触れられないその温もり。「なあヘクター知ってたか?城下じゃこんなものが出回ってるらしいぞ。」
そう言うヘンリーの手には1枚の小さな紙。
それをひらりと翻されるといつも追っている柔らかな赤毛と澄んだ緑の眼差しを持ったこの国の頂点である人物を模した姿絵が見えた。
城内城下で良く見られる第二皇子時代の肖像画とはまた違うものだ。
黄金の鎧を纏い皇帝として威厳のある姿だった。
「戴冠式も終えて帝国内にも余裕がでてきたって事かな。にしてもこんな持ち歩き出来る大きさの絵姿を量産する程なんてジェラール様の国内の人気も凄いもんだよな。」
大きな笑い声を上げつつジェラールの絵姿について語るヘンリーはご満悦だ。
そりゃ自分達がお仕えするご主君様が帝国民に愛されているという事実はヘクターだって嬉しい。
嬉しいが、ヘクターにとっては臣下としてお仕えするだけの方ではない。
お互いの気持ちを確かめ合い、情を交わした恋人でもある。その恋人の姿を不特定多数が持っているという状況は如何ともし難い。
ヘクターが難しい顔をしていると話題の物を手渡してくる。
「なんだよ?」
「やるよ、今ジェラール様が遠征中で寂しいだろ?お姿だけでも眺めてたら少しは気分が違うだろ。お前付いていけなくてへこんでたもんな~。」
それについては仕方がない、ヘクターが近辺のモンスター退治に手間取っている間に喫緊の事情が出来てジェラールは側近数名のみを連れて地方へと旅立ってしまった。
討伐はジェラールからの直接の命として受けた自分の仕事であるし、ジェラールにも皇帝としての責務がある。今はジェラールが帰還するまで彼の帰る唯一の場所である帝都を守る事がヘクターの職務だ。
受け取った紙に彩られた愛しい人の姿。だがそこに熱は感じられない。
それでも思い出の中のあの人を思い起こさせる程の出来の良さである事は間違いない。
「ありがとな、もらっとく。」
「礼は落ち着いたら奢ってくれれば良いぜ。今はそんな気分じゃないだろうし。」
思わず表情に出ていたのかとヘクターは顔を抑える。ジェラールを思うと自分は平常では居られないのだ。
自らの職務を終えてヘクターは兵舎の自室へと戻った。
外套を外し、軽鎧を全て脱ぎさって部屋の大半を埋めているベッドに倒れこむ。
今この城内にジェラールは不在なので特に何をするという気も起きなかったが、そういえばジェラールと言えばと先程ヘンリーから貰った物をズボンの隠しから引き出す。
この絵姿は身に着けておくだけでも良い大きさだという事を実証実感してしまった。
こうやって眺めていられるのは自室か誰にも見つからない場所でだなと独り言ちる。
どちらかというと鈍い質のヘンリーにも察しられるような失態を犯してしまっているのだから。
もちろん実物のジェラールが1番だ。だがこの赤毛の柔らかさと指通りの良さを知っているのは自分だけだといい、いや皇帝の身支度を整える者であっても髪を梳く際は櫛を使うだろうし自分だけに違いないと普段なら考えもしない不安すら巻き起こしてくれるほどの力がこの絵姿にはあった。
真っ直ぐ前を見る真剣な瞳もヘクターを見る時は丸くなり、柔らかに甘くなる。
そこに涙を浮かべて快楽を追っている時の瞳を思い出すと堪らなくなるのだ。
「.....ちょっと待て、ちょっと待てオレ...!!これはそういう事に使うもんじゃねえだろって!!」
正直少々危なかったがそれだけはなにより自分が許せない。
出来る事なら本人が1番で最高なのもあるが、自分の妄想で穢していいような人ではない。
「昨日戻ったばっかだし疲れてるんだろ...早いけどちょっと寝るか...。」
ヘクターは手に持った絵姿をベット横の棚に置こうと思ったが、迷信の1つを思い付き枕の下に忍ばせた。
昔、物語の本を枕元に置いておくとその夢が見られるなんて話を聞いた事がある、絵姿でももしかしたらそれが可能ではないかという一縷の希望を込めて。
でも出来ることならば1日でも早くあの人に会いたい。その日までの心の支えにさせてもらおう。
