熱 ベッドの縁から腰を上げると、僕は窓の方へと向かった。レースのカーテンを捲り上げると、少しだけ開いていた窓を閉じる。鍵を閉めたことを確認すると、今度は布のカーテンに手をかけた。真ん中に隙間ができないように、丁寧な手付きで窓を覆う。
戸締まりの確認を終えると、今度は部屋の入り口へと向かった。よくある形のスイッチを押すと、一気に室内が薄暗くなる。慣れない暗闇に惑わされながらも、記憶を頼りにベッドの上へと戻っていく。ルチアーノが寝ていることを確かめると、ぶつからないように隣に寝転がった。
少しずつ判然としてくる視界の中で、僕は避けていた布団に手を伸ばす。季節は夏へと変化していたから、掛け布団は薄い布一枚だった。ここまで涼しくしているというのに、布の中には熱が籠っている。潜り込んでから数分もしないうちに、布団の中は蒸風呂状態になった。
熱さに耐えきれなくなると、僕はその場で寝返りを打つ。熱を吸収していないシーツに身体を乗せると、ひんやりとした感触が伝わってきた。しかし、その心地よい感触も、長く続いてはくれないのだ。さっきと同じくらいの時間が経過すると、布団の中は再び熱を持ってしまう。
何回か寝返りを打ったところで、僕はようやく動きを止めた。何度熱から逃れようと試みても、すぐに熱が籠ってしまうのだ。部屋そのものの気温が高いのも、熱が逃げない原因なのだろう。窓を開けたら涼しくはなるだろうが、最近は治安が心配だった。
蒸すような熱の中に包まれたまま、僕は静かに瞳を閉じる。こんなに暑いと眠れるか心配だったが、眠気は不快感よりも強かったようだ。身体が浮かび上がるような感覚がしたかと思うと、僕の意識は曖昧に溶けていく。しばらくすると、自分が今何を考えているのかさえ、自分で判別できなくなっていた。
しばらく微睡みの中を揺蕩っていると、不意に身体に違和感を感じた。僕の背中を覆っている布団だけが、燃えるような熱を放っているのだ。その熱は首筋にまで伝わってきて、僕の髪を汗で濡らす。襲いかかる不快感に耐えきれなくて、僕はにじり出るように身体を動かした。
熱を吸収していないシーツに触れたことで、僕の体温は一気に下がる。布団とシーツの間に空間ができたのか、背中にも風が流れ込んできた。一時的に不快感から解放されて、僕は再び瞳を閉じる。しかし、その心地のよい時間は、長くは続いてくれなかった。
寝返りを打ってから五分と経たないうちに、再び背後に熱気が迫ってきたのだ。空いていたはずの空間は詰められて、人間の体温が伝わってくる。背中に肌が触れているのか、微かに汗が流れる感触がする。またしても熱気に耐えられなくなって、僕は再び前ににじり出た。
「…………おい」
しばらく間を開けた後に、背後から不満そうな声が響いた。思ったより近くから呼び掛けられて、僕は小さく身体を震わせる。微睡みの中に落ちていた意識が、一気に現実世界へと引き戻されていく。心臓が大きく音を立てて、身体が強ばるような感触がした。
「どうしたの?」
「なんで、離れるんだよ」
動揺を押し殺しながら言葉を返すと、彼は小さな声で呟く。耳のすぐ後ろから聞こえてきたから、その声は真っ直ぐに僕へと届いた。僅かに拗ねるような響きを帯びているのは、寂しさを抱えているからだろうか。子供のような振る舞いが可愛らしくて、僕は口角を上げてしまった。
「だって、暑いから……」
思ったままの返答を口にすると、彼は小さく鼻を鳴らす。何度か布団の中で身動ぎをすると、湿った声で言葉を返した。
「なら、窓を開けたらいいだろ。さっきまで開けっぱなしだったのに、何で今さら閉めたんだよ」
やはり、彼の口から出てきたのは、僕が予想していた通りの言葉だった。最もな言い分ではあるものの、僕にも飲み込むわけにはいかない理由がある。最近のこの町の治安は、彼が思っているよりもずいぶん悪化しているのだ。無防備に窓を開けたりしていたら、怖い人たちに狙われてしまうかもしれない。
「窓を開けっ放しにして寝るには、最近の治安は心配なんだよ。大会が近づいてからは、事件だって起きてるでしょ」
「そんなもの、僕の力でどうとでもできるだろ。万が一君が襲われても、僕が追い払ってやるぜ」
僕の返事を聞くと、彼は平然とした態度でそう語る。確かに頼もしい言葉ではあるのだが、それはそれで問題があるのだ。彼の言う追い払うという言葉の中には、本来よりも物騒な意味が込められているのだろう。最悪の場合、僕の家が事件現場になってしまうかもしれなかった。
「だめだよ。相手は一般市民なんだから、そんな物騒なことをしちゃ」
「なんでだよ。相手が先に仕掛けてきたなら、れっきとした正当防衛だろ」
僕の言葉が気に入らなかったのか、ルチアーノは不満そうに鼻を鳴らす。そうこうしている間にも、彼の身体は真後ろまで迫ってきていた。子供特有の高い体温が、じわじわと僕の身体を蝕んでくる。籠った熱が気持ち悪くて、僕は再び距離を取った。
「とにかく、僕は窓を開けたくないんだよ。だから、しばらくは離れて寝るからね」
しかし、隣に眠っている男の子は、説得されたくらいで引き下がる性格ではなかった。一つ目の提案が通らないと分かると、新しい提案を持ち出してくる。布団の中で寝返りを打つと、彼は尖った声でこう言った。
「そんなに暑いなら、大人しく冷房をつけたらいいだろ。君は大会にも出てるし、それくらいの金は持ってるはずだぜ」
「そうだけど、まだフィルターの掃除をしてないんだよ。埃が飛んでも困るから、エアコンはもう少し待ってほしいな」
またしても予想通りの言葉が飛んできて、僕は小さく息を吐く。こうなることは分かっていたから、用意していた言葉をそのまま返した。しかし、一度言ったら聞かない彼が、簡単に納得などしてくれるわけがない。僕が説得に応じないと分かると、彼は布団の中からにじり出てきた。
「そう言って、いつまでも掃除しないつもりだろ。君がそのつもりなら、僕にだって考えがあるぞ」
ぶつぶつと言葉を並べながらも、彼は部屋の中を横切っていく。迷うことなく向かったのは、押し入れに置かれたクローゼットだった。上に置かれた小さなカゴの中に、家電のリモコンが押し込まれている。そのうちの一つを手に取ると、彼はエアコンに向かってボタンを押した。
小さな電子音が鳴った後に、エアコンが重苦しい音を立てる。空気が吐き出される重低音と共に、冷たい風が室内に流れてきた。隙間から流れ込んだ冷たい風が、首回りに伝う汗を冷やしていく。当たり前ではあるのだが、文明の利器は快適だった。
「まだ掃除してないのに……」
「とっとと掃除しない君が悪いんだろ」
隣に潜り込むルチアーノの気配を感じながら、僕は小さな声で呟く。できるだけ悲壮感を滲ませてみたが彼には少しも響かなかった。もぞもぞと布団の中に入り込むと、僕の背中に張り付いてくる。隙間なくぴったりとくっついても、もうさっきまでの暑苦しさは感じなかった。