【しんしん、降りつもる】
「はあ……やっと終わったな」
誰もいない学校の廊下に、疲れきった司くんの声が響く。
ベージュのコートに包まれた背中を丸め、げんなりした顔で手にした鞄を揺らしつつ歩く様は、さながら終電前のサラリーマンだ。いつもは冷気が入らないように前でふわりと結んでいる紺色のマフラーも、今はただ首に巻き付けられているだけで、長さのちぐはぐな両端が背中でぷらぷら揺れている。普段から身なりに気を付けている彼としては珍しい姿だった。
──これはよほど疲れているね。
僕は濃い紫のコートの前を手早く留めてから、自分の鞄を小脇に抱えた。彼のマフラーの両端を手繰り寄せ、普段目にしている通りの形を真似て首の後ろで軽く結んでみる。
「フフ。お疲れさま、司くん」
ふんすっ、と鼻息を荒くした司くんが、僕を斜め下から恨みがましい目で見やった。
「全くだ! 大体、地面を爆破したのは類だぞ……なぜオレまで追われて、反省文を二倍量書かされたんだ」
「それは司くんが──『おお、七色の煙か! なに? あっちのコーンを立ててある所からはラメ付きの煙が出る、だと!? それは是非見たいな!!』──と、でっかいデシベルで要求してる所に先生方が来たから、主犯に思われたんじゃないかな」
「ぐぬぬ……」
司くんの声真似付きでの再現に、彼はうめいたきり視線を前に戻して何も言わなくなった。疲労の高さに任せて恨み節を口にしてはみたものの、本人的に思い当たるところもあったようだ。もっとも、今回は司くんがすぐに捕まってしまったのを見て、僕も大人しくお縄についている。量は違えど、並んで反省文を書いていた身としてこれ以上は……と控えてくれたのかもしれない。
「まぁ幸い、今日は練習日でもないしね。帰ってゆっくり英気を養おうじゃないか」
「そうだな…………ん?」
突然、彼の足が止まる。
そこは全学年の下駄箱が並んでいる中央玄関だ。恐らく僕たち以外の生徒はもうとっくに帰っているからだろう、明かりは全て消えていて、やや薄暗かった。てっきりその薄暗さに足を止めたのかと思ったが、覗き込んだ司くんの横顔はじっと玄関の奥──ガラスの向こうの屋外を見つめていた。
「どうかしたのかい?」
「いや、いつの間にか雪が降り始めていたんだな」
「え?」
同じ方向に目を凝らす。すると校舎の入り口から門前まで立ち並ぶ、葉の落ちた木々をバックスクリーンに、明らかに雨とは違う大きさと速度で何かがちらりちらりと落ちてきているのが見えた。
「本当だ。積もるかな」
「そもそも雪の予報は出ていなかったぞ。すぐにやむんじゃないか?」
そんな会話をしながらそれぞれ下駄箱に向かい、靴を履き替える。心なしか、互いにいつもより急くような速さで。そしてどちらからともなく小走りで駆け寄った入り口を、二人で同時に押し開いた。
深く冷たい空気がさあっと流れ込んできた。吐息が一瞬で白く煙り、思わず息を詰めてしまうほどの冷気。ただ降り始めて間もないのか、豪雨よろしく降り注ぐ白い欠片の量に対して風景はそこまで様変わりしているわけではかった。
短いコンクリートの階段。校門まで続く石畳。今は何も咲いていない土ばかりの花壇と、その茶色いレンガの上。どこもうっすらと白さを増してはいたが、この雪の勢いが少しでも衰えればあっさり溶けてしまうだろうという程度だった。
それでも──雪にあまり馴染みの無い都会という場所柄──胸が弾んでしまっているのは否定できない。
「フフ、冬のショーはまだこれからみたいだね。これなら……」
いそいそ薄い雪の層を踏みしめると、じゃく、と水分が多いとわかる音が鳴る。そのまま二歩三歩と行こうとした次の瞬間、僕の腕を司くんが掴んで止めた。
「っておい、類! ちょっと待て、何をする気だ!?」
「何って、ここから家まで雪をかき集めていって……」
「集めていって?」
「等身大ネネロボ雪だるまを作ろうと」
