あなたにあげたいわたしのぜんぶ 久しぶりに菩提観を訪ねてきた風信と慕情は顔を合わせるなり喧嘩をはじめた。なら一緒に来なければいいのに、苦笑しながらぽつりと零すと、一緒に来たんじゃありませんこいつが着いてきたんですと異口同音に訴える。こういうやりとりも慣れたものだ。八百年経っても変わらない二人の関係に、諦めと呆れと、最近はそこに少しの羨ましさを感じる。
「そうやって毎回飽きずに喧嘩できるのが羨ましいよ」
「皮肉ですか? こんな時間の浪費、なにが羨ましいっていうんですか」
「お前が先に突っかかってきたんだろうが!」
風信の噛みつきをさらっと流して慕情は続ける。
「あなただって喧嘩くらいするでしょう。四六時中一緒にいるんだから」
誰と、とは言わずもがな。
慕情が指しているのは一人しかいない。
「んー……」
彼らのやり取りを見て羨ましいと思った原因はそこにある。謝憐は今までただの一度も花城と喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。過保護が行き過ぎてちょっと会話を乱暴に終わらせることはあっても、言い合いには発展しない。なぜなら花城は謝憐が困ったりきまり悪そうにしているとすぐに察して先に謝ってくる。「兄さんごめん」と柔らかく、穏やかでどこか縋るような響き。
花城は謝憐を傷つけることを極端に恐れている。身体的にも、精神的にも。些細な喧嘩から関係が修復できなくなったり、結果ふたりが離れることになったり、そういうことを恐れているように思えた。
たかが喧嘩ひとつ、それでそんなことになるわけはないのに。
考えこむ謝憐を見て、諸々察した慕情は「はああ〜〜〜〜〜〜〜〜」と長く長く特大のため息をついた。
「好き好んで喧嘩したいなんて思うのは相当変わってますよ」
「あはは……だよね。でも喧嘩するほど仲がいいとも言うだろう? 相手との関係がゆるがないと信じているからこそできるんだと思うと、やっぱり少し羨ましいよ」
「はあ!? 待ってください殿下、話が見えませんけど、俺とこいつの場合そういう信頼関係云々じゃなくて関係なんてどうとでもなれと思ってるからこうなってるんですよ」
「そうです」
間髪入れず同意が入る。まるで餅つきをしているかのような絶妙な入りに、ほらそういうところだよと言いたかったけど、きっとまた噛み付いてくるだけだろうし(慕情はまた白目になりそうだ)、ぐっと飲み込んだ。
その間に慕情が風信に軽く説明を入れたのだろう。目をまんまるにした風信が理解不能と大きく顔に貼り付けて聞いてくる。
「つまり殿下はあいつと俺たちのような喧嘩がしたいと?」
「したいならすればいいじゃないですか」
「簡単に言ってくれるなぁ。してみたいけどできないから悩んでるんじゃないか」
「殿下の頼みなら聞くような気がしますが……言ってみたことはあるんですか?」
言ったことはある。少し口論になりそうになったとき、いつものように「すみません」と謝るから。「私は謝ってほしいわけじゃないよ。言いたいことがあるなら全部言ってほしい」言葉を引き出そうと優しく言ったけど、花城はやっぱりそれ以上話を続けることはなかった。
「軽く言ったことはあるけど、あまり伝わらなかったかもしれない」
「……まああなたと喧嘩なんてしたらあいつがどうなるか想像しただけで寒気しますし、こっちとしては余計なことせず平和にいてくれるのが一番なんですけど」
「それもそうだね」
この話はここでおしまいになって、それからも天界で最近起きたことや新しい依頼のことをつらつらと話した。ふたりが帰る頃には日も暮れかかっていて、いい時間になっていた。三郎が帰ってくる前に急いで夕飯の支度をしなきゃ。いそいそと腰を上げて台所に立った。
「……兄さん、今なんて言ったの?」
「うん。君と喧嘩してみたいって言ったんだ」
