きっともう悪夢は見ないランス:神カク者・ワスくん:局員
ワースが季節外れの感染性の風邪にかかった、とランスに知らされたのはその日、ワースが病院から直帰を命じられてすぐのことだった。
「ワースくん、一人暮らしでしょう。看病してあげたらどうですか」
「…は?」
いきなり魔法人材局に呼ばれ、カルドにそう提案されたランスは急なことにろくに返事ができなかった。
――いや、なぜ所属が違うあなたがワースが風邪をひいたことを知っているのか?
疑問に思うランスにカルドが苦笑しながら説明をしてくれた。
上司のツララ曰く、出勤してきたときから顔が赤くフラフラしていたらしい。寝不足や貧血で顔色が悪いのは今までにもあったことだが、顔が赤いのは珍しい。「少し風邪気味なだけです」と言い張るワースを説き伏せ、熱を測らせたときで38℃近くあった。成人男性がそんな数値を出すことなんて滅多にない。
体温計の数値を見て自分の体調の悪さを自覚したワースはぐったりして歩くもの辛そうで、たまたま魔法研究管理局に用があったカルドが手配をして魔法局系列の病院に連れて行った。その診察の結果が感染性の風邪である。感染性ということでワースはそのまま病院から直帰させられた。
「一応帰る途中でゼリーやスポーツドリンクなんか買いましたが、もともと食を疎かにしがちがあの子が食べているのか怪しいですし、高熱で一人は心細いでしょう」
「ああ、そうですね」
「君のところ今は仕事落ち着いているでしょう。有休も溜まっているし、これを機に消化したらどうですか」
「…しかし、そんな急に」
「優先順位が高いものをまとめて急ぎのものから片を付ける。幸いまだ午前中ですし、君の能力ならなんとかなるはずだ。君の最終確認が必要なものは遠隔でもOKですし、君も恋人が高熱で魘されている中、仕事に集中できないでしょう。それになによりそんな状態の恋人を放っておくほど薄情な男ではないと思っていますが」
「…明日から有休いただきます」
カルドにそう宣言をしたランスは昼食も摂らず仕事をまとめ、なんとか4~5日程度なら自分不在でもなんとか仕事が回るようにしてきた。終わらなかった事務仕事や書類は持って来たが、それ以外は在宅で何とかする。
***
「ワース、邪魔するぞ」
勝手知ったる、といつかワースに渡された合鍵でランスは玄関のドアを開けた。魔法局からそれほど遠くはないセキュリティーが高い部屋は、オーターが候補に挙げた部屋の1つからワースからチョイスしたところだ。ゆっくりと距離を縮めていった二人、その過程でオーターは過保護になったらしい。イーストン卒業後、紆余曲折ののちワースは魔法局に勤めることになった。それを機に一人暮らしをすることになったのだがそれに異を唱えたのが兄であるオーターだった。
「どうせ同じところに勤めるのだから一緒に住めばいいでしょう」と言うオーターに「俺は魔法魔力管理局勤務じゃねえから厳密に言うと同じところじゃねえだろ」とワースが反論した。結局どういう話し合いの結果か詳細はわからないが、ワースの一人暮らしの部屋をオーターが選ぶということで決着がついたらしい。
大まかな住所だけは聞いていたが、初めて具体的な住所と部屋に招かれたときはなるほどとランスは思った。食品や日用品を買うところも本屋も近い、魔法局からそれほど遠くはないそこは治安のよいエリアのハイグレードでセキュリティーの高い集合住宅。――忙しいと食事を中心に生活を疎かにしがちなワースが困らないように遅くまで営業している店舗や飲食店、幅広い種類の書籍を取り扱っている本屋、治安もよく民度も高いエリア、常駐しているコンシェルジュがいてなにかあったらすぐに対応してくれる。外部からは部屋の中から鍵を開けないと入れない。なるほど、確かにオーターがワースのために、ワースのことを考えて選び抜かれた部屋の1つだった。
