【トラップ&トラップ】(4.5)
遠くから聞こえてくる明るい曲を聴きながら、腕時計の針と、目の前の派手な看板のアトラクションとを交互に見つめる。しかし、長針が一から三にきっかり移動し終えたところで、僕は盤面とのにらめっこを止めて腕をおろした。
アトラクションの質素な建物は依然として静かにそこに佇んだままだった。相変わらず何の音もしないし、何かしら変化する気配もない。司くんがアトラクションに入ってから十分が経過しているにも関わらず、確かに中に入ったはずの彼の声すら聞こえてこなかった。
それほどクリアに時間がかかっている……と考えるのが妥当なのだろうが、
(……時間がかかりすぎてる)
何も出てくる様子のない入口を睨んだ。
もちろんアトラクションの内容によってクリアにかかる時間は変わってくるものだが、こんな広さも奥行きも大してない──ついでに二階もあるように見えないプレハブ小屋サイズの建物で、十分以上費やすのはまず不可能だ。クイズなどの多少頭を使うギミックを仕込んだところで、およそ六分弱程度が限界だろう。だからこそ僕は彼が手を抜かないよう、十五分後にと『わざと長めに』時間を告げたのだ。
それにくわえて奇妙なのが、この静かさだった。ワンダーステージよりも小さい規模の建物で司くんの声量をわずか程にも漏らさないなどあり得ない。よっぽど念入りに防音性が高められているなら話は別かもしれないが、それにしたって扉が閉じられているでもない開放されたままの入口から何かは聞こえてきそうなものなのに。
中で行き詰まっているのか。それとも。
(彼に、何かあったのか)
ポテトゴーストの舞台練習で転落し、気を失った彼の顔がいやでも頭にちらつく。彼の想いで出来ているセカイならそう危ないこともないだろうと思っていたが、それは間違いだったのだろうか。もし僕の好奇心と浅はかな思慮で、また彼が傷を負うような事態になっていたとしたら──そこまで考えて全身から血の気が引いた。
頭を軽く振って、まとわりつく嫌な想像を払いのける。
(すぐに彼の所に行こう)
踏み出す。一歩、二歩。そして徐々にスピードをあげていこうとした、次の瞬間だ。
駆け出すために強く前後に振った手に突然──ごづっ!──鈍い音と痛みが走る。
「い、っづ……!?」
慌てて手を引いて止まる。眼前には何もない暗闇があるばかりだが、今のは明らかに何かとぶつかった感触だった。もしかして、丁度出てこようとした司くんとぶつかってしまったのだろうか。
──だとしても声が聞こえないのは妙だけれど。
どんな小さな物音や声も聞き漏らさないよう、息を潜めて待ってみた。……が、やはり司くんどころか何の物体も出てきそうにはない。まだじんじんと痛む手の先に悪い予感が急速に増していく。頭に浮かぶのは、想像しうる最悪の結果だった。
まさか、そんなと動悸が激しい胸を押さえ、手のひらを真っ正面へ向けてゆっくり腕を伸ばす。すると、手は──まるでパントマイムのように透明な壁に触れて止まってしまった。
確定した結果に心臓がきりりと痛んだ。
(最悪だ──!)
