帰りたくない、帰したくない呪術師の先輩、七海さんと二人で出掛けるようになったのは一年ほど前。合同任務の帰りに行った食事がきっかけだった。好きな物の話をしていると、思っている以上に趣味が合った。好物、観ている映画、読んでいる本、驚くほど一致した。それからは休みを合わせて映画を観に行ったり、お互いのおすすめの本屋へ出掛けたり、お気に入りのレストランへ行って食事をするようになった。
最初は本当にただの先輩としか見ていなかった。確かにかっこいいし、仕事も出来るし、気遣いも出来るけど、私には素敵すぎる。だからそういう風に見ないようにしてた。でもやっぱりそれには限界があって、私の為に休みを合わせて出掛けてくれたり、普段は見せないような優しい笑顔で微笑みかけられれば、段々と恋心が育ってしまう。二人で出掛けるようになって半年も経てば、私は七海さんを好きになっていたし、一年経てばその先を望むようになってしまっていた。
その日は、久々に二人での合同任務だった。休みの日に出掛けることはあったが、任務で一緒になるのは久々だった。もちろん、任務後には二人で食事に行く事にったが、時間も遅かったので適当な居酒屋へと入った。
「「お疲れ様でした」」
二人でジョッキを合わせてお互いを労う。
「任務で一緒になるのは久しぶりでしたね」
ビールを半分ほど飲んだ七海さんは、静かにジョッキを置きながら言った。
「そうですね。半年ぶり位でしょうか。何だか逆に新鮮でした」
「えぇ」
またそうやって優しく笑う。本当にやめて欲しい。どんどん好きが増していってしまうじゃないか。
「そういえば、貴女の好きな作家の新作が出ましたね」
彼は枝豆を取りながら言った。
「そうなんです。でも最近忙しくてまだ買えてないんですよ」
私がしょんぼりしながら言うと、彼が鞄の中から何かを取り出し差し出した。
「え、これって……」
それはいつも行く本屋のカバーがかかった文庫本だった。
「丁度本屋に行く用事があったので」
恥ずかしそうに笑いながら、それを私の目の前に置く。私はそれを手に取り、中を開いてみる。それは紛れもなく私の欲しかった新作の本だった。
「え、いいんですか?」
「えぇ。貴女のために買ったので」
恥ずかしさを隠すかのように、彼は残りのビールを飲み干した。こんなの……もう無理でしょ。好きになるに決まってる。
私は七海さんにお礼を言って、受け取った本を大切に鞄にしまった。
その後は、いつものようにお互いの好きな物の話をして、 いつものように私の終電前に七海さんが「そろそろ帰りましょうか」と言った。いつもの事なのに、今日はやけに寂しく感じた。
駅までの帰り道、家とは逆方向なのに七海さんはいつも駅まで送ってくれる。そんな小さな事さえ嬉しくて、悲しい。私の中で七海さんの存在はどんどん大きくなっていくのに、七海さんの中では私はきっと同僚のまま。だからといって、告白してこの関係が無くなってしまうのは辛すぎる。どうしようも無い葛藤の中、遠くに駅が見えると、私の足は止まってしまった。帰らなくちゃ、七海さんに迷惑になる。嫌われてしまうかもしれない。それなのに私の足は根が張ったように動かない。
そんな私に気づいた彼は、振り返り声をかける。
「どうしました?具合でも悪いですか?」
優しい声が革靴の音と共に近づいてくる。
「具合が悪いようならタクシーにしますか?」
私の元まで歩み寄った彼が、腰をかがめて私の顔を覗き込む。あぁ……こういう小さな優しさが好きだな。そう思った時には口にしていた。
「帰りたく……ないです」
「え?」
七海さんが驚いているのが気配でわかった。困らせてしまった。……これで終わってしまうかもしれない。そうも思うと顔を上げられない。でも私が笑って何も無かったように振舞ったら七海さんもそれに乗ってくれるかもしれない。彼は大人だから。
「やっ……」
「それは」
私の言葉に被せるように彼も言葉を発する。
「私に好意があるということでいいですか?」
「へ?」
思わず顔を上げると、そこには真剣な顔をした七海さんがいた。
「いや、違うな」
「え?」
七海さんは背筋を伸ばして、私の左手を握った。
「貴女が好きです。できれば……私も貴女を帰したくない」
真剣に、でもどこか恥ずかしそうに七海さんが言った。突然の事で理解が追いつかない私を彼は黙ってじっと見つめる。
「え……え?」
驚きと嬉しさと、色んな感情が混じり合い言葉が出てこない。
「何度でも言います。貴女が好きです。随分と……前から」
「……え?」
「私は好きでもない女性とデートするほど軽薄な男ではありません。わざわざ貴女が好きそうな映画を調べたり、貴女が喜びそうなレストランを選んだり……そんな事、好きな女性にしかしません」
「え、でも……そんなの全然……」
分からなかった……?……本当に?あの優しい笑顔も、素敵なエスコートも、私は本当に気づかなかった?きっと違う。傷つきたくないから気付かないふりをしていただけなんだ。
「正直、何度も想いを告げようと思いました。ですが、もし断られて貴女の傍に居られなくなることが嫌だった……だから、言葉にする事が出来なかった。ですが、貴女が勇気をだしてくれたので、私も勇気をだして想いを告げます。好きです。愛してます。ずっと、傍に居てくれませんか?」
不安に揺れる翠の瞳が私を見つめる。
答えなんて、もう決まってる。
「はい。よろしくお願いします」
私が言うと、握られた手を引かれ、七海さんの腕の中に閉じ込められる。
「……ずっとこうしたかった……」
「……私もです」
彼の背中に腕を回すと、私を抱く腕に力が籠る。少し苦しいけど、求められてるようで嬉しい。
「さっきの」
「はい?」
腕の力が緩み、顔を上げると少し熱っぽい瞳と視線が絡む。
「帰りたくないって言葉……信じても?」
改めて言われると恥ずかしい。私が小さく頷くと、彼は私の唇に軽く口付ける。
「今から私の家に。……今夜は帰さない」
「はい……」
聞き取れるかどうか分からないくらいの小さな声で返事をすると、彼の手が私の頬を包み、視線を合わせられる。
「愛してる」
「私も……」
人々が行き交う中、再び優しく唇が重なる。その温もりが心地よくて私は彼に全てを委ねるのだった。