第10回 菅受ワンドロワンライ「きらきら/歌/ごちそう」冷たい空気に肺と気管がチクチクした。仕事で体育の授業があるので、まったく運動をしないというわけではないが、やはり部活動をこなしていた時代には及ばない。少しでも負担を減らそうとスーッと鼻から息を吸い、息を吐く時は口から。ハーッと吐いた息は白く、機関車にでもなった気分だった。
今日、及川がアルゼンチンから日本に帰ってきていた。前の帰国はいつだったか、電話やメールはよく寄越してくれるのでいまいち覚えていない。とはいえ、生身の及川に会えるのは久しぶりだ。知らせを聞いて菅原は歓喜したのだが、平日なので当然仕事がある。それに『先生』という立場から、なるべく休みたくなかった。そんなこんなで「じゃあ家で待ってるね」という及川の言葉に甘え、大人しく出勤したのだが。
上司、同僚に事情を話し、定時で退勤。駐車場まで一目散。愛車へ乗り込み、エンジンをかけようとスターターボタンを押した。車はウォン……と小さく唸り、そして沈黙した。
「……バッテリー上がった?」
一息ついて、もう一度。今度はうんともすんとも言わなかった。エンジンの代わりに菅原が唸る。昨日まではなんともなかったのに寒さのせいか。今日に限って嘘だろと思いつつ、かからないもんはしょうがないと車から跳ねるように飛び出した。学年主任に車を置いて帰る旨をメッセージアプリで飛ばし、最寄りのバス停まで走った。
不幸中の幸い、自宅方面へ向かうバスはすぐにやってきた。車内はすでに混雑していたが、人波を掻い潜りどうにかこうにかバスに乗り込むことができ、菅原はほっと息をつく。
ここからバスで数10分。そこからさらに家までの道のりがある。エンジンさえかかっていればと、どんよりした気持ちが振り返すが過ぎたことはどうしようもない。
バスに乗っている間はもどかしく、焦れったかった。菅原が急いだってバスのスピードが上がるわけではない。でも時間は有限なのだ。菅原と及川が一緒にいられる時間は少ない。
自宅近くのバス停は、繁華街の近くだ。クリスマスを目前に控えた街は、至るところにイルミネーションが飾られている。建物も並木もきらきら光り、普段であれば足を止めていたかもしれない。そんなイルミネーションに目もくれず、バスから降りるなり菅原は走り出した。全力疾走なんて何年ぶりだろう。スタートは好調だったが、段々に身体が重い。足が重い。冷たい空気に肺と気管が破れそうだった。
もうそろそろしんどいと考え始めた頃、菅原の住むアパートが見えた。部屋の窓から光が漏れているのを確認して、自然と足に力が入る。あと少し。あと少しだ。気がついたら山を超えたようで、身体も息も軽くなっていた。身体もじんわり温かく、こめかみには汗が滲んでいる。あと少し。スーッと長く息を吸い、呼吸を止める。地面を強く蹴り上げて、ラストスパートをかけた。
アパートが見えてからはあっというまだ。家の手前で減速し、歩きながら少しずつ息を整える。真冬だというのに汗だくだった。ひと部屋通り過ぎ、ふた部屋通り過ぎ。次は菅原の部屋の扉というところで、少し間の抜けた感じの鼻歌が聞こえてきた。菅原のアパートは玄関脇に小さな窓があり、そのすぐ脇にキッチンがある。なので、窓を開けたまま台所で歌おうものなら外に丸聞こえなのだ。歌っている本人は気がついていないようで、ご機嫌な調子が続く。思わず吹き出しそうになるのを堪え、気づかれないようにそっとドアノブを回した。
扉を開くとふんわりと香ばしい匂いがした。ジューという音も一緒になって胃を刺激する。そっと部屋を覗き込めば、キッチンに立つ及川の後ろ姿。ふたくちコンロのひとつには鍋。もうひとつは及川の背中で見えないが、恐らく何か肉を焼いている。久しぶりに会えるのだからと走ってきたが、なんだかもったいない気がして、音を立てないよう部屋に入り、しばらく及川の姿を眺めていた。
器用にふたつの料理を並行して作るなか、ときおり窓の外に目をやったり、腕時計を確認したりと。菅原から見てもそわそわとしているのがわかった。
「……ただいま!おかえり!」
いつまでも眺めていたい気持ちをおさえて、声をかける。自然と声が大きくなってしまい、しまったと思ったが遅かった。菅原よりひとまわりほど大きい身体が一瞬びくりと揺れ、申し訳ない気持ちになる。振り返ると同時に大きく開かれていく目が猫のようで可愛い。久しぶりに会う及川はほんのちょっぴり菅原の知らない空気を纏っている。それが少しだけ寂しくて、それでも「スガちゃん!」と呼ぶ声と、ふにゃりと細める目は記憶のなかと相違なくて、菅原も同じように目元を緩めた。
「おかえり!ただいま!今日はごちそうだよ!」
「もう少しでクリスマスだから、奮発しちゃったよね」と、及川は鍋とフライパンをそれぞれ順番に持ち上げて、中身を菅原に見せた。クリームシチューと大きなローストチキン。シンクの端を見れば、なかなか上等な酒瓶も置いてあり、なるほど確かにごちそうだ。それよりも、何よりも。
フライパンがコンロに戻されたタイミングを見計らって、履いた靴もそのままに菅原は及川に飛びかかる。ずっと我慢してたんだ、堪能させろ及川徹を。
突然の襲撃に及川が短い悲鳴を上げたが、お構いなしに力いっぱいその身体を抱きしめて、上体が低くなったところで首筋にがぶりと噛み付いた。今度は「ぎゃー」と戯けたような悲鳴が聞こえたと思うと、急に身体が浮き上がり、次は菅原が悲鳴を上げる番だった。狭い空間で横向きに抱え上げられ、暴れるわけにもいかず、しかし地面が思ったよりも遠くて怖い。
「現役バレーボール選手に勝てると思うなよー!」
「タンマタンマギブギブギブ!!降ろせ……!」
「靴脱げー!」
「脱ぐ!脱ぐから降ろして!」
「ごめんなさいは!?」
「ごめん!ごめんなさい!!」
菅原の身体が床に降ろされるころには、及川がゲラゲラ笑っていて、菅原も怖いやら恥ずかしいやら嬉しいやらでなんだかおかしくなって大笑いしていた。
間の抜けた鼻歌。久しぶりの再会。あったかいごちそう。きらきらのイルミネーションが一等輝くクリスマスには及川はいないけれど、そんなのどうでもよくなるくらい菅原は幸せだった。