「すごい部屋だな」と初めて訪れたランスが純粋な感想を述べると「もういい年した男に対して心配し過ぎなんだよ」と面倒くさそうに、でも少しうれしそうに照れながらに言ったワースをランスは忘れられない。恋人であるワースと彼の兄で自分の師匠であるオーターの距離が少しずつではあるが縮まってきているのだ。これほど喜ばしいことはない。
そんなことを思い出しながらランスは照明の明かりを付けつつ廊下を抜けてワースが寝室にしている部屋のドアを静かに開けた。薄暗い部屋の中でわずかに荒い呼吸音が聞こえる。なるべく音を出さないようにベッドに近付く。ランプの薄い明かりに照らされたワースは真っ赤な顔で眠っていた。サイドテーブルには薬のシートと水、スポーツドリンクやフルーツ、ゼリー飲料が置かれている。どれも冷却魔法を掛けられており冷たいまま。水分を取った形跡はある。ゼリー飲料も蓋が開いているのでおそらく飲んだのだろう。薬も1列が空だったので決められた分量は飲んだらしい。フルーツは手を付けた様子がないので固形物を食べるのは厳しいのか。
そっとワースの頬に触れると燃えるように熱かった。汗でまとまっている前髪を梳いてやる。その感覚にワースが反応して瞬きをした。
「ッん、…ぅ」
「すまない、起こしたか」
「……ぁ… らん、す?」
「ああ、大丈夫か?」
思わず口をついて出たが大丈夫ではないことなんて明らかだった。しかしワースはランスの問いには答えず、「手、冷たくてきもちいい」とその手に擦り寄って目を細めた。いつもの態度とは違った様子にランスは思わず目を見開くが、ワースの好きなようにさせておく。数秒ののち意識が覚醒したらしいワースが我に返って口を開いた。
「な、んでいる、?」
「お前が高熱を出したと聞いたから看病をしに」
「…いらねえよ、そもそも仕事は」
「有給だ。明日から5日間」
「は?!」
「溜まっている有給を消化しろとカルドさんに言われた」
「貴重な有給を俺なんかの為に使ってんじゃねえよ、それこそ俺じゃなくて妹のために、ッげほ、」
急に声を出したせいで咳き込んだワースにランスがストローを差してある水差しを口の近くに持っていった。起き上がるのも辛いらしくワースは素直にそれをそのまま口に含む。
「アンナは学校だ。俺が休みだからと言って平日に休ませるわけにもいかない」
「ああ、まぁ…」
「大人しく寝ていろ。俺はお前の面倒を見つつ勝手に過ごす。俺の有給をどう使おうと俺の勝手だ」
何か言いたそうにしていたワースだったが反論の言葉が浮かばなかったのか、それとも面倒になったのか、投げやりに口を開く。
「…別の部屋にいろよ」
「なぜ?」
「感染性だって聞いてんだろ。同じ空間にいたら移んだろうが」
「心配ない。先程は触れてしまったが、魔法で透明な薄い膜を俺の周りに張る。それなら空間を隔てていることになるから大丈夫だろう」
「…あっそう」
「眠るときも魔法で張っているのは体力を使うから寝るのは別の部屋にするが」
「……好きにしろ。来客用の布団の場所分かんだろうから勝手に使え」
わずかに目を伏せるワース。――触ってもらえないことが寂しいなんて、と思ってしまうあたりとことん熱で気持ちが弱っているらしい。
「…ワース?」不思議そうに名前を呼ぶランスを誤魔化すように「水もう1回」と言う。余計なことを考えてしまうのが嫌で喉を潤したあとワースは目を閉じた。眠りたいのだろうと思ったランスは、「いろいろ借りるぞ」と家主に断わってから自分のことをするために一旦寝室を出た。
テイクアウトしてきた食事をリビングで食べてシャワーを浴びる。何度も来ているのでカトラリーの位置もバスタオルの収納場所も把握している。下着も1セット置いてあるし、寝間着代わりのスエットも置きっぱなしだ。いくら文句を言われようと何かのときのために自分の荷物を少しだけ置く許可を奪い取っていてよかったとランスは過去に自分に感謝した。