突然の遠征決定からひと月。
大した準備も出来ないままの強行軍であった割には滞り無く目的を完遂出来たのでは無いかとジェラールは考える。
自らの秘めた事情に関しては別として。
宿の自分に割り振られた部屋で帝都から送られてきた報告書を確認すると、近辺の問題事は留守を守る兵達によって平常に保たれているとの事だった。
ジェラールが出発の際に討伐で不在だった想い人もきっとその為に尽力してくれている事だろう。
仕事中だというのにふとその人物の顔を思い出してしまい、ぶんぶんと音が聞こえそうな程に頭を振って一時の妄想を追い出そうとする。
あんなにもいつも近くに居てくれたはずなのに、深くまで溶け合った事も両手では足りない程なのに、まだ欲しいと思う自分の欲求の有り様にはジェラール自身が1番驚いていた。
もう少しで、この案件が片付けば帝都に帰還できる。この寂しさを埋める事が出来る。
「好きな人と通じ会えたらそれだけで幸せなんだろうと思っていたけど...私の心が弱いのかもしれないな。」
窓から彼の色をそのまま映したような空を見上げ、独り言る。
「きっと彼は...ヘクターはいつも通りに自らの職務に当たってくれている。私も頑張らないといけないな。」
名前を出してしまった事で身体が彼の存在を思い出し反応したのか瞳に薄い水の膜が張ってしまった。
「今はそんな甘えた事は言えない。でもヘクターに会えたら...きっとこの足りない気持ちは埋められるよね。」
彼を思い起こさせるものは記憶しかない。
意外にも優しく髪を通る指先、自分を抱き寄せる逞しい腕と受け止めてくれる厚い胸板、いつもは鋭い眼光を持つ瞳も自分の間近では優しく柔らかく自分の姿を映し出してくれるのだ。
だが、その時を無事に迎える為にも今は目の前の事に集中しなければいけない。
ジェラールは涙を手で拭い、残された案件を片付ける為に目の前の書類に向き直るのだった。
「近辺でゴブリンを見かけたという一報が入り、ちょうどその場に居た傭兵隊長殿が討伐を請け負ってくださったのでご不在なのだと思います。遠方では無いので本日中にはお帰りになるのではないかと...。」
「……そうか、ありがとう。即座に対応してくれた君達のおかげで助かっている。その件後々報告を貰えると有難い。」
「陛下こそたった今遠征よりお戻りになられたのですから自室でお休み下さい。陛下ご不在時の報告については執務室の方にまとめてございますので...。」
やっと帝都に戻れたと思いきや受けた報告はジェラールを落胆させるものだったがそれをおくびにも出さないよう改めて引き締める。
モンスターの討伐が多いのは季節柄なのだろうか、その辺も含めて近々取りまとめた方がいいのかこしれない。元々ヘクターとこんなにも長い期間離れたのは討伐でのすれ違いだ。
こればかりは仕方の無いこと、お互いにやるべき事があるのだからとジェラールは心の中で踏ん切りをつける。
とりあえず悪い思考に進むのは休息が足りないからだろうと、文官の言う通りに自室で休ませて貰うことにするのだった。
黄金の鎧を外し、昔から気に入りの動きやすい衣装に着替えてやっと落ち着けたとジェラールは感じた。
これで付いてくれている護衛がヘクターだったら...と思ってしまうのは我儘が過ぎる。
先程の文官からの話によるとヘクター達は今日中の戻りになるのではと言っていた。
もしかしたら顔くらいは見られるのではないか。
普段であれば自制出来ただろうが結局2ヶ月弱帝都から離れていた現状で抑えが効かなくなっている自覚はジェラールにもある。
でも会えなくてもせめて彼の存在を思い起こせる物を感じられたらと。
そう思い立てば入口の扉を開き、扉前に待機中の兵の1人に護衛を頼む。兵舎を訪ねる為に。
兵舎のヘクターの部屋を訪ねてはみたがもちろんまだ帰っては居なかった。
ただ実は部屋の合鍵を万が一の時の為にとジェラールは受け取っていた。
どうしても耐えられない事があった時の逃げ場所として。
ただこれまでは何かあればヘクターの方が自室に来てくれていたし、気晴らしに裏庭や城下に行く事が主だった。
