり気を取られていて、彼の体にかける方のことを忘れていた。慌ててクローゼットに向かおうとした時、名前を呼んで引き留められる。
「シロウは優しいね」
今にもまぶたが落ちそうなくらい眠いはずなのに、律儀にそんなことを伝えてくれる君の方が優しいよ、と。口に出すより先に、彼は言葉を続ける。
「気にしないでいいよ。シロウもゆっくりしてて」
いつもばたばたしてて、なかなか休めてないでしょ。そう言われると、頭から否定することもできなかった。よく言えば活気のある、悪く言えばあまり落ち着きのないギルドメンバーたちが揃っている。彼自身も、思考よりも行動が先になってしまうことが多々あった。
「でも……」
「じゃあ、シロウの学ランを貸してほしいな。……なんて、君が寒がっちゃうよね」
「構わない。俺ので良ければ」
外は穏やかに晴れていて、今日は元々暖かかった。加湿器もしっかりと稼働している。この部屋は適度な気温と湿度を閉じ込めて快適だ。
彼に求められるまま、学ランの金ボタンを外し、腕から抜き取る。
「どこにかければいい、かな」
「あ、ちょっと待って」
緩慢な動作で上体を起こした彼は、彼自身が脱いだばかりの学ランを腿の方へ押しやる。それから手を伸ばして、俺の学ランをそっと受け取った。
「シロウのはこっち」
胸に広げ、肩やお腹まですっぽりと覆ってしまう。目をつぶり、心から満足しているといったように微笑んだ。本当に屈託のない笑顔だった。
「あったかい。それにいいにおいがする」
「そうかな……」
「そうだよ。あー、シロウから借りられて嬉しい……」
「は、恥ずかしいことを言わないでくれ」
俺自身の耳にも、その答えは随分と照れているように聞こえた。