浴室から出て身なりを整えると23時。自分が休むには少し早い時間だが、人の家なのでやることがない。ワースの様子を見てから寝る準備をしようとワースの眠っている寝室に入った。ランプで照らされる顔は相変わらず赤い。苦しそうな呼吸に自分が代わってやれたらなんて考えた。
ぶる、とワースの身体が震えたかと思うと、ふ、と目を開く。
「どうした?」
「ン……さむい…、」
「…寒い?」
「ブランケットある場所分かるよな?もう1枚取ってきてくれ…」
長袖で汗ばむ日が多くなってきたこの時期に寒いとは…、これはまた熱が上がると思いながらランスはワースに言われるがままウォークインクローゼットから冬用のブランケットを取り出して掛けてやる。「一度体温を測るぞ」と体温計を差し出すと素直にワースはそれを受け取った。少ししてからピピッと音が鳴ってランスはワースから体温計を取る。――38.7度。今でこの体温。これ以上熱が上がるのかと思うと悲しくなってくる。
神妙な顔をするランスにワースは「何度?」と尋ねた。この体温を伝えたら余計具合が悪くなるのでは、と言い淀んでいるランスを見てワースは「やっぱいい」と遮った。
「寒いってことはまた熱上がんだろ。数字聞きたくねえわ」
「…そのほうがいい」
「はは、つれえ」
腕を目に当てて力無く笑うワース。
解熱剤を飲ませようとランスは袋に入った薬を探し、水を準備する。声を掛けるとワースが「ん…」と短く返事をして腕を目から離した。その目元を見てランスは大きく目を見開いた。普段はサングラスで隠れている瞳に水の膜が張っていて今にも溢れそうになっている。
「…泣くな」
ランスの声は優しいが、その表情は高熱のワースより辛そうで。それを一瞥したワースが「…泣いてねえよ」とランスをなだめるように言う。――まるで逆だ。
「たぶん熱のせいだろ。生理現象だ」
「…だとしても、俺がどうにもできないことで泣かないでくれ」
「ふは、馬鹿」
呆れたようにでも面白そうに笑うワースがケホッと小さく咳をする。それがスイッチになったようにランスは頭を切り替えた。薬を飲ませてワースの寝室に自分が寝る準備をする。「違う部屋で寝るんじゃなかったのかよ」と言うワースに「心配で別室で寝てられるか」と返す。先程のこともあり、ワースは「お前まで体調崩すなよ」と言うに止めておいた。
次の日が大変だった。高熱で苦しそうなワースをランスは見ていられなかった。
寝ていてもうなされるし悪夢でも見ているのか時折ごめんなさい、許してくださいと泣く。すみません、早く治しますと。夢の内容なんて実家関連だろうと予想は付いた。風邪のときですら甘えることを許されなかったのかと思わず舌打ちをする。
それでその記憶から救ってやりたくて起こすと今度はまた朦朧とする意識の中で「う゛ぅ~~」と唸り始め、完全に覚醒したら、体が辛い・起きているのが辛いとまた泣きそうな声で訴える。
「なんで起こしたんだよ…」
「うなされていて、辛そうだった」
「意識ある方がつれえわ…」
寝ていても辛い・起きていても辛い・水を飲むのも、何をしていても、もう何もしなくても辛いとぐずるワースが「もうむり…死にそう…」と力無く呟くのを聞いたランスは、お抱えの医者を呼んだ。魔法局系列の病院の診断に間違いはないと思っていたがセカンドオピニオンも必要だろう。
結局それでも診断結果は感染性の風邪で薬も最初に出されたものがいいということだった。「熱が高いので辛いんでしょう。おそらく今日の午後くらいがそのピークだったのではないかと思います。ただ現在は体温が上がる様子がないのであとは下がるだけで徐々に良くなるはずです」と言う医者にお礼を言う。その後、ランスでもできる簡単な処置方法を聞いて彼を部屋から送り出したのは夕方だった。