こんなに長い間離れ離れになるなんて思いもよらず、自室の棚に飾りっぱなしだった無機質な鍵を今日初めて使わせて貰う事にした。
部屋の主から受け取っていた鍵はかちりと正しく鍵穴に入って閉ざされた部屋を解放する。
ヘクターはあまり物は持たない性分だと自分で言っていた通り、ジェラールの部屋に比べて殺風景だ。
こだわりのある身支度を整えるような道具や服は棚の方にしまわれているのだろう。
何かヘクターを感じられるものをと思い立って来たはいいものの空振りだったかもしれない。
ジェラールは少し残念に思いながら寝台に座り横になる。もしかしたら彼の残り香が感じられるのではないかと考えまで浮かんでしまってこれは相当重症かもしれない。
手近にあった枕を引き寄せるとかさり、と布ではなく紙の擦れたような音がした。
寝床に持ち込んだ職務関係の書類か、はたまた誰かからの手紙か。どちらにしてもジェラールが見て良いようなものではないはず。それなのに好奇心に勝てずにその紙に指をかけ引き出す。
1枚の小さな紙片のようで今見えている面にはなにも書かれてはいなかった。
という事はこの裏に見える物がある。ヘクターが眠る寝台の、ヘクターが顔を寄せる枕の中にあったそれ。
ジェラールが覚悟を決めて資紙片を裏返すとあったものは毎朝鏡で見る光景だった。
「わたし…?の肖像画…?え、こんなに小さい物が?凄いな、手描きなのか…印刷物にも見えるな…いやそうじゃなくて!!」
何故これをヘクターが持って、枕に忍ばせているのか。
あえて持参していないという事は大切なものという事?でも大切な道具が仕舞われているであろう棚ではなく何故か枕の中が居場所だったジェラールの絵姿の紙片。
「どうしよう…と、とにかく元に…!」
絵姿を裏にして入っていたと思われる場所に紙片を戻し入れる。
先程まではこの部屋に少しでも残っているかもしれないヘクターを感じられたらと思っていたのに、今はそのヘクターの部屋でまさかの自分を見つけてしまって何故だかわからないけれど顔が熱くて胸の鼓動が早い。頭だって疑問ばかりがぐるぐると浮かんでしまって寂しいと感じていた事も嘘のようだ。
自分が触れてしまった寝台を極力元に戻し、部屋の外に出て合鍵を使って鍵を閉める。
ガチャリと音を立てて扉は閉まる。開けた時は静かに開かれたはずなのに、閉める時には真逆の状態になるとは思いもしなかった事だ。
ジェラールは扉に寄りかかりずるずると力を落とし膝を抱える。目の端に護衛が不安そうにしている姿が見えたが回復するまで少しの猶予が欲しかった。
ヘクターが帝都に戻った時には夜中も越えて日も顔を見せはじめた朝方だった。
市場も今日一日を過ごす為の準備を始めている。
野営も一つの手だったが確実な安置を確保が難しく、短期決戦だった事もあってそのままの帰還を選択したからだ。そこに隊長である自分の思惑も多分に含まれているがそこは素知らぬ顔で貫き通した。
同僚かつ身近で付き合いの長い副官のアンドロマケーの含み笑いはつつくと何を返されるか分からないので見て見ぬ振りするしかない。
ヘクターは帝都の城門を潜り、夜勤の文官に簡単な報告を行いその後都合のつく所で皇帝陛下への謁見を願い出ておく。そこまで大事ではないが必要であればそのうち呼び出されるだろう。
朝の鍛錬に向かう兵達とは逆行して兵舎に向かった。
自室の鍵を開け、荷物を雑に床に放り投げて新台に腰を下ろす。
会いたい人はいるがこんな時間ではまだ夢の中だろう。
最近では朝の鍛錬をする姿も良く見かけるが、遠征や事務作業との兼ね合いも含めて休める時は休んで欲しいと思う。
そういえばとある物の存在を思い出しヘクターは手元の枕を引き寄せ中を探ると紙片にぶつかる。それを指で引き出すとヘンリーから貰った想い人の姿は色褪せること無くそこにあった。
国民に愛され、こうしてその姿を映したものも親しまれる尊い人に自分は触れる事が出来る。
でもそれは隠された場所でのみ許される事。
