運命論者の、「なぁ風見、今この世界には何人いると思う?」
また始まった。このやたらとあらゆることに見識が広いらしい上司は、ときおりこうやって唐突に問題をぶつけてくるのだ。それがたとえ今のように、作戦までのわずかな間のことだとしても。もちろん、けっしてそれが部下の緊張を和らげてやろうなどという殊勝な心がけのはずもないので、風見からすれば迷惑極まりない。
最初の頃こそ己の平凡な脳を必死に働かせたものだが、それもいつからかやめてしまった。うっかりすると意外とお喋りな上司を助長しかねないので。兎にも角にもすっかり慣れてしまった今となっては、結局たいして働きもしない脳を、彼の発した音を理解することだけに集中させることにしている。
「さぁ……どうでしたかねぇ」
「ふ、たまには真面目に考えてくれてもいいんじゃないか?」
「はは、遠慮しておきます」
「変なところで諦めがいいよなぁ、きみは。……正確な統計ではないにしろ、約77億人だ。計算上では1分に156人、1日で22万人増える。2050年までは少なくとも増え続けるとはされているな」
「降谷さんてそんなことまで覚えているんですか?」
純粋な驚き半分、からかい半分で風見が言えば、降谷はひょいと肩を竦めるような仕草をしてみせる。
「わざと覚えようとしているわけじゃないさ。単に忘れないだけ」
「あー……そうでしょうねぇ、へぇぇ……」
暗に頭の出来の違いを見せつけられて、聞くんじゃなかった、という顔を隠さずにおざなりな相槌を打てば、降谷がにやりと笑う。彼は本当に謙遜という言葉が似合わないけれど、そんなところも降谷らしいなと思えるくらいには嫌いではない。ときどき、わざとその表情を引き出してしまうほどには。
「それで、なんです急に」
「ん?いや、確率の話だよ」
「はぁ……?」
これもそう。どうにもこの上司ときたら肝心なところを言わないのだ。まるですべてを知っているようなのに、そのうちの何分の1もこちらには伝えてくれない。……どうだろう、もしかしたら本人にもそんなつもりはないのかもしれない。この何年かの間にわかったことには、どうにも彼は伝える能力に問題があるようなので。
「あぁ、確率というよりも、そうだな。『人の力を以て過去の事実を消すことのできない限り、人は到底運命の力より脱(のが)るることはできないでしょう』*――」
「え……?」
突如としてぽつりと、それでいて朗々とした響きが落とされて、風見はぎゅうと眉間のしわを深くした。
「まぁそうだよなぁ。うん、その通りかもしれない」
「……降谷さん?」
うんうん、とひとりで頷いている上司に、いったいなんなんだと声を荒げることもできずに風見は口をつぐんだ。脳内では罵倒したかいくらいの勢いさえあるが、言ったところで暖簾に腕押しだ。おそらく、彼にはその与えられた類まれなる美点を自分でへし折ってしまうという悪癖があるのだ。そうに違いない。そう思わないとやっていられない。
「きみもそろそろ受け入れるべきじゃないか?」
「はぁ……そうですかねぇ」
「なにをとは聞かないのか?」
「いやぁ、できれば聞きたくないですね」
「んー、きみはほんとうにあれだよな。いつも思うけど少し情緒が足りない」
「あなたにだけは言われたくないんですが……」
つい我慢できなくなった風見に、なにがおかしいのか降谷はからからと笑った。それは普段降谷が見せるよりもずっと幼気な笑みで、あぁまたやってしまった、と風見は頭を抱えたくなる。
「……で、なにをですか?」
風見はついと目線をそらしながら話題を戻すべく問いを投げかけた。いかにもしかたなくという雰囲気を残して。ほんとうは、これ以上聞くべきではないのだけれど、こうなってしまってはもうできるだけ穏便に済むことを願うしかなかった。
「運命」
「は、」
「運命だよ、風見」
聞き間違いかと思いたかったけれど、丁寧に繰り返された言葉は同じものだった。上辺だけはまるできれいなものを煮詰めたみたいに甘いのに、溶けきれなかった欠片がざらりと耳の奥で濁る。
よかった、降谷の顔を見ていなくて。どこか場違いな安堵だけが風見に少しの余裕を与えてくれる。
「それはまた……降谷さんらしくないですね」
「そうか?きみはこういうのが好きかと思ったけど」
「知りませんでした?『僕は運命論者じゃありませんので』*」
眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、にやりと笑い返した。降谷はゆったりと目を細めて、それからわざとらしく天を仰いでみせる。
「ははぁ、なるほど。でもどうかな、それはきみが望もうと望むまいと、そうあるべきものじゃないのか」
「残念ですが、僕はそんな不確かなものに身を任せるほど無謀じゃないので」
「ふぅん?では、きみはきみと僕の関係をなんと定義するのかな」
「それは――――」
「残念、時間だ」
ちらりと目線を手首に走らせた降谷が、たいして残念でもなさそうに言う。それは、いつもの降谷零の顔だった。
「行くぞ、風見。たぶん僕の予想だと今日は早く終わりそうだ」
「はい、降谷さん」
降谷の背に続きながら、風見はふっと息を吐く。あぁまったく、何を考えているのか知らないが、この上司の言葉遊びはやたらまわりくどいのだ。これで本人が口説いてるつもりだと知ったときの衝撃たるや、驚きを通り越して大爆笑してしまったのは記憶に新しい。
運命なんて大義名分がなくたって、はじめからわかってることがあるなんて、きっと聡すぎるこのひとは知らないんだろう。
少しだけ歩幅の違う足を追いかけて、風見はさりげなく肩を並べた。そろそろ気づいてくれてもいいんだけどな、とひっそり笑いながら。
「ちなみに今日はどうするんですか?」
「そうだなぁ、寒くなってきたから鍋でもしようか」
「わぁ、それはたのしみですね!」
*引用:国木田独歩『運命論者』/青空文庫