寝室に戻ると散々喚いていたワースが今は落ち着いて眠っていた。相変わらず顔は赤いままだが寝息も穏やかだ。医者の言う通り、あのぐずっていたときが熱が上がりきるヤマだったのだろう。あとは医者が来て安心したという精神状態もあるのかもしれない。
その後、ワースはただひらすら眠り続けた。眠るだけの体力が戻ってきて安堵する。
有給中、ランスはワースのいる部屋で本を読んだり書類仕事をしたり裁縫をしたりして過ごした。ワースが眠りから覚めると水分を取らせて時間が近ければ食事を取らせて薬を飲ませる。たまにうなされているときは起こしてやって、誤魔化すように「そろそろ水分を取れ」と言った。
ほとんど付きっきりで世話をしたおかげか、4日目の夕方には自力で起き上がれるくらいには回復していた。
「…一昨日からの記憶があんまりねェんだけど」
お粥と重湯の中間くらいのものを持って来た部屋に入ってきたランスにワースは気まずそうに言う。「…あれだけ熱が上がればな」と苦笑しながらランスはサイドテーブルに食事を置いた。
「体調が悪いときのことだ。覚えてなくても支障はないだろう」
「…何か変なこと言ってなかったか」
「変なこと、とは?」
茶碗と木製のスプーンを持ったランスがワースの目をじっと見る。それに耐えかねたワースは「…なんでもねえ」と諦めた。今日の朝方もうなされていたが、どこまでの記憶はあるのだろうか。
緩めのお粥を一口掬ってワースに差し出すと自分で食えるとワースはそのスプーンを奪おうとする。このまま無理やりランスが食べさせてやろうとしてそれをワースが拒否して食事を取らないなどと言い始めたら笑えない。ワースに茶碗とスプーンを渡して、ランスは一度調理に使った器具を片付けると言って部屋を出た。食べている姿をずっと見られ続けているのも食べづらいだろう。キッチンの後始末と少しの家事をしてワースの寝室に戻る。普段より少なめに盛った茶碗の中身はしっかりと完食されていて安堵した。食事が取れるようになれば大丈夫だろう。
空の茶碗をサイドテーブルに置いてワースはベッドで横になっていた。目を瞑っている。
…まだ夜の分の薬を飲んでいないんだが、と思いながらランスが「ワース?寝たか?」と声を掛ければ、「起きてる」と返事が返ってきた。
「眠いのか」
「いや、やることねえから目ぇ瞑ってただけ」
「病人なんだ。何もしなくていい」
「暇なんだよ。無限に寝られるわけでもねえし。…なんか本とか読みてえな」
「…まだ目と頭を使わないほうがいいと思うが」
「鈍っちまうよ、簡単なもんでいい。ああ、×××とか」
「はあ? それはお前がイーストンのときに読んでいた専門書だろう。どこが簡単だ」
「あ? なんだ覚えてたのか」
「当たり前だ。随分と難しいものを読んでいると思ったからな」
「覚えてるのなら探しやすいな。俺の部屋の本棚の、確か2段目の右の方にあったはずだ」
「まだ本は我慢してくれ。そうだ、林檎でも剥いてやろう」
「いやなんでだよ」
ポンポンとテンポよく言葉が飛ぶ。ここ2・3日はできなかった、よく口が回るワースとのやりとりがランスは柄にもなく楽しかった。
キッチンに戻って上機嫌で林檎を剥く。“医者いらず”と言われている果物だ。もう風邪を引いてしまっているが、栄養価が高いことには変わりがない。
薬とカットした林檎をトレーに乗せてワースがいる寝室に向かう。やることがないと言っていたワースは先程部屋に入ったときと変わらず目を瞑って横になっていた。
「ワース、薬と林檎を持って来た」