絵姿の顔の輪郭をなぞり、そのまま紙片に口付ける。もちろん無機物であり体温すら感じる事は無い。
「姿だけでも、夢だけでも…って思ってたけど…足りねえ…な……。」
多分今襲ってきている眠りに微睡んでも自分の望む人には会えないのだろうと思いながらヘクターは意識を手放した。
コン、と扉を叩く音でヘクターは覚醒した。
窓の外を見れば日は真上を通り越して沈み始めるのも時間の問題というように見える。
寝台から飛び起き、手櫛で髪を撫で付けてから扉を開くとジェラールの近侍として仕える見慣れた顔があった。
「陛下からのお呼び出しだ。難しいようなら明日でも構わないとの事だが…。」
「いや、大丈夫だ。少しだけ時間貰えるか?」
流石に今の格好で参上する訳にはいかない。眠る前に水でも浴びておけば良かったが身体と精神的な疲労の方が喫緊だったのでもう仕方が無い。
ヘクターは軽鎧を身につけ、適当に直した髪にバンダナを巻き眼盾を装着し最低限の身なりを整え部屋を後にした。
皇帝陛下の執務室まで向かう間に日は落ち辺りは暗くなり、街や城内には火が灯され始める。
そういえばこうして執務室を訪ねるのは、顔を合わせるのは何時ぶりだろう。
貰い物の絵姿に縋ってはみたものの触れる事の出来ない現実に打ちのめされるだけだった。
執務室からは数人の文官たちが大量の書類を抱えて退室していき、逆に自分の入室が許可される。
先程の近侍も共に下がっていたので執務室は扉の外の護衛だけの状態なのだろう。
手薄な気もするがあの大量の書類も片付いた後の最後の一仕事と見て、ヘクターは一息ついてから重い扉を開く。
先程眠りに落ちる前にその髪を写したものに縋ったような気がする。
でも何も感じる事が出来なかった。
今、自分の目の前にいる存在は触れなくとも自分の五感をも刺激するような存在感がある。
ジェラールは書き物をしていた手を止め、ペンを置きヘクターの方を向きヘクターの顔を見た瞬間ほっとしたような笑顔を浮かべたと思いきやすぐに目線を下に落とされる。
「疲れている所を呼び立てて済まない任務についての報告は他の者から伝達されているし問題は無い。」
ジェラールには珍しく早口で一気に捲し立てられヘクターは面食らってしまう。
「それからあと...あ、いや、この件はまた後で...。」
「......何かありましたか?」
ヘクターは不穏な空気を察して一度ジェラールを制するとジェラールはびくりと震える。
「あ、あ、あの...だな。いや、やっぱり後で...。」
「今で構いません。」
隠れたとはいえ1ヶ月以上ぶりの恋人同士の対面ならもう少し何かがあっても良いだろうに逆に何か拗れた案件を抱えたようにヘクターには思えた。
別に隠し事など何も無い、この人を愛した時点で邪魔になりそうな物は粗方片付けた。
もちろん燻る要素も無きにしも非ずだがそこは自分自身で責任を負うべきものだ。
ジェラールも覚悟を決めたのか話を切り出しはじめた。
「じ、実はだな...今日の朝...君の部屋を訪ねていて...。」
「あ~...。」
そういえばたまに昔のように城下に飛び出したくなるなんて言っていたジェラールに飛び出したくなった時にと自分の部屋の鍵を渡していた。
冗談のようでも目がそうは言っていなかったので御守りのつもりで。
別に自室に入られたからといって何がある訳でも...とふと思い当たるものがヘクターには今はあった。
「もしかして、アレ見ました!?」
ジェラールはこくりと頷き真っ赤になった顔を隠す。
正直ヘクターとしても赤面したい、実際既にしているかもしれない。ジェラールの絵姿をあんな所にしまいこんでいた理由が説明しにくい。
「ごめん、君の部屋で君を感じられる物をと思ったらその...見つけてしまって...。」
もちろん怒るつもりなど毛頭ないがジェラールがヘクターの部屋を訪ねた理由が思っていたよりもヘクターにとって可愛らしい物で自分の隠したい思いなど吹き飛んでしまった。