「あのサイズまで素手で集めたら手が死ぬぞ!?」
言われて自分の手を見ると、積雪に触れてもいないのに指先がほんの少し赤くなっている。なるほど、この状態から雪で体温を奪われ続けるのはあまり良くなさそうだ。
──じゃあ何かしら道具を使えばいいかな。
家の棚に手入れ用の油があったことを頭の中で確認しながら、ズボンのポケットをまさぐろうとした。……が、その手も司くんに力強く押さえられてしまう。
「いや工具を使えばいいってもんじゃない」
「違うよ?」
「なんだ、違うのか。オレはてっきり──」
「工具を入れているケースの方が早く集められるだろう?」
「言うほど変わらんからな!?」
大きい声でがなった口から、今度は大きなため息が漏れる。
「とりあえず一度家に帰るぞ。ちゃんとそれなりの支度をして、雪だるまを作るのはそれからだ」
その口ぶりに、僕は素直に首をかしげてみせた。
「おや、一緒に作ってくれるのかい?」
「手袋も無しで雪だるま作りに挑もうとする奴を一人で放っておけるかっ。それに、二人でやった方が早く出来上がるしな」
「フフッ。司くんは優しいねぇ」
お世辞も下心も抜きの、心からの賛辞だ。反省文を書く羽目になったとぼやいたばかりだというのに、まるで何もなかったかのように手伝おうと本心で言葉を掛けるなんて(実に司くんらしいといえば司くんらしいが)優しいと言わずになんと言えばいいというのか。一緒にショーをしてきた仲間だからという多少の贔屓目があるにしても、僕はそんな一面も含めて──人として、友達として──彼が好きだと自覚していた。
しかし、まだ何かを警戒しているのか。司くんは僕の手を引いて前を歩きだした。
「ハーッハッハッハ! オレを誰だと思っているっ。この天馬司、仲間と笑顔の為ならば──と言いたいところだが」
肩越しに振り返った彼の顔に、にかっと幼い子供のような無邪気な笑顔が咲く。
「本当はオレも作りたいだけだ! せっかくだから、寧々が明日登校する時にびっくりするような雪だるまを作ってやるぞ!」
「ふふ。じゃあ雪がやんでしまわない内に準備を済ませて、取りかからないとね」
握られて、引かれるだけだった手を握り返し。肩を並べて歩き出す。そこで僕はようやくあることに気付いた。
平日の登下校時、司くんはいつも水色の手袋をしている。『司』の頭文字の『T』と、星が刺繍された手袋だ。確か今朝もそれを身に付けて登校してきていたはずなのに、司くんは素手のまま、はめようとする気配もない。こうしている間も、僕の手の冷たさが染み込んでいくかのように、彼の手がどんどん温もりを奪われて冷えていっているというのに。
……いや、違う。
これはもしかして、
「──本当に優しいよね、君は」
「ん? なんの事だ?」
なんでもないよ、と濁して、僕は握ったままの手を自分のコートのポケットへとつっこんだ。僕の手が冷えきってしまわないようにと黙ってカイロ代わりになってくれていた手は、そうして寒風から守ってあげるだけでも、徐々に温もりを取り戻しつつある。
「る、類っ。ポケットに手を入れて歩くのはあぶな……」
「君の手が凍えてしまう方が嫌なんだ。最大限注意を払うから、今は目をつむっていて欲しいな」
「…………」
すると何の音も発さずにうつむいた彼が、ほつり呟く。
「……構わん。……本当は、期待していた」
その耳の端が赤く染まっているのが見えて。……でも僕は、何も言わなかった。顔が熱くなって心臓が飛び出しそうなほどドキドキする理由を、今すぐ抱きしめたいと思ってしまった意味を、どう言葉にしていいのか分からなくて。言えなかった。
雪だるまを作り終えたら僕の家に呼んで、お礼も含めてたくさん温めてあげたいと思っていたけれど。
──その時にも同じ言葉をいってくれるだろうか。
僕も、密かに抱いたそんな期待に胸を躍らせながら、六花の舞う家路を急いだのだった。