ランスの言葉にワースはゆっくりと起き上がる。昨日までは介助がないと起き上がるのも辛そうだったのに。確実な回復に安堵しながらワースのベッドの隣の椅子――ここ数日のランスの定位置――に腰を下ろす。薬を差し出すと素直にそれを口に入れ、ランスが準備していたグラスの水でそれを流し込む。
「まず…」
「仕方ないだろう。薬なんだから」
「分かってるよ」
「これで口の中でも変えてくれ」
ワースからグラスを受け取ったランスは変わりに皿を差し出す。皿の上を見たワースはポカンと口を開けた。
白い皿に林檎が六切れ。そのうち半分は皮で耳を作られたウサギの形になっている。
「なんだこれ」
「林檎だが」
「いやそうじゃなくて…ウサギ?」
「あ、」
しまったとランスは眉間に皺を寄せた。つい妹にやるくせで無意識に半分ウサギの形にしていた。ガキ扱いすんなよ、とか俺はレインじゃねえからウサギ好きじゃねえぞ、とかそういう文句を言われることを予想していたが、それに反してワースは林檎を口に運んだ。シャクリ、と軽やかな音が響く。
「うまい」
「あ、ああ。よかった」
よく見るとワースの目元が緩んでいる。…そんなに、林檎が好きだったろうかとランスは頭を巡らせた。フルーツポンチが好きと言うことは知っているが特に林檎が好きというのは聞いたことがない。
「6個は多いからお前も食えば」とワースに言われランスは皿から2切れほどもらうことにした。口に入れると爽やかな甘さと水分が口内に広がる。少しの間、シャク・シャクリと2人が林檎を食む音が響く。
ワースが最後の1切れ――ウサギの形をした林檎――を手に取る。口に入れる前にそれをじっと見た。
「…初めてだ」
「? なにがだ」
「ウサギの形の林檎食べたの」
食べるのが惜しいというようにワースは林檎を持ったままでいる。
「初めて…? 子どものときとか――、」
そう言いかけてランスは口を噤む。――林檎をウサギの形に切ってくれるような愛情を与えられる幼少期ではなかった。自分の不注意に腹が立ったが、それに気付かずワースが口を開く。
「ガキの頃なぁ…。あいつにはそうやって剥いてやってるの見たことあったけど…俺はなかったなぁ…」
未だに視線は手元の林檎。懐かしむような口調と寂しそうな表情にたまらなくなってランスはワースに抱き着いた。「おわ、!」と声を上げたワースがバランスを崩すが、抱き着いているのでランスがしっかりと抱きとめる。それでもワースは林檎を手離さず、それすらも妙にランスの気に障った。
「ッ、お、まえ!あぶねえな!!」
「ウサギの形の林檎なんていくらでも剥いてやるから、早くそれを食え」
「は、なに…?」
「いいから」
ぎゅうぎゅうと力を込めるランスにワースは「そう抱き着かれてちゃ食えねえよ」と呆れたように零す。――ワースの過去を否定するつもりはない。そのつもりはないが、いつまで過去の記憶に囚われているんだと思うときはある。お前が望むことならなんでもやってやる。だから、過去のお前も早くあの忌々しい家から出ればいい。
ぎゅうと抱き締めて離さないランス。ワースは諦めて抱きしめられたまま林檎を口に入れた。シャクシャクと音が響いて、最後の一口を飲み込む。
「ランス、食ったぞ」
ポンポンとあやすようにワースがランスの背中を叩く。ゆっくりとワースから腕を離したランスが真面目な顔をしていた。
「なぁ、どうしたんだよ」
「…本を1冊だけ持ってくる」
「ん? あ? いいのか?」
急に言われたワースが困惑した。先程のハグといい、今日はランスの行動の予想が付かない。
「風呂に入ってくるから、今日は一緒に寝るぞ」
「今日はって…、いつも同じ部屋で寝てたろ」
看病をすると来てからずっと同じ部屋で寝泊まりしていた。何を今さら、と思ったが
「違う」とランスが一言。
「同じベッドで寝る。魔法も解く」
「はぁ?! やめろ馬鹿。移んだろ!つーかさっきも解いてたよな?!」