「あれは城下で出回っているってものをヘンリーから貰ったんです。あんな所に入れていたのはアンタに逢えないかと思って...。」
ここまで来ても夢の中で、だなんて言う事は憚られたがジェラールはその辺も察したようだった。
「私も君にずっと逢いたかった、寂しかった。君もそう感じてくれてたんだ...。」
ジェラールがこうして正直に話してくれているのに自分は誤魔化していていいのか。
熱を感じることもない小さな絵姿に縋るほどジェラールを求めているくせに。
悩む頭の中と半比例してヘクターの身体は自然と動き、執務机を挟んだ向こうに居るジェラールとの距離を詰めた。
大きな執務机を回り込めば良いと落ち着いて考えればわかる事だというのにダン!と足で机に乗り上げ突然の事に呆気に取られているジェラールの腕を掴み執務机の上にいるヘクターの腕の中に抱き込んだ。
「え、え、えぇ.....っ!?」
先程の離れ離れの時にもヘクターを想ってくれていたとわかった時の表情も、ヘクターに急に抱きしめられ顔を真っ赤にしながら慌てる表情も、どちらにしてもヘクターの事が影響していると思うとそれだけで優越感が湧いてくる。
もちろん公務中のジェラールの姿も見惚れるものだが意外と独占欲の強かったヘクターは自分だけのジェラールが欲しかったのかもしれない。
「あぁ…だからか...。」
「っふ...え...?」
小さな枠の中の絵姿を見ても寂しさしか募らない理由。
この人はそんな所で納まるような人ではない。
現実で本人と向き合って、理解して、想いを交わしあってからこそ満たされるのだ。
ヘクターの腕の中で未だ顔の赤みが引かないジェラールを更にぎゅうと抱きしめた後に真正面から向き合い伝える。
「ずっと寂しくて夢で逢えたらと思って枕に絵姿忍ばせてたんです。でも逆に本物の貴方に触れられないって事を痛感するだけでしたね。」
「そうなんだ...私も君の絵姿を欲しいなと思ってたのだけど…。」
「そんなもん他に需要が無いでしょう。」
「私にはあるよ!あ、でも他の人に持たれても...うう...やっぱり本物の君がいればいいかも。」
ヘクターの存在を確かめるようにジェラールもヘクターにすがりついてくる。
手に触れ、腕を辿り、髪を絡めて、ジェラールの両手で頬を包まれる。
この柔らかくて暖かいものがヘクターが本当に欲しかったもの。
「あ、これ、遠征関連の予算決済書類...ちょっと汚れたけど大丈夫かな。」
「す、すいませんでした...!」
ヘクターが勢いで机上に乗り上げたが故の被害はそれなりに出ていた。
ヘクターを呼び付けた時は既に本日分の事務作業を終え、文官達によって殆ど引き上げられていたのは幸いだったがジェラールがもう少しとヘクターを待つ間に残業していた分だ。
今思うと別にあそこまで横着する必要無かったともヘクターは反省するが、会えていなかったひと月以上...ふた月近いかもしれないを考えればあのくらいの無茶もしたくなると自己弁護する自分も別にいた。
ふと気がつけばへこむヘクターを覗くいたずらっぽさを感じる2つの丸い瞳が間近にある。
「じゃあお詫びとして私のお願いを聞いて貰うのはどう?」
「構いません!オレで弁償出来る物ならしますしならない物なら身体ででも…!」
「身体で?」
先程勢いでやらかした事をあっさり忘却した事をヘクターは後悔した。
ただどんな無茶振りが来るかと思えばジェラールは無言でお互いの小指同士を絡めてくるだけ。
それは皇帝陛下の自室、閨への誘いの合図。
「………駄目かな?」
もう両手の指でも足りないくらい愛を交わしているのにこの人は。
「それだと罰じゃなくてご褒美になりませんか?」
「元々君を叱るつもりがないもの。寧ろ私が不在の間に帝都を守ってくれてありがとうって褒めてあげたいくらい。」
一瞬艶っぽい空気になったかと思えばころころと変わる、だけれどもそれが心地好いとさえ思う。
ヘクターはずっと会えなかった愛しい人の自分の元へ引き寄せ、その温かさを感じながら告げる。
「絵姿ではない本物の貴方が帰ってきた事を俺の深くまで感じさせてください。」