胸中で断言して慌てて不可視の壁にかじりつく。しかし、明らかに実際の壁とは違っていた。手触りや抵抗の類いを一切感じないし叩いても音が返ってこない。圧縮した空気の壁が作れるとしたら、まさにこんな感じだろう。
「司くん! 司くん、聞こえたら返事をしてくれ! 司くん!」
叫んでも中から返事はない。いや、そもそも音の振動で空気が震えることによって音は伝わるのだから、もしこの見えない壁が真空と同じ状態であるとするなら声など届くわけがない。
つまり。司くんとは完全に断絶されてしまったことになる。
──頭の中が真っ白になった。
「う、そだっ、嘘だ司くん、司くん! 頼むから返事をしてくれ司くん!!」
叫んで、無我夢中で両手を全力で壁に叩きつける。いくらやっても音は出ない。ただ痛みだけが蓄積されていく。
「司くん! 司くん……!!」
おかしな声の出し方をして喉が切れたのだろうか。喉の奥から血の味が広がってきた。手も真っ赤だ。骨が折れていると言われても納得出来そうなくらいには痛い。
でも、司くんには何一つ届いていないのだと思うと止めようとは思えなかった。
「お願いだ司くん、聞いてくれ、返事を……っ、司くん司くん司くん!!」
少しの可能性にすがるように両腕を叩きつけようと振り上げた、直後だった。
背後から誰かに飛び付かれて、身体を引き倒された。
「やめるんだ類くん!」
「…………かいと、さん…………?」
いつも穏やかな顔が、険しく歪んで僕を見下ろす。
「ダメだ、これ以上続けたら君の腕が──」
「僕の腕なんてどうでもいいんだ、どいてくれ!」
「類くんっ」
馬乗りになって僕を押さえつけてくる身体を必死に引き剥がそうとするが、手先に力が入らない。仕方なく曲げた肘でぐいぐい押し退けたり、じたばたともがいて必死に脱出を試みる。
「彼が、司くんが出てこないんだっ、もし彼に何かあったら僕は、僕っ…………あぁもう早く助けないといけないんだよ邪魔しないでくれ!!」
「ちょ、類くんっ──っ、ちょっとごめんね!」
紺色の頭が大きく振りかぶられるのが見えた。刹那。
──ごっっっ!
額から後頭部へ重い衝撃が貫いて。目の前に星が散った。きっとガラスの灰皿で頭をかち割られた被害者の視界はこんなだろうな、なんて呑気な考えが一瞬の内に浮かんでは、激痛に混じって消える。
頭突きをされたのだと理解したのは、直後にカイトさんが真っ赤になった額を押さえて半泣きでうめいたからだ。
「っつ~~~~~~!」
「ぅ…………カイトさん、案外石頭だね……」
「るるる類くん大丈夫かい!?」
ぐすぐす鼻をすすりながら、痛む額を心配そうに見つめてくる。心配でたまらないことに変化はなかったが、さすがに渾身の一撃を受けたことでわずかばかり頭が冷えた。僕は完全に脱力して四肢を投げ出した。
「…………すまない。少し落ち着いたよ」
「いや、僕こそごめんね。他に君を止める方法が思い付かなくて。……それより何があったんだい?」
よっこいせ、と僕の上から降りる、カイトさん。僕も──手は痛くて地面につけなかったから──腕と肘をつかって身体を起こし、座った。少しでも落ち着いて話を進める為に、顔をうつむかせてアトラクションの方を見ないようにして口を開く。
「司くんがこのアトラクションに入ったきり出てこないんだ。僕も後から中に入ろうとしたけど、入口には見えない壁があって通れなくてね」
「……そう。やっぱり『司くんは通れてしまった』んだね」
「え?」
予想外の言葉に思わず頭を跳ね起こす。カイトさんは、眉間にシワを寄せて何かを考え込んでいるようだった。
いや、それよりも──それよりもだ。
「カイトさん……今の『通れてしまった』というのは」
「実は、この灰色の建物は一週間ほど前に現れたものなんだ。ぬいぐるみ達が教えてくれてね。そこでみんなが怪我をしないものかどうか、中に入って確かめてみようとしたんだけど……入れなかったんだ」
「それはカイトさんだけが?」
青い髪がぱさぱさと左右に振れる。
「いいや。僕も他のみんなも、ぬいぐるみ達も誰も入れなかった。ただ、このセカイは司くんの想いから出来ているし、入れるとしたら彼だけだろうなとは思っていたんだよ」
もっと早くに言っておくべきだったね。
そう付け加えたカイトさんは僕の頭を優しく撫でた。
「セカイの中に出来たものなら、司くんの命が危険にさらされることはないはずだ。僕たちも協力するから一緒になんとかする方法を探してみよう。……でもまずは、その手の手当てからね」
暖かい両手が僕の手をそっとすくいあげる。
点々と青いあざが刻まれた手は全体的に赤く腫れ上がってしまっていた。高い熱がある時と同じように熱を帯びて、指をほんの少し曲げるだけでもあちこちに激痛が走る。そんなボロボロの手に──カイトさんのぬくもりが優しく染み込んでいく気がして。僕は、涙が頬を一筋伝い落ちたのに気づけなかった。