節分 スーパーに入ると、催事コーナーにお面のついた大豆が並んでいた。鬼の顔を見て、明日が節分であることを思い出す。
節分、それは、日本の子供たちの定番イベントだ。恵方巻を食べたり、鬼に扮した父親に大豆を投げて豆まきをする。そんな単純なことが、子供の僕には楽しかった。
ルチアーノにも、節分を楽しんでもらいたい。そう思って、僕は福豆を買うことにした。
「今日の夜ご飯は恵方巻だよ」
そう言うと、ルチアーノは怪訝そうな顔をした。寿司を好むルチアーノだが、巻き寿司はあまり好きではないようなのだ。
「恵方巻? なんだよ、それ」
冷蔵庫から巻き寿司のパックを取り出して、ルチアーノへと差し出す。あまり大きすぎると食べるのが大変だから、僕が用意したのは細めの三本入りだ。
パックを見て、彼にも僕の意図が伝わったようだった。納得したように言う。
「ああ、今日は節分だったな」
「そうだよ。一緒に恵方巻を食べたくて、買ってきたんだ」
弾んだ声で言うと、今度は呆れたような顔で僕を見た。
「君って、本当にイベントが好きだよな」
「ルチアーノと一緒だからだよ。一人では、こんなことしないから」
そう言うと、彼は恥ずかしそうに俯く。この表情の変化が、何よりもかわいい。
「恵方巻の食べ方は知ってる?」
巻き寿司を渡しながら尋ねると、ルチアーノは頬を膨らませた。
「それくらい知ってるよ。節分の日に、恵方を向きながら黙って食べるんだろ」
さすがはアンドロイドだ。経験したことはなくても、知識として知っているらしい。
今年の恵方は南南東だった。ルチアーノに方角を調べてもらい、何もない壁に顔を向ける。
「いただきます」
二人で並んで、黙ったまま巻き寿司を食べる。僕にとってはそこまでではないが、小柄なルチアーノにはそこそこの大きさになるようで、大口を開けてかぶりついている。変な想像をしてしまって、慌てて視線を反らした。
食べ終わると、僕たちは手を拭って席についた。恵方巻だけでは足りないと思って、パックの寿司を買っていたのだ。
マグロを頬張りながら、ルチアーノがからかうように言う。
「で、君は何を願ったんだよ」
「秘密」
分かりきっているのに、わざわざ聞いているのだ。僕が願うことなんてひとつしかない。
「人に言えないことなのかよ。変態だな」
そんなことを言って、きひひと笑う。教えないのは彼のためでもあるのだが、楽しそうだから黙っておく。変態であることは、まあ、否定はできないし。
「次は、豆まきをしようか」
食事を終えると、棚から福豆を取り出した。鬼のお面を剥がして、頭につける。
「一階にしか投げないでね。掃除が大変になるから」
ルチアーノは豆の袋を開けた。手で中身をかき混ぜながら、にやにやと笑う。
「鬼退治だから、本気で投げても良いんだよな」
彼の本気を食らったら、無事でいられるわけがない。嫌な予感がした。
「手加減はしてね」
そう答えたのに、ルチアーノは手加減なんてしてくれなかった。全力で豆を投げ、僕の背中にぶつける。豆がぶつかる度にばしばしと音がして、衝撃を感じた。
「鬼は外!」
楽しそうに笑いながら、豆まきの定番文句を口にする。
「ルチアーノ、手加減してよ……!」
僕が苦言を呈しても、聞く耳を持たない。にやにやと笑いながらこう返す。
「これでも、加減してやってるんだぜ?」
嘘は言っていないのだろう。それにしても、怪力だ。至近距離では食らいたくなかった。
「痛い……! 痛いって……!」
「逃げるなよ」
僕が逃げると、ルチアーノが後を追いかける。あっという間に、家中が豆だらけになってしまった。
「もう終わりかよ。つまんねーの」
空になった袋を押し付けて、ルチアーノは言う。僕は全身の痛みに襲われていた。至近距離で当てられたところには、あざができてるかもしれない。
「じゃあ、片付けようか」
クローゼットから箒を取り出す。僕が逃げてしまったから、豆は家の隅々まで転がっていた。拾い集めていたらきりがない。
「節分の豆って、後で食べるんだろ? 箒で掃いていいのかよ」
ルチアーノが横から口を挟む。
「でも、箒じゃないと拾いきれないよ。洗えば大丈夫なんじゃないかな」
「大雑把だなぁ」
僕が子供の頃は、大豆の代わりに落花生を投げていた。これなら皮をむいて食べられるし、拾うのも楽だからだ。同じように落花生を選んでいたら、僕は今頃あざだらけだっただろう。
見える範囲の豆をかき集めると、ざるに入れて水で洗う。火にかけて水気を飛ばすと、それっぽい感じに戻った。
豆まきの豆は、年の数だけ食べるのが節分の風習だ。皿に盛った豆を見て、聞かなくてはいけないことに気づいた。
「そういえば、ルチアーノっていくつなの?」
それは、僕がずっと避けてきた質問だった。彼は人間ではない。僕よりもずっと長い時を生きていて、いくつもの出会いと別れを経験してきたのだ。
ルチアーノは、一瞬だけ笑みを浮かべた。遠いところを見るような目で宙を見て、呟くように言う。
「世の中には、知らない方が良いこともあるんだぜ」
その声は妙に大人びていて、なんだか、遠くの存在のようだった。
僕はルチアーノのことを知らない。彼が何の目的でここに来たのかも、いつここを去るのかも分からない。彼が語ることは、本当に真実なのだろうか。長い時を生きていると思っていても、それは作られた記憶で、本当はこの町以外を知らないとしてもおかしくはない。全ては、彼らの神様にしか分からないのだから。
「じゃあ、聞かないよ。とりあえず、食べるのは十一くらいかな?」
豆の皿を差し出すと、彼はきょとんとした顔をした。僕の反応が意外だったようだ。
「あっさり引き下がるんだな。もっと聞きたがるかと思ったのに」
「別に、話したくないことを聞いたりはしないよ。僕にとっては、ルチアーノがそこにいてくれるだけで嬉しいんだから」
人間は、他人の全てを知ることなどできないのだ。僕には、ルチアーノの全てを知ることなんてできない。僕にとって、彼は子供の姿をした寂しがり屋な男の子で、それ以外の何でもないのだ。
「君の物わかりのいいところは、嫌いじゃないぜ」
ルチアーノが嬉しそうに言う。その偉そうな言葉選びが、何よりも彼らしい。
僕は、ルチアーノと一緒にいられるだけで嬉しいのだ。この家に、たくさんの福が来てくれたら、もっと嬉しい。