ランスはここ数日同じ部屋にいたが最初に言っていた魔法は解かなかったのだ。だから同じ部屋にいたけれど、薄い透明な膜で空間を隔てており直接ワースに触れていなかった。それなのに先程のハグは触れていた。
「知らん。もう治りかけだろう。なんとかなる」
「いやまだ感染力あるぞ。俺と違って替えの効かねえ神覚者様が長期不在にするわけにいかねえだろうが!!」
「お前だって替えはいない」
「俺は一般の局員だぞ」
「至極優秀な、な。ツララさんがお前がいないと仕事がきついと嘆いていた」
「でも…」
「最悪遠隔でなんとかする。体調不良でも出勤しないといけないとか上長が不在では仕事が全く回らなくなるなんてそれこそ組織として危ういだろう」
「そ、うだけど…」
なんか論点がずれていないか。妙に上手く納得させられた気がする。
言葉が続かないワースに、ランスは一度部屋から出て適当な本をワースに持ってきた。何か言いたそうなワースだったが大人しく本を受け取る。もともと活字中毒のワースは数日振りに触れたそれを開いた瞬間どっぷりとはまっていた。それを確認したランスは手早くシャワーを浴び、寝る準備をした。いつもより随分と早い時間。正直この時間から寝られるのかと思ったが、ワースに合わせたらこのくらいの時間でいいのだろう。熱が下がって治りかけとはいえ完全には治っていないのだからやはり睡眠は取るべきだ。
再び寝室に向かうとワースが仰向けになりながら本を読んでいた。「寝るぞ」と言うと素直にワースが本をランスに手渡す。
一人暮らしにもかかわらずワースはダブルベッドを購入していた。その真意は定かではないが、行為中や今は広いベッドで良かったと思う。
ランスが受け取った本をサイドテーブル置いているうちにワースがベッドの端に体を詰めた。
「…お前マジで移るんじゃねえぞ」
「こればかりは運かもしれないが、体調には気を付ける」
「ぜひそうしてくれ。これでお前まで休んだらお前のとこの局員に合わせる顔がねえ」
「わかった」
短く答えたランスはグイとワースの体を引き寄せて、その腕に抱きとめる。急なことに「ぅ、え」とワースが声を漏らした。
「どうした」
「ち、けぇんだよ…移るって」
「なんとかなるだろう」
「なんとかって…馬鹿かよ。あともう寝飽きたって」
「大丈夫だ。俺がそばにいるからお前が怖いことなんてなにもない」
「な、に…、」
体調良くねえときは昔の夢を見るからちょっと怖いって言うか嫌なんだよな。――いつだったかワースに小声で打ち明けられた言葉だ。それなりに付き合いが長くなってお互いが体調不良のときもあった。見舞いに行けないときもあったが、そのときでもやはりワースは悪夢にうなされていたのだろうか。でもそんな素振りも見せず、悪態をつきながら平然としていた。未だに実家で受けた傷は残っているが、卒業後はいろいろ吹っ切れたらしく、だからある程度は克服したと思っていたが。自分の浅はかさとワースの受けた傷の深さ、そしてそれを隠し通せるワースの器用さにランスは苛立ちを覚える。半ば八つ当たり気味に腕の中のワースをぎゅうと抱き締める。
「寝ろ」
「…意味、わかんねえ…」
ワースと顔の近くにはランスの胸があり、トクトクと心臓の音が聞こえる。温かい体温と鼓動の音。寝飽きたなんて言っていたのにワースは小さくあくびをした。眠い。自然にまぶたが重くなってくる。
「おやすみワース」
「ん。お、やすみ…」
言葉が眠りに溶けている。少しすると規則正しい寝息が聞こえてきた。――今日はうなされることなくぐっすりと眠ってくれればいい。そしてそれを自分が手助けできればいい。
温かな温度を抱えているとランスも自然と眠くなってくる。目の前の柔らかなくせ毛を撫でて、ランスは静かに目を閉じた。
(了)