無題 町の喧騒に紛れた、黒いコートの背中を見た。
あー、あれはまたなんかやってんだろうな。
詳しいことは聞いてないし、聞くつもりもないけれど。
ほんの少し悪戯心が芽生えたのは、仕方のないことだと思ってほしい。
なにせ、俺も男なので。
「ねぇ、そこのおにいさん」
足早に追った背中に声をかけると、反射的に振り返ったであろう顔がわずかに歪められた。
うわ、すっごい嫌そう。思わず笑いそうになるけれど、取り繕っているのはどうせ向こうも同じだろう。
「……なにか?」
返された言葉は静かで、口元には曖昧な笑みを浮かべているが、隠しきれない不機嫌さが透けて見えるようだった。
「ふふ、おにいさんかわいいから声かけちった。ねぇ、いま暇?」
最近はナンパでも言わないようなベタなセリフだ。
ブルーグレイの瞳に一瞬ちらりと剣呑な光が走って、瞬きの間に消える。
「えぇと、すみません、用があるので」
失礼しますね、と微笑むさまはいつか見たカフェ店員に擬態していたときとそっくりだった。そのうちまたそちらにもからかいに行ってやろうと心に決める。
「そうなの? へぇ、」
そのまま去っていきそうなコートの腕を、周囲から不審がられない程度の強さで素早く掴んだ。あとで怒られるのは諦めるとして、いやまぁ怒られるのも実は嫌いじゃないんだけど、それを言ったらきっとしばらく口をきいてくれないだろうから。
「ね、お願い。ちょっとだけ付き合ってよ」
「やめてください、」
「怒った顔もかわいいよねぇ。……このままここで騒ぐのはよくないんじゃない?」
でしょ、とにっこり笑ってやると、伏せた顔から小さな舌打ちが零れ落ちる。それから蛇の一匹や二匹、視線で殺せるんじゃないかってくらいの冷ややかな視線が向けられた。
「……何のつもりだ」
「言ったでしょ? ちょっとだけ、ね?」
都内なんてちょっと歩けばおあつらえ向きの路地裏がいくらでもあって、だから犯罪が減らないんだよなぁ、なんて場違いの感想が頭の隅に浮かぶ。まぁ、悪いコトしてる側が言う話じゃないけど。
警戒心と猜疑心の塊みたいな黒いコートの腕を引いて、人目につかなくなったのを見計らってその背を壁際に押し付ける。
「おい、何考えて、ん」
いつもの口調に戻りかけた相手の唇を塞ぐ。上から体重をかけるように覆い被さると、逃げられないように両足の間に膝を捻じ込んだ。
「……っ、」
押し殺した呼吸が重なりの隙間から漏れ出す。いつまでたってもキスが上手くならないから、当然息継ぎも下手なのだ。戸惑いを隠しきれないように閉じられた唇を割り開いて、縮こまった舌を引きずりだす。
「ゃ、だ、はぎっ」
「しーっ、今は通りすがりのおにいさん、でしょ?」
「な、ん」
「あー、でもそうするとアレだね、知らないヤツにこんな好き勝手されちゃうんだね?」
片手でコートの下、薄いニット越しの脇腹をなぞる。びくりと震える身体にそれはもういろいろそそられるものはあるけれど、大丈夫なのかと思わなくもない。
「……それとも、こういうのが好き?」
ピントが合うか合わないかの距離で、歪んだブルーグレイの瞳がゆらゆら揺れた。そんな顔されてもほんとにかわいいだけだからやめてほしい。わずか数メートル先の大通りを行く人々の足音が、声が、じとりと背徳感を呼ぶ。
「……に、」
「うん?」
「おまえだからに、きまってるだろ……」
きゅう、と寄せられた眉根に、絞り切るように紡がれる声音。
ほんのわずか低い位置から向けられる視線に、あ、これはダメなやつ、と脳内が警鐘を鳴らした。
「あー……ほんと、どっこでそんなの覚えてくんの」
「はぁ? っん、ぅ」
「……もー、降谷ちゃんのせいだからね」
責任、とってよね。
ちょっとした悪戯で終わらせるつもりだったのだと最後に言い訳をして。
むやみに煽ってくるのが悪い、と思考を放棄した。