聞き返されたので律儀に同じことを繰り返す。聞き間違いではなかったことに、花城は笑ってはいるものの口の端には困ったような焦ったような、普段あまり見ない感情が覗いていた。
「喧嘩はしたくてするものではないというか……しないで済むならそれに越したことはないような気がするんだけど……」
「だよね。わかってるんだけど、君はいつも私に譲ってくれるだろう? だから対等じゃない気がするっていうか……君が言いたいことを飲み込んでしまうのが、時々すごく寂しいんだ」
今度こそ花城は言葉を失ってしまった。
ぽかん。そんな効果音がぴったり当てはまるような、間の抜けた沈黙。めったに見ない顔をするから思わず笑ってしまった。あはは!と堪えきれず口元を抑えて笑ってしまうのを「なんで笑うの」とちょっと恨めしげな声が追いかける。
「兄さんが急に変なこと言うから」
「ごめんね、慕情にも言われた」
「……また来たのか……」
「久しぶりだよ。風信も来てくれたんだ」
舌打ちが聞こえた気がするけどそっと聞こえないふりをした。
「二人が言い合ってるのを見て、私も君とああいう気のおけない関係っていうか……そういうのがいいなって思ったんだ。別に喧嘩をするっていうのが目的なんじゃなくて、それができる関係がちょっと羨ましかったというか」
「なるほどね。兄さんのお願いならなんでも、って言いたいんだけど……ちょっと難しいかもしれない」
「うん、わかってるよ。だからこれは私のわがままなんだ。でもね三郎、これだけは忘れないでね」
そっと手を伸ばしてゆるく肩に落ちた黒髪をすくう。絹糸のような艶やな黒が指先に絡む。ゆびきりをするような気持ちで囁いた。
「君が私に何を言ったとしても、私は君を嫌いになったりしない。どこへも行かないし、必ず君のところに帰ってくる」
これから先の長い時間を一緒にいたい。離れずずっと一緒にいたい。ふたりの願いはとても幼気で、そして切実だった。
だからこそ謝憐は思うのだ。相手を大切にするあまり、自分を蔑ろにすることがないように。いつだったか三郎は平等なんてないと嘲ったけど、せめてふたりの間にだけはそれがあるように。
目を甘く細めて、髪をすくう謝憐の手を両手で包み込む。
「あなたといると自分がどんどんわがままになっていくようで怖いんです」
「君にわがままを言われたことなんてあった? ……ああ、天界に行かなくちゃいけない日の朝とか?」
もういくのまだいいでしょうもうすこしだけ、そんな甘くてずるい引き止めが頭をよぎる。そのあとのあれこれまで思い出しそうになって慌ててこほんと咳払いをした。
「私はわがままを言われてるなんて思わないよ。むしろもっと言ってほしいんだ。たとえそれで喧嘩になっても構わない。喜怒哀楽、私のこころの全部きみにあげたい」
胸を突かれたような表情は、そのあとでなんだか泣きそうに歪んだ。「殿下」という囁きはふたりきりの夜に優しく甘く響く。胸の奥がさざめいて、自分の心音がやけに大きく聞こえた。
「俺も、全部あなたにあげる」
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実際、日常のあらゆる場面で謝憐が見せる表情は万華鏡のようにきらきらと花城の胸を打った。
「もう三郎! からかわないで!」
ぷりぷり怒った顔でさえ糖蜜のように甘い。「だっていまのは兄さんが悪いでしょう」と意地悪く片眉を上げる。
そんなふたりを見て風信が「あー喧嘩できるようになったんですねよかったですね」と棒読みで言い、慕情は呆れてものも言えないとばかりの顔をしていた。そんなこと気にしない謝憐は「そうなんだ」と照れる。
兄さんの照れた顔もかわいい。ああ早くあいつら帰らないかな。
fin.
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習作 作業時間120分くらい